クレアパーク(スタート)→小江戸蔵里(川越市産業観光館)→出世稲荷神社→川越大師 喜多院→成田山川越別院(本行院)→七曲り→三芳野神社→菓子屋横丁→新河岸川遊歩道→クレアパーク(ゴール)

小江戸川越ウオークⅣ ・成田山別院 ・初雁公園(三芳野神社) ・濯柴公園 ・菓子屋横丁
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小江戸川越ウオークⅣ

・成田山別院

・初雁公園(三芳野神社)

・濯柴公園

・菓子屋横丁

クレアモール・八幡通り・中央通り周辺地区 都市景観形成地域
クレアモール・八幡通り・中央通り周辺地区 都市景観形成地域
クレアモール・八幡通り・中央通り周辺地区 都市景観形成地域
クレアモール・八幡通り・中央通り周辺地区 都市景観形成地域

クレアモール・八幡通り・中央通り周辺地区

都市景観形成地域

 川越駅・本川越駅を核とした中心商業地とその周囲の住宅地を含む地区は、景観法に基づく川越市景観計画の都市景観形成地域に指定されています。

 中心商業地の個性と秩序ある町並みづくりや周囲の住宅地の落ち着いた環境を守り育てるために景観づくりのルールを定めています。このルールを守るとともに、建築行為等に際して事前に市に届出をする必要があります。

🔶主な景観づくりのルール🔶

1.建築物や店舗、屋外広告物は、町並みの魅力向上に寄与するデザインとする。

2.建築物の外壁等の色彩は、周囲の町並みや環境との調和を図る。

3.クレアモールに面する建築物は道路境界線から1m以上壁面を後退させる。

4.クレアモール、中央通りに面して門、塀等の設置は極力避ける。

5.規模の大きな建築物は、町並みの連続性や、日照、通風など周知の環境に配慮する。

出典:川越市都市計画部都市景観課

〒350-1122 埼玉県川越市脇田町
〒350-1122 埼玉県川越市脇田町
〒350-1122 埼玉県川越市脇田町11−5
〒350-1122 埼玉県川越市脇田町11−5
〒350-0043 埼玉県川越市新富町2丁目9−8 ZARA川越店
〒350-0043 埼玉県川越市新富町2丁目9−8 ZARA川越店
〒350-0043 埼玉県川越市新富町1丁目19−4 すき家本川越クレアモール店
〒350-0043 埼玉県川越市新富町1丁目19−4 すき家本川越クレアモール店
〒350-0043 埼玉県川越市新富町1丁目11−2
〒350-0043 埼玉県川越市新富町1丁目11−2
小江戸蔵里(川越市産業観光館)〒350-0043 埼玉県小江戸蔵里 埼玉県川越市新富町1丁目10−1
小江戸蔵里(川越市産業観光館)〒350-0043 埼玉県小江戸蔵里 埼玉県川越市新富町1丁目10−1

小江戸蔵里

小江戸蔵里(こえどくらざと)』は、この場所で明治8年(1875年)に創業した旧鏡山酒造の建築物を、当面の面影を残しつつ改修した施設です。

市民と観光客との交流、地域の活性化を図るとともに、川越市の物産等を楽しんでいただく新しい名所として平成2210月に誕生しました。

施設は、明治・大正・昭和の時代に建てられた酒造を改装した、おみやげ処(明治蔵)、まかない処(大正蔵)、くら市場(昭和蔵)の3つの蔵からなっています。

これらの蔵は、国の登録有形文化財に指定されています。

 なお『小江戸蔵里』という名称は、川越市の別名『小江戸』蔵造りの町並みを表す「蔵」、人々が気軽に立ち寄れてくつろげる心のふるさと「里」、という意味を込めて公募の中から選ばれました。

出典:小江戸蔵里

川越まつり 家光の山車 新富町一丁目
川越まつり 家光の山車 新富町一丁目
小江戸蔵里
小江戸蔵里
蔵里のご案内
蔵里のご案内
I〒350-0043 埼玉県川越市新富町1丁目10−7
I〒350-0043 埼玉県川越市新富町1丁目10−7
〒350-0043 埼玉県川越市新富町1丁目9−11
〒350-0043 埼玉県川越市新富町1丁目9−11
出世稲荷神社
出世稲荷神社

出世稲荷神社について

出世稲荷神社は、江戸時代(天保2/1832)に、京都の伏見稲荷神社本宮より分祀した神社です。

名前の通り出世の御利益があります!また伏見稲荷同様に、五穀豊穣や商売繁盛の御利益も。

すぐ近くにある賑やかな商店街をよそに、境内はとても静かです。時たま併設された公園から聞こえる、子供たちの声にふと心が和みます。

出典:カワゴエール

イ チ ョ ウ
イ チ ョ ウ
市指定・天然記念物 イ チ ョ ウ
市指定・天然記念物 イ チ ョ ウ

イ チ ョ ウ

いちょう窪の出世稲荷の公孫樹として名声がある。

向かって右は幹回り(目通り)5.67m、根回り7.6m、左は幹回り7.25m、根回り9.7mあり、二本とも樹高は約26.5m。

樹齢は650余年と推定され、みごとな美しさと枝張りを示し、樹勢もきわめて旺盛である。

公孫樹は、日本と中国の一部に産するイチョウ科を代表する落葉樹で、秋にはあざやかに黄葉する。

雌雄異株で、種はいわゆるギンナンで食用となる。

 

昭和3336

川越市教育委員会

〒350-0056 埼玉県川越市松江町1丁目5−11
〒350-0056 埼玉県川越市松江町1丁目5−11
〒350-0056 埼玉県川越市松江町1丁目8−1
〒350-0056 埼玉県川越市松江町1丁目8−1
〒350-0056 埼玉県川越市松江町1丁目6−22
〒350-0056 埼玉県川越市松江町1丁目6−22
内川豆腐店(〒350-0035 埼玉県川越市西小仙波町1丁目7−32
内川豆腐店(〒350-0035 埼玉県川越市西小仙波町1丁目7−32
内川豆腐店(〒350-0035 埼玉県川越市西小仙波町1丁目7−32
内川豆腐店(〒350-0035 埼玉県川越市西小仙波町1丁目7−32
〒350-0035 埼玉県川越市西小仙波町1丁目7−32
〒350-0035 埼玉県川越市西小仙波町1丁目7−32
〒350-0035 埼玉県川越市西小仙波町1丁目5−3
〒350-0035 埼玉県川越市西小仙波町1丁目5−3
どろぼう橋(〒350-0035 埼玉県川越市西小仙波町1丁目18−2)
どろぼう橋(〒350-0035 埼玉県川越市西小仙波町1丁目18−2)

どろぼう橋

むかし、どろぼう橋がまだ木造の細い橋だったころ、町で泥棒をはたらいた者が町奉行の捕り方(罪人を捕らえる役目の人)に追われ、この橋をわたり喜多院に逃げ込みました。喜多院寺領は、江戸幕府のご朱印地なので、捕り方は境内に入ることができません。泥棒は、喜多院の大師さまにお参りをし、罪を深く悔い改め、善人になったといいます。

 それ以来、この橋を「どろぼう橋」と呼ぶようになりました。

出展:カワゴエール

どろぼう橋(〒350-0035 埼玉県川越市西小仙波町1丁目18−2)
どろぼう橋(〒350-0035 埼玉県川越市西小仙波町1丁目18−2)
どろぼうばしの由来
どろぼうばしの由来
どろぼうばしの由来
どろぼうばしの由来

どろぼうばしの由来

 所在地 川越市小仙波町一丁目

 昔、この橋は、一本の丸木橋であったといわれ、これは、その頃の話である。

 ここ喜多院と東照宮の境内地は御神領で、江戸幕府の御朱印地でもあり、川越藩の町奉行ではとらえることができないことを知っていた一人の盗賊が、町奉行の捕り方に追われ、この橋から境内に逃げこんだ。しかし、盗賊は寺男たちに捕えられ、寺僧に諭され悪いことがふりかかる恐しさを知った。盗賊は、厄除元三大師 に心から罪を許してもらえるよう祈り、ようやく真人間に立ち直ることができた。そこで寺では幕府の寺院奉行にその処置を願い出たところ、無罪放免の許しが出た。その後、町方の商家に奉公先を世話されると、全く悪事を働くことなくまじめに一生を過ごしたという。

 この話は大師の無限の慈悲を物語る話として伝わっており、それ以来、この橋を「どろうぼうばし 」というようになったということである。

 

 昭和五十八年三月

 出典:埼玉県

喜多院 慈恵堂
喜多院 慈恵堂

喜多院 慈恵堂

喜多院(きたいん)は、埼玉県川越市にある天台宗の寺院。山号は星野山(せいやさん)。良源(慈恵大師、元三大師とも)を祀り川越大師の別名で知られる。建物の多くが重要文化財に指定され、寺宝にも貴重な美術工芸品を多く有する。広大な境内は池や掘を廻らせた景勝地となっている。1月3日の初大師(だるま市)、節分、長月護摩講塔、七五三、菊祭りなど諸行事はむろん、四季折々の行楽客で賑わう。境内にある五百羅漢の石像も有名である。毎年、正月三が日の初詣には埼玉県内の寺院の中では最も多い約40万人の参拝客が訪れる。

ソース: 喜多院 – https://ja.wikipedia.org

小江戸川越七福神 大黒天
小江戸川越七福神 大黒天

小江戸川越七福神

喜多院(天台宗)小仙波町1-20-1

第三番 大黒天

大黒天は古代インドの神様で、密教では大自在天の化身、生産の神様です。くろ(黒)くなってまめ(魔滅)に働いて大黒天を拝むと、財宝糧食の大福利益が得られます。

 

小江戸川越七つの音風景

水琴窟(すいきんくつ)

 水琴窟は江戸時代初期の茶人、小堀遠州が考えた排水装置「洞水門」から発祥したといわれています。

 甕(かめ)の底に溜まった水面に水滴が落ちると、甕の空間に反響する音色が琴に似ていることから「水琴窟」と呼ばれるようになりました。

 

 

秋の七草            

しら露もこぼさぬ萩のうねり哉

                   芭蕉

 萩の名は古い株から芽を出す生え芽(ぎ)から出たといわれ、山萩の別名です。山野に多く、七~九月に紅柴色の蝶形花を開きます。

花言葉―想い

喜多院 多宝塔
喜多院 多宝塔

喜多院 多宝塔

境内にそびえる朱色の多宝塔

寛永16年(1639/江戸時代)に建造され、現在埼玉県の有形文化財に指定されています。

この多宝塔は、江戸時代の大工棟梁「平内(へいのうち)政信(まさのぶ)」が建造。平内政信は、全5巻からなる木割書「匠明」を著した人物で、喜多院多宝塔以外に、和歌浦天満宮(和歌山市)や輪王寺常行堂(日光市)なども建造しています。

現在は、本堂の斜め前に建てられている多宝塔ですが、もともとは山門前にある「白山権現」と「日枝神社」の間の古墳上に建てられていました。その後、2度の移築をし現在地にあります。

江戸時代初期の多宝塔の特徴が表れ、境内で一際鮮やかで目を引きます。喜多院を訪れた際は、是非みておきたい建物の1つです。

出典:カワゴエール

喜多院 多宝塔
喜多院 多宝塔
川越大師 喜多院
川越大師 喜多院
川越大師 喜多院案内図
川越大師 喜多院案内図
川越大師 喜多院案内図
川越大師 喜多院案内図

国指定重要文化財

川越大師 喜多院案内図

伝説によるとその昔仙波辺の漫々たる海水を仙芳仙人の法力によりとり除き尊像を安置したというが、平安時代、天長7年(830)淳和天皇の勅により慈覚大師が創建された勅願寺で本尊阿弥陀如来を祀り無量寿寺と名づけた。

 その後鎌倉時代、元久2年(1205)兵火で炎上の後、永仁4年(1296)伏見天皇が尊海僧正に再興せしめられたとき、慈恵大師(厄除元三大師)を歓請して官田五十石を寄せられ関東天台の中心となった。

 正安3年(1301)後伏見天皇は星野山(現在の山号)の勅額を下した。更に室町時代、天文6年(1537)北条氏綱、上杉朝定の兵火で炎上した。

 江戸時代、慶長4年(1599)天海僧正(慈眼大師)が第二十七世の法統をつぐが、同16年(161111月徳川家康が川越を訪れたとき寺領四万八千坪及び五百石を下し、酒井備後守忠利に工事を命じ、仏蔵院北院を喜多院と改め、四代家綱のとき東照宮に二百石を下すなど大いに寺勢をふるった。寛永15年(16381月の川越大火で現存の山門を除き堂宇はすべて焼失した。そこで三代将軍家光公は堀田加賀守正盛に命じてすぐに復興にかかり、江戸城紅葉山(皇居)の別殿を移築して客殿、書院などに当てた。家光誕生の間、春日局(家光公の乳母)の間があるのはそのためである。その他慈恵堂(本堂)、多宝塔、慈眼堂、鐘楼門、東照宮、日枝神社などの建物を数年間の間に再建し、それらが今日文化財として大切に保存されている。

 江戸時代までは寺領四万8千坪、七百五十石の幕府の御朱印地として寺勢をふるったが、明治以降財力の欠如とその広さ、大きさのため荒廃に向った。

 戦後文化財の指定とともに昭和大復興にとりかかり関係者の並々ならぬ努力によってその主な建造物の複原修理が完成し、それら偉観は、盛時を偲ばせるまでになった。しかし未だ完成しないところもかずあり今日までその整備事業は継続して行われている。

 現在の境内地は東照宮を含めて一万四千坪あり、今日その緑は市民にとって貴重な憩いの場となっており池や堀をめぐらした景勝はそこに点在する文化財群とともに川越随一の名勝地霊場地として名高く厄除元三大師のお参りとともに四季を通じて史跡を訪れる人々がいつも絶えない。

 1月3日の厄除初大師のご縁日には家内安全、厄除等の護摩祈願、また境内には、名物だるま市が軒をつらねて立ち並び、又2月3日の節分会、4月の長日護摩講の行事をはじめ毎日護摩供を奉じて所願成就の祈願を厳修している。

 文化財の拝観ができ、最近では毎年5月の連休の一週間宝物特別展も開かれている。

 

出典:喜  多  院

   川越市教育委員会

KAWAGOE
KAWAGOE

WELCOME TO

KAWAGOE

A CITY WHERE

HISTORY LIVES

WELCOME TO KAWAGOE A CITY WHERE HISTORY LIVES
WELCOME TO KAWAGOE A CITY WHERE HISTORY LIVES
(株)亀屋 妙喜庵 亀屋十吉(〒350-0036 埼玉県川越市小仙波町1丁目20−2)
(株)亀屋 妙喜庵 亀屋十吉(〒350-0036 埼玉県川越市小仙波町1丁目20−2)
成田山川越別院(本行院)(〒350-0055 埼玉県川越市久保町9−2)
成田山川越別院(本行院)(〒350-0055 埼玉県川越市久保町9−2)

成田山川越別院(本行院)

成田山川越別院本行院(なりたさんかわごえべついんほんぎょういん))は、埼玉県川越市にある真言宗智山派の寺院である。成田山新勝寺(千葉県成田市)の別院で、通称は川越不動。毎月28日には蚤の市(骨董市)で、11月には火渡り祭(柴灯護摩)で賑わう。本尊は不動明王。

歴史

嘉永6年(1853年)石川照温が廃寺になっていた久保町本行院を復興し創建。

明治10年(1877年)成田山川越別院本行院を称する(成田山最初の別院)。

交通アクセス

西武鉄道新宿線本川越駅から徒歩15分
東武東上線川越市駅から徒歩17分
東武東上線・JR川越線川越駅から徒歩約22分

ソース: 成田山川越別院本行院 – https://ja.wikipedia.org

成田山川越別院(本行院)(〒350-0055 埼玉県川越市久保町9−2)
成田山川越別院(本行院)(〒350-0055 埼玉県川越市久保町9−2)
成田山川越別院(本行院)(〒350-0055 埼玉県川越市久保町9−2)
成田山川越別院(本行院)(〒350-0055 埼玉県川越市久保町9−2)
成田山川越別院(本行院)(〒350-0055 埼玉県川越市久保町9−2)
成田山川越別院(本行院)(〒350-0055 埼玉県川越市久保町9−2)
ぷち・まがざん(〒350-0055 埼玉県川越市久保町7−4ときわや)
ぷち・まがざん(〒350-0055 埼玉県川越市久保町7−4ときわや)
靴のオチアイ(〒350-0055 埼玉県川越市久保町6−15)
靴のオチアイ(〒350-0055 埼玉県川越市久保町6−15)
太田屋茶店(〒350-0055 埼玉県川越市久保町6−7)
太田屋茶店(〒350-0055 埼玉県川越市久保町6−7)
七曲り(〒350-0054 埼玉県川越市三久保町10−15)
七曲り(〒350-0054 埼玉県川越市三久保町10−15)

七曲り

成田山川越別院のほど近く。県道15号線から1本路地に入って行くと、そこはくねくね折り曲がった細道が続く「七曲がり」ワールド!

七曲がりとは、川越城への敵の侵入を防ぐ為に造られた道で、わざと折れ曲がった道をつくることで敵の進軍を真っ直ぐに進めない様にしました。

ここ周辺は建物こそ新しい住宅が建ち始めてはいますが、道は当時の面影を残しています。

 

川越の町には、今でも「道のワナ」が多く残されています。例えば「鈎(かぎ)の手」「丁字路(ていじろ)」「袋小路」など。もしかしたら川越を観光・散策していると、ふと当時のワナに迷い込むかもしれません!

出典:カワゴエール

玉鉉ラーメン(〒350-0054 埼玉県川越市三久保町1−7)
玉鉉ラーメン(〒350-0054 埼玉県川越市三久保町1−7)
玉鉉ラーメン(〒350-0054 埼玉県川越市三久保町1−7)
玉鉉ラーメン(〒350-0054 埼玉県川越市三久保町1−7)
永島家住宅(旧武家屋敷)(〒350-0054 埼玉県川越市三久保町5丁目3)
永島家住宅(旧武家屋敷)(〒350-0054 埼玉県川越市三久保町5丁目3)
永島家住宅(旧武家屋敷)(〒350-0054 埼玉県川越市三久保町5丁目3)
永島家住宅(旧武家屋敷)(〒350-0054 埼玉県川越市三久保町5丁目3)
永島家住宅(武家屋敷)(市指定・史跡)
永島家住宅(武家屋敷)(市指定・史跡)

永島家住宅(武家屋敷)(市指定・史跡)

永島家住宅は、旧南久保町通り東よりの、川越城南大手門に近い位置にあります。伝聞によれば、旧川越藩御典医(ごてんい)の屋敷跡であると言います。

松平大和守家七代が川越藩主をつとめた明和4年(1767)~慶応2年(1866)当時の城下絵図によると、この場所には250石から300石の藩士が居住しました。

当家屋の小屋組は叉首(さす)構造で、棟の高さは三段となっており、痕跡などから、現在の住形態になるまで大きく2回の増改築を実施したと推測されます。当初形態を復元すると、玄関及び台所の位置は不明ですが、現在の玄関から床の間付きの座敷に至る諸室と東側に張り出す内向き諸室に分かれ、公私空間を区分した武家住宅の特質を残す遺構と考えられます。

また、松平大和守家記録による武家住宅の建築規則(明和562日条)の範囲内であり、他藩武家住宅の事例(信州上田藩ほか)と比較してもほぼ相違なく、武家住宅であることにまちがいありません。

また、増改築の手が加えられているものの、当初形態に復元可能な建物であり、敷地内は後年植栽が加えられていますが、屋敷周りなど当時の状況をよく保存しています。

現在埼玉県下三城下町(川越、忍、岩槻)では、武家屋敷の遺構はほとんど残されていません。また、関東圏内でも残存事例はわずかで、学術的にも貴重な遺構と言えます。

  平成18327日指定

出典:川越市教育委員会

永島家住宅(旧武家屋敷)(〒350-0054 埼玉県川越市三久保町5丁目3)
永島家住宅(旧武家屋敷)(〒350-0054 埼玉県川越市三久保町5丁目3)
七曲り
七曲り
七曲(ななまが)り
七曲(ななまが)り

七曲(ななまが)

 川越城下の武家地は、城の近くに上級武士、離れるに従って中・下級武士、街道筋には足軽屋敷が配置されていた。こうした構成は江戸時代を通じて変化はないが、家臣団の規模により武家地の領域には変動があった。

 松平大和(やまとの)(かみ)の入封に伴い、武家地は大きく拡大する。

秋元家時代(17041767)の川越城下の様子を描いたとされる『秋元但馬守様川越城主之(あきもとたじまかみさまかわごえじょうしゅの)頃図(ころず)』と松平大和守家時代(17671866)の城下図とされる『川越城下図』と比較すると、秋元家時代に城下の外であったところにまで武家地が拡大し、これに伴い道もつくられたことがわかる。ここでの道のつくられ方は直線路となっている。一方、秋元家時代に郷分(ごうぶん)(まち)(村が町場化したところ)や燈明寺(東明寺)・泰安寺の寺域となっていたところにまでも武家地が拡大し、同様に道がつくられたことがわかる。こちらでは、郷分町であったところや寺域境であったところに沿うように道がつくられている。この拡大範囲の道は非常に屈曲が多い、郷分町であった側は、通称「七曲り」と呼ばれるようになった。なお、「七曲り」とは道が幾重にも折れ曲がっている場所のことをいう。

 ふたつの城下図から「七曲り」は、江戸時代も後半になってつくられた屈曲路であることが明らかであるが、防衛上の目的からつくられたのかどうか定かではない。『秋元但馬守様川越城主之頃図』では既に屋敷割の原型がつくられており、松平大和守家時代にはその屋敷割を踏襲するかたちで武家地は拡大された。そして、この屋敷割に沿うとともに各屋敷への出入りを容易にするために道がつくられ、結果的に複雑な屈曲路をかたちづくることになったのであろう。「七曲り」は、武家地の広大という事実が生んだ道であること。そして、今に江戸時代の名残を留める道であることは間違いない。

出典:川越市教育委員会

JAZZ(〒350-0054 埼玉県川越市三久保町6−1)
JAZZ(〒350-0054 埼玉県川越市三久保町6−1)
川越火力発電所跡地
川越火力発電所跡地
川越火力発電所跡地
川越火力発電所跡地

川越火力発電所跡地

東京電力川越支社は、かっては川越火力発電所でした。

明治37年(1904年)埼玉県下で初めての石炭火力発電所として100kw発電機2台を使用し、川越町での電灯供給を開始しました。

川越電気鉄道

発電所で作られた電気を使い、明治3910月には川越~大宮間を結ぶ電気鉄道が開通し、チンチン電車の愛称で親しまれました。なお、駅の跡地は、川越市立中央公民館となっています。

出典:東京電力パワーグリッド㈱埼玉県電灯発祥の地

ひまわり幼稚園(〒350-0054 埼玉県川越市三久保町16−6)
ひまわり幼稚園(〒350-0054 埼玉県川越市三久保町16−6)
前川製餡所(〒350-0054 埼玉県川越市三久保町21−32)
前川製餡所(〒350-0054 埼玉県川越市三久保町21−32)
前川製餡所(〒350-0054 埼玉県川越市三久保町21−32)
前川製餡所(〒350-0054 埼玉県川越市三久保町21−32)
ひまわり東幼稚園(〒350-0053 埼玉県川越市郭町2丁目18−7)
ひまわり東幼稚園(〒350-0053 埼玉県川越市郭町2丁目18−7)
三芳野神社(〒350-0053 埼玉県川越市郭町2丁目25−25−11)
三芳野神社(〒350-0053 埼玉県川越市郭町2丁目25−25−11)
三芳野神社(〒350-0053 埼玉県川越市郭町2丁目25−25−11)
三芳野神社(〒350-0053 埼玉県川越市郭町2丁目25−25−11)
三芳野神社
三芳野神社
三芳野神社 (市指定 史跡)
三芳野神社 (市指定 史跡)
三芳野神社参道
三芳野神社参道
三芳野神社本殿
三芳野神社本殿
三芳野神社社殿及び蛭子社・大黒社 付明暦2年棟礼(県指定・建造物)
三芳野神社社殿及び蛭子社・大黒社 付明暦2年棟礼(県指定・建造物)
三芳野神社社殿及び蛭子社・大黒社 付明暦2年棟礼(県指定・建造物)
三芳野神社社殿及び蛭子社・大黒社 付明暦2年棟礼(県指定・建造物)

三芳野神社社殿及び蛭子社・大黒社

        付明暦2年棟礼(県指定・建造物)

 

本殿正面

 

三芳野神社本殿・幣殿・拝殿平面図

 平安時代のはじめ大同年間(806810)の創建と伝え、三芳野十八郷の惣社として宗敬をあつめました。太田道灌は川越城築城にあたって当社を鎮守とし、江戸時代以降は徳川幕府直営の社として庇護を受けました。

 寛永元年(1624)幕府の命をうけて川越城主酒井忠勝が奉行となり再興に着手、幕府棟染鈴木近江守長次が造営にあたりました。その後、明暦2年(1656)川越城主松平伊豆守信綱が奉行となり、幕府棟染木原義久が改修を加えました。社殿の屋根はこけらでしたが、弘化4年(1848)幕府棟染甲良若狭により瓦に改められ、さらに大正11年銅板葺に改められました。

 三芳野神社社殿は本殿、(へい)殿(でん)、拝殿からなる権現造(ごんげんづく)りで、屋根はこけら葺形の銅板葺です。外部は朱漆塗を基調とし、内部は軸部を朱漆塗、建具と天井を黒漆塗とします。

 本殿は正面三間、側面二間の入母屋造(いりもやづくり)で、四周に縁と高欄をまわし、正面に木階をもうけ、前面は幣殿に接続します。身舎(もや)内部は内陣外陣に分割し、内陣正面の柱間三間に(いた)唐戸(からと)、外陣正面は中央間に板唐戸、両脇間に(しとみ)()を装置します。組物は出組(でぐみ)で、幣殿に面した正面だけ()三斗(みつど)とします。中備(なかぞなえ)は極彩色をほどこした(かえるまた)股です。

 幣殿は正面一間、側面二間の両下造(りょうさげづくり)で、背面は本殿、前面は拝殿に接続します。組物は出三斗で、中備は外部が蟇股、内部が間斗束(けんとづか)になっています。

内部は(ぬぐい)板敷(いたじき)小組(こぐみ)(ごう)天井(てんじょう)です。

拝殿は正面三間、側面二間の入母屋造で、背面は幣殿に接続します。三方に縁高欄をまわし、背面柱筋に脇障子をたて、正面に一間の向拝をもうけます。組物は出三斗で、中備は外部が蟇股、内部が間斗束です。内部は拭板敷に小組格天井です。向拝は大面を取った角柱を(ろく)(ばり)形の(かしら)(ぬき)でつないで、両端に獅子鼻を付け、(つれ)三斗(みつど)を組んで中備に蟇股を飾ります。裏側には花木を篭彫した手狭(たばさみ)を飾ります。

三芳野神社社殿の造営経過はいささか複雑です。

 寛永元年(1624)の造営は、慶安2年(1649)松平信綱が奉納した「三芳野天神縁起絵巻」に詳細に記されていますが、そこに描かれた社殿は、流造(ながれづくり)ほ本殿と入母屋造の拝殿のみで幣殿は存在せず、現社殿とは大きく異なっています。

平成元年から平成4年にかけて実施された解体修理の報告書『三芳野神社社殿修理工事報告書』によれば、蟇股と各部取合わせを調査した結果、本殿・幣殿・拝殿の計二十三面の蟇股はすべて同形式ですが、当初からのものではなく、正面より押込み、斜め釘打ちで羽目板に取り付けられた後補の蟇股であることが判明しました。また、痕跡から、拝殿には寛永元年の造立当初より蟇股が存在していましたが(ただし現在の蟇股とは異なる)、本殿は蟇股の無い建築であったことも明らかになりました。現在の蟇股は、社殿全体を同一体裁に整えるために、新たに作製し取り付けたものと考えられます。また、本殿と幣殿、幣殿と拝殿の取合せでおさまりが不自然な所も数カ所指摘されています。

 以上を勘案すれば、現社殿にみる権現造は、寛永建立当初からのものではなく、修造時に幣殿を増設して形成されたもので、さらに、寛永建立当初の本殿と、現本殿は本来別の建築と考えられます。

 明暦2年の修造時には、江戸城二の丸東照宮が移築され、その幣殿と拝殿が三芳野神社の外宮(天神外宮)となり、明治5年に氷川神社境内(宮下町)に移され、八坂神社社殿として現存しています。確証はありませんが、現在の三芳野神社本殿は江戸城二の丸東照宮の本殿であり、明暦2年に移築され大改修を受け、幣殿を増設し、本殿と拝殿を連結して現在見るような権現造社殿となったと推定されます。

 蛭子社本殿と大黒社本殿は、拝殿の前方、参道に向かい合って鎮座します。拝殿から見て左が蛭子社、右が大黒社です。両社は同寸法、同形式で、拝殿前に一対となって配置され社格を高めています。朱塗の一間社流造(いっけんしゃながれづくり)()()棚造(だなづくり)で、屋根はこけら葺形の銅板葺とします。蛭子社本殿と大黒社本殿は、ほとんど装飾のない簡素な建築で、身舎組物は(ふな)(ひじ)()で中備はなく、妻飾は(こう)(りょう)(いのこ)扠首(さす)です。庇も柱上に舟肘木を置くだけで、いたって簡素なつくりになっています。明暦2年(1656)の「三芳野天神別当常海覚書」に「末社両宇」とあるのが相当すると思われ、元禄11年(1698)の「元禄11年川越市街屋敷社寺記」に末社貳ヶ所共 表四尺四寸 奥七尺九寸」とあって、規模が記されています。しかし、現本殿は正面四尺、側面は身舎と庇をあわせて六尺四寸五分であり、元禄の記録と一致しません。蛭子社に掲げられた額の背面に享保15年(1734)の年紀があるので、その頃再建されたものと思われます。

 昭和3011日(平成4311日追加)指定

出典:川越市教育委員会

大楠に関するご説明
大楠に関するご説明
大楠に関するご説明
大楠に関するご説明

大楠に関するご説明

 江戸期に建立された三芳野神社社殿は修復時の時期を迎え、去る平成4年に第1期修復工事が竣功、平成27年より第2期の修復工事を行うこととなりました。

 今期の修復に当たり、社殿並びに創建当時よりの石組の排水溝が大楠の根によって持ち上げられ、旧態を留めることが困難になっていることを鑑み、関係各位と協議し、やむなく大楠を伐採することとなりました。

