第53回平成29年歩き納め大会
鎌倉歴史探訪ウオーク
新逗子駅入口
富士見橋
富士見橋
逗 子 海 岸
概要
遠浅で波も穏やかであり浜が小細砂で、貝殻や砂利や泥が少ないのが特徴。ウィンドサーフィンなどで有名。関東で最も海開きの早い海水浴場の一つである。
毎年夏に逗子海岸花火大会が行われるが2011年は東日本大震災の影響で中止となり、2012年は、近年の海岸侵食によって砂浜が狭くなってきていることから、警備体制や安全面に配慮した結果、海の家設営前の6月2日に行われた。
陸軍軍医の石黒忠悳らによって1892年(明治25年)頃より海水浴場として最適であると宣伝され、徳冨蘆花の不如帰の舞台となったこともあり、大正頃より逗子海水浴場として知られるようになった。2005年には石原慎太郎の太陽の季節の碑が設置された。
歴史
逗子村と小坪村の間での寛文・元禄年間の裁判の結果、小坪村に属し東小坪の新宿海岸として西小坪の小坪海岸(現在の逗子マリーナ、小坪漁港周辺、鷺の浦とも)とともに漁師の拠点であった。その頃はマツの繁るひと気のない海岸だった。
1888年、丸富次郎が田越川河口に旅館養神亭を開業し、1889年(明治22年)の横須賀線逗子駅の開業によって新宿海岸周辺に別荘が建ち始めた。日露戦争終結後の1906年(明治39年)2月3日、新宿浜近くに別荘を持つ東郷平八郎の祝勝会で新宿浜を東郷浜と改称した。大正期ごろより海水浴客で賑わうようになった。
1926年には逗子ホテルが創業した。大正天皇が葉山御用邸で療養していた時期には養神亭や逗子ホテルで若槻内閣閣僚や皇族が執務を行った。1929年には国鉄によって国鉄海の家が設置された。1950年、日米対抗の「逗子モーターボートレース」を開催。現在の競艇の元となったといわれる(モーターボートを参照)。
2014年3月に規制条例が制定され、刺青やタトゥー、音楽鑑賞、飲酒、バーベキューが禁止となった。
ソース: 逗子海岸 – https://ja.wikipedia.org
逗子海岸
逗子海岸
逗子海岸
逗子海岸
逗子海岸
逗子海岸
高養寺浪子不動
逗子海岸葛ヶ浜の降起海食台
眼下の「不如帰」の碑の建つ岩礁は、縄文時代以来7千年間の波浪によって岩盤が浸食されてできた海底の岩礁が地震で隆起したもので、「隆起海食台」の
地形と呼ばれます。
この岩礁は大正12年(1923)の関東大震災の時に隆起した後に、現在までゆっくり沈隆しています。
干潮の時に見られる縞模様の地層を横切る何本もの直線的な水路は「断層線」で、これを陸の方へたどっていくと、断層線が浸食されて出来た谷「断層谷」が披露山につながっていることが分かります。
この浪子不動は「滝の沢」という断層谷の麓に建っています。かつて谷を流れる小川が、不動堂の横で高さ数メートルの滝になっています。
なお、これらの断層の中には、近年の断層の中には、近年の調査によって、鎌倉時代以降に動いた断層(活断層)であることが分かったものもあります。
出典:逗子市・自然の回廊プロジェクト
空から見た葛ヶ浜の降起海食台
国指定史跡 名越切通し
概要
名越切通は、鎌倉と三浦半島を結ぶ要路のひとつであり、戸塚宿から鎌倉を経て浦賀へ続く浦賀道の一部でもあった。
切通を含む名越路(名越坂とも)は、より南側にある小坪路とともに、かつては鎌倉から三浦半島へ連絡する数少ない陸路であった。地域名ともなっている「名越」の名は、この道が峻険で「難越」(なこし)と呼ばれたことに由来すると言われる。
道として地名が登場するのは、「吾妻鏡」の天福元年(1233年)8月18日の条に「名越坂」とあるのが最初で、
十八日 早旦、武州、爲奉幣于江嶋明神、出給之處、前濱有死人。是被殺害者也。不遂神拜、直參御所給。即召評定衆、被經沙汰。先令御家人等、武藏大路、西濱、名越坂、大倉、横大路已下、固方々途路、有犯科者否、可捜求其内家家由、被仰下之間、諸人奔走。而名越邊、或男洗直垂袖。其滴血也。成恠、岩手左衛門尉生虜之、相具參御所、推問之刻、所犯之條無所遁。是博奕人也。仍殊可停止其業之由、下知云々。
(大意:18日早朝、武州(執権・北条泰時)が江の島明神に詣でようとしたところ前浜に死体があった。御家人らに命じて武藏大路、西濱、名越坂、大倉、横大路など方々の道を固め探させたところ、名越の辺りで直垂の袖の血を洗っている者がおり、これを捕えたところ、犯行が明らかになった。)
