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談合坂SA下り
概要
中央自動車道の高井戸側からみて最初のサービスエリアである。上下線で約2km位置が異なり、両施設共に中央道の下り線側に設置されている。上り線SAが小牧寄り(上野原市大野)、下り線SAが高井戸寄り(上野原市野田尻)にある。
開設当時は、上下線共に同じ位置にあり、上り線の施設はハイウェイショップ、スナックコーナー、トイレのパーキングエリア並みのものに加えて給油所というものであったが、設置されていた歩道橋を介して上下線の行き来が可能であった。1992年(平成4年)4月、混雑の緩和(特にレストランは上下線で共用であったため、平日でも常に込み合う状況であった)のために、下り線SAを2km高井戸寄りの現在地に移設。旧下り線SAは、上り線SAの拡張用地となった。それに伴い、上記の通り現在では施設が離れている。下り線の施設にはレストランがない。
下り線SAは、野田尻バスストップを併設している。
ソース: 談合坂サービスエリア – https://ja.wikipedia.org
一番霊場 祭神 難陀吉竜王
国指定天然記念物
■昭和9年(1934年)5月1日指定
■南都留郡忍野村忍草266の3
富士山世界文化遺産 構成13
忍野八海 出口池
天つちの
ひらけるときに
うごきなき
御山の水の
出口と(た)ふとし
忍野八海の中でこの池だけが離れた場所にあり、他の池が北斗七星を表すのに対し、北極星を意味しているとされています。
溶岩魂の下より湧水があり桂川の水源の一つとなっています。
出典:忍野村
山中湖花の都公園
標高1000mの高原にある広大な植物園。季節ごとに花が咲き変わる花畑エリアは無料。有料エリアには、水車、滝、温室などを備える。
出典:花の都公園
山中湖 花の都公園 清流の里
富士山を背景に季節の花畑が広がる公園。園内には水遊具広場や雄大な滝、三連大水車の他、溶岩樹型の体験ゾーンがある。食事処と売店併設。
出典:花の都公園
山中諏訪神社
豊玉姫命を祭神として、安産や子授けにご利益があると信仰される神社。毎年9月4~6日に境内で安産祭りという例祭が行われる。
出典:山中諏訪神社
山中明神 安 産 祭
「安産祭」は9月4日から6日にかけて行われる山中諏訪神社の例大祭です。
諏訪神社は山中明神とも呼ばれ、古くから安産、子授けの社として全国に知られてきました。また妊娠が神輿を担ぐところから「孕み祭」、「はらぽて祭」とも呼ばれております。
祭神は豊玉姫命です。豊玉姫命は、海神・豊玉彦神の御娘で、出産の折、産屋の屋根も葺き終わらないうちに鵜葺屋葺不合命(神武天皇の御父)を御出産したという神話に基づき、安産の守護神として崇められてきました。
お祭りの朝には奥宮のある明神峠にむら雲が湧き、豊玉姫命が白龍に乗って湖水を渡る「神渡り」があると言い伝えられております。
民俗、伝統を今に伝えるこの夜祭は、氏子を始めとし私たちすべての子授け、安産えの祈りに支えられています。
神輿は四日にお旅所まで渡御し、翌五日本宮にお戻りになられますが、神輿が本殿に納まる前には神輿を先頭に大勢の人が数珠つなきになって
諏訪の宮 みかげさす
右龍がいにも 左龍がいにも
もそろ げに もそろ
と、「諏訪の宮」の御神歌を唱えながら、ご神木の周りを三回廻ります。
この時、子授け、安産を願い、又嬰児を背負って健やかな成長をと願うお礼参りの女性達は、皆、足袋銑正装姿で競って神輿に縋りつきます。神輿に触れることで神様に近づき、ご利益が約束されるということです。