 これも川越の先人方の志を継ぎ、社殿を保全するためでございますので、皆様方のご理解をお願い申し上げる次第でございます。

出典:三芳野神社社務所

わらべ唄発祥の所
わらべ唄発祥の所

ここはどこの細道じゃ

    天神さまのほそみちじゃ

わらべ唄発祥の所

    昭和54113

川越市文化財保護協会

川越七不思議
川越七不思議

川越城の七不思議

一、    霧吹(きりぶき)の井戸

二、    初雁(はつかり)の杉

三、    片葉の葦(あし)

四、    天神洗足(みたらし)の井水(せいすい)

五、    人身御供(ひとみごくう)

六、    遊女(よな)川の小石供養

七、    城中蹄(ひずめ)の音

川越城の七不思議
川越城の七不思議
川越(かわごえ)城(じょう)の七不思議(ななふしぎ)
川越(かわごえ)城(じょう)の七不思議(ななふしぎ)

川越(かわごえ)(じょう)七不思議(ななふしぎ)

一、霧吹(きりふき)の井戸

 城中に(こけ)むした大きな井戸があった。

ふだんは蓋をしておくが、万一敵が攻めて来て、一大事という場合には、この蓋を取ると、中からもうもうと霧が立ち込めて、城は敵から見えなくなったという。

そのため、川越城は別名霧隠(きりがくれ)(じょう)ともいわれる。

 

二、初雁(はつかり)の杉

 川越城内にある()芳野(よしの)神社の裏には大きな杉の老木あった。

いつの頃からか毎年雁の渡りの時期になると時を違えず飛んできた雁は、杉の真上まで来ると三声鳴きながら、杉の回りを三度回って、南を指して飛び去ったということである。

そのため、川越城は別名初雁城ともいわれている。

 

三、片葉の(あし)

 浮島稲荷(いなり)神社の裏側一帯は、(かや)(あし)が密生した湿地帯で、別名「七ッ(かま)」といわれていた。

ここに生える葦は不思議なことに片葉であって、次のような話が伝わっている。

 川越城が敵に攻められ落城寸前に、城中から姫が乳母(うば)と逃げのび、ようやくこの七ッ釜のところまでやって来たが、足を踏みはずしてしまった。

姫は、川辺の葦にとりすがり岸にはい上がろうとしたところ、葦の葉がちぎれてしまい、姫は葦の葉をつかんだまま水底へ沈んでしまった。

この辺の葦は、この姫の恨みによってどれも片葉であるといわれている。

 

四、天神洗足(みたらし)(せい)(すい)

大田(どう)(しん)道灌(どうかん)父子が川越城を築城するに当たって、堀の水源が見つからず困っていたところ、一人の老人が井水で足を洗っているのに出会った。

この老人の案内によって水源を見つけた道灌は、かねての懸案を解決し、難攻不落の川越城を完成させることができたといわれている。

かの老人の気品にあふれた姿に気がついた道灌は、これぞまぎれもない三芳野天神の化身(けしん)であったかと思い、以来これを天神洗足の井水と名づけて大事に神慮にこたえたという。

 

五、人身御供(ひとみごくう)

 川越城築城の際、太田道真、道灌父子は、三方(北、西、東)の水田が泥深く、築城に必要な土塁(どるい)がなかなか完成せず苦心をしていたところ、ある夜龍神が道真の夢枕にたって、「明朝一番早く汝(汝)のもとに参った者を人身御供(ひとみごくう)に差し出せばすみやかに成就(じょうじゅ)する」と言った。

 道真は、龍神にそのことを約束をしたが、明朝一番早く現れたのは、最愛の娘の世禰(よね)姫であった。

 さすがの道真も龍神との約束を守れずにいると、姫は、ある夜、城の完成を祈りながら、七ッ釜の淵に身を投げてしまった。

そののち川越城はまもなく完成したという。

 

六、遊女(よな)川の小石供養

 むかし、川越城主にたいそう狩の好きな殿様がいて、毎日のように(たか)狩りに出かけていた。

ある日、供の若侍が小川のほとりを通りかかると、一人の美しい百姓の娘に出会ったので、名前をたずねるとおよねといい、やがてこの娘は縁あって若侍の嫁となったが、(しゅうと)にいびられ実家に帰されてしまった。

およねは自分の運命を悲しみ、夫に出会った小川のほとりで夫が通りかかるのを待っていたが、会うことができず小川の淵へ身を投げてしまった。

やがてこの川を「よな川」と呼ぶようになったが、川の名は「およね」からきているとも、よなよな泣く声が聞こえるからともいわれている。

 

七、城中(じょうちゅう)(ひづめ)の音

 川越城主酒井(さかい)重忠(しげただ)は、不思議なことに夜ごと矢叫(やたけび)(ひづめ)の音に眠りをさまされていた。

ある日、易者に見てもらったところ、城内のどこかにある戦争の図がわざわいしているとの()が出たので、さっそく土蔵を調べたところ堀川夜討の戦いの場面をえがいた一双の屏風(びょうぶ)絵がでてきた。

この屏風の半双を引き離して養寿院に寄進したところ、その夜から矢叫や蹄の音が聞こえなくなったという。

昭和五十七年三月 出典:川越市

川越城跡(〒350-0053 埼玉県川越市郭町2丁目27)
川越城跡(〒350-0053 埼玉県川越市郭町2丁目27)

川越城跡

川越城(かわごえじょう)は、埼玉県川越市にある日本の城。江戸時代には川越藩の藩庁が置かれた。別名、初雁城、霧隠城。関東七名城・日本100名城。通常、川越城の名称を表記する場合、中世については河越城、近世以降は川越城と表記されることが多い。

概要

武蔵野台地の北東端に位置する平山城。1848年(嘉永元年)に建られた本丸御殿の一部が現存する(埼玉県有形文化財)。かつての城は、現在の初雁公園から川越市役所に至る広さであった。大半は失われ、二の丸跡は川越市立博物館・川越市立美術館、三の丸跡は埼玉県立川越高等学校となっているが、高校の南に、小高い丘の「富士見櫓」跡(埼玉県指定史跡)が残り、頂に御嶽神社と浅間神社が建っている。川越城には天守はなく、宇都宮城の清明台櫓と同様に、城の中で一番高い所にあった富士見櫓が天守の代わりをしていた。富士見櫓は三層と考えられている。

中世から近世にかけて改築がなされ規模を大きく変えた。藩政時代には、酒井忠勝・松平信綱(知恵伊豆)や柳沢吉保など、幕府の要職についた歴代藩主が多く、幕閣の老中数7名は全国でも最多の藩の1つであり、江戸時代中期までは「老中の居城」であった(中期以降は親藩)。

別名

初雁城

城内の三芳野神社に「初雁の杉」があった。毎年同じ時期に北から初雁が飛来し杉の真上で三声鳴き三度回って南に飛び去った、という故事による。太田道灌が川越城築城祝いで開いた宴の折も初雁が来て鳴いたことから道灌が「初雁城」と命名したとされる。3代目の初雁の杉が神社の社殿裏にある。霧隠城

城内に「霧吹きの井戸」という井戸があり、普段は蓋をしておくが危急の際は蓋を開くと霧が城を隠したという伝承による。井戸は移築され、現在は市立博物館の前庭にある。

ソース: 川越城 – https://ja.wikipedia.org

初雁公園駐車場夜間施錠管理のお知らせ
初雁公園駐車場夜間施錠管理のお知らせ

初雁公園駐車場夜間施錠管理のお知らせ

初雁公園を適正に管理するため、この駐車場。は平成20111日から、左記のとおり夜間施錠管理になります。

開場時間を過ぎると、翌日の開場時間まで、退場できません。

1.41日から1031日まで

  開場時間 午前7時から午後10時まで

2.111日から331日まで

  開場時間・午前7時から午後7時まで

出典:川越市

小江戸 川越 山吹の里
小江戸 川越 山吹の里
再建の辞
再建の辞

再建の辞

この川越城本丸御殿は明治維新の入間高麗郡立中学校郡庁舎等を経て昭和初年度に至り初雁武徳殿と名を改め武道錬磨の場となったこれを記念し当時の有志祖謀って剣聖高野佐三郎先生に揮毫を嘱し此の碑を建立したのである。然るに星霜を経ること数十載碑は空しく御殿庭内の一隅にあり顧みる人も希であった滴々その状を傷む者より碑復旧の示唆を得会員一同の出資を以て茲に再建の功が成ったのである。

 昭和621

 出典:川越初雁ライオンズクラブ

川越城図
川越城図

川越(かわごえ)城図(じょうず)

所在地 川越市郭町二丁目

 この図は、慶応2年(1866)に松平直克候と松平康英候が引継をした当時の住居・惣門・堀の位置等を顕かにしたものである。

川越(かわごえ)城図(じょうず)
川越(かわごえ)城図(じょうず)

昭和583

出典:川越市

初雁の由来
初雁の由来

初雁の由来

 “とうりゃんせ”のわらべ唄発祥の地といわれている市内郭町に在る三芳野神社の裏手に見事な杉の老木があった。一名「初雁の杉」と呼ばれた。昔、北の空から飛んできた初雁が毎年決まって、この杉の木の上で三度グルッと回り、南の空に飛び去ったという。このことから川越城のことを「初雁城」と呼ぶようになったという。

出典:川越初雁ライオンズクラブ20周年記念事業

初雁の像
初雁の像
初雁公園野球場(〒350-0053 埼玉県川越市郭町2丁目13−1)
初雁公園野球場(〒350-0053 埼玉県川越市郭町2丁目13−1)
霧吹きの井戸(〒350-0053 埼玉県川越市郭町2丁目30−1)
霧吹きの井戸(〒350-0053 埼玉県川越市郭町2丁目30−1)
〒350-0053 埼玉県川越市郭町2丁目9−4
〒350-0053 埼玉県川越市郭町2丁目9−4
〒350-0053 埼玉県川越市郭町2丁目9−4
〒350-0053 埼玉県川越市郭町2丁目9−4
埼玉県立川越高等学校(〒350-0053 埼玉県川越市郭町2−6)
埼玉県立川越高等学校(〒350-0053 埼玉県川越市郭町2−6)

埼玉県立川越高等学校

埼玉県立川越高等学校(さいたまけんりつ かわごえこうとうがっこう)は、埼玉県川越市郭町(くるわまち)二丁目にある男子校の県立高等学校。通称は、川高(かわたか)。埼玉県立川越工業高等学校の略称と区別するため、一般の人は『かわたか』と表現するが、在校生や卒業生は『かわこう』と呼ぶ。

ソース: 埼玉県立川越高等学校 – https://ja.wikipedia.org

川越明信館跡(〒350-0053 埼玉県川越市郭町1丁目17−3)
川越明信館跡(〒350-0053 埼玉県川越市郭町1丁目17−3)
初雁幼稚園(〒350-0057 埼玉県川越市大手町8−5)
初雁幼稚園(〒350-0057 埼玉県川越市大手町8−5)
めんこや 小江戸店(〒350-0057 埼玉県川越市大手町5−1)
めんこや 小江戸店(〒350-0057 埼玉県川越市大手町5−1)
弓削多醤油 川越店(〒350-0057 埼玉県川越市大手町14−5)
弓削多醤油 川越店(〒350-0057 埼玉県川越市大手町14−5)
時の鐘(〒350-0063 埼玉県川越市幸町15−7)
時の鐘(〒350-0063 埼玉県川越市幸町15−7)

時の鐘

(とき)(かね)は、埼玉県川越市の中心部、幸町北部の蔵造りの街並みに建てられている鐘楼(時計台)。

建物は、川越市指定有形文化財に指定されている。

ソース: 時の鐘 (川越市) – https://ja.wikipedia.org

時の鐘(〒350-0063 埼玉県川越市幸町15−7)
時の鐘(〒350-0063 埼玉県川越市幸町15−7)
鐘つき通り(〒350-0063 埼玉県川越市幸町)
鐘つき通り(〒350-0063 埼玉県川越市幸町)
門前横丁(〒350-0062 埼玉県川越市元町2丁目1−40)
門前横丁(〒350-0062 埼玉県川越市元町2丁目1−40)
門前横丁(〒350-0062 埼玉県川越市元町2丁目1−40)
門前横丁(〒350-0062 埼玉県川越市元町2丁目1−40)
小江戸横丁(〒350-0062 埼玉県川越市元町2丁目1−3)
小江戸横丁(〒350-0062 埼玉県川越市元町2丁目1−3)
うなっ子(〒350-0062 埼玉県川越市元町2丁目10−6)
うなっ子(〒350-0062 埼玉県川越市元町2丁目10−6)
うなっ子(〒350-0062 埼玉県川越市元町2丁目10−6)
うなっ子(〒350-0062 埼玉県川越市元町2丁目10−6)
菓子屋横丁
菓子屋横丁
菓子屋横丁
菓子屋横丁

菓子屋横丁

菓子屋横丁は、江戸時代の末期から明治時代の初めごろに、江戸っ子好みの気取らない菓子を製造したのが始まりといわれています。関東大地震で大きな被害を受けた東京に代わって全国への製造・供給を賄い、昭和初期には、約70軒が軒を連ねていました。

 平成13年には環境省の「かおり風景百選」に選定されています。

菓子屋横丁
菓子屋横丁
菓子屋横丁
菓子屋横丁
川越十カ町地区都市景観形成地域
川越十カ町地区都市景観形成地域
川越十カ町地区都市景観形成地域
川越十カ町地区都市景観形成地域

川越十カ町地区都市景観形成地域

 蔵造りの町並みが残る川越市伝統的建造物群保存地区を含む十カ町地区(約78.0ha)は、景観に基づく川越市景観計画の都市景観形成地域に指定されています。

 地域の歴史に誇りを持ち、町並み景観を守り育て、住み続けられる町を作るためにルールを定めています。このルールを守るとともに、建築行為等に際して市に届をする必要があります。

🔶主なルール

1.建築物の高さは、周囲の町並みに配慮する。

(一部で、「時の鐘」高さ16mを超えてはならない地域が定められています。)

2.主要な道路に面する建築デザインは伝統的な建物と調和するようにする。

3.大規模な広告物は禁止する。

4.地域住民等による自主的なまちづくりのルールを尊重する。

出典:十カ町会

新河岸川遊歩道(〒350-0824 埼玉県川越市石原町1丁目18)
新河岸川遊歩道(〒350-0824 埼玉県川越市石原町1丁目18)
〒350-0824 埼玉県川越市石原町1丁目42−20
〒350-0824 埼玉県川越市石原町1丁目42−20
〒350-0064 埼玉県川越市末広町3丁目6−34
〒350-0064 埼玉県川越市末広町3丁目6−34
〒350-0064 埼玉県川越市末広町3丁目8−2
〒350-0064 埼玉県川越市末広町3丁目8−2
〒350-0064 埼玉県川越市末広町1丁目
〒350-0064 埼玉県川越市末広町1丁目
〒350-0064 埼玉県川越市末広町1丁目11−8
〒350-0064 埼玉県川越市末広町1丁目11−8
〒350-0064 埼玉県川越市末広町1丁目11−8
〒350-0064 埼玉県川越市末広町1丁目11−8
山門(川越城移築蓮池門)(〒350-0064 埼玉県川越市末広町1丁目8−6)
山門(川越城移築蓮池門)(〒350-0064 埼玉県川越市末広町1丁目8−6)

山門(川越城移築蓮池門)

川越の観光地から少し離れた、静かな住宅地の合間に「榮林寺」があります。

江戸時代の初期に創建された歴史あるお寺で、川越城内の門を移築した山門に、立派な本堂。境内にはお掃除する小僧も…。また、春になると本堂前の見事なしだれ桜が参拝者を出迎えてくれます。

榮林寺は、川越城の城主「酒井備後守忠利」が、祖母の玉室榮琳(ぎょくひつえいりん)大姉(だいし)の為に建立したお寺。創建時は、現在の場所ではなく裏宿(現 元町1丁目)にあったと言います。

出典:カワゴエール
〒350-0065 埼玉県川越市仲町12−5
〒350-0065 埼玉県川越市仲町12−5
㈱松本醤油商店(〒350-0065 埼玉県川越市仲町10−13)
㈱松本醤油商店(〒350-0065 埼玉県川越市仲町10−13)
コメダ珈琲店 川越仲町店(〒350-0065 埼玉県川越市仲町8−3)
コメダ珈琲店 川越仲町店(〒350-0065 埼玉県川越市仲町8−3)
武蔵貨物自動車(株) 本社(〒350-0065 埼玉県川越市仲町3−13)
武蔵貨物自動車(株) 本社(〒350-0065 埼玉県川越市仲町3−13)
雑貨屋サク(〒350-0066 埼玉県川越市連雀町16−5)
雑貨屋サク(〒350-0066 埼玉県川越市連雀町16−5)
Zara(〒350-0043 埼玉県川越市新富町2丁目9−8)
Zara(〒350-0043 埼玉県川越市新富町2丁目9−8)
Zara(〒350-0043 埼玉県川越市新富町2丁目9−8)
Zara(〒350-0043 埼玉県川越市新富町2丁目9−8)

あけぼの公園 はなみずき公園 ふじ道 クレアパーク ケーブルカー高尾山駅 ホテルグランビュー沖縄 三芳野神社 中央会場・松一小 二の丸庭園 仙波河岸史跡公園 初雁公園 北の丸公園 北原公園 千代田区役所 千代田区立スポーツセンター 千鳥ヶ淵公園 半蔵門 和光市役所 喜多院 城山公園 大手門 大正浪漫夢通り 小金井公園 川越氷川神社 川越駅 平川門 新座緑道 新河岸川 日比谷公園健康運動広場 朝霞中央公園 桜田門 楠公レストハウス 気象観測露場 氷川神社 清水門 皇居東御苑 菓子屋横丁 蔵里 青葉台公園 飯能市役所 駒場運動公園 高尾山口駅 高尾山頂 高尾駅北口 1号路

クレアパーク(スタート)→小江戸川越七福神一番札所(毘沙門天)→仙波河岸史跡公園→小江戸川越七福神 第二番 天然寺(寿老人)→小江戸川越七福神 第三番 喜多院(大黒天)→小江戸川越七福神 第四番 成田山(恵比寿天)→小江戸川越七福神 第五番 蓮馨寺(福禄寿神)→小江戸川越七福神 第六番 見立寺(布袋尊)→小江戸川越七福神 第七番 妙昌寺(弁財天)→クレアパーク(ゴール)

冬空の大寒の下、小江戸川越
(川越七福神、仙波史跡公園、氷川神社)ウオーキング

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クレアパーク(〒350-1122 埼玉県川越市脇田町10−5)
クレアパーク(〒350-1122 埼玉県川越市脇田町10−5)
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クレアパーク(〒350-1122 埼玉県川越市脇田町10−5)
クレアパーク(〒350-1122 埼玉県川越市脇田町10−5)
クレアパーク(〒350-1122 埼玉県川越市脇田町10−5)
(株)東和銀行 川越支店(〒350-1122 埼玉県川越市脇田町9−13)周辺
(株)東和銀行 川越支店(〒350-1122 埼玉県川越市脇田町9−13)周辺
川越モディ(〒350-1122 埼玉県川越市脇田町4−2)周辺
川越モディ(〒350-1122 埼玉県川越市脇田町4−2)周辺
居酒屋大 川越駅前店(〒350-1122 埼玉県川越市脇田町18−11)周辺
居酒屋大 川越駅前店(〒350-1122 埼玉県川越市脇田町18−11)周辺
葉花集(〒350-0046 埼玉県川越市菅原町18−13)周辺
葉花集(〒350-0046 埼玉県川越市菅原町18−13)周辺
小江戸川越七福神一番札所(毘沙門天)(〒350-0046埼玉県川越市菅原町9-6)
小江戸川越七福神一番札所(毘沙門天)(〒350-0046埼玉県川越市菅原町9-6)
小江戸川越七福神一番札所(毘沙門天)(〒350-0046埼玉県川越市菅原町9-6)
小江戸川越七福神一番札所(毘沙門天)(〒350-0046埼玉県川越市菅原町9-6)
小江戸川越七福神一番札所(毘沙門天)(〒350-0046埼玉県川越市菅原町9-6)
小江戸川越七福神一番札所(毘沙門天)(〒350-0046埼玉県川越市菅原町9-6)
小江戸川越七福神一番札所(毘沙門天)(〒350-0046埼玉県川越市菅原町9-6)
小江戸川越七福神一番札所(毘沙門天)(〒350-0046埼玉県川越市菅原町9-6)

小江戸川越七福神

(みょう)善寺(ぜんじ)(天台宗)菅原町9-6

第一番 毘沙門天(びしゃもんてん)

毘沙門天は仏教の守護神

で、多聞天ともよばれてい

ます。鎧、兜に身を包み、

左手に持つ宝塔から宝物を

授け、右手の鉾で邪を払う

という、物心共々の福を施

す神であります。

 

小江戸川越七つの音風景

水琴窟(すいきんくつ)

水琴窟は江戸時代初期の茶人、小堀遠州が考えた排水装置「洞水門」から発祥したといわれています。

甕(かめ)の底に溜まった水面に水滴が落ちると、甕の空間に反響する音色が琴に似ていることから「水琴窟」と呼ばれるようになりました。

 

 

秋の七草        女郎花(おみなえし)

手にとれば袖さへ匂ふ女郎花

この白露に散らまく惜しも

                   山上憶良

オミナエシのオミナは女

で、姿のやさしさを現した

名。根は漢方で敗醤といい

利尿、解毒に用います。

花言葉―美人

小江戸川越七福神一番札所(毘沙門天)(〒350-0046埼玉県川越市菅原町9-6)
小江戸川越七福神一番札所(毘沙門天)(〒350-0046埼玉県川越市菅原町9-6)

妙善寺 (川越市)

(みょう)善寺(ぜんじ)は、埼玉県川越市にある天台宗の寺院。山号は道人山。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

小江戸川越七福神一番札所(毘沙門天)(〒350-0046埼玉県川越市菅原町9-6)
小江戸川越七福神一番札所(毘沙門天)(〒350-0046埼玉県川越市菅原町9-6)

(すい) (きん) (くつ)

水琴窟は江戸時代初期の茶人、小堀遠州が考えた排水装置「洞水門」から発祥したといわれています。

(かめ)の底に溜まった水面に水滴が落ちると、甕の空洞に反響する音色が琴に似ていることから「水琴窟」と呼ばれるようになりました。

小江戸川越七福神一番札所(毘沙門天)(〒350-0046埼玉県川越市菅原町9-6)
小江戸川越七福神一番札所(毘沙門天)(〒350-0046埼玉県川越市菅原町9-6)
小江戸川越七福神一番札所(毘沙門天)(〒350-0046埼玉県川越市菅原町9-6)
小江戸川越七福神一番札所(毘沙門天)(〒350-0046埼玉県川越市菅原町9-6)

『川越さつまいも地蔵尊』建立由来記

川越と言えば、サツマイモと言われるほどイモの町として有名です。その歴史は約250年あります。寛政の頃(17891801)江戸の町に焼き芋屋が現れ、その焼き芋用のイモとして「川越いも」は発展し、有名になりました。

過去において、飢きんや戦争での食糧難を救ったサツマイモですが、現在は「美容食」「健康食」「宇宙農産物」として見直され、ひろく人々に愛されています。

瀬戸内海の島々には、江戸期、サツマイモで飢きんを乗越えたことから、イモを伝えた先人の徳を偲び、「芋地蔵」が各地につくられ残っています。いまは飢えることはなくなりましたが、逆に「健康」を願う人々は増えました。『サツマイモを食べて健康になろう』の祈りを込め、現代版の芋地蔵の建立を、平成79月に地元川越のサツマイモ関係者の間で思い立ちました。

いま、川越のマチを歩いてみますと、各種のサツマイモ商品があふれていますが、昔、この妙善寺周辺でも美味しい「川越いも」がつくられていました。1013日はサツマイモの日ですが、『いも供養』(いもの日まつり)が妙善寺で催されます。

2005年(平成17年)1013

さつまいも伝来400年記念

出典:川越いも友の会

川越サツマイモ商品振興会

川越さつまいも地蔵尊奉賛会

㈳小江戸川越観光協会

小江戸川越七福神一番札所(毘沙門天)(〒350-0046埼玉県川越市菅原町9-6)
小江戸川越七福神一番札所(毘沙門天)(〒350-0046埼玉県川越市菅原町9-6)
小江戸川越七福神一番札所(毘沙門天)(〒350-0046埼玉県川越市菅原町9-6)
小江戸川越七福神一番札所(毘沙門天)(〒350-0046埼玉県川越市菅原町9-6)
(株)丸紅食器設備(〒350-0046 埼玉県川越市菅原町8−14)周辺
(株)丸紅食器設備(〒350-0046 埼玉県川越市菅原町8−14)周辺
(株)丸紅食器設備(〒350-0046 埼玉県川越市菅原町8−14)
(株)丸紅食器設備(〒350-0046 埼玉県川越市菅原町8−14)
(株)丸紅食器設備(〒350-0046 埼玉県川越市菅原町8−14)
(株)丸紅食器設備(〒350-0046 埼玉県川越市菅原町8−14)
氷川神社古墳(〒350-0034 埼玉県川越市仙波町4丁目19−1)周辺
氷川神社古墳(〒350-0034 埼玉県川越市仙波町4丁目19−1)周辺
氷川神社古墳(〒350-0034 埼玉県川越市仙波町4丁目19−1)周辺
氷川神社古墳(〒350-0034 埼玉県川越市仙波町4丁目19−1)周辺
仙波河岸史跡公園(〒350-0034 埼玉県川越市仙波町4丁目21−2)
仙波河岸史跡公園(〒350-0034 埼玉県川越市仙波町4丁目21−2)
仙波河岸史跡公園(〒350-0034 埼玉県川越市仙波町4丁目21−2)
仙波河岸史跡公園(〒350-0034 埼玉県川越市仙波町4丁目21−2)

仙波河岸

新河岸川舟運(しゅううん)は江戸時代を通じて川越藩や川越商人の大消費地江戸への物流・販路として、また武蔵国の南西部一帯(入間郡・新座郡・多摩郡・高麗郡など)から江戸への主要な流通経路であり続けた。新河岸川の舟運はまた江戸からの文化が真っ先にもたらされるルートでもあった。

川越には川越の外港として川越五河岸が整備されていたが、幕末になり川越藩の分領であった上野国前橋の生糸が海外への輸出産品として莫大な富を生むことなどから、川越商人たちはより川越城下に近い河岸を望んだ。川越五河岸から城下へは途中に急峻な烏頭坂があり荷馬車の費用が高くつく問題もあった。川越の城下町は武蔵野台地の上に形成されていることから、明治2年(1869年)に扇河岸から仙波までの運河の開削に着手、明治12年(1879年)に仙波河岸が誕生した。仙波河岸は新河岸川の河岸場の中でも最も上流にあり、最後にできた河岸場である。仙波河岸は、川越市富士見町にある愛宕神社の下から流れ出る「仙波の滝」の水路を利用して愛宕神社の崖下の低地に開設された。川越城下の川越街道まで仙波台地を開削して切り通しを作り、その道を利用して物資を輸送した。仙波河岸の完成で川越五河岸は衰退、中でも川越城下に一番近かった扇河岸は廃止された。

新河岸川舟運は、大正3年(1914年)の東上鉄道の開通、大正9年(1920年)より始まる新河岸川の改修による水量の減少で、昭和6年(1931年)に終焉をむかえた。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia

仙波河岸史跡公園(〒350-0034 埼玉県川越市仙波町4丁目21−2)
仙波河岸史跡公園(〒350-0034 埼玉県川越市仙波町4丁目21−2)
仙波河岸史跡公園(〒350-0034 埼玉県川越市仙波町4丁目21−2)案内図
仙波河岸史跡公園(〒350-0034 埼玉県川越市仙波町4丁目21−2)案内図

仙波河岸史跡公園

公園を利用される皆さんへ

この公園は、むかし「仙波河岸」という河岸場があった跡地を整備したものです。

だれでもが気持ちよく楽しく利用できるよう、次のことを守りましょう。

1.公園の花や木は、大切にしましょう

2.ゴミくずや空きカンなどは、散らかさずに持ち帰りましょう。

3.みんなで注意し合ってケガのないように遊びましょう。

4.犬の糞は絶対に捨てないよう袋に入れて持ち帰りましょう。

5.犬の放し飼いは禁止します。

6.公園内でたき火、打ち上げ花火、その他の火気を扱い周囲に迷惑を及ぼす行為は禁止します。

7.公園内へのオートバイ、自転車の乗り入れは禁止します。

8.付近に迷惑を及ぼすボール遊びは禁止します。

9.植物などを守るため、ロープ柵の中にははいらないようにしましょう。

公園内で見られる植物

園内には下記のような植物が見られます。静かに観察しましょう。
カワヂシャタコノアシミクリ
カワヂシャ
ゴマノハグサ科
タコノアシ
ユキノシタ科
ミクリ
ミクリ科
葉はチシャ(レタスの仲間)に似て、若葉は食べられます。初夏に小さな白い花をたくさん咲かせます。晩夏につく花の穂は数本に分かれ、黄白色の花が片側につき、タコの足を連想させるので、この名がつきました。緑色のいが状の実が栗を連想させるので、この名がつきました。茎は簾(すだれ)に、根は漢方薬にされます。
公園内で見られる植物
仙波河岸史跡公園
仙波河岸史跡公園

出典:川越市都市計画部公園整備課

公 園 管 理 事 務 所

仙波河岸史跡公園(〒350-0034 埼玉県川越市仙波町4丁目21−2)
仙波河岸史跡公園(〒350-0034 埼玉県川越市仙波町4丁目21−2)
仙波河岸史跡公園(〒350-0034 埼玉県川越市仙波町4丁目21−2)
仙波河岸史跡公園(〒350-0034 埼玉県川越市仙波町4丁目21−2)
仙波河岸史跡公園(〒350-0034 埼玉県川越市仙波町4丁目21−2)
仙波河岸史跡公園(〒350-0034 埼玉県川越市仙波町4丁目21−2)
仙波河岸のむかし
仙波河岸のむかし

