小江戸川越ウオークⅣ
・成田山別院
・初雁公園(三芳野神社)
・濯柴公園
・菓子屋横丁
クレアパーク(スタート)
クレアパーク(スタート)
クレアパーク(スタート)
『小江戸蔵里』は、この場所で明治8年(1875年)に創業した旧鏡山酒造の建築物を、当面の面影を残しつつ改修した施設です。
市民と観光客との交流、地域の活性化を図るとともに、川越市の物産等を楽しんでいただく新しい名所として平成22年10月に誕生しました。
施設は、明治・大正・昭和の時代に建てられた酒造を改装した、おみやげ処(明治蔵)、まかない処(大正蔵)、くら市場(昭和蔵)の3つの蔵からなっています。
これらの蔵は、国の登録有形文化財に指定されています。
なお『小江戸蔵里』という名称は、川越市の別名『小江戸』蔵造りの町並みを表す「蔵」、人々が気軽に立ち寄れてくつろげる心のふるさと「里」、という意味を込めて公募の中から選ばれました。
出典:小江戸蔵里
小江戸 蔵里
出世稲荷神社について
出世稲荷神社は、江戸時代(天保2年/1832)に、京都の伏見稲荷神社本宮より分祀した神社です。
名前の通り出世の御利益があります!また伏見稲荷同様に、五穀豊穣や商売繁盛の御利益も。
すぐ近くにある賑やかな商店街をよそに、境内はとても静かです。時たま併設された公園から聞こえる、子供たちの声にふと心が和みます。
出典:カワゴエール
出世稲荷神社
市指定・天然記念物
イ チ ョ ウ
いちょう窪の出世稲荷の公孫樹として名声がある。
向かって右は幹回り(目通り)5.67m、根回り7.6m、左は幹回り7.25m、根回り9.7mあり、二本とも樹高は約26.5m。
樹齢は650余年と推定され、みごとな美しさと枝張りを示し、樹勢もきわめて旺盛である。
公孫樹は、日本と中国の一部に産するイチョウ科を代表する落葉樹で、秋にはあざやかに黄葉する。
雌雄異株で、種はいわゆるギンナンで食用となる。
昭和33年3月6日
川越市教育委員会
出世稲荷神社
出世稲荷神社
どろぼうばしの由来
所在地 川越市小仙波町一丁目
昔、この橋は、一本の丸木橋であったといわれ、これは、その頃の話である。
ここ喜多院 と東照宮 の境内地は御神領で、江戸幕府の御朱印地でもあり、川越藩の町奉行ではとらえることができないことを知っていた一人の盗賊が、町奉行の捕り方に追われ、この橋から境内に逃げこんだ。しかし、盗賊は寺男たちに捕えられ、寺僧に諭され悪いことがふりかかる恐しさを知った。
盗賊は、厄除元三大師 に心から罪を許してもらえるよう祈り、ようやく真人間に立ち直ることができた。
そこで寺では幕府の寺院奉行にその処置を願い出たところ、無罪放免の許しが出た。
その後、町方の商家に奉公先を世話されると、全く悪事を働くことなくまじめに一生を過ごしたという。
この話は大師の無限の慈悲を物語る話として伝わっており、それ以来、この橋を「どろうぼうばし 」というようになったということである。
昭和58年3月
出典:埼玉県
成田山川越別院本行院
成田山川越別院本行院
成田山川越別院本行院
成田山川越別院(本行院)
成田山川越別院本行院)は、埼玉県川越市にある真言宗智山派の寺院である。成田山新勝寺(千葉県成田市)の別院で、通称は川越不動。毎月28日には蚤の市(骨董市)で、11月には火渡り祭(柴灯護摩)で賑わう。本尊は不動明王。
歴史
嘉永6年(1853年)石川照温が廃寺になっていた久保町本行院を復興し創建。
明治10年(1877年)成田山川越別院本行院を称する(成田山最初の別院)。
交通アクセス
西武鉄道新宿線本川越駅から徒歩15分
東武東上線川越市駅から徒歩17分
東武東上線・JR川越線川越駅から徒歩約22分
ソース: 成田山川越別院本行院 – https://ja.wikipedia.org
成田山川越別院本行院
武州川越仙波喜多院
永島家住宅(武家屋敷)(市指定・史跡)
永島家住宅は、旧南久保町通り東よりの、川越城南大手門に近い位置にあります。
伝聞によれば、旧川越藩御典医の屋敷跡であると言います。
松平大和守家七代が川越藩士をつとめた明治4年(1767)~慶応2年(1866)当時の城下絵図によると。
この場所には250名から300石の藩主が居住しました。当家屋の小屋組は叉首構造で、棟の高さは三段となっており、痕跡などから、現在の住形態になるまで大きく2回の増改築を実施したと推測されます。当初形態を復元すると、玄関及び台所の位置は不明ですが、現在の玄関から床の間付きの座敷に至る諸室と東側に張り出す内向き諸室に分かれ、公私空間を区分した武家屋敷の特質を残す遺構と考えられます。
また、松平大和守家記録による武家屋敷の建築規則(明和5年6月2日条)の範囲内であり、他藩武家住宅の事例(信州上田藩ほか)と比較してもほぼ相違なく、武家屋敷であることにまちがいありません。
また、増改築の手が加えられているものの、当初形態に復元可能な建物であり、敷地内は後年植裁
が加えられていますが、屋敷周りなど当時の状況をよく保存しています。
現在埼玉県下三城下町(川越、忍、岩槻)では、武家屋敷の遺構はほとんど残されていません。
また、関東圏でも残存事例はわずかで、学術的にも貴重な機構と言えます。
平成18年3月27日
出典:川越市教育委員会
鐘つき通り
鐘つき通り