このような情景は他の祭りでは見られないため、奇祭として全国に知られ、多くの参拝者が訪れます。
また、お旅所では、氏子の女性たちが「お籠り」をして、お灯明を絶対やさないようにします。
その蝋燭は参詣者にお守りとして配らております。
山中浅間神社
御祭神
木花開耶姫命、天津彦々火瓊々杵尊、大山祇命
由緒
山中浅間神社は、承平元年(931)に社殿を造営し、木花開耶姫命、天津彦々火瓊々杵尊、大山祇命の三柱の神を奉ったのが創建です。
江戸時代に入り、寛政4年(1792)12月20日に日本殿、雨屋、拝殿を再建し、石灯篭の建立をなしました。しかし、大正8年(1919)に火災により全社殿を焼失しますが、大正12年(1923)に再建され、翌年には手水舎・神輿殿が新築されました。昭和47年(1972)には社殿が鉄筋コンクリート屋根銅板葺の荘厳な建築に改められ、手水舎・神輿殿も再建されました。
山中湖村の氏神社として崇敬を集め、5月5日に例祭が執り行われています。社殿向かって左手に鎮座するのは山之神社。境内から宮之森橋を東に進むと山中諏訪神社です。
出典:なかいま企画
双体道租神と愛宕地藏
一体のお地蔵様は火伏せの神、愛宕地藏です。
江戸時代の中期の愛宕山の修験者により愛宕地藏信仰が全国に広められた時期に、この愛宕地藏も作られたと考えられていますが、正確な建立年代は不明です。
この地域では小正月に5カ所でどんど焼きが行
われ地域の人々の健康を祈願しています。
男女一組の道租神は1760年(宝暦10年)
の建立です。道租神は村の守り神であり、子孫
の繁栄をもたらす神として、また、道を行き来
する旅人を守る神として信仰されてきました。
今は山中小学校の入口にあって子供たちを見守ってくれています。
出かけませんか。ぶらり裏みち散策。
馬 頭 観 音 像
山中区内には多くの馬頭観音が見られ、ここにも
鎌倉往還沿いや屋敷内にあった多くの石造物が集めら祀られています。
山中区を貫く道は古くから駿河と甲州街道を結ぶ、物資輸送の幹線道路となっており荷馬車(馬力)や荷駄(ダバ)を背負って行きかい、山中集落は荷駄を運ぶ中継地として、当時の住民・多くの女性が駄賃稼ぎ(運送)に従事していました。
馬は荷駄運びや山仕事に使われ、生活の糧として家の中に馬屋を設け大切に飼育されていました。
(一軒に二頭以上もの馬が飼育されていた時代もありました。)
愛馬を慰霊する馬頭観音は街道跡の面影を残し、龍坂峠を越え静岡方面に下る道を走ると当時の荷馬や人々の苦労がしのばれます。
北口本宮富士浅間神社そして、
「御師まち」へ、ようこそ
北口本宮富士浅間神社
北口本宮冨士浅間神社は、山梨県富士吉田市上吉田にある神社。旧社格は県社で、現在は神社本庁の別表神社。
全国にある浅間神社の一社である。富士登山吉田口登山道の起点にあたり、「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産のひとつである「富士山域」の一部として世界文化遺産に登録されている。
祭神
木花開耶姫命
天孫彦火瓊瓊杵命 – 夫神
大山祇神 – 父神大祭
新年祭 – 2月17日
初申祭(例祭)
– 5月5日
鎮火祭(吉田の火祭り) – 8月26日、27日
新嘗祭 – 11月23日由緒
人皇十二代景行天皇40年に、日本武尊が東方遠征の折、箱根足柄より甲斐国酒折宮に向かう途次、当地を通過、大塚丘に立たれ、親しく富士山の神霊を遥拝され、大鳥居を建てしめ、「富士の神山は北方より登拝せよと」勅され、祠を建てて祀ったのが始まりとされている。