— 「吾妻鏡」
すでにこの頃には主要な交通路であったことがうかがえ、後に七口に数えられる切通の中でも比較的早期に整備されたものと考えられる。
江戸時代に著された「新編鎌倉志」には、
名越切通ハ三浦ヘ行道也。此峠、鎌倉ト三浦トノ境也。甚嶮峻ニシテ道狭。左右ヨリ覆ヒタル岸二所アリ。里俗、大空峒小空峒ト云フ。峠ヨリ東ヲ久野谷村ト云、三浦ノ内也。西ハ名越、鎌倉ノ内ナリ
— 「新編鎌倉志」
とある。久野谷村は、現在の逗子市久木にあたる。
現在、鎌倉側から名越切通に向かうには、神奈川県道311号鎌倉葉山線(旧国道134号)がJR横須賀線をまたぐ名越踏切脇から、線路に沿った旧道に入る。旧道は鎌倉五名水のひとつ日蓮乞水前を経て、線路の北側に渡る。線路北側に沿うように山の斜面を登ると、横須賀線の名越トンネル入口の上辺りから山道に入る。山道に入るわずかに手前には庚申塔がある。
鎌倉側から入って間もなく比較的きつい上りがあり、これを登りきると、左右に平場がある。左の平場への小道は、そのまま「大切岸(おおきりぎし)」(後述)の上の尾根筋に続き、現在の丘陵上の住宅地「鎌倉逗子ハイランド(鎌倉市浄明寺六丁目、逗子市久木八丁目)」、衣張山方面に抜ける。『新編鎌倉志』の附図にも、切通の途中から、大切岸の南の御猿畠山、法性寺に至る道が記されており、この分かれ道はそれなりの昔から存在していたことが判る。
ソース: 名越切通 – https://ja.wikipedia.org
国指定史跡 名越切通し
国指定史跡 名越切通し
国指定史跡 名越切通し
国指定史跡 名越切通し
名越切通は、鎌倉時代に尾根を掘り割ってつくられたとされる通行路で、鎌倉幕府の事績を記した『吾妻鏡』の天福元年(1233年)八月十八日条に「名越坂」のひとつとしても数えられた、鎌倉と三浦半島方面とを結ぶ道として重要な役割を果たしてきました。切通しの周辺には、鎌倉の防衛にも関係すると考えられる平場や切岸(人工的な崖)、やぐら(四角い横穴に石塔を建て、納骨・供養する施設)や遺体を火葬した跡なども多く分布しており、中世都市鎌倉の周縁の歴史的景観をたいへん良く残しています。
現在の切通のすがた
現在の名越切通しの道筋には、尾根の岩盤を掘り割って道をつくり、両側が急な崖になっているところが三ヵ所ありますが、最も高く切り立ったこの部分を第一切通と呼んでいます。鎌倉時代に外敵の侵入を防ぐために、あえて狭く作ったと言われていますが、発掘調査を行ったところ意外な結果が明らかになりました。
現在私たちが歩いている切通は路面の幅が1~1.5mほどですが、その下に複数の古い道路面が重なって発見されました。最下層(現地表から約60㎝下)の道路面は幅2mほどで、そこから18世紀後半以降に作られた陶磁器が出土しました。
これによって、現在の道筋の地下に埋もれている最も古い道は、江戸時代に使われていたということがわかったのです。
その後、地震などによって両側の崖が崩れるたびに道が埋まり、そのつど整地・修復して新しい道をつくったため、どんどんかさ上げされた路面が高くなったと思われます。
一時期に道幅を広げる工事も行われたようで、路面の幅が約3m、両側に排水のための溝も設けられていました。しかし、明治16年(1883年)にトンネル道路が、同22年(1889年)に横須賀線が開通すると、切通も幹線道路としての役割を終え、埋もれるがまま修復の手を加えられることもほとんどなくなり、最終的に現在のようなすがたになったと考えられます。
発掘調査では、鎌倉時代の路面は確認できませんでした。切通に面した崖のかなり上のほうに鎌倉~南北朝時代頃に掘られたと思われるやぐらがあることから、当時の道筋が今とあまり変わらないとすれば、その道は今よりずっと急坂で、高い位置を通っていたのかも知れません。
一方、時代が下がって、室町時代の僧尭恵は、名越切通の様子を「畳々たる巌をきり、山をうがち、旧跡の雲につらなる」と述べています。(『北国紀行』)。
中世の後半には、通行しやすいように堀り下げられていたことを示しているとも思われます。
鎌倉幕府執権北条氏によって鎌倉の守りの要としてつくられたと言われる名越切通は、当時のすがたそのものではないと考えられますが。重要な交通路として近代にいたるまで長く使われ続けてきた貴重な史跡であることに変わりはありません。
出典:逗子市教育委員会
国指定史跡 名越切通し