仙波河岸のむかし

仙波河岸のむかし
仙波河岸のむかし

むかしこの場所には「仙波河岸」という河岸場がありました。仙波河岸ができたのは明治の初めごろのことです。

これまでにも新河岸川の下流にはすでに数箇所の河岸場があり、江戸と川越の間を船を使って物品を運んでいました。これが「新河岸川舟運」と言われているものです。

仙波河岸は新河岸川の最も上流に位置し一番新しくできた河岸場です。

しかし、明治の中ごろから東京との間に鉄道が整備されはじめました。また、大正時代には新河岸川の改修工事が始まり、昭和の初めには新河岸舟運も終わりをむかえました。

下の写真は仙波河岸に荷船が並んでいる様子を写した明治時代後期の写真です。
仙波河岸史跡公園(〒350-0034 埼玉県川越市仙波町4丁目21−2)
仙波河岸史跡公園(〒350-0034 埼玉県川越市仙波町4丁目21−2)
仙波河岸史跡公園(〒350-0034 埼玉県川越市仙波町4丁目21−2)
仙波河岸史跡公園(〒350-0034 埼玉県川越市仙波町4丁目21−2)
新河岸川右岸(〒350-0034 埼玉県川越市仙波町4丁目22−14)
新河岸川右岸(〒350-0034 埼玉県川越市仙波町4丁目22−14)
仙波町交差点(東京環状道路)
仙波町交差点(東京環状道路)
天然寺(〒350-0034 埼玉県川越市仙波町4丁目10−10)
天然寺(〒350-0034 埼玉県川越市仙波町4丁目10−10)

天然寺

「小江戸川越七福神 第二番 寿老人」、「武蔵国十三仏霊場 第一番 不動明王」の札所である天然寺。川越の観光エリアからは少し離れた天然寺ですが、度々巡礼の人々で賑わいます。

そんな天然寺は、室町時代(1554/天文23年)に開山栄海上人によって創建されました。

本堂には、川越の有形文化財に指定されている「木造大日如来坐像」が安置されています。川越市内に現存する仏像の中でも最古の作例の一つで、形式から1112世紀頃の制作だと考えられています。

出典:カワゴエール

小江戸川越七福神 第二番 天然寺(寿老人)(〒350-0034 埼玉県川越市仙波町4丁目10−10)
小江戸川越七福神 第二番 天然寺(寿老人)(〒350-0034 埼玉県川越市仙波町4丁目10−10)

小江戸川越七福神

天然寺(天台宗)小仙波町1-10-10

第二番 寿老人

寿老人は中国の神様で老人星の化身、福禄寿と同体異名であるといわれ、富財、子宝、諸病平癒とご利益は多岐にわたっており、特に長寿の神として信仰されております

 

小江戸川越七つの音風景

水琴窟(すいきんくつ)

水琴窟は江戸時代初期の茶人、小堀遠州が考えた排水装置「洞水門」から発祥したといわれています。

甕(かめ)の底に溜まった水面に水滴が落ちると、甕の空間に反響する音色が琴に似ていることから「水琴窟」と呼ばれるようになりました。

 

 

秋の七草        桔梗

桔梗の花咲く時く時ぽんと言ひそうな

                   千代女

秋の七草の朝顔は桔梗をいいます。根にはサポニンが大量に含まれており、去痰剤として薬用に用いています。

花言葉―変わらぬ愛

小江戸川越七福神 第二番 天然寺(寿老人)(〒350-0034 埼玉県川越市仙波町4丁目10−10)
小江戸川越七福神 第二番 天然寺(寿老人)(〒350-0034 埼玉県川越市仙波町4丁目10−10)
小江戸川越七福神 第二番 天然寺(寿老人)(〒350-0034 埼玉県川越市仙波町4丁目10−10)
小江戸川越七福神 第二番 天然寺(寿老人)(〒350-0034 埼玉県川越市仙波町4丁目10−10)
小江戸川越七福神 第二番 天然寺(寿老人)(〒350-0034 埼玉県川越市仙波町4丁目10−10)
小江戸川越七福神 第二番 天然寺(寿老人)(〒350-0034 埼玉県川越市仙波町4丁目10−10)
小江戸川越七福神 第二番 天然寺(寿老人)(〒350-0034 埼玉県川越市仙波町4丁目10−10)
小江戸川越七福神 第二番 天然寺(寿老人)(〒350-0034 埼玉県川越市仙波町4丁目10−10)
小江戸川越七福神 第二番 天然寺(寿老人)(〒350-0034 埼玉県川越市仙波町4丁目10−10)
小江戸川越七福神 第二番 天然寺(寿老人)(〒350-0034 埼玉県川越市仙波町4丁目10−10)
小江戸川越七福神 第二番 天然寺(寿老人)(〒350-0034 埼玉県川越市仙波町4丁目10−10)
小江戸川越七福神 第二番 天然寺(寿老人)(〒350-0034 埼玉県川越市仙波町4丁目10−10)
小江戸川越七福神 第二番 天然寺(寿老人)(〒350-0034 埼玉県川越市仙波町4丁目10−10)
小江戸川越七福神 第二番 天然寺(寿老人)(〒350-0034 埼玉県川越市仙波町4丁目10−10)

木造大日如来坐像

(市指定・彫刻)

像高159.8㎝、寄木造(よせぎづくり)(ちょう)(がん)(しっ)(ぱく)。胸前で()拳印(けんいん)を結び結跏趺坐(けっかふざ)する。

頭部内刳(うちぐり)部に建武2年(1335)、体部背板に永禄13年(1570)の修理銘がある。

様式・形制から11から12世紀頃の造立と考えられる。後補の部分が多く、面部も大幅に削り直しを受けているが、市内に現存する仏像としては、最も古い作例の一つである。

平成4年4月16日指定

出典:川越市教育委員会

小江戸川越七福神 第二番 天然寺(寿老人)(〒350-0034 埼玉県川越市仙波町4丁目10−10)
小江戸川越七福神 第二番 天然寺(寿老人)(〒350-0034 埼玉県川越市仙波町4丁目10−10)
小江戸川越七福神 第二番 天然寺(寿老人)(〒350-0034 埼玉県川越市仙波町4丁目10−10)
小江戸川越七福神 第二番 天然寺(寿老人)(〒350-0034 埼玉県川越市仙波町4丁目10−10)

(すい) (きん) (くつ)

水琴窟は江戸時代初期の茶人、小堀遠州が考えた排水装置「洞水門」から発祥したといわれています。

(かめ)の底に溜まった水面に水滴が落ちると、甕の空洞に反響する音色が琴に似ていることから「水琴窟」と呼ばれるようになりました。

(すい)琴窟(きんくつ)(いや)し」

竹筒に耳をあて

滴の奏である

癒やしの音色を

お楽しみください。

住職

〒350-0034 埼玉県川越市仙波町3丁目31−59
〒350-0034 埼玉県川越市仙波町3丁目31−59
川越市立川越第一中学校(〒350-0036 埼玉県川越市小仙波町5丁目6)周辺
川越市立川越第一中学校(〒350-0036 埼玉県川越市小仙波町5丁目6)周辺
南院(多聞院)跡(〒350-0036 埼玉県川越市小仙波町5丁目12)周辺
南院(多聞院)跡(〒350-0036 埼玉県川越市小仙波町5丁目12)周辺
小江戸川越七福神 第三番 喜多院(大黒天)(〒350-0036 埼玉県川越市小仙波町1丁目20−1)
小江戸川越七福神 第三番 喜多院(大黒天)(〒350-0036 埼玉県川越市小仙波町1丁目20−1)
小江戸川越七福神 第三番 喜多院(大黒天)(〒350-0036 埼玉県川越市小仙波町1丁目20−1)
小江戸川越七福神 第三番 喜多院(大黒天)(〒350-0036 埼玉県川越市小仙波町1丁目20−1)
小江戸川越七福神 第三番 喜多院(大黒天)(〒350-0036 埼玉県川越市小仙波町1丁目20−1)
小江戸川越七福神 第三番 喜多院(大黒天)(〒350-0036 埼玉県川越市小仙波町1丁目20−1)
小江戸川越七福神 第三番 喜多院(大黒天)(〒350-0036 埼玉県川越市小仙波町1丁目20−1)
小江戸川越七福神 第三番 喜多院(大黒天)(〒350-0036 埼玉県川越市小仙波町1丁目20−1)

仙波東照宮葵庭園

私たち川越葵ライオンズクラブは、平成15年から毎月6月末、ホタル観賞会「ホタル祭り」を実施し、市民の皆様に初夏の一夜を楽しんで頂いております。

本年、当クラブ結成30周年記念事業として、この庭園が自然のホタル自生地となるよう願いを込め、庭園のシンボルである池の護岸整備、八ツ橋造園、清流を保つポンプが生息しております。この池で産卵し、翌年5月下旬から7月上旬にかけて飛び立ち、幻想的な光を放ちます。

葵庭園のホタルが永遠に光を放つよう見守って頂ければ幸いです。

平成195

出典:川越葵ライオンズクラブ

 

 

小江戸川越七福神 第三番 喜多院(大黒天)(〒350-0036 埼玉県川越市小仙波町1丁目20−1)
小江戸川越七福神 第三番 喜多院(大黒天)(〒350-0036 埼玉県川越市小仙波町1丁目20−1)
小江戸川越七福神 第三番 喜多院(大黒天)(〒350-0036 埼玉県川越市小仙波町1丁目20−1)
小江戸川越七福神 第三番 喜多院(大黒天)(〒350-0036 埼玉県川越市小仙波町1丁目20−1)
小江戸川越七福神 第三番 喜多院(大黒天)(〒350-0036 埼玉県川越市小仙波町1丁目20−1)
小江戸川越七福神 第三番 喜多院(大黒天)(〒350-0036 埼玉県川越市小仙波町1丁目20−1)
小江戸川越七福神 第三番 喜多院(大黒天)(〒350-0036 埼玉県川越市小仙波町1丁目20−1)
小江戸川越七福神 第三番 喜多院(大黒天)(〒350-0036 埼玉県川越市小仙波町1丁目20−1)

小江戸川越七福神

喜多院(天台宗)小仙波町1-20-1

第三番 大黒天

大黒天は古代インドの神様で、密教では大自在天の化身、生産の神様です。くろ(黒)くなってまめ(魔滅)に働いて大黒天を拝むと、財宝糧食の大福利益が得られます。

 

小江戸川越七つの音風景

水琴窟(すいきんくつ)

水琴窟は江戸時代初期の茶人、小堀遠州が考えた排水装置「洞水門」から発祥したといわれています。

甕(かめ)の底に溜まった水面に水滴が落ちると、甕の空間に反響する音色が琴に似ていることから「水琴窟」と呼ばれるようになりました。

 

 

秋の七草       

しら露もこぼさぬ萩のうねり哉

                   芭蕉

萩の名は古い株から芽を出す生え芽(ぎ)から出たといわれ、山萩の別名です。山野に多く、七~九月に紅柴色の蝶形花を開きます。

花言葉―想い

 

小江戸川越七福神 第四番 恵比寿天(〒350-0055 埼玉県川越市久保町9−2)
小江戸川越七福神 第四番 恵比寿天(〒350-0055 埼玉県川越市久保町9−2)

小江戸川越七福神

成田山(真言宗)久保町9-2

第四番 恵比須天(えびすてん)

恵比須天様は「福の神」の代

表で、農村では、田の神、

街では市神、福利を招く神

として、鯛を抱いた福々し

い相好でなじみ深く、人々

から深い信仰が寄せられて

います。

 

小江戸川越七つの音風景

水琴窟(すいきんくつ)

水琴窟は江戸時代初期の茶人、小堀遠州が考えた排水装置「洞水門」から発祥したといわれています。

甕(かめ)の底に溜まった水面に水滴が落ちると、甕の空間に反響する音色が琴に似ていることから「水琴窟」と呼ばれるようになりました。

 

 

秋の七草        (なで) (しこ)

なでしこが花見る毎にをとめらが

ゑまひのにほひ思ほゆるかも

                   万葉集巻十八

河原撫子は河原辺に生え

るかれんな花の意味で、美

しい淡紅色の花を開かせま

す。

花言葉―貞節

 

タヴェルナデルソーレ(〒350-0055 埼玉県川越市久保町8−9)周辺
タヴェルナデルソーレ(〒350-0055 埼玉県川越市久保町8−9)周辺
小江戸川越七福神 第五番 蓮馨寺(福禄寿神)(〒350-0066 埼玉県川越市連雀町7−1)
小江戸川越七福神 第五番 蓮馨寺(福禄寿神)(〒350-0066 埼玉県川越市連雀町7−1)

川越 熊野神社

室町時代に紀州熊野本宮大社から分祀された開運・縁結びの神社。境内には、本殿や拝殿、神楽殿の他、歌碑がある。

出典:熊野神社

小江戸川越七福神 第五番 蓮馨寺(福禄寿神)(〒350-0066 埼玉県川越市連雀町7−1)
小江戸川越七福神 第五番 蓮馨寺(福禄寿神)(〒350-0066 埼玉県川越市連雀町7−1)
小江戸川越七福神 第五番 蓮馨寺(福禄寿神)(〒350-0066 埼玉県川越市連雀町7−1)
小江戸川越七福神 第五番 蓮馨寺(福禄寿神)(〒350-0066 埼玉県川越市連雀町7−1)

川越銭洗弁財天厳島神社

江戸時代の城下町として栄えた埼玉県の小江戸「川越」は、蔵町の街並みや縁結び神社があることで有名な人気のエリア。なかでも熊野神社は開運・縁結びの神様が祀られており、ほかには財運にもご利益がある神社です。

出典:TABIPPO INC.

(いつく)(しま)神社(じんじゃ)御由緒

通 称 「ベんてんさま」「銭洗い弁天)芸能、福智、延寿、除災、得勝、財運の神。平成286月新たに安芸の宮島より弁財天像をお祀りする。

御祭神 (いち)杵島(きしま)(ひめの)(みこと)

御由緒 「武蔵三芳野名勝図会」(享和元年1801年)によれば、その昔は蓮馨寺の南側林中にあったが、当時、秋葉神社の西側に移したと記されている。よって御由緒は不詳であるが、口碑によれば蓮馨寺開祖以前より寶池(熊野神社裏より蓮馨寺境内にかけてありと)に鎮座していた当社を崇敬し、池名「寶池」を取って寺号となし、寶池院としたと言う。明治2年蓮馨寺境内より遷座して、熊野神社の御末社とねった。

御祭礼日 例祭 6月第3日曜日

縁日 毎月17

 

諸願成就

()(へび)(さま)

願いを込めて白蛇様を撫でると御利益が得られます。

・頭 →学業成就、合格必勝

・巻物→芸事上達、知恵

・体 →身体健康、病気平癒

・卵 →金運・商売繁盛、出世・開運、安産・子宝

・二匹同時→良縁、夫婦円満、家内安全

小江戸川越七福神 第五番 蓮馨寺(福禄寿神)(〒350-0066 埼玉県川越市連雀町7−1)
小江戸川越七福神 第五番 蓮馨寺(福禄寿神)(〒350-0066 埼玉県川越市連雀町7−1)
小江戸川越七福神 第五番 蓮馨寺(福禄寿神)(〒350-0066 埼玉県川越市連雀町7−1)
小江戸川越七福神 第五番 蓮馨寺(福禄寿神)(〒350-0066 埼玉県川越市連雀町7−1)

小江戸川越七福神

(れん)馨寺(けいじ)(浄土宗)連雀町7-1

第五番 (ふく)(ろく)寿(じゅ)(じん)

福禄寿神とは幸福、高禄

長寿の三徳を具えて人に与

える方で、右手に霊芝、左

手に神亀を持ち、癌や脳卒

中を治しなさい。そうすれ

ば福禄寿が得られますと教

えています。

 

小江戸川越七つの音風景

水琴窟(すいきんくつ)

水琴窟は江戸時代初期の茶人、小堀遠州が考えた排水装置「洞水門」から発祥したといわれています。

甕(かめ)の底に溜まった水面に水滴が落ちると、甕の空間に反響する音色が琴に似ていることから「水琴窟」と呼ばれるようになりました。

 

 

秋の七草        () (ばな)(すすき)

山は暮れて野は黄昏の芒かな             蕪村

ススキは穂が獣の尾のよ

うな形をしているので尾花

ともいいます。又すくすく

と立つ木の意でススキとい

われました。

花言葉―勢力、活力

 

小江戸川越七福神 第五番 蓮馨寺(福禄寿神)(〒350-0066 埼玉県川越市連雀町7−1)
小江戸川越七福神 第五番 蓮馨寺(福禄寿神)(〒350-0066 埼玉県川越市連雀町7−1)

おびずる様

おびんずる様は、お釈迦(しゃか)様の16人の偉いお弟子(十六羅漢)の一人で、本当の名は、賓頭盧(びんどら) (ぱー) 羅堕(らどばーじゃ)と申します。若い時は勝手気ままな暮らしをしていましたが、お釈迦様にめぐり合って発心(ほっしん)し、出家(しゅっけ)修行(しゅぎょう)して神通力(じんつうりき)を得 阿羅漢(あらかん)(世に尊き人)となりました。

それからは、その神通力を用いて、病気の人や体の不自由な人を助け、欲の深い人や意地の悪い人を()らし、心に(なや)み事を持つ人の為には仏様の教えを説いて、多くの人をお救いになりました。

中国や日本のお寺に、おびんずる様の像が(まつ)ってあるのは、おびんずる様の体に(さわ)ってその手で自分の体をなでれば、病気が(なお)り、頭もよくなれば節々(ふしぶし)も軽くなると云う おびんずる様の霊験(れいげん)(不思議なご利益(りやく))が、今も尚深く信仰されているからです。(なで仏)

(れん)馨寺(けいじ)のおびんずる様は、大勢(おおぜい)の人に撫でられますので、25年に一度は塗り替えをいたします。

当山
玉屋 川越(〒350-0063 埼玉県川越市幸町2−20)周辺
玉屋 川越(〒350-0063 埼玉県川越市幸町2−20)周辺
玉屋 川越(〒350-0063 埼玉県川越市幸町2−20)周辺
玉屋 川越(〒350-0063 埼玉県川越市幸町2−20)周辺
小江戸川越七福神 第六番 見立寺(布袋尊)(〒350-0062 埼玉県川越市元町2丁目9−1)
小江戸川越七福神 第六番 見立寺(布袋尊)(〒350-0062 埼玉県川越市元町2丁目9−1)

見立寺

永禄1年(1558)後北条氏の川越城将政繁は、城下に一寺を建立して建立寺と名づけ、一族中の存貞和尚を小田原伝肇寺より招請して開山とし、のち見立寺と改めました。存貞和尚は、永禄6年増上寺10世となったが、永禄9年見立寺に再住、そして先に政繁の母が平方村に造営した蓮馨寺を、川越に移して両寺を兼帯しました。天正18年(1590)豊臣秀吉の禁制書には、「武州川越蓮馨寺同門前 見立寺」と記されています。蓮馨寺門前より当地に移転した年代、経緯など不詳ですが、おそらく、延宝年中(1670年代頃)であると考えらます。現本堂は、明治14年(1881)に建立されたもので、板碑(青石塔婆)二基、徳本上人名号碑、松平(松井)周防守家の阿弥陀如来坐像並藩主位牌などが現存しています。また、赤穂浪士・矢頭右衛門七の妹の墓や浄土宗念仏行者・徳本上人名号碑が祀られています。

出典:小江戸川越七福神霊場会

小江戸川越七福神 第六番 見立寺(布袋尊)(〒350-0062 埼玉県川越市元町2丁目9−1)
小江戸川越七福神 第六番 見立寺(布袋尊)(〒350-0062 埼玉県川越市元町2丁目9−1)
小江戸川越七福神 第六番 見立寺(布袋尊)(〒350-0062 埼玉県川越市元町2丁目9−1)
小江戸川越七福神 第六番 見立寺(布袋尊)(〒350-0062 埼玉県川越市元町2丁目9−1)

小江戸川越七福神

 

見立寺(浄土宗)元町2-9-11

 

第六番 布袋(ほてい)(そん)

 

布袋尊は唐の弾僧で名は

 

契此といいました。小柄で

 

太鼓腹。大きな袋を背負っ

 

て放浪し福徳を施したとい

 

い、世人は弥勒菩薩の化身

 

ともいって尊びました。

 

 

 

小江戸川越七つの音風景

 

水琴窟(すいきんくつ)

 

水琴窟は江戸時代初期の茶人、小堀遠州が考えた排水装置「洞水門」から発祥したといわれています。

 

甕(かめ)の底に溜まった水面に水滴が落ちると、甕の空間に反響する音色が琴に似ていることから「水琴窟」と呼ばれるようになりました。

 

 

 

 

 

秋の七草        葛くず

 

山は辺ににほひし葛の房花は

 

藤波よりもあはれなりけり

 

斎藤茂吉       

 

   

 

葛は昔大和の国・栖(くず)の人がくず粉を売り出したので出た名といわれ、根から葛粉がとれます。又、葛根湯は風邪薬になります。

 

花言葉―根気、努力

小江戸川越七福神 第七番 妙昌寺(弁財天)(〒350-0067 埼玉県川越市三光町29)
小江戸川越七福神 第七番 妙昌寺(弁財天)(〒350-0067 埼玉県川越市三光町29)
小江戸川越七福神 第七番 妙昌寺(弁財天)(〒350-0067 埼玉県川越市三光町29)
小江戸川越七福神 第七番 妙昌寺(弁財天)(〒350-0067 埼玉県川越市三光町29)

小江戸川越七福神

(みょう)昌寺(しょうじ)(日蓮宗)三光町29

第七番 弁財天(べんざいてん)

弁財天さまは、七福神唯一の女神で、弁舌、芸術、財福、延寿を授ける神として、古くから、商人や芸人などの幅広い人々の信仰を集めており、運を開き、福を招く女神です。

 

小江戸川越七つの音風景

水琴窟(すいきんくつ)

水琴窟は江戸時代初期の茶人、小堀遠州が考えた排水装置「洞水門」から発祥したといわれています。

甕(かめ)の底に溜まった水面に水滴が落ちると、甕の空間に反響する音色が琴に似ていることから「水琴窟」と呼ばれるようになりました。

 

 

秋の七草めぐり (ふじ) (ばかま)

宿りせし人のかたみか藤袴

わすられがたき香に匂ひつつ 紀 貫之

    

葛は昔大和の国・栖(くず)の人がくず粉を売り出したので出た名といわれ、根から葛粉がとれます。又、葛根湯は風邪薬になります。

花言葉―根気、努力

小江戸川越七福神 第七番 妙昌寺(弁財天)(〒350-0067 埼玉県川越市三光町29)
小江戸川越七福神 第七番 妙昌寺(弁財天)(〒350-0067 埼玉県川越市三光町29)

妙昌寺

妙昌寺は、小江戸川越七福神の第七番「弁財天」のお堂があるお寺です。

室町時代(永和元年/1375)、日蓮宗大本山池上本門寺の末寺として、現在の川越市幸町に創建。

その後、江戸時代(寛保元年/1741)に、松平伊豆守信綱による川越城大改修の際、現在の地(旧浅場孫兵衛侍屋敷跡地)に移築しました。

そんな妙昌寺ではユニークな伝統行事が行われます。それは土用丑の日に行われる「ほうろく灸」。

ほうろく灸とは、素焼きのお皿に火をつけた大きなお灸を置き、それを頭の上に乗せ無病息災、身体健全を祈願する行事です。その由来は、炎天下で暑さ負けした武将が、兜の上から灸をすえたところ、たちまち全快しと言う話から来ているそうです。

川越ではウナギのお店も多いので、土用丑の日にはウナギとほうろく灸のセットで夏を乗り越えたいですね。

ちなみに妙昌寺は、その昔は蛍の名所としても知られていたそです。

 

出典:カワゴエール

小江戸川越七福神 第七番 妙昌寺(弁財天)(〒350-0067 埼玉県川越市三光町29)
小江戸川越七福神 第七番 妙昌寺(弁財天)(〒350-0067 埼玉県川越市三光町29)

経ヶ嶋辯財天

室町時代、時の地頭が小石に法華経を書写し、塚を築いて辯財天をまつって守護神としたのが始まりです。

江戸時代、長録元年に、太田道灌公が川越城を築城する際、辯財天の社が川越城の裏鬼門に向いていたことから、鬼門除けの守護神として尊崇(信仰)厚かったと伝えられています。

当社はその昔、螢の名所としても知られていました。

(昭和24年 川越市史跡より)

辨天財に寄せられた和歌(江戸時代)

・宝をもうち出す神の徳ゆへか

つちのとの巳にまつる御社

阪 月

・弁天の(よう)(こう)なれや燕子花(かきつばた)

池のおもても紫の雲

茂 躬

・この神の恵みに茂れ(へび)()盆子(ちご)

如 松

 

小江戸川越七福神 第七番 妙昌寺(弁財天)(〒350-0067 埼玉県川越市三光町29)
小江戸川越七福神 第七番 妙昌寺(弁財天)(〒350-0067 埼玉県川越市三光町29)
小江戸川越七福神 第七番 妙昌寺(弁財天)(〒350-0067 埼玉県川越市三光町29)
小江戸川越七福神 第七番 妙昌寺(弁財天)(〒350-0067 埼玉県川越市三光町29)

(すい) (きん) (くつ)

水琴窟は江戸時代初期の茶人、小堀遠州が考えた排水装置「洞水門」から発祥したといわれています。

(かめ)の底に溜まった水面に水滴が落ちると、甕の空洞に反響する音色が琴に似ていることから「水琴窟」と呼ばれるようになりました。

あけぼの公園 はなみずき公園 ふじ道 クレアパーク ケーブルカー高尾山駅 ホテルグランビュー沖縄 三芳野神社 中央会場・松一小 二の丸庭園 仙波河岸史跡公園 初雁公園 北の丸公園 北原公園 千代田区役所 千代田区立スポーツセンター 千鳥ヶ淵公園 半蔵門 和光市役所 喜多院 城山公園 大手門 大正浪漫夢通り 小金井公園 川越氷川神社 川越駅 平川門 新座緑道 新河岸川 日比谷公園健康運動広場 朝霞中央公園 桜田門 楠公レストハウス 気象観測露場 氷川神社 清水門 皇居東御苑 菓子屋横丁 蔵里 青葉台公園 飯能市役所 駒場運動公園 高尾山口駅 高尾山頂 高尾駅北口 1号路

クレアパーク(スタート)→大塚新町公園→ウエスタ川越→入間川街道→尚美学園大学→メガガンジャ 周辺(ゴール)

川越公園ウオークⅡ
・大塚新町公園
・尚美学園大学
-高圧線を目印にー

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クレアパーク(スタート)
クレアパーク(スタート)

クレアモール・八幡通り・中央通り周辺地区

都市景観形成地域

 川越駅・本川越駅を核とした中心商業地とその周囲の住宅地を含む地域は、景観法に基づく川越市景観計画の都市景観形成地域に指定されています。

 中心商業地の個性と秩序ある町並みづくりや周囲の住宅地の落ち着いた環境を守り育てるために景観づくりのルールを定めています。このルールを守るとともに、建築行為等に関して事前に市に届出をする必要があります。

都市景観形成地域

◇主な景観づくりのルール◇

1.建築物や店舗、屋外広告物は、町並みの魅力向上に寄与するデザインとする。

2.建築物の外壁等の色彩は、周囲の街並みや環境との調和を図る。

3.クレアモールに面する建築物は道路境界線から1m以上壁面を後退させる。

4.クレアモール、中央通りに面して門、堀等の設置は極力避ける。

5.規模の大きな建築物は、町並みの連続性や、日照、通風など周知の環境に配慮する。

出典:川越市都市計画部都市景観課

クレアパーク(スタート)
クレアパーク(スタート)
アトレ川越2F 歩道
アトレ川越2F 歩道
アーチ橋下踏切 東武東上線、JR川越線川越駅付近
アーチ橋下踏切 東武東上線、JR川越線川越駅付近
アーチ橋下踏切 東武東上線、JR川越線川越駅付近
アーチ橋下踏切 東武東上線、JR川越線川越駅付近
脇田本町交差点
脇田本町交差点
脇田本町交差点
脇田本町交差点
住友生命保険相互会社 埼玉西支社 周辺
住友生命保険相互会社 埼玉西支社 周辺
住友生命保険相互会社 埼玉西支社 周辺
住友生命保険相互会社 埼玉西支社 周辺
住友生命保険相互会社 埼玉西支社 周辺
住友生命保険相互会社 埼玉西支社 周辺
ウェディングホールラ・ボア・ラクテ 周辺
ウェディングホールラ・ボア・ラクテ 周辺
WITH GOLF STUDIO 周辺
WITH GOLF STUDIO 周辺
〒350-1126 埼玉県川越市旭町2丁目16−7 周辺
〒350-1126 埼玉県川越市旭町2丁目16−7 周辺
大塚新田公園 -高圧線を目印にー
大塚新田公園 -高圧線を目印にー
大塚新田公園 源頼朝の山車
大塚新田公園 源頼朝の山車

大塚新田公園 源頼朝の山車

大塚新田が伝承する『源頼朝の山車』は「川越市歴史文化伝承山車」に登録されています。

明治十年(1877年)に屋台が製造され、さらに明治二十八年(1895年)に『源頼朝の人形』がのり山車として今日まで百四十余年にわたり大切に継承されております。

我々の郷土の誇りでもあります。

出典:大塚新田氏子会

大塚新田公園 竣功記念碑
大塚新田公園 竣功記念碑

川越市大塚新田第二土地区画整理事業

竣 功 記 念 碑

川越市長 舟橋功一 謹書

大塚新田公園
大塚新田公園
大塚新田公園
大塚新田公園
大塚新田公園
大塚新田公園
旭町第一公園 周辺
旭町第一公園 周辺
旭町一丁目 交差点
旭町一丁目 交差点
旭町一丁目 交差点
旭町一丁目 交差点
旭町一丁目 交差点
旭町一丁目 交差点
(株)マツザキ 新宿店 周辺
(株)マツザキ 新宿店 周辺
三隆商事(株) 周辺
三隆商事(株) 周辺
ウエスタ川越
ウエスタ川越

ウェスタ川越

ウェスタ川越は、埼玉県川越市の川越駅西口近くにある県・市の複合施設。日本環境マネジメント、コングレ、NTTファシリティーズ、テレビ埼玉ミュージックで構成されているNeCSTが指定管理者。仮称は西部地域振興ふれあい拠点施設であった。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ウエスタ川越
ウエスタ川越
ウエスタ川越
ウエスタ川越
ウエスタ川越
ウエスタ川越
ウエスタ川越
ウエスタ川越
武州ハウス工業(株)  周辺
武州ハウス工業(株)  周辺
Hair Resort 3piece+1 周辺
Hair Resort 3piece+1 周辺
入間川街道
入間川街道
入間川街道
入間川街道
入間川街道
入間川街道
〒350-1115 埼玉県川越市野田町2丁目2−6 -高圧線を目印にー
〒350-1115 埼玉県川越市野田町2丁目2−6 -高圧線を目印にー
川越寿町郵便局 -高圧線を目印にー
川越寿町郵便局 -高圧線を目印にー
川越寿町郵便局 -高圧線を目印にー
川越寿町郵便局 -高圧線を目印にー
川越寿町郵便局
川越寿町郵便局
〒350-1116 埼玉県川越市寿町1丁目2255−2 -高圧線を目印にー
〒350-1116 埼玉県川越市寿町1丁目2255−2 -高圧線を目印にー
番匠屋敷公園
番匠屋敷公園
尚美学園大学
尚美学園大学