延暦7年(788年)に甲斐守である紀豊庭により現在地に神殿を建て、浅間の大神を祀り、大塚丘には日本武尊の神霊を祀った。以後、逐次造営、改築され、現在の本殿は元和元年(1615年)、谷村城主鳥居土佐守成次により建立された。その後、貞享5年(1688年)に社殿が造修された。
享保18年(1733年)、江戸の富士講村上派を率いる村上光清が私財を投じて出資し、幣殿、拝殿、神楽殿、手水舎、隋神門を造営させた。
拝殿の前の両脇には樹齢千年の「富士太郎杉」「富士夫婦檜」の名を持つ大きな御神木がある。中世には同社が所在する郡内地方の領主である小山田氏からの庇護を受けた。
ソース: 北口本宮冨士浅間神社 – https://ja.wikipedia.org
国指定史跡「富士山」構成要素
仁王門礎石
平成23年2月7日指定
管理者 北口本宮富士浅間神社
北口本宮富士浅間神社境内には、神仏混淆時代・三重塔・鐘楼・仁王門など、仏教色の濃い壮麗な堂塔があり、美事な調和を見せていた。
明治初年、「神仏分離令」施行の際に撤去され、三重塔・鐘楼は失われて、現在その建っていた跡を確認することはできない。
市内下吉田の臨済宗寺院「月江寺」が護持してきた仁王門も取り払われたが、幸いにして礎石はその難を逃れ、往古のままに昔日の面影をしのばせている。
ちなみに、この仁王門の規模は梁間一丈八尺(約5,5m)、軒高六間(約11m)という記録が残されている。
神社と寺院の建物が共存していた神仏混淆時代の貴重な史跡である。
平成25年11月
出典:富士吉田市教育委員会
国指定史跡「富士山」構成要素
角行の立行石
平成23年2月7日指定
管理者 北口本宮冨士浅間神社
この立行石は、慶長15年(1610)の冬、富士講の開祖角行東覚(当時69歳)が吉田の地を訪れ、富士山霊を遥拝し、酷寒の中を裸身にて、石上に爪立ちして30日の荒行をした。
全身より血を噴き、里人の勧めで行を止めたと伝えられている。
角行は本名を藤原武邦といい天文10年(1541)正月15日、九州長崎で生れた。
戦国の世にあって天下泰平・国土安穏・衆生済度の大願を成就すべく難行苦業の道に入った。
永禄2年、18歳で故郷を出立ち岩手県盤井群の『脱骨の窟』で37日の行をなし、のち神告により富士の『人穴』に入り、4寸5分角(約14センチ4方)の材木に1千日爪立ちするという捨身の荒行をおえ、解脱し角行と称した。
元和6年(1620)角行79歳の時、江戸に『つきたおし』という奇病がはやり、3日で千人死んだともいわれたが『風先侎』により病を癒し庶民を救い、その名を高めた。正保3年(1646)6月3日、106歳にて大往生したが、生涯における修業で主なものは不眠の大業1万8千8百日、立行3千日、断食3百日、造字3百60字、富士登頂128回に及んだといわれ、富士講の開祖となった。
出典:富士吉田教育委員会
富士吉田市指定天然記念物
北口本宮冨士浅間神社のスギ
平 成 4年9月1日指定
所在地 富士吉田市上吉田5558番地
所有者 北口本宮冨士浅間神社
地際の南側が少し腐朽しているが、樹勢は良好であり、旺盛である。県指定天然記念物の「冨士浅間神社の大スギ」ほどではないが、根張りが発達し漏斗を伏せたような形をしている。
県指定の大スギは「冨士太郎杉」、この木は「冨士次郎杉」と呼ばれ、広く市民に親しまれており、市内の代表的なスギの巨樹である。
大きさは次のとおり。
1. 露出 根張り 17.2㍍
2. 幹根境の周囲 11.8㍍
3. 目通り 幹囲 7.8㍍
4. 樹 高 30.0㍍
5. 枝 張 り 東5.5㍍ 西7.0㍍
南7.4㍍ 北9.0㍍
平成5年3月
出典:富士吉田経委員会
重要文化財
北口本宮富士吉田浅間神社 東宮本殿
