◆YRコースを歩こう in 狭山・17km◆
狭山稲荷山公園
稲荷山公園駅前に位置し、戦後米軍が使用していたジョンソン空軍基地(現 航空自衛隊入間基地)の一部が返還されたもの。1945年(昭和20年)、米軍がこの地を接収した際、基地内の公園として整備したもので、米軍管理下の時代には「ハイドパーク」(Hyde Park)という英語名があり、返還後も周辺住民には長く同名で呼ばれていた。敷地内は近接する周辺地域と同じく主に基地で働く軍人や関係者の住宅用地(housing area)として利用されていたため、1990年代まではアメリカ風建築の廃屋が点在していたが、今は取り壊されている。建築物による異国情緒は無くなったが、造成がアメリカ人の主導によって行われたため、今でもアメリカの公園のような雰囲気を持つ。2003年に市営公園から、県営公園に管轄が変更された。管轄の変更にともない開園時間の限定がなくなり、現在は原則として夜間の立ち入りも禁止されていない。園内には、喫茶店、園外にもレストランが1軒程度ある。春には桜(主にソメイヨシノ)の名所になる[3]。アカマツ・コナラなど木々も多い。また災害時において避難地となる防災公園としての機能も持っている。
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豊水橋の歴史
初代豊水橋の歴史
豊水橋付近には、江戸時代から渡し場(根岸の渡し)があり、八王寺千人同心の火の番役、物資の流通、山岳信仰の人々が往来する重要なところでした。
また、大正時代頃まで名栗方面から産出する西川材の筏渡しも行われていました。
大正4年(1915)に豊岡町にも武蔵野鉄道(現西武鉄道)が通り、駅ができると豊岡町・水富村は橋の架設に寄付を募り、県に請願し全長166間(300m)の木橋が大正9年7月に完成し、2代目豊水橋ができるまで10余年みんなの役に立ちました。
入間川サイクリングロード
広瀬神社 (狭山市)
創建は、社伝によれば景行天皇代に日本武尊が東征の折、この地を通りかかった際、この地が大和国広瀬郡川合(現在の奈良県北葛城郡河合町)に似ているとして、その地に祀られていた廣瀬大社の神々を分祀し、武運長久と五穀豊穣を願ったことによる。
これを信ずれば当神社は廣瀬大社の分社ということになるが、日本武尊自身が伝説的人物である上、廣瀬大社にも武蔵国に分祀を行ったという記録は残されておらず、分社であるとは認めがたい。現在では「広瀬」の社号は廣瀬大社に由来するものではなく、この地が川の合流点に位置し広く瀬が広がっているから「広瀬」という自然地名からついたもので、偶然の一致であるとされる。
しかし入間郡内でも有力な古社であったのは事実で、六国史である『日本文徳天皇実録』の嘉祥3年(850年)6月3日條に「詔以武藏國廣瀬神。常陸國鴨大神御子神主玉神。並列於官社」として、官社に列せられたことが記されている。
またそれから約80年後の延長5年(927年)にまとめられた延喜式神名帳では、そのまま「廣瀬神社」の名で武蔵国入間郡五座の一座に列せられている。
江戸時代には新義真言宗の寺であった宝蔵寺(現在は廃寺)が別当寺となり、上広瀬村・下広瀬村の鎮守となった。なお、文政6年(1823年)11月に宝蔵寺の火災の延焼により古文書を焼失している。
明治6年(1873年)に郷社に列せられたが、社格が低すぎるとして当神社の神官であり名主→戸長であった清水宗徳が社格を上げるよう運動し、翌7年(1874年)に県社へ昇格した。また同時期に境内に「幼育学校」を創立、神官の育成に努めてもいる。
明治40年(1907年)に愛宕神社・浅間神社を合祀。また2年後の明治42年(1909年)には境内北隅にあった本殿を中央に移し、拝殿を新築した。現在の建物は昭和50年(1975年)に改築修繕されたものである。
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埼玉県指定文化財 天然記念物
廣瀬神社の大ケヤキ
所 在 地 狭山市廣瀬2-23-1(廣瀬神社)
指定年月日 平成10年(1998)3月17日
ケヤキは楡科の落葉高木です。農家では防風林として植えることが多く、武蔵野の景観にとけこんでいる馴染みの木です。普通、高さは20mぐらいまでですが、この大ケヤキは高さ約30m、周囲約6mというまれに見る巨木で、樹齢7~800年と推定されます。
江戸時代末期の書物『新編式武蔵風土記稿』の廣瀬神社の項に「・・・社辺に竹樹生茂り中にも古木の大槻三株あり、是を神とす、一は囲二丈、一は囲一丈五尺、一は囲二丈六尺余なり、是等を見て旧跡たることしるべし・・・」とあります。
現在はケヤキの巨木二本が相対して境内に立っております。
平成16年1月
出典:埼玉県教育委員会
出典:狭山市教育委員会
狭山市指定無形民俗文化財
広瀬浅間神社の火まつり
所 在 地 狭山市大字上広瀬九八三-二
指定年月日 平成九年六月二日
広瀬浅間神社は、土を富士山の形に盛った人造の小型冨士山=富士塚で、万延元年(一八六〇)の創建です。祭神は「木花咲耶姫命」です。
江戸時代、富士浅間を信仰する富士講が数多く発生し、狭山市内でも富士講活動が盛んでした。このまつりを行っている水富ろ講も、その一つで、現在市内で残っている唯一のものです。
火まつりは、豊作・安産・富士山の噴火活動の鎮火を祈願するため富士吉田浅間神社の鎮火祭を模倣し、明治の初期から始められたといわれています。毎年八月二一日の夕方から夜にかけて行われ、現在では、夏の風物詩としての思いが強い行事です。
祭の中心は、桑の枝を円柱状に束ねた大小二つのたいまつを燃やす「おたきあげ」で、近郷には見られない非常な貴重なものです。
また、安産の神様ともいわれ、頂上のロウソク立てのロウソクを貰い、陣痛の時に神棚へ上げて燈すと、燃え尽きるまでに安産するといわれています。
出典:狭山市教育委員会
狭山市文化財保護審議会
智光山公園 案内図