尚美学園大学

元来は音楽系の短期大学であったが、2000年に4年制大学に改組された際、芸術情報学部に情報表現学科、音楽表現学科、総合政策学部に総合政策学科が設置された。2007年には総合政策学部にライフマネジメント学科が、2015年に芸術情報学部に音楽応用学科、舞台表現学科が設立された。

音響学(情報表現学科)、ポピュラー音楽やジャズ(音楽表現学科)、音楽ビジネス(音楽応用学科)、ミュージカルや演劇(舞台表現学科)、文化政策学や博物館学、スポーツマネジメント(ライフマネジメント学科)を学ぶことができる科目が設置されている。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

尚美学園大学
尚美学園大学
尚美学園大学 裏側通り
尚美学園大学 裏側通り
尚美学園大学
尚美学園大学
尚美学園大学 裏側通り
尚美学園大学 裏側通り
尚美学園大学 裏側通り
尚美学園大学 裏側通り
尚美学園大学
尚美学園大学
小さな旅川越温泉 周辺
小さな旅川越温泉 周辺
小さな旅川越温泉 周辺
小さな旅川越温泉 周辺
小さな旅川越温泉
小さな旅川越温泉

天然 小さな旅 川越温泉

関東最大級 源泉高濃度 炭酸泉

オート ロウリュウサウナ

生源泉掛け流し

御食事処

〒350-1115 埼玉県川越市野田町1丁目22−5
〒350-1115 埼玉県川越市野田町1丁目22−5
長島屋酒店 周辺
長島屋酒店 周辺
第3川越いもの子作業所 周辺
第3川越いもの子作業所 周辺
メガガンジャ 周辺(ゴール)
メガガンジャ 周辺(ゴール)

あけぼの公園 はなみずき公園 ふじ道 クレアパーク ケーブルカー高尾山駅 ホテルグランビュー沖縄 三芳野神社 中央会場・松一小 二の丸庭園 仙波河岸史跡公園 初雁公園 北の丸公園 北原公園 千代田区役所 千代田区立スポーツセンター 千鳥ヶ淵公園 半蔵門 和光市役所 喜多院 城山公園 大手門 大正浪漫夢通り 小金井公園 川越氷川神社 川越駅 平川門 新座緑道 新河岸川 日比谷公園健康運動広場 朝霞中央公園 桜田門 楠公レストハウス 気象観測露場 氷川神社 清水門 皇居東御苑 菓子屋横丁 蔵里 青葉台公園 飯能市役所 駒場運動公園 高尾山口駅 高尾山頂 高尾駅北口 1号路

クレアパーク(スタート)→蔵里→蔵造の町並み→川越城中ノ門堀跡→川越城本丸御殿→初雁公園→通町→喜多院→新河岸川→仙波河岸史跡公園→愛宕神社→川越駅(ゴール)

小江戸川越ウオークⅢ 
・蔵造の町並み
・川越城本丸御殿
・仙波河岸史跡公園

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〒350-1122 埼玉県川越市脇田町3−18
〒350-1122 埼玉県川越市脇田町3−18
至 クレアパーク(スタート)
至 クレアパーク(スタート)
クレアパーク(スタート)
クレアパーク(スタート)
小江戸蔵里(川越市産業観光館)
小江戸蔵里(川越市産業観光館)

小江戸蔵里

小江戸蔵里(こえどくらざと)』は、この場所で明治8年(1875年)に創業した旧鏡山酒造の建築物を、当面の面影を残しつつ改修した施設です。

市民と観光客との交流、地域の活性化を図るとともに、川越市の物産等を楽しんでいただく新しい名所として平成2210月に誕生しました。

施設は、明治・大正・昭和の時代に建てられた酒造を改装した、おみやげ処(明治蔵)、まかない処(大正蔵)、くら市場(昭和蔵)の3つの蔵からなっています。

これらの蔵は、国の登録有形文化財に指定されています。

なお『小江戸蔵里』という名称は、川越市の別名『小江戸』蔵造りの町並みを表す「蔵」、人々が気軽に立ち寄れてくつろげる心のふるさと「里」、という意味を込めて公募の中から選ばれました。

出典:小江戸蔵里

小江戸蔵里(川越市産業観光館)
小江戸蔵里(川越市産業観光館)
小江戸蔵里(川越市産業観光館)
小江戸蔵里(川越市産業観光館)
小江戸蔵里(川越市産業観光館)
小江戸蔵里(川越市産業観光館)
出世稲荷の大銀杏
出世稲荷の大銀杏

出世稲荷神社について

出世稲荷神社は、江戸時代(天保2/1832)に、京都の伏見稲荷神社本宮より分祀した神社です。

名前の通り出世の御利益があります!また伏見稲荷同様に、五穀豊穣や商売繁盛の御利益も。

すぐ近くにある賑やかな商店街をよそに、境内はとても静かです。時たま併設された公園から聞こえる、子供たちの声にふと心が和みます。

出典:カワゴエール

出世稲荷神社
出世稲荷神社

市指定・天然記念物

イ チ ョ ウ

いちょう窪の出世稲荷の公孫樹として名声がある。

向かって右は幹回り(目通り)5.67m、根回り7.6m、左は幹回り7.25m、根回り9.7mあり、二本とも樹高は約26.5m。

樹齢は650余年と推定され、みごとな美しさと枝張りを示し、樹勢もきわめて旺盛である。

公孫樹は、日本と中国の一部に産するイチョウ科を代表する落葉樹で、秋にはあざやかに黄葉する。

雌雄異株で、種はいわゆるギンナンで食用となる。

昭和3336

川越市教育委員会

連雀町 交差点
連雀町 交差点
川越熊野神社
川越熊野神社

川越 熊野神社

室町時代に紀州熊野本宮大社から分祀された開運・縁結びの神社。境内には、本殿や拝殿、神楽殿の他、歌碑がある。

出典:熊野神社

川越熊野神社 周辺
川越熊野神社 周辺
夏詣 川越熊野神社
夏詣 川越熊野神社
蓮馨寺
蓮馨寺

蓮 馨 寺

蓮馨寺は、埼玉県川越市連雀町にある浄土宗の寺院である。山号は孤峰山。院号は宝池院。本尊は阿弥陀如来。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

仲町 交差点
仲町 交差点
まめ屋 小江戸川越店
まめ屋 小江戸川越店

小江戸 まめ屋

山崎美術館
山崎美術館

公益財団法人 山崎美術館

橋本雅邦画伯

橋本雅邦画伯は、川越藩のお抱え絵師橋本晴園養師の子息にて、画道に勝れ、日本革新の先覚者であり明治時代における我が国画壇の最長老であります。

依って、郷土川越の有志が集まり、明治32(1899)画宝会を結成し、先生のご力作の頒布をいただきました。

山崎家4代目故山崎豊翁は、同会の幹事として率先活躍するとともに、画伯から受けた作品をすべて大切に保管し、これを子孫に伝承させたものであります。

併し、子孫としては、社会公益の為、一般に広く鑑賞を仰ぎ、以って美学向上の資料に供するに、如かずと考え、ここに翁の誕生150年を記念し、昭和57年文化の日に山崎美術館を発足いたしました。

より多くの方々のご利用を切にお願いします。

出典:龜屋

蔵造りの町並
蔵造りの町並

蔵造りの町並み

「世に小京都は数あれど、小江戸は川越ばかりなり」

そう言わせた”蔵造りの町並み”は、江戸の町並みが今なお残るエリアです。黒漆喰の壁に、重厚で豪華な蔵造り商家が軒をつらね、商人の活気と道行く観光客で賑わいをみせています。

出典:カワゴエール

蔵造りの町並
蔵造りの町並
蔵造りの町並
蔵造りの町並
蔵造りの町並
蔵造りの町並
蔵造りの町並
蔵造りの町並
時の鐘
時の鐘

時の鐘

時の鐘は、埼玉県川越市の中心部、幸町北部の蔵造りの街並みに建てられている鐘楼。建物は、川越市指定有形文化財に指定されている。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

時の鐘
時の鐘
時の鐘
時の鐘
時の鐘
時の鐘
蔵造りの町並
蔵造りの町並
至 菓子屋横丁
至 菓子屋横丁

懐かしい味を今に伝える菓子屋横丁

色とりどりのガラスが散りばめられた石畳の道に、20軒程度の菓子屋などがひしめく川越の有名なスポット「菓子屋横丁」。素朴で昔懐かしい味を今に伝える菓子作りの店が立ち並び、一歩足を踏み入れると、誰もが子供に返ったような気分になってしまう。醤油の焼ける香ばしい香り、ニッキやハッカ飴、駄菓子やだんごなど、昔ながらの手法で作られる飴菓子・カルメ焼きなど、思わず「あっこれ!」と言ってしまう駄菓子の数々。百円玉を握りしめ、あれにしようかこれにしようかと頭をひねった幼い頃を思い出す大人も、駄菓子をあまり知らない子供も世代を超えて、誰もがワクワクしてしまうような場所である。

「菓子屋横丁」は明治の始め頃、鈴木藤左衛門が養寿院の門前町として栄えるこの町で江戸っ子好みの 気取らない菓子を製造したことが始まりといわれている。その後の大正12年、関東大震災によって被害を受けた東京に代わって製造供給を賄い、昭和初期には70軒以上の店があったといわれている。その後、戦争や生活の変化などによって店舗数は激減したものの、人情味あふれる横丁の情緒、威勢の良い呼び込みの声、素朴で懐かしく温かい街角は、時代が変わっても人々に安らぎを与えてくれる。 「菓子屋横丁」に漂う素朴で懐かしい香りは、平成13年環境省の“かおり風景100に選定された。

出典:公益社団法人 小江戸川越観光協会

至 札の辻
至 札の辻

札の辻

札の辻、札ノ辻、札之辻など。街道や宿場町など往来の多い場所に高札を立てた道・辻。

高札古代から明治時代初期にかけて行われた、法令を板に記して往来などに掲示して民衆に周知させる方法。多くの地名や交差点名・バス停名などに使用されている。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

川越市役所
川越市役所

川越市役所

「川越町役場」町役場は江戸町の元山粂工場の場所にあったが、大正元年11月に陸軍特別大演習が川越地方で行われるため、本町に新築を急ぎ、どうやらこれに間に合った。当時町役場としてこれだけモダンでしかも立派な建物は、全国どこにもあるまいと大いに自慢したものである。その後この建物は、大正11年に市役所となり、昭和47年の新庁舎落成とともに壊された。そこには60年の長い市政の歴史がある。

岡村一郎著『写真集 明治大正昭和 川越』ふるさとの想い出 より抜粋

[出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

川越城と中ノ門堀

川越城は、長禄(ちょうろく)元年(1457)に扇谷(おうぎがやつ)上杉(もち)(とも)の家臣である太田(どう)(しん)道灌(どうかん)父子によって築城されました。

当時、(もち)(とも)古河(こが)公方(くぼう)足利(しげ)(うじ)と北武蔵の覇権を巡る攻防の渦中(かちゅう)にあり、川越城の築城はこれに備えたものです。

天文(てんぶん)6年(1537)、小田原を本拠とする後北条(ごほうじょう)氏は川越城を攻め落とし、同15年の河越夜戦によって北武蔵への支配を盤石(ばんじゃく)なものとします。

しかし、(てん)(しょう)18年(1590)の豊臣秀吉の関東攻略に際しては前田利家に攻められて落城します。

江戸時代になると、川越城は江戸の北の守りとして重視され、親藩(しんばん)譜代(ふだい)の大名が藩主に任じられました。

寛永(かんえい)16年(1639)に藩主となった松平信綱(のぶつな)は城の大規模な改修を行い、川越城は近世城郭として体裁(ていさい)を整えるにいたりました。

中ノ門堀はこの松平信綱による城の大改修の折に造られたものと考えられます。まだ天下が(おさ)まって間もないこの時代、戦いを想定して作られたのが中ノ門堀だったのです。

現在地のあたりには、名前の由来となった中ノ門が建てられていました。多加(たが)()家所蔵の絵図によれば、中ノ門は2階建ての櫓門(やぐらもん)で、屋根は入母屋(いりもや)、本瓦葺き1階部分は(はり)(ゆき)152寸(4.605m)、(けた)(ゆき)3031分(9.183m)ほどの規模でした。

棟筋を東西方向に向け、両側に土塁が取り付き、土塁の上には狭間(きま)を備えた土塀が巡っていました。

 

※本整備工事は、国土交通省まちづくり交付金・埼玉県観光資源魅力アップ

事業の補助を受けて実施しました。

 

川越城と中ノ門堀

川越城は、長禄(ちょうろく)元年(1457)に扇谷(おうぎがやつ)上杉(もち)(とも)の家臣である太田(どう)(しん)道灌(どうかん)父子によって築城されました。

当時、(もち)(とも)古河(こが)公方(くぼう)足利(しげ)(うじ)と北武蔵の覇権を巡る攻防の渦中(かちゅう)にあり、川越城の築城はこれに備えたものです。

天文(てんぶん)6年(1537)、小田原を本拠とする後北条(ごほうじょう)氏は川越城を攻め落とし、同15年の河越夜戦によって北武蔵への支配を盤石(ばんじゃく)なものとします。

しかし、(てん)(しょう)18年(1590)の豊臣秀吉の関東攻略に際しては前田利家に攻められて落城します。

江戸時代になると、川越城は江戸の北の守りとして重視され、親藩(しんばん)譜代(ふだい)の大名が藩主に任じられました。

寛永(かんえい)16年(1639)に藩主となった松平信綱(のぶつな)は城の大規模な改修を行い、川越城は近世城郭として体裁(ていさい)を整えるにいたりました。

中ノ門堀はこの松平信綱による城の大改修の折に造られたものと考えられます。まだ天下が(おさ)まって間もないこの時代、戦いを想定して作られたのが中ノ門堀だったのです。

 現在地のあたりには、名前の由来となった中ノ門が建てられていました。多加(たが)()家所蔵の絵図によれば、中ノ門は2階建ての櫓門(やぐらもん)で、屋根は入母屋(いりもや)、本瓦葺き1階部分は(はり)(ゆき)152寸(4.605m)、(けた)(ゆき)3031分(9.183m)ほどの規模でした。

棟筋を東西方向に向け、両側に土塁が取り付き、土塁の上には狭間(きま)を備えた土塀が巡っていました。

 

※本整備工事は、国土交通省まちづくり交付金・埼玉県観光資源魅力アップ

 事業の補助を受けて実施しました。

川越城図(川越市立中央図書館蔵)

中之御門東西棟図

中之御門東西棟図

中ノ門堀
中ノ門堀
中ノ門堀のしくみ
中ノ門堀のしくみ

中ノ門堀のしくみ

中ノ門堀は戦いの際、敵が西大手門(市役所方面)から城内に攻め込んだ場合を想定して造られています。

西大手門から本丸(博物館方面)をめざして侵入した敵は中ノ門堀を含む3本の堀に阻まれて直進できません。

進撃の歩みがゆるんだところに、城兵が弓矢を射かけ鉄砲を撃ちかけるしくみでした。

また、発掘調査ではす城の内側と外側で堀の法面勾配が異なることがわかりました。

中ノ門堀の当初の規模は深さ7m、幅18m、東側の法面勾配は60度、西側は30度でした。

つまり、城の内側では堀が壁のように切り立って、敵の行く手を阻んでいたのです。

 明治時代以降、川越城の多くの施設・建物が取り壊される中、中ノ門堀跡は旧城内に残る唯一の堀跡となりました。

川越城の名残をとどめるこの堀跡を保存してゆこうという声が市民の間から起こり、川越市では平成2021年度に整備工事を行いました。

 

中ノ門堀のしくみ①

中ノ門堀のしくみ①

中ノ門堀のしくみ②

川越城中ノ門堀跡
川越城中ノ門堀跡
川越市立美術館 川越市立博物館
川越市立美術館 川越市立博物館

川越市立美術館

川越市市制施行80周年の事業として、2002年(平成14年)121日(川越市民の日)に開館した。 川越城二の丸跡にある川越市立博物館の隣接地にあり、川越の蔵造りの商家のデザインを外観に取り入れている。

小村雪岱、小茂田青樹、岩崎勝平、相原求一朗など川越生まれの画家や、橋本雅邦、井上安治、森脇雲溪など川越藩の画家、小泉智英、長沢秀之、内田静馬、久保提多など川越市ゆかりの画家の、日本画、洋画、版画などを展示している常設展示室がある。相原求一朗は記念室がある。斎藤与里、寺内萬治郎、池田幹雄など県内他市で活躍した作家の作品も充実しつつあり、平成243月現在のコレクション総数は1998点に及ぶ(資料含む)。

他にも企画展示室では年5回の特別展を開催している。タッチアートコーナー、パソコンによる収蔵品紹介などの美術情報コーナーもある。美術書なども数多く刊行しており、ミュージアムショップもある(川越市立博物館のミュージアムショップと重複するものもある)。

創作室では、デッサン・油彩・水彩、木版画・銅版画などの実技講座を開講、市民に貸し出しも行っている。市民ギャラリーは市民の誰でも利用でき観覧は無料。彫塑、工芸、写真なども展示しており、川越市美術展覧会の出品作も展示される。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

初雁公園野球場
初雁公園野球場

川越市営初雁公園野球場

高校野球埼玉大会、草野球、少年野球などに使用されている。

西武新宿線の本川越駅から北東方向に約2kmの初雁公園の中にある。同公園内には、他に市民プールもある。

初雁公園を中心とする一帯は川越城址であり、すぐ西側には川越城本丸御殿がある。野球場は川越城の中でも帯郭や新郭があった付近に位置している。周辺は江戸時代の風情を残す町並みとなっており、近くに市立博物館、市営美術館、国道254号線があり、やや離れて川越市役所、市立中央図書館、県立川越高校などがある。

外野の左中間からレフトスタンド裏手にかけて新河岸川が流れており、また三塁側は崖となっている為グラウンドの拡張はほぼ不可能と思われる。

以前にプロ野球の公式戦が行われた事が有る。

市は初雁公園を川越城址公園として再整備することを明らかにしており、2018年に策定される初雁公園基本計画において球場の移転を明記する方針を示している。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

川越城 本丸御殿
川越城 本丸御殿

川越城 本丸御殿

川越城は、埼玉県川越市にある日本の城。江戸時代には川越藩の藩庁が置かれた。別名、初雁城、霧隠城。関東七名城・日本100名城。通常、川越城の名称を表記する場合、中世については河越城、近世以降は川越城と表記されることが多い。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

川越城 本丸御殿
川越城 本丸御殿
三芳野神社(童歌「通りゃんせ」はこの神社の参道が舞台)
三芳野神社(童歌「通りゃんせ」はこの神社の参道が舞台)

三芳野神社

三芳野神社は、埼玉県川越市郭町の神社。童歌「通りゃんせ」はこの神社の参道が舞台といわれる。川越城築城以前から当地にあったが、太田道真・太田道灌父子による川越城築城により城内の天神曲輪に位置することになった。平成元年に大修理が行われ、平成4年に完成。埼玉県指定文化財。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

三芳野神社(童歌「通りゃんせ」はこの神社の参道が舞台)
三芳野神社(童歌「通りゃんせ」はこの神社の参道が舞台)

大楠に関するご説明

江戸期に建立された三芳野神社社殿は修復時の時期を迎え、去る平成4年に第1期修復工事が竣功、平成27年より第2期の修復工事を行うこととなりました。

今期の修復に当たり、社殿並びに創建当時よりの石組の排水溝が大楠の根によって持ち上げられ、旧態を留めることが困難になっていることを鑑み、関係各位と協議し、やむなく大楠を伐採することとなりました。

これも川越の先人方の志を継ぎ、社殿を保全するためでございますので、皆様方のご理解をお願い申し上げる次第でございます。

出典:三芳野神社社務所

三芳野神社(童歌「通りゃんせ」はこの神社の参道が舞台)
三芳野神社(童歌「通りゃんせ」はこの神社の参道が舞台)
三芳野神社(童歌「通りゃんせ」はこの神社の参道が舞台)
三芳野神社(童歌「通りゃんせ」はこの神社の参道が舞台)

三芳野神社社殿及び蛭子社・大黒社

        付明暦2年棟礼(県指定・建造物)

本殿正面

本殿正面

本殿正面

三芳野神社本殿・幣殿・拝殿平面図

三芳野神社本殿・幣殿・拝殿平面図

 平安時代のはじめ大同年間(806810)の創建と伝え、三芳野十八郷の惣社として宗敬をあつめました。太田道灌は川越城築城にあたって当社を鎮守とし、江戸時代以降は徳川幕府直営の社として庇護を受けました。

 寛永元年(1624)幕府の命をうけて川越城主酒井忠勝が奉行となり再興に着手、幕府棟染鈴木近江守長次が造営にあたりました。その後、明暦2年(1656)川越城主松平伊豆守信綱が奉行となり、幕府棟染木原義久が改修を加えました。社殿の屋根はこけらでしたが、弘化4年(1848)幕府棟染甲良若狭により瓦に改められ、さらに大正11年銅板葺に改められました。

 三芳野神社社殿は本殿、(へい)殿(でん)、拝殿からなる権現造(ごんげんづく)りで、屋根はこけら葺形の銅板葺です。外部は朱漆塗を基調とし、内部は軸部を朱漆塗、建具と天井を黒漆塗とします。

 本殿は正面三間、側面二間の入母屋造(いりもやづくり)で、四周に縁と高欄をまわし、正面に木階をもうけ、前面は幣殿に接続します。身舎(もや)内部は内陣外陣に分割し、内陣正面の柱間三間に(いた)唐戸(からと)、外陣正面は中央間に板唐戸、両脇間に(しとみ)()を装置します。組物は出組(でぐみ)で、幣殿に面した正面だけ()三斗(みつど)とします。中備(なかぞなえ)は極彩色をほどこした(かえるまた)股です。

 幣殿は正面一間、側面二間の両下造(りょうさげづくり)で、背面は本殿、前面は拝殿に接続します。組物は出三斗で、中備は外部が蟇股、内部が間斗束(けんとづか)になっています。

内部は(ぬぐい)板敷(いたじき)小組(こぐみ)(ごう)天井(てんじょう)です。

拝殿は正面三間、側面二間の入母屋造で、背面は幣殿に接続します。三方に縁高欄をまわし、背面柱筋に脇障子をたて、正面に一間の向拝をもうけます。組物は出三斗で、中備は外部が蟇股、内部が間斗束です。内部は拭板敷に小組格天井です。向拝は大面を取った角柱を(ろく)(ばり)形の(かしら)(ぬき)でつないで、両端に獅子鼻を付け、(つれ)三斗(みつど)を組んで中備に蟇股を飾ります。裏側には花木を篭彫した手狭(たばさみ)を飾ります。

三芳野神社社殿の造営経過はいささか複雑です。

 寛永元年(1624)の造営は、慶安2年(1649)松平信綱が奉納した「三芳野天神縁起絵巻」に詳細に記されていますが、そこに描かれた社殿は、流造(ながれづくり)ほ本殿と入母屋造の拝殿のみで幣殿は存在せず、現社殿とは大きく異なっています。

平成元年から平成4年にかけて実施された解体修理の報告書『三芳野神社社殿修理工事報告書』によれば、蟇股と各部取合わせを調査した結果、本殿・幣殿・拝殿の計二十三面の蟇股はすべて同形式ですが、当初からのものではなく、正面より押込み、斜め釘打ちで羽目板に取り付けられた後補の蟇股であることが判明しました。また、痕跡から、拝殿には寛永元年の造立当初より蟇股が存在していましたが(ただし現在の蟇股とは異なる)、本殿は蟇股の無い建築であったことも明らかになりました。現在の蟇股は、社殿全体を同一体裁に整えるために、新たに作製し取り付けたものと考えられます。また、本殿と幣殿、幣殿と拝殿の取合せでおさまりが不自然な所も数カ所指摘されています。

 以上を勘案すれば、現社殿にみる権現造は、寛永建立当初からのものではなく、修造時に幣殿を増設して形成されたもので、さらに、寛永建立当初の本殿と、現本殿は本来別の建築と考えられます。

 明暦2年の修造時には、江戸城二の丸東照宮が移築され、その幣殿と拝殿が三芳野神社の外宮(天神外宮)となり、明治5年に氷川神社境内(宮下町)に移され、八坂神社社殿として現存しています。確証はありませんが、現在の三芳野神社本殿は江戸城二の丸東照宮の本殿であり、明暦2年に移築され大改修を受け、幣殿を増設し、本殿と拝殿を連結して現在見るような権現造社殿となったと推定されます。

 蛭子社本殿と大黒社本殿は、拝殿の前方、参道に向かい合って鎮座します。拝殿から見て左が蛭子社、右が大黒社です。両社は同寸法、同形式で、拝殿前に一対となって配置され社格を高めています。朱塗の一間社流造(いっけんしゃながれづくり)()()棚造(だなづくり)で、屋根はこけら葺形の銅板葺とします。蛭子社本殿と大黒社本殿は、ほとんど装飾のない簡素な建築で、身舎組物は(ふな)(ひじ)()で中備はなく、妻飾は(こう)(りょう)(いのこ)扠首(さす)です。庇も柱上に舟肘木を置くだけで、いたって簡素なつくりになっています。明暦2年(1656)の「三芳野天神別当常海覚書」に「末社両宇」とあるのが相当すると思われ、元禄11年(1698)の「元禄11年川越市街屋敷社寺記」に末社貳ヶ所共 表四尺四寸 奥七尺九寸」とあって、規模が記されています。しかし、現本殿は正面四尺、側面は身舎と庇をあわせて六尺四寸五分であり、元禄の記録と一致しません。蛭子社に掲げられた額の背面に享保15年(1734)の年紀があるので、その頃再建されたものと思われます。

 昭和3011日(平成4311日追加)指定

出典:川越市教育委員会

三芳野神社参道
三芳野神社参道
三芳野神社参道入口
三芳野神社参道入口
郭町浄水場
郭町浄水場

(くるわ)(まち)浄水場(じょうすいじょう)

 この地は、昔郭の東南に位置し「本丸御殿」をはじめ童唄「通りゃんせ」にゆかりのある「三芳野神社」などの史跡が近くにある。

 この施設は昭和282月に、水道事業の創設により、最初の浄水場として建設された。

/郭町浄水場の概略

郭町浄水場の概略

所 在 地川越市郭町2丁目19番地1
事業 許可昭和26年9月25日
給水 開始昭和29年5月1日
水   源深井戸 4井
配 水 池容量 2600立方米
配水ポンプ両吸入渦巻ポンプ 3台
給水 能力日量 3200立方米
郭町浄水場の概略
隆清堂芋菓子 周辺
隆清堂芋菓子 周辺
松江町 交差点
松江町 交差点
松江町 交差点
松江町 交差点
通町 交差点
通町 交差点
東照宮中院通り
東照宮中院通り
東照宮中院通り
東照宮中院通り
東照宮中院通り
東照宮中院通り
川越 ラーメン 麺やてつ
川越 ラーメン 麺やてつ
どろぼうばし
どろぼうばし
どろぼうばし
どろぼうばし
どろぼうばし
どろぼうばし

どろぼうばしの由来

所在地 川越市小仙波町一丁目

昔、この橋は、一本の丸木橋であったといわれ、これは、その頃の話である。

ここ喜多院と東照宮の境内地は御神領で、江戸幕府の御朱印地でもあり、川越藩の町奉行ではとらえることができないことを知っていた一人の盗賊が、町奉行の捕り方に追われ、この橋から境内に逃げこんだ。しかし、盗賊は寺男たちに捕えられ、寺僧に諭され悪いことがふりかかる恐しさを知った。盗賊は、厄除元三大師 に心から罪を許してもらえるよう祈り、ようやく真人間に立ち直ることができた。そこで寺では幕府の寺院奉行にその処置を願い出たところ、無罪放免の許しが出た。その後、町方の商家に奉公先を世話されると、全く悪事を働くことなくまじめに一生を過ごしたという。

この話は大師の無限の慈悲を物語る話として伝わっており、それ以来、この橋を「どろうぼうばし 」というようになったということである。

 

昭和五十八年三月

出典:埼玉県

 

喜多院公園
喜多院公園

喜多院公園

喜多院の南西の角にある小さな公園。喜多院からも繋がっています。

遊具の種類は、ブランコ、滑り台、円形ジャングルジム、ぶら下がり遊具、スプリング遊具(上に乗ってぶらぶらするヤツ)、鉄棒など。子供たちのかっこうの遊び場になっています。

夏場は、大きなイチョウが木陰をつくってくれます。

出典:カワゴエール

 

川越大師 喜多院
川越大師 喜多院
川越大師 喜多院 案内図
川越大師 喜多院 案内図

国指定重要文化財

川越大師 喜多院案内図

伝説によるとその昔仙波辺の漫々たる海水を仙芳仙人の法力によりとり除き尊像を安置したというが、平安時代、天長7年(830)淳和天皇の勅により慈覚大師が創建された勅願寺で本尊阿弥陀如来を祀り無量寿寺と名づけた。

その後鎌倉時代、元久2年(1205)兵火で炎上の後、永仁4年(1296)伏見天皇が尊海僧正に再興せしめられたとき、慈恵大師(厄除元三大師)を歓請して官田五十石を寄せられ関東天台の中心となった。

正安3年(1301)後伏見天皇は星野山(現在の山号)の勅額を下した。更に室町時代、天文6年(1537)北条氏綱、上杉朝定の兵火で炎上した。

江戸時代、慶長4年(1599)天海僧正(慈眼大師)が第二十七世の法統をつぐが、同16年(161111月徳川家康が川越を訪れたとき寺領四万八千坪及び五百石を下し、酒井備後守忠利に工事を命じ、仏蔵院北院を喜多院と改め、四代家綱のとき東照宮に二百石を下すなど大いに寺勢をふるった。寛永15年(16381月の川越大火で現存の山門を除き堂宇はすべて焼失した。そこで三代将軍家光公は堀田加賀守正盛に命じてすぐに復興にかかり、江戸城紅葉山(皇居)の別殿を移築して客殿、書院などに当てた。家光誕生の間、春日局(家光公の乳母)の間があるのはそのためである。その他慈恵堂(本堂)、多宝塔、慈眼堂、鐘楼門、東照宮、日枝神社などの建物を数年間の間に再建し、それらが今日文化財として大切に保存されている。