明治40年8月28日(旧国宝)指定
鎮座地 富士吉田市上吉田5558
祭神 天津日高彦火火出見命、富士権現とも呼ばれた。
貞応2年(1223)北条義時の創建とも伝えられるが、現社殿は永禄4年(1561)武田信玄が川中島合戦の戦騎祈願して浅間本社として造営したものである。
その後文禄3年(1594)に浅野氏重、元和元年(1615)に鳥居成次修理し、さらに、慶安2年(1649)と延宝6年(1678)には秋元氏、享保19年(1734)には村上光清による修理が加えられた。
本殿は身舎梁間一門、桁行一門で全面に一門の向拝をつける一門社流造の形式である。柱は床下部八角の丸柱を用い、高欄を回した縁と登高 付五段の階を持つ、屋根は檜皮葦で身舎からそのまま向拝まで延び破風には鏑縣魚をつける。この様式は向拝頭貫の蟇股の彫刻とともに室町時代の手法を残すものである。外観の要所に施した装飾には桃山時代の影響が見られる。向拝柱にある金具の卍は村上講社の講印であり、藤の紋章は村上家の紋であるので、光清修理の時付けられたものであろう。
昭和27年(1952)解体修理を行った。
平成12年3月
出典: 山梨県教育委員会
出典:富士吉田市教育委員会
自 然 記 念 物
新屋山神社の社そう林
ここの社そう林は雁の穴丸尾溶岩流の上にあり富士北麓東部の代表的落葉広葉樹林で極めて貴重であるので自然記念物に指定されています。
この区域内で自然破壊となるような行為をすると、条例の規定により罰せられます。
この貴重な社そう林をみんなで大切にして後代
に伝えましょう。
出典:山梨県
富士吉田市指定文化財
旧武藤家住宅
間取りの形式や、土間周囲の当初柱の数本に平刃とともに蛤刃の手斧跡が残っていることから、江戸時代中期以前の建築と推定されます。
しかし後の改造が著しく当初復原は困難であるため、江戸末期と推定される改造時期のものをもとに復原しました。
旧所在地 富士吉田市下吉田1219
木造平家建 茅葺カブト造
忍野八海
忍野八海とは、山梨県南都留郡忍野村にある湧泉群。富士山の雪解け水が、不透水層という地下の溶岩の間で、約20年の歳月をかけてろ過され、湧水となって8か所の泉をつくる。忍野八海からの湧水は山中湖を水源とする桂川と合流する。
国指定の天然記念物、名水百選、県の新富嶽百景にも選定されている。2013年には「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産の一部として世界文化遺産に登録された。
ソース: 忍野八海 – https://ja.wikipedia.org
二番霊場 祭神 跋難陀竜王
国指定天然記念物
■昭和9年(1934年)5月1日指定
■南都留郡忍野村忍草111の2
富士山世界文化遺産 構成14
忍野八海 お釜池
ふじの根の
ふもとの原に
わきいづる
水ぞこの世の
おかまなりけり
忍野八海の中で最も小さな池です。釜の中で熱湯が沸騰するように湧水していたことから、この名が付けられたといわれています。
水量は豊富で、バイカモが揺れ動く景色や水深の青さを鑑賞できます。
出典:忍野村
四番霊場 祭神 和脩吉竜王
国指定天然記念物
■昭和9年(1934年)5月1日指定
■南都留郡忍野村忍草266の3
富士山世界文化遺産 構成16
忍野八海 銚子池
くめばこそ
銚子の池の
さわぐらん
もとより水に
なみのある川
祝言の日、この池に銚子を持ったまま身を投げた花嫁の伝説と、かつては銚子の形に似ていたことが池名の由来となっています。池の底から砂を巻き上げて水が湧いているのが見えます。また、縁結びの池とも呼ばれています。
出典:忍野村