萩・津和野・安芸の宮島・角島・元乃隅稲荷神社・山陰ローカル列車3日間 3日目
岩国・錦帯橋
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赤 間 神 宮
御祭神 第八十一代 安徳天皇
御祭日 五月三日 先帝祭
御祭日 十月七日 例大祭
寿永四(一一八五)年三月二十四日源平壇ノ浦合戦に入水せられた御八歳なる御幼帝をまつる天皇社にして下関の古名なる赤間関に因みて赤間神宮と宣下せらる 昭和二十年七月二日戦災に全焼せるも同四十年四月二十四日御復興を完成し同五十年十月七日 寛仁親王殿下の台臨を仰いで御創立百年祭を斎行 同六十年五月二日 勅使御参向のもと高松宮同妃両陛下の台臨を仰き御祭神八百年弐年大祭の盛儀を減修せり
水 天 門 記
推時昭和三十二年十一月七日大洋漁業副社長中部利三郎氏は卂先多額の御寄進に加えて日く即ち関門海峡国道隧道の完成と下関市制七十周年大博覧会開催の秋 吾国未曽有の御由緒と関門の此の風光明眉とに鑑み水天門の建立こそ今日より急務なるはなしと 此処に昭憲皇太后より賜はりし御歌の 今も猶袖こそぬるれわたつ海の龍のみやこのみゆきおもへはに因みて龍宮造となし御造営し奉れは昭和三十三年四月七日畏くも昭和天皇 香淳皇后両陛下此の神門の御通初めご参拝を賜はり赤間神宮並に安徳天皇阿弥陀寺陵に詣でてと題し給いて みなそこにしつみたまひし遠つ祖をかなしとそ思ふ書見るたひにの御製一首をも下し賜ひし空前の行幸哲に輝く水天門是なり
太 鼓 楼 記
水天神鎮の恩頼を蒙り奉る関門港湾建設社長清原梅義氏は本宮崇敬会長として夙に敬神の念に篤く 時恰も下関市制百周年を迎うるや本市の発展は陸の竜宮の具現に在りと太鼓楼の造立を発願せられ平成二年一月二十七日旧元旦を期して見事に竣成す 蓋し新帝即位御大礼の佳歳にして全国民奉祝記念事業の嚆矢を以て除幕奉献せらる 打鳴らす鼓音とうとうと関門海峡をわたり国家鎮護世界平和の響き四海に満ち水天皇の神威愈々光被せむ
水天門 掲額の記
神門楼上に関門海峡を見はるかし黒漆地に金波輝く水天門の御額は寛仁親王殿下の御染筆をたまわり平成十七年五月三日御祭り神を仰ぐ安徳天皇八百二十年大祭に際して宮様お成りのもと思召を以て御自ら除幕を頂いたものであります。
御 神 宝 類
重要文化財 平家物語長門本 全二十冊
重要文化財 赤間神宮文書 全十巻一冊
山口県文化財 安徳天皇縁起絵図 全八幅
山口県文化財 平家一門画像 全十幅
山口県文化財 源平合戦図屏風 一双ほか
宝物殿にて適時公開す
藩校養老館
概 要
藩校養老館は、津和野藩主亀井氏8代矩賢が、天明6年(1786)、「下中島堀内」(現在の津和野小学校裏付近)に創設した津和野藩の藩校です。創設当初は儒学を主として漢学、医学、礼学、数学、兵学などの学科が設けられていました。その後、11代茲監は嘉永2年(1849)に新たに国学や蘭医学を設け、規模を拡大するともに人材育成に力を入れました。
創設時の建物は、嘉永6年(1853)の大火で焼失してしまいましたが、安政2年(1855)に現在地に移転して再建され、明治5年(1872)に廃校となりました。
ここは幾多俊才を輩出した藩校として名高く、西周(近代日本哲学の祖)、森鴎外(文豪・軍医総監)、福羽美静(国学者・明治天皇待講)、山辺丈夫(日本紡績業の父)、小藤文次郎(日本地質学の父)、高岡直吉(初代札幌市長)、堀藤十郎(中国の銅山王)、福羽逸人(日本近代園芸の祖)、加部厳夫(国学者、「君が代」選定に携わる)など、後に全国に名を馳せた人物が学びました。