江戸時代までは寺領四万8千坪、七百五十石の幕府の御朱印地として寺勢をふるったが、明治以降財力の欠如とその広さ、大きさのため荒廃に向った。

戦後文化財の指定とともに昭和大復興にとりかかり関係者の並々ならぬ努力によってその主な建造物の複原修理が完成し、それら偉観は、盛時を偲ばせるまでになった。しかし未だ完成しないところもかずあり今日までその整備事業は継続して行われている。

現在の境内地は東照宮を含めて一万四千坪あり、今日その緑は市民にとって貴重な憩いの場となっており池や堀をめぐらした景勝はそこに点在する文化財群とともに川越随一の名勝地霊場地として名高く厄除元三大師のお参りとともに四季を通じて史跡を訪れる人々がいつも絶えない。

1月3日の厄除初大師のご縁日には家内安全、厄除等の護摩祈願、また境内には、名物だるま市が軒をつらねて立ち並び、又2月3日の節分会、4月の長日護摩講の行事をはじめ毎日護摩供を奉じて所願成就の祈願を厳修している。

文化財の拝観ができ、最近では毎年5月の連休の一週間宝物特別展も開かれている。

 

出典:喜 多 院

川越市教育委員会

川越大師 喜多院 案内図
川越大師 喜多院 案内図
喜多院 多宝塔
喜多院 多宝塔

喜多院 多宝塔

境内にそびえる朱色の多宝塔

寛永16年(1639/江戸時代)に建造され、現在埼玉県の有形文化財に指定されています。

この多宝塔は、江戸時代の大工棟梁「平内(へいのうち)政信(まさのぶ)」が建造。平内政信は、全5巻からなる木割書「匠明」を著した人物で、喜多院多宝塔以外に、和歌浦天満宮(和歌山市)や輪王寺常行堂(日光市)なども建造しています。

現在は、本堂の斜め前に建てられている多宝塔ですが、もともとは山門前にある「白山権現」と「日枝神社」の間の古墳上に建てられていました。その後、2度の移築をし現在地にあります。

江戸時代初期の多宝塔の特徴が表れ、境内で一際鮮やかで目を引きます。喜多院を訪れた際は、是非みておきたい建物の1つです。

出典:カワゴエール

川越大師 喜多院
川越大師 喜多院
喜多院 五百羅漢
喜多院 五百羅漢

喜多院 五百(ごひゃく)羅漢(らかん)

川越の観光名所の中でも、ことのほか人気の高い喜多院の五百羅漢。日本三大羅漢の一つに数えられます。この五百余りの羅漢さまは、川越北田島の()(じょう)の発願により、天明2年(1782)から文政8年(1825)の約50年間にわたり建立されたものです。

十大弟子、十六羅漢を含め、533体のほか、中央高座の大仏に釈迦如来、脇侍の文殊・普賢の両菩薩、左右高座の阿弥陀如来、地蔵菩薩を合わせ、全体538体が鎮座しています。

笑うのあり、泣いたのあり、怒ったのあり、ヒソヒソ話をするのもあり、本当にさまざまな表情をした羅漢様がおられます。そして、いろいろな仏具、日用品を持っていたり、動物を従えていたりと、観察しだしたらいつまで見ていても飽きないくらい、変化に富んでいます。

また、深夜こっそりと羅漢さまの頭をなでると、一つだけ必ず温かいものがあり、それは亡くなった親の顔に似ているのだという言い伝えも残っています。

出典:喜多院

喜多院 五百羅漢 拝観案内
喜多院 五百羅漢 拝観案内
随身門 あじさい
随身門 あじさい
随身門 あじさい
随身門 あじさい
随身門 あじさい
随身門 あじさい

重要文化財・建造物

東照宮随身門(ずいしんもん)(いし)鳥居(どりい)

境内入口にある随身門は朱塗(やつ)脚門(あしもん)・切妻造でとち(ぶき)(がた)(どう)(ばん)(ぶき)である。八脚門とは三間×二間の門で、門柱4本の前後に各一本ずつの控柱をもっている屋根つき門のことである。以前には()水尾(みずのお)天皇の御染筆なる「東照大権現」の額が揚げられていた。記録によるとこの勅額は寛永10年(16331224日とあるから東照宮の創始の時期を知るひとつの資料となっている。石鳥居は寛永15年(16389月に造営奉行の堀田正盛が奉納したもので、柱に「東照大権現御宝前、寛永15917日堀田加賀守従四位下藤原正盛」の銘文が刻まれており、様式は明神鳥居である。

出典:川越市教育委員会

東照宮随身門・石鳥居
東照宮随身門・石鳥居
東照宮中院通り
東照宮中院通り
東照宮中院通り
東照宮中院通り
東照宮中院通り
東照宮中院通り
〒350-0034 埼玉県川越市仙波町3丁目34
〒350-0034 埼玉県川越市仙波町3丁目34
新河岸川右岸
新河岸川右岸
16・254号 隊道
16・254号 隊道
16・254号 隊道
16・254号 隊道

仙波河岸史跡公園

公園を利用される皆さんへ

この公園は、むかし「仙波河岸」という河岸場があった跡地を整備したものです。

だれでもが気持ちよく楽しく利用できるよう、次のことを守りましょう。

1.公園の花や木は、大切にしましょう

2.ゴミくずや空きカンなどは、散らかさずに持ち帰りましょう。

3.みんなで注意し合ってケガのないように遊びましょう。

4.犬の糞は絶対に捨てないよう袋に入れて持ち帰りましょう。

5.犬の放し飼いは禁止します。

6.公園内でたき火、打ち上げ花火、その他の火気を扱い周囲に迷惑を及ぼす行為は禁止します。

7.公園内へのオートバイ、自転車の乗り入れは禁止します。

8.付近に迷惑を及ぼすボール遊びは禁止します。

9.植物などを守るため、ロープ柵の中にははいらないようにしましょう。

新河岸川右岸
新河岸川右岸
仙波河岸史跡公園
仙波河岸史跡公園
仙波河岸史跡公園
仙波河岸史跡公園
仙波河岸のむかし
仙波河岸のむかし

仙波河岸のむかし

仙波河岸のむかし

むかしこの場所には「仙波河岸」という河岸場がありました。仙波河岸ができたのは明治の初めごろのことです。

 これまでにも新河岸川の下流にはすでに数箇所の河岸場があり、江戸と川越の間を船を使って物品を運んでいました。これが「新河岸川舟運」と言われているものです。

 仙波河岸は新河岸川の最も上流に位置し一番新しくできた河岸場です。

 しかし、明治の中ごろから東京との間に鉄道が整備されはじめました。また、大正時代には新河岸川の改修工事が始まり、昭和の初めには新河岸舟運も終わりをむかえました。

 下の写真は仙波河岸に荷船が並んでいる様子を写した明治時代後期の写真です。

仙波河岸史跡公園
仙波河岸史跡公園

仙波河岸史跡公園

公園を利用される皆さんへ

この公園は、むかし「仙波河岸」という河岸場があった跡地を整備したものです。

だれでもが気持ちよく楽しく利用できるよう、次のことを守りましょう。

1.公園の花や木は、大切にしましょう

2.ゴミくずや空きカンなどは、散らかさずに持ち帰りましょう。

3.みんなで注意し合ってケガのないように遊びましょう。

4.犬の糞は絶対に捨てないよう袋に入れて持ち帰りましょう。

5.犬の放し飼いは禁止します。

6.公園内でたき火、打ち上げ花火、その他の火気を扱い周囲に迷惑を及ぼす行為は禁止します。

7.公園内へのオートバイ、自転車の乗り入れは禁止します。

8.付近に迷惑を及ぼすボール遊びは禁止します。

9.植物などを守るため、ロープ柵の中にははいらないようにしましょう。

公園内で見られる植物

園内には下記のような植物が見られます。静かに観察しましょう。

カワヂシャタコノアシミクリ
カワヂシャ
ゴマノハグサ科
タコノアシ
ユキノシタ科
ミクリ
ミクリ科
葉はチシャ(レタスの仲間)に似て、若葉は食べられます。初夏に小さな白い花をたくさん咲かせます。晩夏につく花の穂は数本に分かれ、黄白色の花が片側につき、タコの足を連想させるので、この名がつきました。緑色のいが状の実が栗を連想させるので、この名がつきました。茎は簾(すだれ)に、根は漢方薬にされます。
公園内で見られる植物

出典:川越市都市計画部公園整備課

公 園 管 理 事 務 所

川越マイン 周辺
川越マイン 周辺

あけぼの公園 はなみずき公園 ふじ道 クレアパーク ケーブルカー高尾山駅 ホテルグランビュー沖縄 三芳野神社 中央会場・松一小 二の丸庭園 仙波河岸史跡公園 初雁公園 北の丸公園 北原公園 千代田区役所 千代田区立スポーツセンター 千鳥ヶ淵公園 半蔵門 和光市役所 喜多院 城山公園 大手門 大正浪漫夢通り 小金井公園 川越氷川神社 川越駅 平川門 新座緑道 新河岸川 日比谷公園健康運動広場 朝霞中央公園 桜田門 楠公レストハウス 気象観測露場 氷川神社 清水門 皇居東御苑 菓子屋横丁 蔵里 青葉台公園 飯能市役所 駒場運動公園 高尾山口駅 高尾山頂 高尾駅北口 1号路

クレアパーク(スタート)→小江戸蔵里(川越市産業観光館)→出世稲荷の大銀杏→大正浪漫夢通り→山崎美術館→鴉山稲荷神社→曹洞宗 栄林寺→六塚稲荷神社→濯紫公園→広済寺→元町休憩所→川越氷川神社→三芳野神社→川越大師 喜多院→川越八幡宮→クレアパーク(ゴール)

NPO法人埼玉ウオーキング協会
川越わくわくウオーキング教室
小江戸川越ウオークⅠ
・観音寺・広済寺
・富士見やぐら・濯柴公園

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驛の鐘(川越駅2階改札口)
驛の鐘(川越駅2階改札口)

(かわ) (ごえ) ()

川越市は東京の北西に位置し、かつては江戸時代の城下町として栄え、蔵造りと呼ばれる建築様式の古い土蔵や商家が立ち並ぶ町並みで知られています。明治時代から続く菓子屋横丁には、昔ながらの菓子屋や駄菓子屋が軒を連ねています。喜多院は江戸城の遺構が残る有名な寺で、境内には、仏弟子をかたどった五百羅漢という石像が 500 体以上もあります。

出典:川越市

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川越アトレ
川越アトレ

アトレマルヒロ

第三セクターの川越都市開発が運営管理するアトレの核テナントとして1990年(平成2年)516日開店。百貨店としては丸広百貨店アトレ店が正式な店名である。名称の「アトレ」とはフランス語で「魅力」を意味し、公募によって名称を決定した。他には「アピコ」「ケリア」などが候補に挙がっていた。なお、日本で最初にアトレと称したのは当店であり、JR東日本の首都圏にある駅ビルのアトレとは無関係(JR川越駅ビルはルミネ)。

丸広百貨店川越店とは500mほどしか離れていないが、中高年層に強い川越店に対しアトレ店では若者を意識した品揃えを徹底することで川越店と差別化をはかり、丸広が苦手としてきた若い世代の顧客獲得と川越商圏の拡大で丸広百貨店は川越2店体制を確立、川越地区での売上を急拡大させたことで注目された。紙袋や包装紙は丸広百貨店で使われている埼玉県花「さくら草」が描かれたものではなく、当初から独自のatre MARUHIROロゴが入った白と青のものが使われていたが、食品売場のみ2000年代初頭から他の丸広百貨店と同じさくら草の袋に変更された。

2012年に改装工事が行なわれ、2012915日に「新・川越ライフスタイル発信ステーション」をストアコンセプトにリニューアルされ、百貨店機能は川越本店に集約してショッピングセンターに転換した。リニューアル後の年商目標は140億円としている。また、唯一の丸広直営売場であった地下食品売場も20158月に、ザ・ガーデン自由が丘(セブン&アイ・ホールディングス)としてリニューアルオープンした。そのため、全国百貨店共通商品券と丸広のポイントカードが使用できなくなった。なお、ザ・ガーデン自由が丘は2018325日に閉店している。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

川越アトレ
川越アトレ
個室居酒屋 なかなか川越店 周辺
個室居酒屋 なかなか川越店 周辺
小江戸蔵里(川越市産業観光館)
小江戸蔵里(川越市産業観光館)

小江戸蔵里

小江戸蔵里(こえどくらざと)』は、この場所で明治8年(1875年)に創業した旧鏡山酒造の建築物を、当面の面影を残しつつ改修した施設です。

市民と観光客との交流、地域の活性化を図るとともに、川越市の物産等を楽しんでいただく新しい名所として平成2210月に誕生しました。

施設は、明治・大正・昭和の時代に建てられた酒造を改装した、おみやげ処(明治蔵)、まかない処(大正蔵)、くら市場(昭和蔵)の3つの蔵からなっています。

これらの蔵は、国の登録有形文化財に指定されています。

なお『小江戸蔵里』という名称は、川越市の別名『小江戸』蔵造りの町並みを表す「蔵」、人々が気軽に立ち寄れてくつろげる心のふるさと「里」、という意味を込めて公募の中から選ばれました。

出典:小江戸蔵里

蔵里の御案内
蔵里の御案内
〒350-0043 埼玉県川越市新富町1丁目10−7
〒350-0043 埼玉県川越市新富町1丁目10−7
出世稲荷の大銀杏
出世稲荷の大銀杏

出世稲荷神社について

出世稲荷神社は、江戸時代(天保2/1832)に、京都の伏見稲荷神社本宮より分祀した神社です。

名前の通り出世の御利益があります!また伏見稲荷同様に、五穀豊穣や商売繁盛の御利益も。

すぐ近くにある賑やかな商店街をよそに、境内はとても静かです。時たま併設された公園から聞こえる、子供たちの声にふと心が和みます。

出典:カワゴエール

市指定・天然記念物

イ チ ョ ウ

いちょう窪の出世稲荷の公孫樹として名声がある。

向かって右は幹回り(目通り)5.67m、根回り7.6m、左は幹回り7.25m、根回り9.7mあり、二本とも樹高は約26.5m。

樹齢は650余年と推定され、みごとな美しさと枝張りを示し、樹勢もきわめて旺盛である。

公孫樹は、日本と中国の一部に産するイチョウ科を代表する落葉樹で、秋にはあざやかに黄葉する。

雌雄異株で、種はいわゆるギンナンで食用となる。

昭和3336

川越市教育委員会

大正浪漫夢通り
大正浪漫夢通り

川越大正浪漫夢通り

古き良き大正時代を思わせる情緒あふれる大正浪漫夢通り。通りを歩けば、そこかしこに大正ロマンの風情が漂います。毎日の買い物から、こだわりの逸品、川越観光のお土産などを販売する、個性豊かなお店が軒を並べています。大正ロマンの雰囲気を求めて、テレビや映画の撮影によく使われる商店街です。大正ロマンの風を感じに川越の大正浪漫夢通りへぜひお越し下さい。

出典:大正浪漫夢通り

大正浪漫夢通り
大正浪漫夢通り
大正浪漫夢通り
大正浪漫夢通り
大正浪漫夢通り
大正浪漫夢通り
大正浪漫夢通り
大正浪漫夢通り
大正浪漫夢通り
大正浪漫夢通り
大正浪漫夢通り
大正浪漫夢通り
大正浪漫夢通り
大正浪漫夢通り
仲町観光案内所 周辺
仲町観光案内所 周辺
山崎美術館
山崎美術館

公益財団法人 山崎美術館

橋本雅邦画伯

橋本雅邦画伯は、川越藩のお抱え絵師橋本晴園養師の子息にて、画道に勝れ、日本革新の先覚者であり明治時代における我が国画壇の最長老であります。

依って、郷土川越の有志が集まり、明治32(1899)画宝会を結成し、先生のご力作の頒布をいただきました。

山崎家4代目故山崎豊翁は、同会の幹事として率先活躍するとともに、画伯から受けた作品をすべて大切に保管し、これを子孫に伝承させたものであります。

併し、子孫としては、社会公益の為、一般に広く鑑賞を仰ぎ、以って美学向上の資料に供するに、如かずと考え、ここに翁の誕生150年を記念し、昭和57年文化の日に山崎美術館を発足いたしました。

より多くの方々のご利用を切にお願いします。

出典:龜屋

仲町 交差点
仲町 交差点
山崎美術館
山崎美術館
水玉堂 KIMONO & Color consulting 周辺
水玉堂 KIMONO & Color consulting 周辺
水玉堂 KIMONO & Color consulting 周辺
水玉堂 KIMONO & Color consulting 周辺
鴉山稲荷神社
鴉山稲荷神社

鴉山(からすやま)稲荷(いなり)神社(じんじゃ)について

歴 史

社説によると、長禄元年(1457)上杉持朝の命によって川越城築城の任にあたった大田道真が、城の櫓より四方を眺めたところ南西を森がさえぎり、富士山が眺望出来ないために、これを伐採させたところ森の中に石祠があり、「源家勝平、怨敵退散、子孫長栄、大願成就、守護、永安三癸巳夭㋃17日願主河島武盛」と記した祈願文が発見された。道真はこれを築城の吉兆としてここに仮宮を建立した。以来、代々藩主の信仰厚く、松平(なり)(つね)の養子斉省(なりさだ)の奉納「鴉山祠」の額が現存している。

当社は塚上にあり、鴉が群摟していたことにより鴉山稲荷神社と称すると云う。また、古くは周囲に塚が多く、中でも鴉山が大きいので、川越7社の第一位としてその名は「親塚稲荷」とも言われる。

また、町内では「お稲荷さん」とも呼ばれ、親しみ大切に信仰され、今も尚、町民全体の文化遺産として伝わり引き継がれている。

平成244月吉日

出典:鴉山神社修復実行委委員会

鴉山稲荷神社
鴉山稲荷神社
鴉山稲荷神社
鴉山稲荷神社
鴉山稲荷神社
鴉山稲荷神社
鴉山稲荷神社
鴉山稲荷神社
鴉山稲荷神社
鴉山稲荷神社
鴉山稲荷神社
鴉山稲荷神社
鴉山稲荷神社
鴉山稲荷神社

鴉山稲荷神社について

歴 史

社記によると、長禄元年(1457)上杉持朝の命によって川越城築城の任にあった太田道真が、城の櫓より四方を眺めたところ南西を森がさえぎり、冨士山が眺望出来ないために、これを伐採させたところ森の中に石祠があり、「源家勝平、怨敵退散、子孫長栄、大願成就、守護、承安三癸巳天417日願主河島武盛」と記した祈願文が発見された。道真はこれを築城の吉兆としてここに仮宮を建立した。以来、代々藩主の信仰厚く、松平(なり)(つね)の養子斉省(なりさだ)の奉納「鴉山祠」の額が現存している。当社は塚上にあり、鴉が群樓していたことにより鴉山神社と称すると云う。また、古くは周囲に塚が多く、中でも鴉山が大きいので、川越七社の第一位としてその名は「親塚稲荷」とも云われる。

また、町内では「お稲荷さん」とも呼ばれ、親しみ大切に信仰され、今も尚、町民全体の文化遺産として伝わり引き継がれている。

平成244月吉日

出典:鴉山神社修復実行委員会

蔵の町・川越居宅介護支援 事業所 周辺
蔵の町・川越居宅介護支援 事業所 周辺
足立屋米穀店
足立屋米穀店
曹洞宗 栄林寺
曹洞宗 栄林寺

曹洞宗 栄林寺

(寺井宿・寺井松郷・寺井伊佐沼)永林寺

寺井松郷分にあり、禅宗洞派、近江國栗太郎浮気村源昌寺の末、興雲山と號す、開山巻岑文舒寛永17926日示寂、開基は玉寳榮琳大姉慶長586日卒す、酒井備後守忠利の伯母なり、されど其實は慶安353日に寂せし當寺の二世、嶺室文雪が草創にて、己は其任に當らず、彼巻岑文舒を勧請して、開山とせしと寺僧は傳へり、本尊釋迦を安ぜり、寛永11年酒井讃岐守忠勝家臣よりの舊記、今當寺に残れり。

天照太神第六天白山権現合殿社、秋葉社、稲荷社。以上三社は慶安三年の勧請なり。

出典:新編武蔵風土記稿より

新河岸川
新河岸川
/新河岸川
/新河岸川
埼玉県川越市 月吉陸橋
埼玉県川越市 月吉陸橋
川越丸ノ内線車両 周辺
川越丸ノ内線車両 周辺
新河岸左岸
新河岸左岸
新河岸左岸
新河岸左岸
新河岸左岸
新河岸左岸
新河岸左岸
新河岸左岸
新河岸左岸
新河岸左岸
新河岸たかざわはし
新河岸たかざわはし

新河岸たかざわはし

札の辻にほど近い、元町と石原町の境となる新河岸川にかかる橋。六塚稲荷神社に隣接し、石橋だった頃は川面に映った影と合わせ見ると眼鏡のように見えることから「眼鏡橋」とかつて呼ばれていた。

今の姿となり50年余り、菓子屋横丁が近いこの場所は観光客が多く通行するが、かつては川越城下の西の玄関口でもあった。

出典:川越市役所広報室

六塚稲荷神社
六塚稲荷神社
六塚稲荷神社
六塚稲荷神社

六塚稲荷神社

「新編武蔵風土記稿」にこんな記載があります。

「六塚稲荷又六丘稲荷とも呼ぶ。相伝ふ昔太田道真この地に住せし時、荒野を開かんとして、古丘六つを穿(うがち)崩してそのあとへ稲荷六社をたてしが、其後五社をば廃してこの一社に合祀す」

要するに…

「室町時代に太田道真が、この場所にあった6つの塚を崩した代わりに、6つの稲荷社を建造。その後、6つの内5社を無くして1つの稲荷神社にまとめて祀った。」ということかと思われます。

合祀した稲荷神社こそ現在の六塚稲荷神社で、元々6つの塚からはじまったので六塚稲荷神社と呼ばれているのでしょう。

出典:カワゴエー
新河岸左岸
新河岸左岸
新河岸左岸
新河岸左岸
濯紫公園
濯紫公園

濯 紫 公 園

濯紫園と呼ばれた庭園のあった場所を新河岸川と合わせた親水公園として整備された公園。公園中程に起伏があり、登ると遊具が設置されている。

藤棚やベンチがあり子どもたちが遊ぶ空間が広がる。川沿いを歩くことができるので水辺の散策が楽しめる。

出典:川越市役所広報室

濯紫公園
濯紫公園
濯紫公園
濯紫公園
濯紫公園
濯紫公園
 濯紫公園
濯紫公園
 濯紫公園
濯紫公園
  濯紫公園
濯紫公園
濯紫公園の由来
濯紫公園の由来

濯紫公園の由来

昔、ここに柳沢吉保の家臣山東小市郎の別荘があり、(たく)()(えん)と呼ばれる大変美しい庭園がありました。その後、唯心という僧がここで唯心庵を営んでいました。明治2年には水村氏により水車がつくられ、この水車は通称いおりの水車と呼ばれ人々に親しまれていました。

いおりの堰の上流側は子供たちの絶好の水泳や水遊び場だったそうです。

その後、新河岸川周辺の農地には住宅が建ち並び、水車も必要とはなくなり取り壊され、川も改修工事によって現在の姿になりました。

この公園は新河岸川の親水拠点として地元の人々と行政が協力し、川と公園を一体的に整備したものです。

この公園の名はかつての濯紫園にちなみ「濯紫公園」としました。

平成元年3

金比羅大神 鳥居井
金比羅大神 鳥居井

金比羅大神 鳥居井

観光客で賑わう「蔵造りの町並み」の最北端である札の辻交差点。その札の辻を越えた喜多町にある広済寺。

さっきまでの賑わいも無くなり、静かに佇む広済寺は、観光客さえ余り来ないがとても歴史あるお寺です。

創建は室町時代。河越の武将 大導寺駿河政繁が菩提寺として建立した歴史あるお寺です。

本堂は、寄棟造・桟瓦葺の風格ある建物で、中を見学することは出来ませんが、意匠がとても凝っており見応えがあります。

そんな広済寺。川越では「どっこい喜多町広済寺」と呼ばれ慕われている他、実は様々なエピソード・見所があるお寺なのです!

出典:カワゴエール

広済寺
広済寺
皺地藏尊(しゃぶきばば)
皺地藏尊(しゃぶきばば)

広済寺(こうさいじ) (しわ)地蔵(ぶき)(さま)

江戸の初め上州厩橋の浪人が北町(喜多町)に住んでいました。

ある夜異様な気配を感じて帰宅し、不思議に思い部屋を見ると片隅に三尺程の石仏らしきものがあったそうです。

翌朝俗家に置くのは如何と思い石仏を広済寺に納めました。

数日後、風邪や喘息で長患の豪商綿屋の娘が石仏に霊感を感じ、荒縄を巻き付け百日間の願掛けをしたところ百日も経たずに全快しました。

お礼にお茶と入り豆を納めましたそうです。

この話が近隣で評判となり風邪、百日咳や咳の病の時には縄で石仏を縛りお参りするとご利益があり、病が治ると縄をほどきお茶と入り豆(明治以降は金平糖をお供えしたそうです。)

咳地蔵尊
咳地蔵尊
無腮地藏尊
無腮地藏尊
無腮地藏尊(あごなしじぞう)
無腮地藏尊(あごなしじぞう)

広済寺(こうさいじ) 無腮地(あごなし)地蔵(じぞう)

歯痛治療を願った地蔵は全国にたくさんあります。腮が無いから歯痛もない歯痛治療を願う故に腮を欠いて建てたと言うのが大筋の理由です。

古くは小野篁802852年平安初期の漢詩人・歌人・参議等が遺唐使渡航失敗や拒否で隠岐な流された折思いを寄せた人の歯痛平癒 のため建てたと言われています。

治癒礼として、「あごなし地蔵様へお願いすると治ります」と言う仮名まじり金釘流の文字で書いた貼り紙を貼ったそうです。

歯痛祈願する習俗は島根・新潟・岐阜・長野・神奈川等に多くこの地蔵尊は、「全国異称地蔵一覧日本寺院名鑑地」に明記されていますが制作年代等の詳細は不明です。

/広済寺
/広済寺
/広済寺
/広済寺
/広済寺
/広済寺
/広済寺
/広済寺
華とんぼ 周辺
華とんぼ 周辺
華とんぼ 周辺
華とんぼ 周辺
札の辻 交差点
札の辻 交差点
元町休憩所
元町休憩所
小江戸川越観光協会 周辺
小江戸川越観光協会 周辺
〒350-0062 埼玉県川越市元町1丁目11−3
〒350-0062 埼玉県川越市元町1丁目11−3
道灌橋
道灌橋

(どう) (かん) (ばし)

東明寺西側には現在、道灌橋が架かっています。昭和6年に、この橋がコンクリート化されたとき、「新編武蔵風土記稿」の太田道灌屋敷の記述にあやかり、「道灌橋」と命名されたそうです。その近辺は今、ごく普通の住宅地であり、「太田道灌屋敷跡」であることを示す遺構や標示は何もありません。訪問者は、川べりに立って風に当たり、いにしえの道灌屋敷を偲ぶしかありません。田谷橋の下で、大きな鯉が泳ぎまわり、川に沿って桜並木がつづき、秋には彼岸花が咲いています。このあたりに、「太田道灌屋敷跡の碑」を一本建ててほしいものです。

太田道灌屋敷跡=埼玉県川越市志多町8番地

出典:blog.doukan.jp

新河岸川右岸
新河岸川右岸
川越氷川神社
川越氷川神社

川 越 氷 川 神 社

氷川神社は、埼玉県川越市宮下町にある神社。太田道灌以来、川越の総鎮守とされ歴代川越藩主の篤い崇敬を受けた。 国の重要無形民俗文化財である川越まつりは毎年1014日に氷川神社にて斎行される「例大祭」、直後に行われる「神幸祭」や「山車行事」から成り立っている。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

鈴木聞多命顕彰碑
鈴木聞多命顕彰碑

11回ベルリンオリンピック1936)出場アスリート

鈴木(ぶん)多命(たのみこと)顕彰碑

旧制川越中学校(現 県立川越高等学校)在学中、昭和5年(1930年)の全国の陸上競技大会において100mで2冠を達成するなど多くの輝かしい成績をもって慶応義塾大学の進学。大学でも国際大会で次々に好成績を残した、昭和11年(1936)の第11回ベルリンオリンピックに出場しました。100m走では第2次予選敗退となりましたが、彼の走りは当時の国民に勇気と希望を与えました。そして次の東京オリンピック(昭和15年)での活躍を誰もが期待しましたが、戦争により中止となったため、大学卒業後は㈱日立製作所に入社、その後陸軍将校の道を志し、再び陸上競技の場に戻ってくることはありませんでした。「陸上競技に愛を、記録に夢を、練習に心を」後輩たちに常に話していたこの言葉には、練習を重んじた彼の精神が表れています。

鈴木聞多 経歴

大正2年(191341日 埼玉県比企郡三保谷村大字宮前

(現 川島町宮前)に生まれる

父:鈴木庸三、母:多つ、兄:誠一

大正84月 三保谷村立三保谷小学校

(現 川島町立つばさ南小学校)入学

大正154 県立川越中学(現 県立川越高等学校)入学

昭和 63月 同校卒業【中学29回】

4月  慶應義塾大学予科入学

昭和12年3月 慶應義塾大学法学部政治科卒業

昭和124月 ㈱日立製作所入社

昭和131月 旭川連隊入隊

昭和14年(1939710日 中華民国(現 中華人民共和国)河南省泌陽県當平村北方高地にて戦死、二階級特進し陸軍歩兵少尉(満26歳)

昭和162月 勲六等功五級を賜る。

主な競技歴

昭和10年(1935)五ヵ国対抗陸上競技大会

昭和11年(1936)第11回ベルリンオリンピック

100m走2次予選敗退)

