小江戸川越ウオークⅢ
・仙波河岸史跡公園
・初雁公園
川越市指定史跡新河岸川河岸場跡
今から三百余年まえ川越城主松平伊豆守信綱がもと内川いった荒川の支流。新河岸川を改修して川越と江戸間の船運を開いた。当初は年貢米を主としたが、のち貨客の輸送がふえて旭橋を中心に上下新河岸、牛子、扇、寺尾の五河岸には船問屋、商家が軒を並べ、日夜発着の船が絶えなかった。また、その部資を運搬する車馬の出入りも多く賑わいを極めた。しかし鉄道の開通により次第に衰微に傾き、いわゆる九十九曲り三十里の舟歌もすべて昔の語り草となった。
新河岸川舟唄
〽 九十九曲り エー 仇では越せぬ
遠い水路の 三十里
〽 押せよ押せ押せ エー 二挺櫓で押せよ
押せば千住が 近くなる
〽 着いた着いたよ エー 新河岸橋へ
主もでてとれ おもてもや
市指定・史跡
新河岸川河岸場跡
新河岸川船運の歴史は、寛永十五年(1638)川越仙波にあった東照宮が火災で焼け川越藩がその再建用資材を江戸から運ぶのに新河岸川を利用したことに始まるといわれる。
翌寛永十六年、川越城主となった松平信綱は、もと内川といった荒川の支流、新河岸川を本格的に改修、水量を確保して川越―江戸間の舟運体制を整えた。
旭橋を中心に、上新河岸、下新河岸、扇河岸、牛子河岸、寺尾河岸、の五河岸沿には船問屋商家が軒を並べ、さらに下流には古市場、福岡、百目木、伊佐島、本河岸、前河岸、志木河岸、宮戸河岸などが開設され明治維新まで繁栄が続いた。
当初は川越藩の年貢米運搬が主だったが、後一般商品も多く運ばれるようになり(江戸行―醤油・綿実・炭・材木・川越―油・反物・砂糖・塩・荒物・干鰯等)舟運を更に発展させた。
現在も周辺には元禄年間の「そうめん蔵」や水神宮、また明治三年建造の船問屋伊勢安の店構えなどがあり、往時を偲ばせている。
昭和五十五年十一月
出典:川越市教育委員会
仙波河岸のむかし
むかしこの場所には「仙波河岸」という河岸場がありました。仙波河岸ができたのは明治の初めごろのことです。
これまでにも新河岸川の下流にはすでに数箇所の河岸場があり、江戸と川越の間を船を使って物品を運んでいました。これが「新河岸川舟運」と言われているものです。
仙波河岸は新河岸川の最も上流に位置し一番新しくできた河岸場です。
しかし、明治の中ごろから東京との間に鉄道が整備されはじめました。また、大正時代には新河岸川の改修工事が始まり、昭和の初めには新河岸舟運も終わりをむかえました。
下の写真は仙波河岸に荷船が並んでいる様子を写した明治時代後期の写真です。