現在は、武術教場(槍術・剣術)と御書物蔵の建物を含む敷地が当時のまま残り、県史跡に指定されています。
これらの建物は昭和46年に修復されていましたが、再び老朽化したため、平成27年から全面解体によって保存修理工事及び改変箇所の復元工事を行い、平成31年3月に竣工しました。武術教場内部には、養老館の沿革や、養老館に関わる偉人を紹介するパネル展示を行い、4月から一般公開しています。
出典:津和野町
鷺 舞
鷺 舞(国指定重要無形民俗文化財)
古式豊かな鷺舞は神事舞として、京都より山口を経過して天文11年(1542年)津和野城主吉見十一代大蔵政頼が五穀豊饒、災厄防除のため移したことに起源する。
その後坂崎出羽守の時代に中絶したが、二代藩主亀井茲政に至り、寛永20年(1643年)京都より伝授され復興し、弥栄神社の例祭に供奉、今日に至る。
ふるさとの川整備事業にあわせてこの像を建てる。
平成6年11月3日
出典:津 和 野 町
日本五大名飯(うずめ飯・忠七めし・深川めし・かやくめし・サヨリめし)
津和野 郷土料理 うずめ飯
うずめ飯とは、ごはんの下にみつば・椎茸・にんじん・豆腐・のりなどをうずめ、お出しをかけて召し上がる、津和野郷土料理です。
津和野は、山あいの町で、昔、お客様にもてなすのが山菜くらいしか無く、表に出すのが、恥ずかしい気持ちがあり、ごはんの下に、うずめて、控えめに出したと言われています。
倹約令のもと、おかずをうめて隠して食べた、という説もあります。素朴な郷土料理です。
うずめ飯以外にもおさしみこんにゃく・海老のてんぷら・れんこん・かまぼこ・たまご焼き・ひじきなども付いています。
また、日本五大名飯(昭和14年、宮内庁の全国郷土料理調査で日本の代表的な郷土料理として選ばれたもの)の1つでもあります。
津和野での昼飯は、郷土料理うずめ飯がおすすめです。
昭和三十年十月二六日、松陰神社の新社殿(現社殿)が竣功し、遷座祭も滞りなく斎行されたので旧社殿を北隣の現在地に移し、塾生、門下生を祀ることとなりました。
社名を松門神社として改修した後、昭和三十一年十月二六日、松陰先生門人四十二柱を合祀して鎮座祭が斎行されました。
平成二十二年十月二十五日、松陰先生御生誕百八十年を記念して十柱を追祀し、合わせて五十二柱が祀られています。
松陰先生の実家である杉家で、明治二十三年八月に松下村塾が改修された際、村塾の西側に間口一間半、奥行二間の土蔵造り小祠が建立され、私祠として松陰先生を祀っておられましたが、その小祠が明治四十年十月松陰神社の神殿となり、更に現在の松門神社の神殿となっています。
沼崎吉五郎大人の合祀
沼崎吉五郎(福島藩士後に幕府陪臣)は、松陰先生処刑時の江戸伝馬獄の牢名主で、松陰先生の信頼を受け、先生の魂の結晶である遺書「留魂録」を託されました。沼崎はその後、三宅島に流罪となりましたが、これを十七年間肌身離さず守り抜き、明治九年松下村塾生であった野村靖に手渡し、今日まで伝存されることとなり、現在の我々の大きな遺産となっています。
この献身的な努力と功績を称えるため、平成二十七年十月二十五日、松門神社に合祀されました。
春季大祭 五月二十五日
例 大祭 十月二十七日
いづれも松陰神社と同日
説 明