400mリレー走出場

国内外競技会で主に短距離においてメダル多数獲得

「地球が一公転するごとに季節の四季は巡る。何度でも巡ってくる。

だが、青春、朱夏、白秋、玄冬・・・・・・人生の四季は一限りである「地球が一公転するごとに季節の四季は巡る。何度でも巡ってくる。

だが、青春、朱夏、白秋、玄冬・・・・・・人生の四季は一限りである人は皆いずれかの季節を、いま生きている。中には若くして逝き、白秋、玄冬を見ずに終わる人生もある。だが吉田松陰は、人は十歳で死んでも、その人なりの人生の四季を生きて死ぬのだ、といっている。二十九歳の若さで生涯を終えた松陰自身が、人生の四季を堪能して旅立った人なのだろう。」聞多氏も二十六歳という短いがしかし凝縮された人生の四季を生き切った人なのだ。大正時代に生まれ、昭和に生き、祖国のために戦い、現在の豊かな日本の礎になられた方々を尊敬しそのお一人である鈴木聞多氏に感謝します。

 

人生二度なし、与えられた四季を想い、志を立て、今を一所懸命生きる。

(顕彰碑奉納者)

 

 

川越氷川神社 ご神木
川越氷川神社 ご神木

川越氷川神社

ご神木の倒壊について

平成239月、関東地方を襲った台風12号の暴風雨を受け、樹齢600年の欅のご神木が幹先10mほどの部分から倒壊しました。

ご神木は奇跡的にも、傍の本殿・石碑そして参拝者を全く傷つけることなく、神社裏に続く細い参道上にその巨体を横たえました。

長年にわたり地域を見守り続けてきたご神木は現在、市内喜多町の共和木材に大切に安置されています。

数年後にはご神木の材を用い、木に宿られた氷川大神の広大無辺なご神徳を、何らかの形で氏子崇敬者の皆様にお頒けしたいと考えております。

出典:川越氷川神社

川越氷川神社 ご神木
川越氷川神社 ご神木
令和(川越氷川神社 舞殿)
令和(川越氷川神社 舞殿)
令和(川越氷川神社 舞殿)
令和(川越氷川神社 舞殿)
川越氷川神社
川越氷川神社
令和(川越氷川神社 鳥居)
令和(川越氷川神社 鳥居)
川越氷川神社のかざぐるま
川越氷川神社のかざぐるま

縁むすび風鈴

かざぐるま

むかし、日本人は

「風が想いを運んでくれる」

と信じていました。

川越氷川神社では627日頃まで、

鳥居下の風鈴棚に藤色の「かざぐるま」を掛けています。

71日からは「かざぐるま」にかわり、

二千個の江戸風鈴が境内を彩る

「縁むすび風鈴」がはじまります。

夏は小江戸川越に、風を「聴きに」お越しください。

境内に吹く風に乗った皆さまの想いが、きっと届きますように。

出典:川越氷川神社

川越氷川神社 鳥居
川越氷川神社 鳥居
川越市立博物館
川越市立博物館

川越市(かわごえし)(りつ)博物館(はくぶつかん)

蔵造りをイメージした切り妻の瓦屋根に漆喰風の白壁姿の博物館は、旧川越城の二の丸跡に建っています。川越が繁栄した江戸時代から明治時代を中心に、原始時代から近・現代までの長い川越の歴史が総合的に理解できるような展示となっています。特に、城下町全体が見られるジオラマ模型や細部まで復元した蔵造りの町並み模型、また蔵造りの建築工程を再現した実物大模型は迫力満点です。見学した後に、市内を巡れば川越散策がさらに楽しめます。

出典:川越市

川越市立博物館前の案内板
川越市立博物館前の案内板
川越城 本丸御殿
川越城 本丸御殿

川越城 本丸御殿

川越城は、埼玉県川越市にある日本の城。江戸時代には川越藩の藩庁が置かれた。別名、初雁城、霧隠城。関東七名城・日本100名城。通常、川越城の名称を表記する場合、中世については河越城、近世以降は川越城と表記されることが多い。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

川越城 本丸御殿
川越城 本丸御殿
童歌『通りゃんせ』発祥地 三芳野神社
童歌『通りゃんせ』発祥地 三芳野神社

三芳野神社

三芳野神社は、埼玉県川越市郭町の神社。童歌「通りゃんせ」はこの神社の参道が舞台といわれる。川越城築城以前から当地にあったが、太田道真・太田道灌父子による川越城築城により城内の天神曲輪に位置することになった。平成元年に大修理が行われ、平成4年に完成。埼玉県指定文化財。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

童歌『通りゃんせ』発祥地 三芳野神社
童歌『通りゃんせ』発祥地 三芳野神社
童歌『通りゃんせ』発祥地 三芳野神社
童歌『通りゃんせ』発祥地 三芳野神社
童歌『通りゃんせ』発祥地 三芳野神社
童歌『通りゃんせ』発祥地 三芳野神社

ここはどこの細道じゃ

天神さまのほそみちじゃ

わらべ唄発祥の所

昭和54113

川越市文化財保護協会

童歌『通りゃんせ』発祥地 三芳野神社
童歌『通りゃんせ』発祥地 三芳野神社

川越城七不思議

・初かりの杉

・きりふきの井戸

・人身御供

・よな川の小石供養

・七ツ釜と片葉の葦

・天神足洗いの井戸

・城内ひずめの音

童歌『通りゃんせ』発祥地 三芳野神社
童歌『通りゃんせ』発祥地 三芳野神社

川越(かわごえ)(じょう)七不思議(ななふしぎ)

一、霧吹(きりふき)の井戸

城中に(こけ)むした大きな井戸があった。

ふだんは蓋をしておくが、万一敵が攻めて来て、一大事という場合には、この蓋を取ると、中からもうもうと霧が立ち込めて、城は敵から見えなくなったという。

そのため、川越城は別名霧隠(きりがくれ)(じょう)ともいわれる。

 

二、初雁(はつかり)の杉

川越城内にある()芳野(よしの)神社の裏には大きな杉の老木あった。

いつの頃からか毎年雁の渡りの時期になると時を違えず飛んできた雁は、杉の真上まで来ると三声鳴きながら、杉の回りを三度回って、南を指して飛び去ったということである。

そのため、川越城は別名初雁城ともいわれている。

 

三、片葉の(あし)

浮島稲荷(いなり)神社の裏側一帯は、(かや)(あし)が密生した湿地帯で、別名「七ッ(かま)」といわれていた。

ここに生える葦は不思議なことに片葉であって、次のような話が伝わっている。

川越城が敵に攻められ落城寸前に、城中から姫が乳母(うば)と逃げのび、ようやくこの七ッ釜のところまでやって来たが、足を踏みはずしてしまった。

姫は、川辺の葦にとりすがり岸にはい上がろうとしたところ、葦の葉がちぎれてしまい、姫は葦の葉をつかんだまま水底へ沈んでしまった。

この辺の葦は、この姫の恨みによってどれも片葉であるといわれている。

 

四、天神洗足(みたらし)(せい)(すい)

大田(どう)(しん)道灌(どうかん)父子が川越城を築城するに当たって、堀の水源が見つからず困っていたところ、一人の老人が井水で足を洗っているのに出会った。

この老人の案内によって水源を見つけた道灌は、かねての懸案を解決し、難攻不落の川越城を完成させることができたといわれている。

かの老人の気品にあふれた姿に気がついた道灌は、これぞまぎれもない三芳野天神の化身(けしん)であったかと思い、以来これを天神洗足の井水と名づけて大事に神慮にこたえたという。

 

五、人身御供(ひとみごくう)

川越城築城の際、太田道真、道灌父子は、三方(北、西、東)の水田が泥深く、築城に必要な土塁(どるい)がなかなか完成せず苦心をしていたところ、ある夜龍神が道真の夢枕にたって、「明朝一番早く汝(汝)のもとに参った者を人身御供(ひとみごくう)に差し出せばすみやかに成就(じょうじゅ)する」と言った。

道真は、龍神にそのことを約束をしたが、明朝一番早く現れたのは、最愛の娘の世禰(よね)姫であった。

さすがの道真も龍神との約束を守れずにいると、姫は、ある夜、城の完成を祈りながら、七ッ釜の淵に身を投げてしまった。

そののち川越城はまもなく完成したという。

 

六、遊女(よな)川の小石供養

むかし、川越城主にたいそう狩の好きな殿様がいて、毎日のように(たか)狩りに出かけていた。

ある日、供の若侍が小川のほとりを通りかかると、一人の美しい百姓の娘に出会ったので、名前をたずねるとおよねといい、やがてこの娘は縁あって若侍の嫁となったが、(しゅうと)にいびられ実家に帰されてしまった。

およねは自分の運命を悲しみ、夫に出会った小川のほとりで夫が通りかかるのを待っていたが、会うことができず小川の淵へ身を投げてしまった。

やがてこの川を「よな川」と呼ぶようになったが、川の名は「およね」からきているとも、よなよな泣く声が聞こえるからともいわれている。

 

七、城中(じょうちゅう)(ひづめ)の音

川越城主酒井(さかい)重忠(しげただ)は、不思議なことに夜ごと矢叫(やたけび)(ひづめ)の音に眠りをさまされていた。

ある日、易者に見てもらったところ、城内のどこかにある戦争の図がわざわいしているとの()が出たので、さっそく土蔵を調べたところ堀川夜討の戦いの場面をえがいた一双の屏風(びょうぶ)絵がでてきた。

この屏風の半双を引き離して養寿院に寄進したところ、その夜から矢叫や蹄の音が聞こえなくなったという。

昭和五十七年三月 出典:川越市

川越城七不思議 とおりゃんせ発祥の地
川越城七不思議 とおりゃんせ発祥の地
三芳野神社
三芳野神社
三芳野神社
三芳野神社
三芳野神社社殿及び蛭子社・大黒社 付明暦2年棟礼(県指定・建造物)

三芳野神社社殿及び蛭子社・大黒社

        付明暦2年棟礼(県指定・建造物)

本殿正面

三芳野神社本殿・幣殿・拝殿平面図

三芳野神社本殿・幣殿・拝殿平面図

 平安時代のはじめ大同年間(806810)の創建と伝え、三芳野十八郷の惣社として宗敬をあつめました。太田道灌は川越城築城にあたって当社を鎮守とし、江戸時代以降は徳川幕府直営の社として庇護を受けました。

 寛永元年(1624)幕府の命をうけて川越城主酒井忠勝が奉行となり再興に着手、幕府棟染鈴木近江守長次が造営にあたりました。その後、明暦2年(1656)川越城主松平伊豆守信綱が奉行となり、幕府棟染木原義久が改修を加えました。社殿の屋根はこけらでしたが、弘化4年(1848)幕府棟染甲良若狭により瓦に改められ、さらに大正11年銅板葺に改められました。

 三芳野神社社殿は本殿、(へい)殿(でん)、拝殿からなる権現造(ごんげんづく)りで、屋根はこけら葺形の銅板葺です。外部は朱漆塗を基調とし、内部は軸部を朱漆塗、建具と天井を黒漆塗とします。

 本殿は正面三間、側面二間の入母屋造(いりもやづくり)で、四周に縁と高欄をまわし、正面に木階をもうけ、前面は幣殿に接続します。身舎(もや)内部は内陣外陣に分割し、内陣正面の柱間三間に(いた)唐戸(からと)、外陣正面は中央間に板唐戸、両脇間に(しとみ)()を装置します。組物は出組(でぐみ)で、幣殿に面した正面だけ()三斗(みつど)とします。中備(なかぞなえ)は極彩色をほどこした(かえるまた)股です。

 幣殿は正面一間、側面二間の両下造(りょうさげづくり)で、背面は本殿、前面は拝殿に接続します。組物は出三斗で、中備は外部が蟇股、内部が間斗束(けんとづか)になっています。

内部は(ぬぐい)板敷(いたじき)小組(こぐみ)(ごう)天井(てんじょう)です。

拝殿は正面三間、側面二間の入母屋造で、背面は幣殿に接続します。三方に縁高欄をまわし、背面柱筋に脇障子をたて、正面に一間の向拝をもうけます。組物は出三斗で、中備は外部が蟇股、内部が間斗束です。内部は拭板敷に小組格天井です。向拝は大面を取った角柱を(ろく)(ばり)形の(かしら)(ぬき)でつないで、両端に獅子鼻を付け、(つれ)三斗(みつど)を組んで中備に蟇股を飾ります。裏側には花木を篭彫した手狭(たばさみ)を飾ります。

三芳野神社社殿の造営経過はいささか複雑です。

 寛永元年(1624)の造営は、慶安2年(1649)松平信綱が奉納した「三芳野天神縁起絵巻」に詳細に記されていますが、そこに描かれた社殿は、流造(ながれづくり)ほ本殿と入母屋造の拝殿のみで幣殿は存在せず、現社殿とは大きく異なっています。

平成元年から平成4年にかけて実施された解体修理の報告書『三芳野神社社殿修理工事報告書』によれば、蟇股と各部取合わせを調査した結果、本殿・幣殿・拝殿の計二十三面の蟇股はすべて同形式ですが、当初からのものではなく、正面より押込み、斜め釘打ちで羽目板に取り付けられた後補の蟇股であることが判明しました。また、痕跡から、拝殿には寛永元年の造立当初より蟇股が存在していましたが(ただし現在の蟇股とは異なる)、本殿は蟇股の無い建築であったことも明らかになりました。現在の蟇股は、社殿全体を同一体裁に整えるために、新たに作製し取り付けたものと考えられます。また、本殿と幣殿、幣殿と拝殿の取合せでおさまりが不自然な所も数カ所指摘されています。

 以上を勘案すれば、現社殿にみる権現造は、寛永建立当初からのものではなく、修造時に幣殿を増設して形成されたもので、さらに、寛永建立当初の本殿と、現本殿は本来別の建築と考えられます。

 明暦2年の修造時には、江戸城二の丸東照宮が移築され、その幣殿と拝殿が三芳野神社の外宮(天神外宮)となり、明治5年に氷川神社境内(宮下町)に移され、八坂神社社殿として現存しています。確証はありませんが、現在の三芳野神社本殿は江戸城二の丸東照宮の本殿であり、明暦2年に移築され大改修を受け、幣殿を増設し、本殿と拝殿を連結して現在見るような権現造社殿となったと推定されます。

 蛭子社本殿と大黒社本殿は、拝殿の前方、参道に向かい合って鎮座します。拝殿から見て左が蛭子社、右が大黒社です。両社は同寸法、同形式で、拝殿前に一対となって配置され社格を高めています。朱塗の一間社流造(いっけんしゃながれづくり)()()棚造(だなづくり)で、屋根はこけら葺形の銅板葺とします。蛭子社本殿と大黒社本殿は、ほとんど装飾のない簡素な建築で、身舎組物は(ふな)(ひじ)()で中備はなく、妻飾は(こう)(りょう)(いのこ)扠首(さす)です。庇も柱上に舟肘木を置くだけで、いたって簡素なつくりになっています。明暦2年(1656)の「三芳野天神別当常海覚書」に「末社両宇」とあるのが相当すると思われ、元禄11年(1698)の「元禄11年川越市街屋敷社寺記」に末社貳ヶ所共 表四尺四寸 奥七尺九寸」とあって、規模が記されています。しかし、現本殿は正面四尺、側面は身舎と庇をあわせて六尺四寸五分であり、元禄の記録と一致しません。蛭子社に掲げられた額の背面に享保15年(1734)の年紀があるので、その頃再建されたものと思われます。

 昭和3011日(平成4311日追加)指定

出典:川越市教育委員会

至 川越城 富士見櫓跡
至 川越城 富士見櫓跡

川越城 富士見(ふじみ)(やぐら)(あと)

所在地 川越市郭町二丁目

 

御嶽(おんたけ)神社が祀られているこの高台は、かつては川越城の富士見櫓が建てられていたところである。

櫓は矢倉とも書いて、合戦の際に物見として、あるいは防戦の足場として、城壁や城門の高い場所に設けられた建物を意味するが、天守閣のなかった川越城には東北の隅に二重の虎櫓、本丸の北に(ひし)櫓、西南の隅に三層の富士見櫓があって、城の中で一番高い所にあった富士見櫓が天守閣(てんしゅかく)の代わりとなっていたと思われる。

今日では、木々や建物のため、すっかり眺望も失われてしまったが、その昔はこの高台に立てば、富士見櫓の名の通り遠く富士山までも望めたことであろう。

元来、城の構造及び建造物は戦略上の都合もあって、その大部分が明らかにされることはなく、正確な規模は分からないが、江戸末期の慶応(けいおう)2年(1866)に川越城を測量した記録によれば、この富士見櫓は長さ八間三尺(約15m)、横八間(約14m)あったと記されている。

 

昭和573

出典:埼玉県

喜多院入口 交差点
喜多院入口 交差点
日枝神社
日枝神社

日枝神社 (川越市)

円仁(慈覚大師)が喜多院を創建(天長7年・830年)したおりに、その鎮守として貞観2年(860年)に坂本の日吉大社を勧請したものであるといわれている。東京赤坂の日枝神社(旧官幣大社)は、文明10年(1478年)、太田道灌が江戸城築城の際に、この川越日枝神社から分祀したものである。(赤坂日枝神社もそう記述している)

本殿は朱塗りの三間社流造、銅板葺で国の重要文化財に指定されている。拝殿は老朽化が深刻だったため、近年、新拝殿が再建された。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

天海大僧正 - 川越大師 喜多院
天海大僧正 – 川越大師 喜多院

天海(てんかい)大僧正(だいそうじょう)

15361643

喜多院(きたいん)27世住職であり、会津高田(あいづたかだ)(現 福島県会津(あいづ)美里(みさと)町)出身、江戸時代初期、喜多院を復興(ふっこう)しました。

将軍徳川(とくがわ)家康(いえやす)(こう)信頼(しんらい)あつく、宗教(しゅうきょう)政策(せいさく)顧問(こもん)的存在として助言(じょげん)を行い、将軍も度々(たびたび)、川越城また喜多院を(おとず)れています。

108歳で遷化(せんげ)(亡くなる)後、朝廷により「(じげ)()大師(たいし)」の称号を(たまわ)りました。

白山権現
白山権現

白山(はくさん)権現(ごんげん)

830年(天長7年)()(かく)大師(だいし)円仁(えんにん)が喜多院を創建(そうけん)された時に、天台宗修験(しゅげん)(どう)の霊場である白山より、この守護(しゅご)(しん)として白山の神仏の分霊を(まつ)ったと伝えられています。

右道路向かい側の日枝(ひえ)神社(じんじゃ)は、同じく創建時に、天台宗の本山である比叡山(ひえいざん)ふもとの日吉(ひよし)大社(たいしゃ)の神様の分霊を(まつ)った神社です。

天台宗では、人物(じんぶつ)習合(しゅうごう)といい、お寺も日本の神様にお守りいただきながら、神仏ともに礼拝(らいはい)し、人々の幸せをお祈りします。

修験(しゅげん)(どう)=神様と仏様の両方の力を得る修行方法

川越大師 喜多院
川越大師 喜多院
喜多院 山門
喜多院 山門

喜多院 山門

国指定重要文化財

山門は、4本の柱の上に屋根が乗る()脚門(きゃくもん)の形式で、屋根は切妻造り、本瓦葺。もとは後奈良天皇の「星野山」の刺額が揚げられていたといいます。棟礼を見る寛永9年(1632)に天海僧正により建立されたことが分かり、寛永15年(1639)の川越大火で焼失を免れ、喜多院では現存する最古の建物です。昭和30年度に部分修理が行われ、現在に至ります。

出典:川越大師 喜多院

川越大師 喜多院
川越大師 喜多院

国指定重要文化財

川越大師 喜多院案内図

伝説によるとその昔仙波辺の漫々たる海水を仙芳仙人の法力によりとり除き尊像を安置したというが、平安時代、天長7年(830)淳和天皇の勅により慈覚大師が創建された勅願寺で本尊阿弥陀如来を祀り無量寿寺と名づけた。

その後鎌倉時代、元久2年(1205)兵火で炎上の後、永仁4年(1296)伏見天皇が尊海僧正に再興せしめられたとき、慈恵大師(厄除元三大師)を歓請して官田五十石を寄せられ関東天台の中心となった。

正安3年(1301)後伏見天皇は星野山(現在の山号)の勅額を下した。更に室町時代、天文6年(1537)北条氏綱、上杉朝定の兵火で炎上した。

江戸時代、慶長4年(1599)天海僧正(慈眼大師)が第二十七世の法統をつぐが、同16年(161111月徳川家康が川越を訪れたとき寺領四万八千坪及び五百石を下し、酒井備後守忠利に工事を命じ、仏蔵院北院を喜多院と改め、四代家綱のとき東照宮に二百石を下すなど大いに寺勢をふるった。寛永15年(16381月の川越大火で現存の山門を除き堂宇はすべて焼失した。そこで三代将軍家光公は堀田加賀守正盛に命じてすぐに復興にかかり、江戸城紅葉山(皇居)の別殿を移築して客殿、書院などに当てた。家光誕生の間、春日局(家光公の乳母)の間があるのはそのためである。その他慈恵堂(本堂)、多宝塔、慈眼堂、鐘楼門、東照宮、日枝神社などの建物を数年間の間に再建し、それらが今日文化財として大切に保存されている。

江戸時代までは寺領四万8千坪、七百五十石の幕府の御朱印地として寺勢をふるったが、明治以降財力の欠如とその広さ、大きさのため荒廃に向った。

戦後文化財の指定とともに昭和大復興にとりかかり関係者の並々ならぬ努力によってその主な建造物の複原修理が完成し、それら偉観は、盛時を偲ばせるまでになった。しかし未だ完成しないところもかずあり今日までその整備事業は継続して行われている。

現在の境内地は東照宮を含めて一万四千坪あり、今日その緑は市民にとって貴重な憩いの場となっており池や堀をめぐらした景勝はそこに点在する文化財群とともに川越随一の名勝地霊場地として名高く厄除元三大師のお参りとともに四季を通じて史跡を訪れる人々がいつも絶えない。

1月3日の厄除初大師のご縁日には家内安全、厄除等の護摩祈願、また境内には、名物だるま市が軒をつらねて立ち並び、又2月3日の節分会、4月の長日護摩講の行事をはじめ毎日護摩供を奉じて所願成就の祈願を厳修している。

文化財の拝観ができ、最近では毎年5月の連休の一週間宝物特別展も開かれている。

 

出典:喜 多 院

川越市教育委員会
川越大師 喜多院
川越大師 喜多院
仙波東照宮
仙波東照宮

重要文化財・建造物

仙 波 東 照 宮

徳川家康をまつる東照宮は、家康の没後その遺骸を久能山から日光に移葬した元和3年(16173月、喜多院に四日間とう留して供養したので、天海僧正が寛永10年(16331月この地に創建した。

その後寛永15年(1638)正月の河越大火で延焼したが、堀田加賀守正盛を造営奉行とし、同年6月起工、同17年完成した。当初から独立した社格をもたず。

喜多院の一隅に造営されたもので、日光・久能山の東照宮とともに三大東照宮といわれている。

社の規模は表門(随身門)・鳥居・拝幣殿・中門(平唐門)・瑞垣・本殿からなっている。

本殿の前には歴代城主奉献の石灯籠がある。

なお拝殿には岩佐又兵衛勝以筆の三十六歌仙額と幣殿には岩槻城主阿部対馬守重次が奉納した十二聡の鷹絵額がある。

出典:埼玉県教育委員会

出典:川越市教育委員会

仙波東照宮
仙波東照宮

(せん) () (とう) (しょう) (ぐう)

〒350-0035 埼玉県川越市西小仙波町2丁目6−3
〒350-0035 埼玉県川越市西小仙波町2丁目6−3
〒350-0045 埼玉県川越市南通町7−10
〒350-0045 埼玉県川越市南通町7−10
至 クレアパーク(ゴール)
至 クレアパーク(ゴール)

(かわ) (こえ) (はち) (まん) (ぐう)

当宮は川越の地に創建してから約千年。

市内に約200社ある神社の中で、唯一「川越(河越)」の地名を有す由緒あるお宮です。

境内には、縁結びの夫婦イチョウや足腰健康の民部稲荷神社など見どころがいっぱい。お祭りやこども相撲大会、ちんじゅの森コンサートなど、四季を通じてさまざまなイベントもあります。

近所のお散歩がてらに、観光に、ぜひお気軽にお参りください。

出典:川越八幡宮

川越八幡宮
クレアパーク(ゴール)

あけぼの公園 はなみずき公園 ふじ道 クレアパーク ケーブルカー高尾山駅 ホテルグランビュー沖縄 三芳野神社 中央会場・松一小 二の丸庭園 仙波河岸史跡公園 初雁公園 北の丸公園 北原公園 千代田区役所 千代田区立スポーツセンター 千鳥ヶ淵公園 半蔵門 和光市役所 喜多院 城山公園 大手門 大正浪漫夢通り 小金井公園 川越氷川神社 川越駅 平川門 新座緑道 新河岸川 日比谷公園健康運動広場 朝霞中央公園 桜田門 楠公レストハウス 気象観測露場 氷川神社 清水門 皇居東御苑 菓子屋横丁 蔵里 青葉台公園 飯能市役所 駒場運動公園 高尾山口駅 高尾山頂 高尾駅北口 1号路

クレアパーク(スタート)→蔵里(WC)→出世稲荷→大正浪漫夢通り→蔵造りの町並み→菓子屋横丁→濯柴公園(教室)(WC)→時の鐘→連雀町交差点→喜多院(昼飯)(WC)→中院→仙波河岸史跡公園(WC)→川越駅(ゴール)

川越わくわくウオーキング教室 NPO法人埼玉ウオーキング協会 小江戸川越ウオークⅡ・蔵造りの町並み ・菓子屋横丁 ・仙波河岸史跡公園
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川越わくわくウオーキング教室
NPO法人埼玉ウオーキング協会
小江戸川越ウオークⅡ
・蔵造りの町並み
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・仙波河岸史跡公園

クレアパーク(スタート)
クレアパーク(スタート)
クレアパーク(スタート)
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クレアパーク(スタート)
クレアパーク(スタート)
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〒350-0043埼玉県川越市新富町1丁目
〒350-0043埼玉県川越市新富町1丁目
蔵里(WC)
蔵里(WC)

蔵 里 小江戸蔵里(川越市産業観光館)

120年間の歴史を持つ酒蔵を改装した「小江戸蔵里(産業観光館)」には、川越らしさと本物にこだわる「小江戸川越ブランド産品」、埼玉県内35蔵の日本酒、地場食材を生かした料理や加工品などが集結。

「蔵」の雰囲気を生かしたくつろぎと憩いの空間で、ここにしかない川越の魅力を発信しています。

「見て(酒蔵)」、「買って(お土産・地酒・発酵食品)」、「食べて(地場食材を使ったお食事)」、川越とそして埼玉の魅力を体験できる小江戸蔵里を、ぜひご利用ください。

歴史的・文化的な香りが漂う一番街の蔵造りの町並みと、商業・業務施設が集まるクレアモール。この中間に位置する小江戸蔵里は、観光客も市民の皆さんも楽しむことができる、地域のにぎわいを創造する施設です。

出典:川越市役所

蔵里(WC)
蔵里(WC)
火除稲荷大明神
火除稲荷大明神

火 除 稲 荷 大 明 神

大正浪漫夢通り
大正浪漫夢通り

川越大正浪漫夢通り

古き良き大正時代を思わせる情緒あふれる大正浪漫夢通り。通りを歩けば、そこかしこに大正ロマンの風情が漂います。毎日の買い物から、こだわりの逸品、川越観光のお土産などを販売する、個性豊かなお店が軒を並べています。大正ロマンの雰囲気を求めて、テレビや映画の撮影によく使われる商店街です。大正ロマンの風を感じに川越の大正浪漫夢通りへぜひお越し下さい。

出典:大正浪漫夢通り

大正浪漫夢通り
大正浪漫夢通り
山崎美術館周辺
山崎美術館周辺
蔵造りの町並み
蔵造りの町並み

明治の香り漂う蔵造りの街並み一番街

大きな鬼瓦の屋根に黒しっくいの壁と分厚い観音開きの扉…。まるでタイムスリップしてしまったかの様な感覚になる蔵造りの趣豊かな建物が立ち並ぶ町並み-「一番街」。

同じように見えて一軒一軒違う造りをしており、それぞれに個性を出しながら、堂々とした風格さえ漂わせている。その中で最も古く、1792(寛政4)に建てられた大沢家住宅(写真左)は国の重要文化財に指定されている。

江戸時代、川越藩主松平信綱の町割りによって、通りに店が向かい合う形の家並みができあがったが、度重なる大火のため幕府がかわらぶきを奨励し、火事に強い建物として江戸の町で土蔵造りが流行した。これによって商業で江戸と結び付きが強かった川越でも、蔵造りの商家が建つようになった。 現在の蔵造りの多くは、川越大火後に建てられたもので、今も30数棟が残る。大正12年、関東大震災やその後の戦災によって東京の蔵造りが姿を消したこともあり、江戸の景観を受け継ぐ重要な歴史的遺産として、「時の鐘」をはじめとするこの一番街周辺は、平成11121日に重要伝統的建造物群保存地区に選定された。また埼玉りそな銀行の古い洋館は大正7年に建築されたもの。(写真右下)近年では新しい建築物も、景観を壊さないように工夫され、新しいものと古いものとが調和した街づくりが行われている。当時のたばこ問屋を整備した「蔵造り資料館」では、蔵造りの構造をはじめ、敷地内の各蔵の配置なども見る事が出来る。

出典:公益社団法人 小江戸川越観光協会

蔵造りの町並み
蔵造りの町並み
蔵造りの町並み
蔵造りの町並み
菓子屋横丁
菓子屋横丁
菓子屋横丁
菓子屋横丁

懐かしい味を今に伝える菓子屋横丁

色とりどりのガラスが散りばめられた石畳の道に、20軒程度の菓子屋などがひしめく川越の有名なスポット「菓子屋横丁」。素朴で昔懐かしい味を今に伝える菓子作りの店が立ち並び、一歩足を踏み入れると、誰もが子供に返ったような気分になってしまう。醤油の焼ける香ばしい香り、ニッキやハッカ飴、駄菓子やだんごなど、昔ながらの手法で作られる飴菓子・カルメ焼きなど、思わず「あっこれ!」と言ってしまう駄菓子の数々。百円玉を握りしめ、あれにしようかこれにしようかと頭をひねった幼い頃を思い出す大人も、駄菓子をあまり知らない子供も世代を超えて、誰もがワクワクしてしまうような場所である。

「菓子屋横丁」は明治の始め頃、鈴木藤左衛門が養寿院の門前町として栄えるこの町で江戸っ子好みの 気取らない菓子を製造したことが始まりといわれている。その後の大正12年、関東大震災によって被害を受けた東京に代わって製造供給を賄い、昭和初期には70軒以上の店があったといわれている。その後、戦争や生活の変化などによって店舗数は激減したものの、人情味あふれる横丁の情緒、威勢の良い呼び込みの声、素朴で懐かしく温かい街角は、時代が変わっても人々に安らぎを与えてくれる。 「菓子屋横丁」に漂う素朴で懐かしい香りは、平成13年環境省の“かおり風景100に選定された。