国指定史跡 名越切通し
国指定史跡 名越切通し
国指定史跡 名越切通し
国指定史跡 名越切通し
国指定史跡 名越切通し
国指定史跡 名越切通し
国指定史跡 名越切通
名越切通は、鎌倉から相模湾沿いに三浦半島を結ぶ交通路で、『吾妻鏡』天福元年(1233)8月18日条に「名越坂」として初めて登場し、明治時代になって直下を通る現在の横須賀線や県道のトンネルが開通するまで、長い間幹線道路として使い続けられた重要な道です。
急峻な尾根を掘り割って造られた切通は、時代が下るにつれて通行しやすいように改修したり、地震等で崩れては複旧を繰り返しているため、鎌倉時代の姿そのものではありません。
しかし、その周辺には、横穴式の供養施設であるやぐらが約150基も集中する「まんだら洞やぐら群」や、死者を茶毘に付した跡など、中世の葬送に関する遺構が数多く分布するほか、切通の防衛にも関係すると考えられる人工的な平場や大規模な石切場跡(大切岸)が尾根筋に見られるなど、古都鎌倉の周縁の歴史的景観をたいへん良く残しています。
この史跡に対して、みだりに現状変更(掘削、工作物の設置等)や保存に影響を及ぼす行為を行うことは、文化財保護法により禁止されています。
平成24年3月
出典:逗子市教育委員会
国指定史跡 名越切通し
名越切通・大町口
安 国 論 寺
概要
長勝寺・妙法寺と並び、日蓮が鎌倉で布教するに際して拠点とした松葉ヶ谷草庵の跡とされ、松葉ヶ谷霊跡安国論寺とも言う。開山は日蓮とするが、弟子の日朗が文応元年(1260年)に、日蓮が前執権北条時頼に建白した「立正安国論」を執筆した岩穴(法窟)の側に安国論窟寺を建てたのが始まりである。
その他、南面窟(松葉ヶ谷法難時に、白猿に導かれて避難した場所)や日朗上人荼毘所(日朗が出家剃髪した場所で荼毘に伏して欲しいとの遺言による)がある。裏山の富士見台からは由比ガ浜海岸を含む市内を一望でき、日蓮が富士山に向け題目を唱えたとされる。
なお東芝社長や経団連会長を務め、熱心な法華信者であった土光敏夫の菩提寺(墓所)でもある。
第51世玉川日薩師は、霊跡本山比企谷妙本寺第81世に晋山。
境内には、鎌倉市天然記念物に指定されている
妙法桜(日蓮の杖が根付いたとされる市原虎の尾という品種のヤマザクラ)
海棠(カイドウ)
山茶花(サザンカ) – 樹齢350年と言われる。があり見所となっている。
ソース: 安国論寺 – https://ja.wikipedia.org
安国論寺
坂東第三番札所 安養院田代寺(田代観音)
鎌倉大町 八雲神社
歴史
社伝によれば、永保年間、源義光が奥州へ向かうのに際し、鎌倉に疫病が流行しているのをみて、京都祇園社の祭神を勧請し、祭ったのが始まりと伝えられる。
応永年間には、義光の子孫である佐竹氏の屋敷に祀られていた祠が合祀され、佐竹天王と称した。
また、大正12年(1923年)関東大震災の際には社殿が倒壊しており、昭和5年(1930年)に再建された。
祭事
正月6日 新年初神楽
7月、例祭期間中 神幸祭 – 大町まつりとも呼ばれ、大規模な神興渡御で知られる。また、神幸祭の間に繰り出される神輿の下を幼児を抱いてくぐり、無事な成長を祈願する「神輿くぐり」も行われる。
ソース: 八雲神社 (鎌倉市大町) – https://ja.wikipedia.org
鎌倉大町 八雲神社
日蓮上人辻説法跡
日蓮上人は建長5年(1253)安房(千葉県)から鎌倉に来て、松葉ヶ谷(現在の長勝寺、安国論寺の辺り)に草庵を結びました。
鎌倉時代、この辺りは武士の屋敷と商家町が混在した地域と考えられ、毎日のようにこの辺りを訪れて、法華経の功徳を説く辻説法を行ったと伝えられます。
文応元年(1260)、5代執権・北条時頼に提出した『立正安国論』が原因で、松葉ヶ谷の草庵は焼き討ちされました。
出典:鎌倉市
鶴岡八幡宮
鶴岡八幡宮
鶴岡八幡宮は、神奈川県鎌倉市雪ノ下にある神社。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。
別称として鎌倉八幡宮とも呼ばれる。武家源氏、鎌倉武士の守護神。鎌倉初代将軍源頼朝ゆかりの神社として全国の八幡社の中では関東方面で知名度が高く、近年では三大八幡宮の一社に入ることがある。境内は国の史跡に指定されている。
ソース: 鶴岡八幡宮 – https://ja.wikipedia.org