木戸孝允生誕の年より嘉永五年十一月江戸出府に至る迄二十年間居住せし處なり居宅は平屋一部二階建にして玄関、座敷等九室(建坪四十二坪二合五勺)階上二室(五坪二合五勺)あり書斎、浴室及庭園等に至る迄よく舊態を存せり
注 意
1、 下記に注意する事
2、 工作物、樹木等を損傷さ
せない事
昭和十六年四月
出典:文部省
国指定史跡 萩城城下町
指定年月 昭和四十二年一月十日
説 明
指定区域は萩城三の丸、中の総門から東に続く旧御成道である呉服町の通りと、これに直交する三筋の小路(東から江戸屋横町、伊勢屋横町、菊屋横町)及びこれらの小路の南端が直交する道路に囲まれた範囲並びにその周辺の一部。呉服町通りには、萩藩御用達の菊屋家や幕末の商家久保田家などがあり、小路沿いには中・下級の武家屋敷で、史跡木戸孝允旧宅、青木周弼・周蔵の旧宅(江戸屋横町)、高杉晋作旧宅跡(菊屋横町)などがある。町筋とともに商家や武家屋敷の家並みの配置がよく保存され、城下町の景観を偲ぶことができる。
注 意
1、城下町として景観を保持するとともに、とくに藩政当時の建物、築地などの外観をきずつけないこと。
2、みだりに住居に立ち入らないこと。
3、火気に注意すること。
出典:萩 市
国指定重要文化財
菊屋家住宅
指定年月日
昭和四十九年五月二十一日
指定建造物五棟
主屋・本蔵・金蔵・米蔵・釜場
(主屋十七世紀前期、
他十八~十九世紀)
萩藩(毛利藩)の御用を勤め、藩を支えた豪商の家。江戸初期に現在地に建てられた。
御成道に面し伊勢谷横丁、菊屋横丁の南北二筋の小路にまたがる。
現存する大型の町屋として最古に属し、建築史上極めて貴重ということから五棟が国の重要文化財に指定された「国指定史跡萩城城下町」および「世界遺産明治日本の産業革命遺産」の構成資産の一つ「萩城下町」の中核の文化財でもある。
邸内に美術品や民具、史料等を多数展示(展示替え有り)し、江戸時代からの文化や暮らしぶりが体感できる。
毛利藩の本陣・御用宅として藩主や藩の賓客をもてなした書院座敷や書院庭園も見どころとなっている。
田中義一 一八六三-一九二九
幕末のころ藩主の御六尺(かごかき)田中家の三男として文久三年(一八六三)乙熊がここで生まれた。
乙熊は三歳のとき平安古に移り、成長して義一と名を改めた。
十三歳のとき新堀小学校の授業生(代用教員)に登用され萩の乱にも参加したが、のち陸大に進学した。大正七年以降陸軍大臣、次いで大将に進み、再び陸軍大臣となる。
大正十四年政友会総裁に就任、昭和二年内閣総理大臣となり外務大臣、拓務大臣をも兼任した。
出典:萩 市
高杉晋作生誕地
萩藩士高杉小忠太の長男として天保10年(1839)に生まれた。
安政4年(1857)、久坂玄瑞のすすめにより松下村塾に入門し、吉田松陰の生きた教えを受けた。
奇兵隊の創設、四国連合艦隊との講和談判、下関挙兵などを行い、明治維新のため力を尽くしたが、維新の実現を見ることなく、慶応3年(1867)、28歳の若さで病死した。
旧宅内に晋作の写真や書などが展示され、邸内には自作の歌碑や詩碑、産湯に使ったと言われる井戸がある。
旧野田家住宅
「嘉永年間(1848~1854)の当主野田七郎左衛門は、萩藩遠近付で、五十一石余を給されていた。
建物は、木造平屋建、寄棟造、桟瓦茸で、道路に面した門とそれに続く土塀、主座敷南側に造られた庭園なども残り、江戸時代武家屋敷の面影をよく伝えている。」
出典:萩 市