出典:公益社団法人 小江戸川越観光協会

菓子屋横丁
菓子屋横丁
菓子屋横丁
菓子屋横丁
菓子屋横丁
菓子屋横丁
菓子屋横丁
菓子屋横丁
菓子屋横丁
菓子屋横丁
菓子屋横丁
菓子屋横丁
菓子屋横丁
菓子屋横丁
至濯柴公園
至濯柴公園
濯柴公園(教室)
濯柴公園(教室)

濯 紫 公 園

濯紫園と呼ばれた庭園のあった場所を新河岸川と合わせた親水公園として整備された公園。公園中程に起伏があり、登ると遊具が設置されている。

藤棚やベンチがあり子どもたちが遊ぶ空間が広がる。川沿いを歩くことができるので水辺の散策が楽しめる。

出典:川越市役所広報室

濯柴公園(教室)
濯柴公園(教室)
濯柴公園(教室)
濯柴公園(教室)

濯紫公園の由来

昔、ここに柳沢吉保の家臣山東小市郎の別荘があり、(たく)()(えん)と呼ばれる大変美しい庭園がありました。その後、唯心という僧がここで唯心庵を営んでいました。明治2年には水村氏により水車がつくられ、この水車は通称いおりの水車と呼ばれ人々に親しまれていました。

いおりの堰の上流側は子供たちの絶好の水泳や水遊び場だったそうです。

その後、新河岸川周辺の農地には住宅が建ち並び、水車も必要とはなくなり取り壊され、川も改修工事によって現在の姿になりました。

この公園は新河岸川の親水拠点として地元の人々と行政が協力し、川と公園を一体的に整備したものです。

この公園の名はかつての濯紫園にちなみ「濯紫公園」としました。

平成元年3

川越夜戦古戦場跡周辺
川越夜戦古戦場跡周辺

川越夜戦古戦場跡(河越夜戦古戦場跡)

東明寺

所在地 川越市志多町

東明寺は時宗(開祖一遍上人)の寺で稲荷山称名院東明寺と称し、本尊は虚空蔵菩薩である。

お寺の位置は、川越台地の先端が水田地帯に接する北の端にある。このあたりからは、新河岸川を境として川越の町の北側を入間川を主流とする分流が幾筋も流れ、水田地帯を形成しており、古くからこの穀倉地帯を領する多くの武士団が存在した。東明寺はこうした土豪の一人河越氏の荘園の東端に連なる広い寺領を有していた。その寺領は東明寺村、寺井三か村、寺山村などに及び、広大な境内を有して、その惣門は今の喜多町の中ほどにあったと伝えられている。このことから喜多町の古名を東明寺門前町と称したといわれている。天文15年(1546)4月に戦われた、上杉、北条軍の川越夜戦は、一名東明寺口合戦といわれ、この地の要路松山街道を含んだ東明寺寺領と境内で争われたものである。

昭和57年3月

出典:埼玉県

さいたま地方裁判所川越支部周辺
さいたま地方裁判所川越支部周辺
時の鐘
時の鐘

小江戸の街に今も時を伝える川越の

シンボル時の鐘

情緒あふれる蔵造りの町並みにひときわ高くそびえる川越のシンボル「時の鐘」。蔵造りの町並み「一番街」と同様に、城下の頃の面影を残す建造物で、江戸時代初頭から城下の町に時を告げ、庶民に親しまれてきた鐘つき堂である。

今から約400年前、当時の川越藩主だった酒井(さかい)(ただ)(かつ)によって創建されたといわれる。以来度重なる火災で鐘楼や銅鐘が焼失したが江戸時代を通じて度々建て替えられた。

現在建っているのは4代目に当たり、明治26年に起きた川越大火直後に再建されたもの。 町の3分の1が焼失した中で、暮らしに欠かせない「時」を告げる時計台は、自らの店も再建していない川越の商人達によって、いち早く建て直された。

時代が変わり鐘つきの方法が鐘つき守りから機械仕掛けへと変化しても、昔と変わらず今も蔵造りの町並みに時を告げている。また、その響きの良い音色は平成 8年、環境省の「残したい日本の音風景100」に認定された。

木造で3層のやぐらで高さは約16メートル。午前6時・正午・午後3時・午後6時の14回鳴る鐘の音は、その時間時間の空の色や街の風景、漂う香りなどによってそれぞれに趣が感じられ、小江戸川越の情緒をたっぷりと味合わせてくれる。

公益社団法人 小江戸川越観光協会

/時の鐘
/時の鐘
時の鐘
時の鐘
山崎美術館
山崎美術館

公益財団法人 山崎美術館

橋本雅邦画伯

橋本雅邦画伯は、川越藩のお抱え絵師橋本晴園養師の子息にて、画道に勝れ、日本革新の先覚者であり明治時代における我が国画壇の最長老であります。

依って、郷土川越の有志が集まり、明治32(1899)画宝会を結成し、先生のご力作の頒布をいただきました。

山崎家4代目故山崎豊翁は、同会の幹事として率先活躍するとともに、画伯から受けた作品をすべて大切に保管し、これを子孫に伝承させたものであります。

併し、子孫としては、社会公益の為、一般に広く鑑賞を仰ぎ、以って美学向上の資料に供するに、如かずと考え、ここに翁の誕生150年を記念し、昭和57年文化の日に山崎美術館を発足いたしました。

より多くの方々のご利用を切にお願いします。

出典:龜屋

山崎美術館
山崎美術館
仲町交差点
仲町交差点
仲町交差点
仲町交差点
〒350-0066 埼玉県川越市連雀町10−1
〒350-0066 埼玉県川越市連雀町10−1
連雀町交差点
連雀町交差点
成田山川越別院本行院
成田山川越別院本行院

成田山川越別院(本行院)

成田山川越別院本行院は、埼玉県川越市にある真言宗智山派の寺院である。成田山新勝寺の別院で、通称は川越不動。毎月28日には蚤の市で、11月には火渡り祭で賑わう。本尊は不動明王。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

成田山川越別院本行院
成田山川越別院本行院
成田山川越別院本行院
成田山川越別院本行院
川越歴史博物館前
川越歴史博物館前

川越歴史博物館

喜多院
喜多院

国指定重要文化財

川越大師 喜多院案内図

伝説によるとその昔仙波辺の漫々たる海水を仙芳仙人の法力によりとり除き尊像を安置したというが、平安時代、天長7年(830)淳和天皇の勅により慈覚大師が創建された勅願寺で本尊阿弥陀如来を祀り無量寿寺と名づけた。

その後鎌倉時代、元久2年(1205)兵火で炎上の後、永仁4年(1296)伏見天皇が尊海僧正に再興せしめられたとき、慈恵大師(厄除元三大師)を歓請して官田五十石を寄せられ関東天台の中心となった。

正安3年(1301)後伏見天皇は星野山(現在の山号)の勅額を下した。更に室町時代、天文6年(1537)北条氏綱、上杉朝定の兵火で炎上した。

江戸時代、慶長4年(1599)天海僧正(慈眼大師)が第二十七世の法統をつぐが、同16年(161111月徳川家康が川越を訪れたとき寺領四万八千坪及び五百石を下し、酒井備後守忠利に工事を命じ、仏蔵院北院を喜多院と改め、四代家綱のとき東照宮に二百石を下すなど大いに寺勢をふるった。寛永15年(16381月の川越大火で現存の山門を除き堂宇はすべて焼失した。そこで三代将軍家光公は堀田加賀守正盛に命じてすぐに復興にかかり、江戸城紅葉山(皇居)の別殿を移築して客殿、書院などに当てた。家光誕生の間、春日局(家光公の乳母)の間があるのはそのためである。その他慈恵堂(本堂)、多宝塔、慈眼堂、鐘楼門、東照宮、日枝神社などの建物を数年間の間に再建し、それらが今日文化財として大切に保存されている。

江戸時代までは寺領四万8千坪、七百五十石の幕府の御朱印地として寺勢をふるったが、明治以降財力の欠如とその広さ、大きさのため荒廃に向った。

戦後文化財の指定とともに昭和大復興にとりかかり関係者の並々ならぬ努力によってその主な建造物の複原修理が完成し、それら偉観は、盛時を偲ばせるまでになった。しかし未だ完成しないところもかずあり今日までその整備事業は継続して行われている。

現在の境内地は東照宮を含めて一万四千坪あり、今日その緑は市民にとって貴重な憩いの場となっており池や堀をめぐらした景勝はそこに点在する文化財群とともに川越随一の名勝地霊場地として名高く厄除元三大師のお参りとともに四季を通じて史跡を訪れる人々がいつも絶えない。

1月3日の厄除初大師のご縁日には家内安全、厄除等の護摩祈願、また境内には、名物だるま市が軒をつらねて立ち並び、又2月3日の節分会、4月の長日護摩講の行事をはじめ毎日護摩供を奉じて所願成就の祈願を厳修している。

文化財の拝観ができ、最近では毎年5月の連休の一週間宝物特別展も開かれている。

 

出典:喜 多 院

川越市教育委員会

川越大師 喜多院
川越大師 喜多院
喜多院 五百羅漢
喜多院 五百羅漢

喜多院 五百(ごひゃく)羅漢(らかん)

川越の観光名所の中でも、ことのほか人気の高い喜多院の五百羅漢。日本三大羅漢の一つに数えられます。この五百余りの羅漢さまは、川越北田島の()(じょう)の発願により、天明2年(1782)から文政8年(1825)の約50年間にわたり建立されたものです。

十大弟子、十六羅漢を含め、533体のほか、中央高座の大仏に釈迦如来、脇侍の文殊・普賢の両菩薩、左右高座の阿弥陀如来、地蔵菩薩を合わせ、全体538体が鎮座しています。

笑うのあり、泣いたのあり、怒ったのあり、ヒソヒソ話をするのもあり、本当にさまざまな表情をした羅漢様がおられます。そして、いろいろな仏具、日用品を持っていたり、動物を従えていたりと、観察しだしたらいつまで見ていても飽きないくらい、変化に富んでいます。

また、深夜こっそりと羅漢さまの頭をなでると、一つだけ必ず温かいものがあり、それは亡くなった親の顔に似ているのだという言い伝えも残っています。

出典:喜多院

中院庭園
中院庭園

河越茶・狭山茶発祥の地 天台宗別格本山

中 院

喜多院の直ぐ南方にあり、正式には天台宗別格本山中院といい、閑静な佇まいが趣のある寺院。

古くは星野山無量寿寺仏地院と呼ばれ、鎌倉時代の終わり頃、無量寿寺から分かれたとされる天台宗の寺で、喜多院に天海僧正が来往するまではこの地の中心的な寺院であったといわれている。

中院は島崎藤村ゆかりの寺院として知られており、境内には川越市の文化財に指定された島崎藤村ゆかりの茶室・不染亭があり、現在は茶道を楽しむ人々に利用され、保存伝承されている。

また、境内には藤村の義母加藤みきの墓があり、藤村も度々足を運び墓石の「蓮月不染之墓」という戒名は、藤村が自ら筆をとり記したものだといわれる。 また桜の名所としても名高く、本堂前の枝垂桜(しだれざくら)は特に有名である。緑豊かな境内は春だけでなく、夏・秋・冬とそれぞれに色を変え、四季折々の表情で人々を楽しませてくれる。さらに、ここ中院は川越茶・狭山茶の発祥の地としても有名。

開山の際、円仁が京より茶の実を携え、境内に薬用として栽培したのが始まりで、30年ほど前までは境内にも茶畑があったという。境内にはその旨を記した石碑が建てられている。 木々を愛でながら 時の流れをゆっくりと感じ、心洗われるひとときを感じられる場所だ。

出典:公益社団法人 小江戸川越観光協会

中院庭園
中院庭園
中院庭園
中院庭園
星野山 無量寿寺 中院
星野山 無量寿寺 中院
泥足地蔵
泥足地蔵
仙波河岸史跡公園
仙波河岸史跡公園
仙波河岸史跡公園周辺
仙波河岸史跡公園周辺
仙波河岸のむかし
仙波河岸のむかし

仙波河岸のむかし

むかしこの場所には「仙波河岸」という河岸場がありました。仙波河岸ができたのは明治の初めごろのことです。

これまでにも新河岸川の下流にはすでに数箇所の河岸場があり、江戸と川越の間を船を使って物品を運んでいました。これが「新河岸川舟運」と言われているものです。

仙波河岸は新河岸川の最も上流に位置し一番新しくできた河岸場です。

しかし、明治の中ごろから東京との間に鉄道が整備されはじめました。また、大正時代には新河岸川の改修工事が始まり、昭和の初めには新河岸舟運も終わりをむかえました。

下の写真は仙波河岸に荷船が並んでいる様子を写した明治時代後期の写真です。

 

仙波河岸史跡公園
仙波河岸史跡公園

仙波(せんば)河岸(がし)史跡(しせき)公園(こうえん)

新河岸川舟運の面影を伝える仙波河岸跡や、水や緑といった自然が多く残っており、歴史と自然を楽しむことができる歴史公園です。

仙波河岸跡、仙波の滝、湿性地などの区域を遊歩道や木デッキで回遊することができます。

出典:川越市役所

仙波河岸史跡公園
仙波河岸史跡公園
〒350-0033埼玉県川越市富士見町
〒350-0033埼玉県川越市富士見町
〒350-0033埼玉県川越市富士見町
〒350-0033埼玉県川越市富士見町
川越駅(ゴール
川越駅(ゴール
川越駅(ゴール)
川越駅(ゴール)

あけぼの公園 はなみずき公園 ふじ道 クレアパーク ケーブルカー高尾山駅 ホテルグランビュー沖縄 三芳野神社 中央会場・松一小 二の丸庭園 仙波河岸史跡公園 初雁公園 北の丸公園 北原公園 千代田区役所 千代田区立スポーツセンター 千鳥ヶ淵公園 半蔵門 和光市役所 喜多院 城山公園 大手門 大正浪漫夢通り 小金井公園 川越氷川神社 川越駅 平川門 新座緑道 新河岸川 日比谷公園健康運動広場 朝霞中央公園 桜田門 楠公レストハウス 気象観測露場 氷川神社 清水門 皇居東御苑 菓子屋横丁 蔵里 青葉台公園 飯能市役所 駒場運動公園 高尾山口駅 高尾山頂 高尾駅北口 1号路

クレアパーク(スタート)→1番妙善寺(毘沙門天)→仙波河岸史跡公園(教室)→2番天然寺(寿老人)→3番喜多院(大黒天)→4番成田山(恵比寿天)→5番蓮馨寺(福禄寿神)→三芳野神社(昼飯)→川越氷川神社→6番見立寺(布袋尊)→7番妙昌寺(弁財天)→クレアパーク(ゴール)

川越わくわくウオーキング教室 NPO法人埼玉ウオーキング協会 小江戸川越ウオークⅤ ・川越七福神 ・仙波河岸史跡公園 ・氷川神社

川越わくわくウオーキング教室
NPO法人埼玉ウオーキング協会
小江戸川越ウオークⅤ
・川越七福神
・仙波河岸史跡公園
・氷川神社

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クレアパーク(スタート)
クレアパーク(スタート)
クレアパーク(スタート)
クレアパーク(スタート)
川越市脇田町10
川越市脇田町10
川越市脇田町
川越市脇田町
1番妙善寺(毘沙門天)
1番妙善寺(毘沙門天)

毘沙門天 善國寺

1番妙善寺(毘沙門天)
1番妙善寺(毘沙門天)
1番妙善寺(毘沙門天)
1番妙善寺(毘沙門天)
1番妙善寺(毘沙門天)
1番妙善寺(毘沙門天)
1番妙善寺(毘沙門天)
1番妙善寺(毘沙門天)
1番妙善寺(毘沙門天)
1番妙善寺(毘沙門天)
1番妙善寺(毘沙門天)
1番妙善寺(毘沙門天)

小江戸川越七福神

(みょう)善寺(ぜんじ)(天台宗)菅原町9-6

第一番 毘沙門天(びしゃもんてん)

毘沙門天は仏教の守護神

で、多聞天ともよばれてい

ます。鎧、兜に身を包み、

左手に持つ宝塔から宝物を

授け、右手の鉾で邪を払う

という、物心共々の福を施

す神であります。

 

小江戸川越七つの音風景

水琴窟(すいきんくつ)

水琴窟は江戸時代初期の茶人、小堀遠州が考えた排水装置「洞水門」から発祥したといわれています。

甕(かめ)の底に溜まった水面に水滴が落ちると、甕の空間に反響する音色が琴に似ていることから「水琴窟」と呼ばれるようになりました。

 

 

秋の七草        女郎花(おみなえし)

手にとれば袖さへ匂ふ女郎花

この白露に散らまく惜しも

                   山上憶良

オミナエシのオミナは女

で、姿のやさしさを現した

名。根は漢方で敗醤といい

利尿、解毒に用います。

花言葉―美人

1番妙善寺(毘沙門天)周辺
1番妙善寺(毘沙門天)周辺
仙波河岸史跡公園(教室)
仙波河岸史跡公園(教室)
仙波河岸史跡公園(教室)
仙波河岸史跡公園(教室)

仙波河岸史跡公園

仙波河岸史跡公園

公園を利用される皆さんへ

この公園は、むかし「仙波河岸」という河岸場があった跡地を整備したものです。

だれでもが気持ちよく楽しく利用できるよう、次のことを守りましょう。

1.公園の花や木は、大切にしましょう

2.ゴミくずや空きカンなどは、散らかさずに持ち帰りましょう。

3.みんなで注意し合ってケガのないように遊びましょう。

4.犬の糞は絶対に捨てないよう袋に入れて持ち帰りましょう。

5.犬の放し飼いは禁止します。

6.公園内でたき火、打ち上げ花火、その他の火気を扱い周囲に迷惑を及ぼす行為は禁止します。

7.公園内へのオートバイ、自転車の乗り入れは禁止します。

8.付近に迷惑を及ぼすボール遊びは禁止します。

9.植物などを守るため、ロープ柵の中にははいらないようにしましょう。

公園内で見られる植物

園内には下記のような植物が見られます。静かに観察しましょう。

カワヂシャミクリタコノアシ
カワヂシャ
ゴマノハグサ科
タコノアシ
ユキノシタ科
ミクリ
ミクリ科
葉はチシャ(レタスの仲間)に似て、若葉は食べられます。初夏に小さな白い花をたくさん咲かせます。晩夏につく花の穂は数本に分かれ、黄白色の花が片側につき、タコの足を連想させるので、この名がつきました。緑色のいが状の実が栗を連想させるので、この名がつきました。茎は簾(すだれ)に、根は漢方薬にされます。
公園内で見られる植物

出典:川越市都市計画部公園整備課

   公 園 管 理 事 務 所

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仙波河岸史跡公園(教室)
仙波河岸史跡公園(教室)

仙波河岸のむかし

むかしこの場所には「仙波河岸」という河岸場がありました。仙波河岸ができたのは明治の初めごろのことです。

これまでにも新河岸川の下流にはすでに数箇所の河岸場があり、江戸と川越の間を船を使って物品を運んでいました。これが「新河岸川舟運」と言われているものです。

仙波河岸は新河岸川の最も上流に位置し一番新しくできた河岸場です。

しかし、明治の中ごろから東京との間に鉄道が整備されはじめました。また、大正時代には新河岸川の改修工事が始まり、昭和の初めには新河岸舟運も終わりをむかえました。

下の写真は仙波河岸に荷船が並んでいる様子を写した明治時代後期の写真です。

 

2番天然寺(寿老人)
2番天然寺(寿老人)

小江戸川越七福神

天然寺(天台宗)小仙波町1-10-10

第二番 寿老人

寿老人は中国の神様で老人星の化身、福禄寿と同体異名であるといわれ、富財、子宝、諸病平癒とご利益は多岐にわたっており、特に長寿の神として信仰されております

 

小江戸川越七つの音風景

水琴窟(すいきんくつ)

水琴窟は江戸時代初期の茶人、小堀遠州が考えた排水装置「洞水門」から発祥したといわれています。

甕(かめ)の底に溜まった水面に水滴が落ちると、甕の空間に反響する音色が琴に似ていることから「水琴窟」と呼ばれるようになりました。

 

 

秋の七草        桔梗

桔梗の花咲く時く時ぽんと言ひそうな

                   千代女

秋の七草の朝顔は桔梗をいいます。根にはサポニンが大量に含まれており、去痰剤として薬用に用いています。。

花言葉―変わらぬ愛

2番天然寺(寿老人)
2番天然寺(寿老人)
2番天然寺(寿老人)
2番天然寺(寿老人)
2番天然寺(寿老人)
2番天然寺(寿老人)
2番天然寺(寿老人)
2番天然寺(寿老人)
2番天然寺(寿老人)
2番天然寺(寿老人)

木造大日如来坐像

(市指定・彫刻)

像高159.8㎝、寄木造(よせぎづくり)(ちょう)(がん)(しっ)(ぱく)、胸前で智奉印(ちけんいん)結跏趺坐(けっかふざ)する。

頭部内刳(うちぐり)部に建武2年(1335)、体部背板に永禄13年(1570)の修理銘がある。

様式・形制から1112世紀頃の造立と考えられる。後補の部分が多く、面部も大幅に削り直しを受けているが、市内に現存する仏像としては、最も古い作例の一つである。

平成4416日指定

出典:川越市教育委員会

2番天然寺(寿老人)
2番天然寺(寿老人)
2番天然寺(寿老人)
2番天然寺(寿老人)

(すい) (きん) (くつ)

水琴窟は江戸時代初期の茶人、小堀遠州が考えた排水装置「洞水門」から発祥したといわれています。

(かめ)の底に溜まった水面に水滴が落ちると、甕の空洞に反響する音色が琴に似ていることから「水琴窟」と呼ばれるようになりました。

(すい) (きん) (くつ)

(いや)し」

 

竹筒に耳をあて

滴の奏でる

癒しの音色を

お楽しみください。

3番喜多院(大黒天)
3番喜多院(大黒天)
3番喜多院(大黒天)
3番喜多院(大黒天)
3番喜多院(大黒天)
3番喜多院(大黒天)

小江戸川越七福神

喜多院(天台宗)小仙波町1-20-1

第三番 大黒天

大黒天は古代インドの神様で、密教では大自在天の化身、生産の神様です。くろ(黒)くなってまめ(魔滅)に働いて大黒天を拝むと、財宝糧食の大福利益が得られます。

 

小江戸川越七つの音風景

水琴窟(すいきんくつ)

水琴窟は江戸時代初期の茶人、小堀遠州が考えた排水装置「洞水門」から発祥したといわれています。

甕(かめ)の底に溜まった水面に水滴が落ちると、甕の空間に反響する音色が琴に似ていることから「水琴窟」と呼ばれるようになりました。

 

 

秋の七草       

しら露もこぼさぬ萩のうねり哉

                   芭蕉

萩の名は古い株から芽を出す生え芽(ぎ)から出たといわれ、山萩の別名です。山野に多く、七~九月に紅柴色の蝶形花を開きます。

花言葉―想い

 

3番喜多院(大黒天)
3番喜多院(大黒天)

拝観案内(三代将軍家光公誕生の間

三代将軍家光公誕生の間

春日局(かすがのつぼね)の化粧の間

五百羅漢(らかん)

拝観事務所にて受付の上ご参拝下さい。

拝観時間

3/111/23

8:5016:30

11/24~㋁末日

8:5016:00

※日・祝は閉館時間を20分延長

拝観休業日

12/251/8

2/22/3 4/24/5 8/16

その他特別行事の時

3番喜多院(大黒天)
3番喜多院(大黒天)

(すい) (きん) (くつ)

水琴窟は江戸時代初期の茶人、小堀遠州が考えた排水装置「洞水門」から発祥したといわれています。

(かめ)の底に溜まった水面に水滴が落ちると、甕の空洞に反響する音色が琴に似ていることから「水琴窟」と呼ばれるようになりました。

3番喜多院(大黒天)
3番喜多院(大黒天)
3番喜多院(大黒天)
3番喜多院(大黒天)

喜多院 多宝塔

境内にそびえる朱色の多宝塔

寛永16年(1639/江戸時代)に建造され、現在埼玉県の有形文化財に指定されています。

この多宝塔は、江戸時代の大工棟梁「平内(へいのうち)政信(まさのぶ)」が建造。平内政信は、全5巻からなる木割書「匠明」を著した人物で、喜多院多宝塔以外に、和歌浦天満宮(和歌山市)や輪王寺常行堂(日光市)なども建造しています。

現在は、本堂の斜め前に建てられている多宝塔ですが、もともとは山門前にある「白山権現」と「日枝神社」の間の古墳上に建てられていました。その後、2度の移築をし現在地にあります。

江戸時代初期の多宝塔の特徴が表れ、境内で一際鮮やかで目を引きます。喜多院を訪れた際は、是非みておきたい建物の1つです。

出典:カワゴエール

3番喜多院(大黒天)
3番喜多院(大黒天)

喜多院 慈恵堂

埼玉県川越市にある天台宗の寺院。山号は星野山(せいやさん)。良源(慈恵大師、元三大師とも)を祀り川越大師の別名で知られる。建物の多くが重要文化財に指定され、寺宝にも貴重な美術工芸品を多く有する。広大な境内は池や掘を廻らせた景勝地となっている。13日の初大師(だるま市)、節分、長月護摩講塔、七五三、菊祭りなど諸行事はむろん、四季折々の行楽客で賑わう。境内にある五百羅漢の石像も有名である。毎年、正月三が日の初詣には埼玉県内の寺院の中では最も多い約40万人の参拝客が訪れる。

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川越市小仙波町1丁目
川越市小仙波町1丁目
4番成田山(恵比須天)
4番成田山(恵比須天)
4番成田山(恵比須天)
4番成田山(恵比須天)
4番成田山(恵比須天)
4番成田山(恵比須天)

小江戸川越七福神

成田山(真言宗)久保町9-2

第四番 恵比須天(えびすてん)

恵比須天様は「福の神」の代

表で、農村では、田の神、

街では市神、福利を招く神

として、鯛を抱いた福々し

い相好でなじみ深く、人々

から深い信仰が寄せられて

います。

 

小江戸川越七つの音風景

水琴窟(すいきんくつ)

水琴窟は江戸時代初期の茶人、小堀遠州が考えた排水装置「洞水門」から発祥したといわれています。

甕(かめ)の底に溜まった水面に水滴が落ちると、甕の空間に反響する音色が琴に似ていることから「水琴窟」と呼ばれるようになりました。

 

 

秋の七草        (なで) (しこ)

なでしこが花見る毎にをとめらが

ゑまひのにほひ思ほゆるかも

                   万葉集巻十八

河原撫子は河原辺に生え

るかれんな花の意味で、美

しい淡紅色の花を開かせま

す。

花言葉―貞節

 

4番成田山(恵比須天)
4番成田山(恵比須天)
川越 熊野神社
川越 熊野神社

川越 熊野神社

室町時代に紀州熊野本宮大社から分祀された開運・縁結びの神社。境内には、本殿や拝殿、神楽殿の他、歌碑がある。

出典:熊野神社

川越 熊野神社
川越 熊野神社
川越 熊野神社
川越 熊野神社
川越 熊野神社
川越 熊野神社
川越 熊野神社
川越 熊野神社
川越 熊野神社
川越 熊野神社
川越 熊野神社 水子地藏
川越 熊野神社 水子地藏

水 子 地 蔵 尊

この世の光を見ずして逝った胎児や、生まれて間もなく亡くなった子供を、俗に水子(みずこ)と云いますが、そうした(さち)(うす)い子等は、今の世にどれ程多いことでしょう。やる方ない悲しい思いを持つ方々はどうかこのお地蔵様に祈って、水子の冥福と己が罪障の消滅を念じて下さい、薄命不憫な子等をお救い下さるのが水子地蔵尊です。

当山

 

5番蓮馨寺(福禄寿神)
5番蓮馨寺(福禄寿神)

小江戸川越七福神

(れん)馨寺(けいじ)(浄土宗)連雀町7-1

第五番 (ふく)(ろく)寿(じゅ)(じん)

福禄寿神とは幸福、高禄

長寿の三徳を具えて人に与

える方で、右手に霊芝、左

手に神亀を持ち、癌や脳卒

中を治しなさい。そうすれ

ば福禄寿が得られますと教

えています。

 

小江戸川越七つの音風景

水琴窟(すいきんくつ)

水琴窟は江戸時代初期の茶人、小堀遠州が考えた排水装置「洞水門」から発祥したといわれています。

甕(かめ)の底に溜まった水面に水滴が落ちると、甕の空間に反響する音色が琴に似ていることから「水琴窟」と呼ばれるようになりました。

 

 

秋の七草        () (ばな)(すすき)

山は暮れて野は黄昏の芒かな             蕪村

ススキは穂が獣の尾のよ

うな形をしているので尾花

ともいいます。又すくすく

と立つ木の意でススキとい

われました。

花言葉―勢力、活力

 

5番蓮馨寺(福禄寿神)
5番蓮馨寺(福禄寿神)
川越市仲町
川越市仲町
時の鐘
時の鐘

時の鐘

時の鐘は、埼玉県川越市の中心部、幸町北部の蔵造りの街並みに建てられている鐘楼。建物は、川越市指定有形文化財に指定されている。

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川越スカラ座
川越スカラ座

川越スカラ座

前身は1905年(明治38年)に開業した寄席「一力亭」。その後、1907年(明治40年)に「おいで館」、1921年(大正10年)に「川越演芸館」と改称し営業を継続したが、戦後の1945年(昭和20年)に松竹の封切館「川越松竹館」として再建。1963年(昭和38年)に現館名に改称。「シアターホームラン」(旧:ホームラン劇場)と共に川越市内を代表する映画館として市内の映画ファンに親しまれた。

2000年代に入り、埼玉県内の主要都市にシネマコンプレックスが多数開業し、経営的にも苦戦を強いられる。さらには経営者の高齢化も逆風となり、ライバル館だった「シアターホームラン」が閉館(20062月)に追い込まれた13ヵ月後の2007年(平成19年)527日を最後に、しばらくの休館を余儀なくされる。しかし、この劇場で上映会を行った経験を持つ特定非営利活動法人「プレイグラウンド」に経営が譲られ、賛助会員を募って同年818日、500万円の出資金で再オープンを果たす。

 

現在はミニシアター向きの作品を中心に上映する一方、俳優や映画監督を招いての舞台挨拶やトークショーなどの催しも行う“市民映画館”として営業を続けている。定員124人。

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川越城 本丸御殿
川越城 本丸御殿

川越城 本丸御殿

川越城は、埼玉県川越市にある日本の城。江戸時代には川越藩の藩庁が置かれた。別名、初雁城、霧隠城。関東七名城・日本100名城。通常、川越城の名称を表記する場合、中世については河越城、近世以降は川越城と表記されることが多い。

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三芳野神社(昼飯)
三芳野神社(昼飯)

三芳野神社

三芳野神社は、埼玉県川越市郭町の神社。童歌「通りゃんせ」はこの神社の参道が舞台といわれる。川越城築城以前から当地にあったが、太田道真・太田道灌父子による川越城築城により城内の天神曲輪に位置することになった。平成元年に大修理が行われ、平成4年に完成。埼玉県指定文化財。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

三芳野神社(昼飯)
三芳野神社(昼飯)

大楠に関するご説明

江戸期に建立された三芳野神社社殿は修復時の時期を迎え、去る平成4年に第1期修復工事が竣功、平成27年より第2期の修復工事を行うこととなりました。

今期の修復に当たり、社殿並びに創建当時よりの石組の排水溝が大楠の根によって持ち上げられ、旧態を留めることが困難になっていることを鑑み、関係各位と協議し、やむなく大楠を伐採することとなりました。

これも川越の先人方の志を継ぎ、社殿を保全するためでございますので、皆様方のご理解をお願い申し上げる次第でございます。

出典:三芳野神社社務所

川越氷川神社
川越氷川神社

川 越 氷 川 神 社

氷川神社は、埼玉県川越市宮下町にある神社。太田道灌以来、川越の総鎮守とされ歴代川越藩主の篤い崇敬を受けた。 国の重要無形民俗文化財である川越まつりは毎年1014日に氷川神社にて斎行される「例大祭」、直後に行われる「神幸祭」や「山車行事」から成り立っている。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
川越氷川神社
川越氷川神社
川越氷川神社
川越氷川神社
川越氷川神社
川越氷川神社
川越市元町2丁目7
川越市元町2丁目7
6番見立寺(布袋尊)
6番見立寺(布袋尊)

小江戸川越七福神

見立寺(浄土宗)元町2-9-11

第六番 布袋(ほてい)(そん)

布袋尊は唐の弾僧で名は

契此といいました。小柄で

太鼓腹。大きな袋を背負っ

て放浪し福徳を施したとい

い、世人は弥勒菩薩の化身

ともいって尊びました。

 

小江戸川越七つの音風景

水琴窟(すいきんくつ)

水琴窟は江戸時代初期の茶人、小堀遠州が考えた排水装置「洞水門」から発祥したといわれています。

甕(かめ)の底に溜まった水面に水滴が落ちると、甕の空間に反響する音色が琴に似ていることから「水琴窟」と呼ばれるようになりました。

 

 

秋の七草        (くず)

山は辺ににほひし葛の房花は

藤波よりもあはれなりけり

斎藤茂吉        

    

葛は昔大和の国・栖(くず)の人がくず粉を売り出したので出た名といわれ、根から葛粉がとれます。又、葛根湯は風邪薬になります。

花言葉―根気、努力

6番見立寺(布袋尊)
6番見立寺(布袋尊)
6番見立寺(布袋尊)
6番見立寺(布袋尊)
6番見立寺(布袋尊)
6番見立寺(布袋尊)
6番見立寺(布袋尊)
6番見立寺(布袋尊)

旅立ちの法然さま

(十三才当時のお姿)

美作(みまさかの)(くに)(岡山県)武家に生まれた浄土宗の宗祖法然上人は、9歳の時父を夜襲で失いました。

その時の遺言は「(なんじ)、決して敵を討つ事なかれ、出家して悟りの道に進むべし。」というものでした。

そして四年間岡山で仏教の基礎を学び、その後本格的に仏道を進んで行く為、京都の比叡山へ旅立つことになったのです。

「誰もが平等に救われる

仏の教えを見つけたい」

その一歩を踏み出す、

その時のお姿です。

7番妙昌寺(弁財天)
7番妙昌寺(弁財天)
7番妙昌寺(弁財天)
7番妙昌寺(弁財天)
7番妙昌寺(弁財天)
7番妙昌寺(弁財天)

小江戸川越七福神

(みょう)昌寺(しょうじ)(日蓮宗)三光町29

第七番 弁財天(べんざいてん)

弁財天さまは、七福神唯一の女神で、弁舌、芸術、財福、延寿を授ける神として、古くから、商人や芸人などの幅広い人々の信仰を集めており、運を開き、福を招く女神です。

 

小江戸川越七つの音風景

水琴窟(すいきんくつ)

水琴窟は江戸時代初期の茶人、小堀遠州が考えた排水装置「洞水門」から発祥したといわれています。

甕(かめ)の底に溜まった水面に水滴が落ちると、甕の空間に反響する音色が琴に似ていることから「水琴窟」と呼ばれるようになりました。

 

7番妙昌寺(弁財天)
7番妙昌寺(弁財天)
7番妙昌寺(弁財天)
7番妙昌寺(弁財天)

経ヶ嶋辯財天

室町時代、時の地頭が小石に法華経を書写し、塚を築いて辯財天をまつって守護神としたのが始まりです。

江戸時代、長録元年に、太田道灌公が川越城を築城する際、辯財天の社が川越城の裏鬼門に向いていたことから、鬼門除けの守護神として尊崇(信仰)厚かったと伝えられています。

当社はその昔、螢の名所としても知られていました。

(昭和24年 川越市史跡より)

辨天財に寄せられた和歌(江戸時代)

・宝をもうち出す神の徳ゆへか

つちのとの巳にまつる御社

阪 月

・弁天の(よう)(こう)なれや燕子花(かきつばた)

池のおもても紫の雲

茂 躬

・この神の恵みに茂れ(へび)()盆子(ちご)

如 松

 

川越市新富町2丁目29
川越市新富町2丁目29
クレアパーク(ゴール)
クレアパーク(ゴール)

あけぼの公園 はなみずき公園 ふじ道 クレアパーク ケーブルカー高尾山駅 ホテルグランビュー沖縄 三芳野神社 中央会場・松一小 二の丸庭園 仙波河岸史跡公園 初雁公園 北の丸公園 北原公園 千代田区役所 千代田区立スポーツセンター 千鳥ヶ淵公園 半蔵門 和光市役所 喜多院 城山公園 大手門 大正浪漫夢通り 小金井公園 川越氷川神社 川越駅 平川門 新座緑道 新河岸川 日比谷公園健康運動広場 朝霞中央公園 桜田門 楠公レストハウス 気象観測露場 氷川神社 清水門 皇居東御苑 菓子屋横丁 蔵里 青葉台公園 飯能市役所 駒場運動公園 高尾山口駅 高尾山頂 高尾駅北口 1号路

クレアパーク(スタート)→蔵里(WC)→蔵造りの町並み→川越城中ノ門堀跡→川越城本丸御殿→初雁公園(WC)(教室)→七曲がり→通町→喜多院(WC)→新河岸川→仙波河岸史跡公園(WC)→愛宕神社→川越駅(ゴール)

川越わくわくウオーキング教室 NPO法人埼玉ウオーキング協会 小江戸川越ウオークⅢ

川越わくわくウオーキング教室
NPO法人埼玉ウオーキング協会
小江戸川越ウオークⅢ
・蔵造りの町並み
・川越城本丸御殿
・仙波河岸史跡公園

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クレアモール
クレアモール
川越市新富町1丁目10
川越市新富町1丁目10
川越市新富町1丁目8−5
川越市新富町1丁目8−5
出世稲荷神社
出世稲荷神社

出世稲荷神社について

出世稲荷神社は、江戸時代(天保2/1832)に、京都の伏見稲荷神社本宮より分祀した神社です。

名前の通り出世の御利益があります!また伏見稲荷同様に、五穀豊穣や商売繁盛の御利益も。

すぐ近くにある賑やかな商店街をよそに、境内はとても静かです。時たま併設された公園から聞こえる、子供たちの声にふと心が和みます。

出典:カワゴエール

市指定・天然記念物

イ チ ョ ウ

いちょう窪の出世稲荷の公孫樹として名声がある。

向かって右は幹回り(目通り)5.67m、根回り7.6m、左は幹回り7.25m、根回り9.7mあり、二本とも樹高は約26.5m。

樹齢は650余年と推定され、みごとな美しさと枝張りを示し、樹勢もきわめて旺盛である。

公孫樹は、日本と中国の一部に産するイチョウ科を代表する落葉樹で、秋にはあざやかに黄葉する。

雌雄異株で、種はいわゆるギンナンで食用となる。

昭和3336

川越市教育委員会

熊野神社
熊野神社

川越 熊野神社

室町時代に紀州熊野本宮大社から分祀された開運・縁結びの神社。境内には、本殿や拝殿、神楽殿の他、歌碑がある。

出典:熊野神社

熊野神社
熊野神社
川越市連雀町
川越市連雀町
蓮馨寺
蓮馨寺

蓮 馨 寺

蓮馨寺は、埼玉県川越市連雀町にある浄土宗の寺院である。山号は孤峰山。院号は宝池院。本尊は阿弥陀如来。

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蓮馨寺
蓮馨寺
川越市仲町3−8
川越市仲町3−8
まめ屋 小江戸川越店
まめ屋 小江戸川越店

小江戸 まめ屋

山崎美術館
山崎美術館

公益財団法人 山崎美術館

橋本雅邦画伯

橋本雅邦画伯は、川越藩のお抱え絵師橋本晴園養師の子息にて、画道に勝れ、日本革新の先覚者であり明治時代における我が国画壇の最長老であります。

依って、郷土川越の有志が集まり、明治32(1899)画宝会を結成し、先生のご力作の頒布をいただきました。

山崎家4代目故山崎豊翁は、同会の幹事として率先活躍するとともに、画伯から受けた作品をすべて大切に保管し、これを子孫に伝承させたものであります。

併し、子孫としては、社会公益の為、一般に広く鑑賞を仰ぎ、以って美学向上の資料に供するに、如かずと考え、ここに翁の誕生150年を記念し、昭和57年文化の日に山崎美術館を発足いたしました。

より多くの方々のご利用を切にお願いします。

出典:公益財団法人 山崎美術館

川越市仲町6−2
川越市仲町6−2
川越市仲町6−2
川越市仲町6−2
一番街 蔵造りの町並み
一番街 蔵造りの町並み
一番街 蔵造りの町並み
一番街 蔵造りの町並み
一番街 蔵造りの町並み
一番街 蔵造りの町並み
一番街 蔵造りの町並み
一番街 蔵造りの町並み
一番街 蔵造りの町並み
一番街 蔵造りの町並み
一番街 蔵造りの町並み
一番街 蔵造りの町並み
一番街 蔵造りの町並み
一番街 蔵造りの町並み
一番街 蔵造りの町並み
一番街 蔵造りの町並み
一番街 蔵造りの町並み
一番街 蔵造りの町並み
一番街 蔵造りの町並み
一番街 蔵造りの町並み
一番街 蔵造りの町並み
一番街 蔵造りの町並み
一番街 蔵造りの町並み
一番街 蔵造りの町並み
時の鐘 (川越市)
時の鐘 (川越市)

時の鐘

時の鐘は、埼玉県川越市の中心部、幸町北部の蔵造りの街並みに建てられている鐘楼。建物は、川越市指定有形文化財に指定されている。

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小江戸川越 いも釜めし『翠扇亭』
小江戸川越 いも釜めし『翠扇亭』
川越市元町1丁目11
川越市元町1丁目11
川越市役所
川越市役所
川越市元町1丁目11
川越市元町1丁目11
川越市役所
川越市役所
川越城中ノ門堀跡
川越城中ノ門堀跡
川越市元町1丁目11
川越市元町1丁目11

川越城と中ノ門堀

川越城は、長禄元年(1457)に扇谷上杉持朝の家臣である太田道真・道灌父子によって築城されました。

当時、持朝は古河公方足利成氏と北武蔵の覇権を巡る攻防の渦中にあり、川越城の築城はこれに備えたものです。

天文6年(1537)、小田原を本拠とする後北条氏は川越城を攻め落とし、同15年の河越夜戦によって北武蔵への支配を盤石なものとします。

しかし、天正18年(1590)の豊臣秀吉の関東攻略に際しては前田利家に攻められて落城します。

江戸時代になると、川越城は江戸の北の守りとして重視され、親藩・譜代の大名が藩主に任じられました。

寛永16年(1639)に藩主となった松平信綱は城の大規模な改修を行い、川越城は近世城郭として体裁を整えるにいたりました。

中ノ門堀はこの松平信綱による城の大改修の折に造られたものと考えられます。まだ天下が治まって間もないこの時代、戦いを想定して作られたのが中ノ門堀だったのです。

現在地のあたりには、名前の由来となった中ノ門が建てられていました。多加谷家所蔵の絵図によれば、中ノ門は2階建ての櫓門で、屋根は入母屋、本瓦葺き1階部分は梁行152寸(4.605m)、桁行3031分(9.183m)ほどの規模でした。

棟筋を東西方向に向け、両側に土塁が取り付き、土塁の上には狭間を備えた土塀が巡っていました。

 

※本整備工事は、国土交通省まちづくり交付金・埼玉県観光資源魅力アップ

事業の補助を受けて実施しました。

 

川越城中ノ門堀跡
川越城中ノ門堀跡
川越城中ノ門堀跡
川越城中ノ門堀跡

川越城と中ノ門堀

川越城は、長禄(ちょうろく)元年(1457)に扇谷(おうぎがやつ)上杉(もち)(とも)の家臣である太田(どう)(しん)道灌(どうかん)父子によって築城されました。

当時、(もち)(とも)古河(こが)公方(くぼう)足利(しげ)(うじ)と北武蔵の覇権を巡る攻防の渦中(かちゅう)にあり、川越城の築城はこれに備えたものです。

天文(てんぶん)6年(1537)、小田原を本拠とする後北条(ごほうじょう)氏は川越城を攻め落とし、同15年の河越夜戦によって北武蔵への支配を盤石(ばんじゃく)なものとします。

しかし、(てん)(しょう)18年(1590)の豊臣秀吉の関東攻略に際しては前田利家に攻められて落城します。

江戸時代になると、川越城は江戸の北の守りとして重視され、親藩(しんばん)譜代(ふだい)の大名が藩主に任じられました。

寛永(かんえい)16年(1639)に藩主となった松平信綱(のぶつな)は城の大規模な改修を行い、川越城は近世城郭として体裁(ていさい)を整えるにいたりました。

中ノ門堀はこの松平信綱による城の大改修の折に造られたものと考えられます。まだ天下が(おさ)まって間もないこの時代、戦いを想定して作られたのが中ノ門堀だったのです。

現在地のあたりには、名前の由来となった中ノ門が建てられていました。多加(たが)()家所蔵の絵図によれば、中ノ門は2階建ての櫓門(やぐらもん)で、屋根は入母屋(いりもや)、本瓦葺き1階部分は(はり)(ゆき)152寸(4.605m)、(けた)(ゆき)3031分(9.183m)ほどの規模でした。

棟筋を東西方向に向け、両側に土塁が取り付き、土塁の上には狭間(きま)を備えた土塀が巡っていました。

 

※本整備工事は、国土交通省まちづくり交付金・埼玉県観光資源魅力アップ

事業の補助を受けて実施しました。

 

川越城中ノ門堀跡
川越城中ノ門堀跡
川越城中ノ門堀
川越城中ノ門堀
川越城中ノ門堀しくみ
川越城中ノ門堀しくみ

中ノ門堀のしくみ

中ノ門堀は戦いの際、敵が西大手門(市役所方面)から城内に攻め込んだ場合を想定して造られています。

西大手門から本丸(博物館方面)をめざして侵入した敵は中ノ門堀を含む3本の堀に阻まれて直進できません。

進撃の歩みがゆるんだところに、城兵が弓矢を射かけ鉄砲を撃ちかけるしくみでした。

また、発掘調査ではす城の内側と外側で堀の法面勾配が異なることがわかりました。

中ノ門堀の当初の規模は深さ7m、幅18m、東側の法面勾配は60度、西側は30度でした。

つまり、城の内側では堀が壁のように切り立って、敵の行く手を阻んでいたのです。

明治時代以降、川越城の多くの施設・建物が取り壊される中、中ノ門堀跡は旧城内に残る唯一の堀跡となりました。

川越城の名残をとどめるこの堀跡を保存してゆこうという声が市民の間から起こり、川越市では平成2021年度に整備工事を行いました。

川越市立博物館
川越市立博物館

川越市立博物館

川越市立博物館は、埼玉県川越市の川越城二の丸跡に建設された川越市立の博物館。

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川越市郭町2丁目12
川越市郭町2丁目12
川越市郭町2丁目25−7
川越市郭町2丁目12
川越市郭町2丁目25−7
川越市郭町2丁目25−7

(はつ) (かり) (こう) (えん)

旧川越城本丸跡で、本丸御殿などの史跡も数多くあり、隣接する博物館、美術館とともに観光コースともなっています。また、ナイター設備のある野球場、夏季に開園するプールなどスポーツ施設があります。

野球場は、高校野球の予選会場としても利用されており、開催期間中は選手や関係者など多くの人で賑わいます。

出典:川越市公園管理事務所

初雁公園(WC)(教室)
初雁公園(WC)(教室)
初雁公園(WC)(教室)
初雁公園(WC)(教室)
初雁公園(WC)(教室)
初雁公園(WC)(教室)
初雁公園(WC)(教室)
初雁公園(WC)(教室)
初雁公園(WC)(教室)
初雁公園(WC)(教室)
初雁公園(WC)(教室)
初雁公園(WC)(教室)

三芳野神社

三芳野神社は、埼玉県川越市郭町の神社。童歌「通りゃんせ」はこの神社の参道が舞台といわれる。川越城築城以前から当地にあったが、太田道真・太田道灌父子による川越城築城により城内の天神曲輪に位置することになった。平成元年に大修理が行われ、平成4年に完成。埼玉県指定文化財。

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三芳野神社
三芳野神社

川越城 富士見(ふじみ)(やぐら)(あと)

所在地 川越市郭町二丁目

 

御嶽(おんたけ)神社が祀られているこの高台は、かつては川越城の富士見櫓が建てられていたところである。

櫓は矢倉とも書いて、合戦の際に物見として、あるいは防戦の足場として、城壁や城門の高い場所に設けられた建物を意味するが、天守閣のなかった川越城には東北の隅に二重の虎櫓、本丸の北に(ひし)櫓、西南の隅に三層の富士見櫓があって、城の中で一番高い所にあった富士見櫓が天守閣(てんしゅかく)の代わりとなっていたと思われる。

今日では、木々や建物のため、すっかり眺望も失われてしまったが、その昔はこの高台に立てば、富士見櫓の名の通り遠く富士山までも望めたことであろう。

元来、城の構造及び建造物は戦略上の都合もあって、その大部分が明らかにされることはなく、正確な規模は分からないが、江戸末期の慶応(けいおう)2年(1866)に川越城を測量した記録によれば、この富士見櫓は長さ八間三尺(約15m)、横八間(約14m)あったと記されている。

 

昭和573

出典:埼玉県

川越城 富士見櫓跡
川越城 富士見櫓跡
川越城 富士見櫓跡
川越城 富士見櫓跡
川越市三久保町1−5
川越市三久保町1−5
川越市松江町1丁目20−8
川越市松江町1丁目20−8

七曲がり周辺((かさ)(もり)神社)

成田山川越別院のほど近く。県道15号線から1本路地に入って行くと、そこはくねくね折り曲がった細道が続く「七曲がり」ワールド!

七曲がりとは、川越城への敵の侵入を防ぐ為に造られた道で、わざと折れ曲がった道をつくることで敵の進軍を真っ直ぐに進めない様にしました。

ここ周辺は建物こそ新しい住宅が建ち始めてはいますが、道は当時の面影を残しています。

川越の町には、今でも「道のワナ」が多く残されています。例えば「鈎(かぎ)の手」「丁字路(ていじろ)」「袋小路」など。もしかしたら川越を観光・散策していると、ふと当時のワナに迷い込むかもしれません!

出典:カワゴエール

七曲がり周辺(瘡守(かさもり)神社
七曲がり周辺(瘡守(かさもり)神社

くらづくり本舗

くらづくり本舗とは、埼玉県川越市に本社を置く和菓子メーカー。埼玉県内に43店舗を展開する。代表取締役会長は自由民主党元衆議院議員の中野清。

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川越市久保町5−3
くらづくり本舗
川越市松江町1丁目20−8
川越市松江町1丁目20−8
川越市久保町1−13
川越市久保町1−13
川越市小仙波町1丁目21
川越市久保町1−13
川越市小仙波町1丁目21
川越市小仙波町1丁目21

どろぼうばしの由来

所在地 川越市小仙波町一丁目

昔、この橋は、一本の丸木橋であったといわれ、これは、その頃の話である。

ここ喜多院と東照宮の境内地は御神領で、江戸幕府の御朱印地でもあり、川越藩の町奉行ではとらえることができないことを知っていた一人の盗賊が、町奉行の捕り方に追われ、この橋から境内に逃げこんだ。しかし、盗賊は寺男たちに捕えられ、寺僧に諭され悪いことがふりかかる恐しさを知った。盗賊は、厄除元三大師 に心から罪を許してもらえるよう祈り、ようやく真人間に立ち直ることができた。そこで寺では幕府の寺院奉行にその処置を願い出たところ、無罪放免の許しが出た。その後、町方の商家に奉公先を世話されると、全く悪事を働くことなくまじめに一生を過ごしたという。

この話は大師の無限の慈悲を物語る話として伝わっており、それ以来、この橋を「どろうぼうばし 」というようになったということである。

 

昭和五十八年三月

出典:埼玉県

 

どろぼうはし
どろぼうはし
どろぼうはし
どろぼうはし
喜多院鐘楼門 附銅鐘 銀杏
喜多院鐘楼門 附銅鐘 銀杏

喜多院 鐘楼門

喜多院にあるいくつかの国指定重要文化財の中の1つ「(しょう)楼門(ろうもん)」。

鮮やかな朱塗りの2階建てで、寛永10年(1633/江戸時代)の建造と伝えられています。

1.鐘楼門の見どころ。

それは彫物。正面は「竜」、背面は「鷹」の彫物で色鮮やかな極彩色仕上げです。

2.鐘楼門の見どころの

見えそうで見えない銅鐘です。この銅鐘は、鐘楼門とともに重要文化財に指定されています。

出典:カワゴエール

喜多院鐘楼門
喜多院鐘楼門
喜多院の紅葉
喜多院の紅葉
喜多院 行先板
喜多院 行先板

喜多院 多宝塔

境内にそびえる朱色の多宝塔

寛永16年(1639/江戸時代)に建造され、現在埼玉県の有形文化財に指定されています。

この多宝塔は、江戸時代の大工棟梁「平内(へいのうち)政信(まさのぶ)」が建造。平内政信は、全5巻からなる木割書「匠明」を著した人物で、喜多院多宝塔以外に、和歌浦天満宮(和歌山市)や輪王寺常行堂(日光市)なども建造しています。

現在は、本堂の斜め前に建てられている多宝塔ですが、もともとは山門前にある「白山権現」と「日枝神社」の間の古墳上に建てられていました。その後、2度の移築をし現在地にあります。

江戸時代初期の多宝塔の特徴が表れ、境内で一際鮮やかで目を引きます。喜多院を訪れた際は、是非みておきたい建物の1つです。

出典:カワゴエール

喜多院 多宝塔
喜多院 多宝塔

喜多院 慈恵堂

埼玉県川越市にある天台宗の寺院。山号は星野山(せいやさん)。良源(慈恵大師、元三大師とも)を祀り川越大師の別名で知られる。建物の多くが重要文化財に指定され、寺宝にも貴重な美術工芸品を多く有する。広大な境内は池や掘を廻らせた景勝地となっている。13日の初大師(だるま市)、節分、長月護摩講塔、七五三、菊祭りなど諸行事はむろん、四季折々の行楽客で賑わう。境内にある五百羅漢の石像も有名である。毎年、正月三が日の初詣には埼玉県内の寺院の中では最も多い約40万人の参拝客が訪れる。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia

喜多院 慈恵堂.
喜多院 慈恵堂.

喜多院 慈眼堂

喜多院境内の小高い丘の上には、天海僧正をまつる()眼堂(げんどう)が佇んでいます。

この慈眼堂は、天海僧正が亡くなった3年後の天保2年(1645/江戸時代)に、徳川家光の命令により建てられたもの。国の重要文化財の指定をうけています。

建物の構造は、桁行(正面)3間、梁間(奥行)3間、背面は1間で庇がついています。シンプルながら趣を感じる建物です。

出典:カワゴエール

喜多院案内図
喜多院案内図

国指定重要文化財

川越大師 喜多院案内図

伝説によるとその昔仙波辺の漫々たる海水を仙芳仙人の法力によりとり除き尊像を安置したというが、平安時代、天長7年(830)淳和天皇の勅により慈覚大師が創建された勅願寺で本尊阿弥陀如来を祀り無量寿寺と名づけた。

その後鎌倉時代、元久2年(1205)兵火で炎上の後、永仁4年(1296)伏見天皇が尊海僧正に再興せしめられたとき、慈恵大師(厄除元三大師)を歓請して官田五十石を寄せられ関東天台の中心となった。

正安3年(1301)後伏見天皇は星野山(現在の山号)の勅額を下した。更に室町時代、天文6年(1537)北条氏綱、上杉朝定の兵火で炎上した。

江戸時代、慶長4年(1599)天海僧正(慈眼大師)が第二十七世の法統をつぐが、同16年(161111月徳川家康が川越を訪れたとき寺領四万八千坪及び五百石を下し、酒井備後守忠利に工事を命じ、仏蔵院北院を喜多院と改め、四代家綱のとき東照宮に二百石を下すなど大いに寺勢をふるった。寛永15年(16381月の川越大火で現存の山門を除き堂宇はすべて焼失した。そこで三代将軍家光公は堀田加賀守正盛に命じてすぐに復興にかかり、江戸城紅葉山(皇居)の別殿を移築して客殿、書院などに当てた。家光誕生の間、春日局(家光公の乳母)の間があるのはそのためである。その他慈恵堂(本堂)、多宝塔、慈眼堂、鐘楼門、東照宮、日枝神社などの建物を数年間の間に再建し、それらが今日文化財として大切に保存されている。

江戸時代までは寺領四万8千坪、七百五十石の幕府の御朱印地として寺勢をふるったが、明治以降財力の欠如とその広さ、大きさのため荒廃に向った。

戦後文化財の指定とともに昭和大復興にとりかかり関係者の並々ならぬ努力によってその主な建造物の複原修理が完成し、それら偉観は、盛時を偲ばせるまでになった。しかし未だ完成しないところもかずあり今日までその整備事業は継続して行われている。

現在の境内地は東照宮を含めて一万四千坪あり、今日その緑は市民にとって貴重な憩いの場となっており池や堀をめぐらした景勝はそこに点在する文化財群とともに川越随一の名勝地霊場地として名高く厄除元三大師のお参りとともに四季を通じて史跡を訪れる人々がいつも絶えない。

1月3日の厄除初大師のご縁日には家内安全、厄除等の護摩祈願、また境内には、名物だるま市が軒をつらねて立ち並び、又2月3日の節分会、4月の長日護摩講の行事をはじめ毎日護摩供を奉じて所願成就の祈願を厳修している。

文化財の拝観ができ、最近では毎年5月の連休の一週間宝物特別展も開かれている。

 

出典:喜 多 院

川越市教育委員会

川越大師 喜多院
川越大師 喜多院
川越大師 喜多院
川越大師 喜多院

() (ひゃく) () (かん)

喜多院の五百羅漢の始まりは、これまで天明2年(1782)説がとられてきました。しかし近年、五百羅漢に関する詳細な調査が行われ、その経緯や造立年代などが明瞭になってきました。

それによると、本願主は川越北田島の()(じょう)の他に蔦右衛門がいて、寛永8年(1796)に両名が発願しました。そして喜多院真珠院の協力を得て「五百羅漢建立募縁疏」を上木し広く寄進を募りました。羅漢像は翌年の寛永9年(1797)から文政8年(1825)のおよそ30年にわたって造立され、ほぼ完成したそうです。(寄付募金帳なる古文書が見つかっており、今後の研究が待たれるところです)

喜多院の五百羅漢は中央高座の大仏(おおぼとけ)に釈迦如来、両脇(わき)()(わきじ)に獅子に乗った文殊菩薩と象に乗った普腎菩薩、左の高座に阿弥陀如来、右の高座に地蔵菩薩があり、大小の石仏像すべて合わせると538体です。このうち533体が羅漢像です。

出典:旅に行き隊![About]

五百羅漢入口
五百羅漢入口

拝観案内(三代将軍家光公誕生の間

三代将軍家光公誕生の間

春日局(かすがのつぼね)の化粧の間

五百羅漢(らかん)

拝観事務所にて受付の上ご参拝下さい。

拝観時間

3/111/23

8:5016:30

11/24~㋁末日

8:5016:00

※日・祝は閉館時間を20分延長

拝観休業日

12/251/8

2/22/3 4/24/5 8/16

その他特別行事の時

五百羅漢
五百羅漢
五百羅漢 拝観案内
五百羅漢 拝観案内

天明2年建立

五百羅漢尊

喜多院の五百羅漢の始まりは、これまで天明2年(1782)説がとられてきました。しかし近年、五百羅漢に関する詳細な調査が行われ、その経緯や造立年代などが明瞭になってきました。

それによると、本願主は川越北田島の志()(じょう)の他に蔦右衛門がいて、寛永8年(1796)に両名が発願しました。そして喜多院真珠院の協力を得て「五百羅漢建立募縁疏」を上木し広く寄進を募りました。羅漢像は翌年の寛永9年(1797)から文政8年(1825)のおよそ30年にわたって造立され、ほぼ完成したそうです。(寄付募金帳なる古文書が見つかっており、今後の研究が待たれるところです)

喜多院の五百羅漢は中央高座の大仏(おおぼとけ)に釈迦如来、両脇(わき)()(わきじ)に獅子に乗った文殊菩薩と象に乗った普腎菩薩、左の高座に阿弥陀如来、右の高座に地蔵菩薩があり、大小の石仏像すべて合わせると538体です。このうち533体が羅漢像です。

出典:旅に行き隊![About]

五百羅漢尊
五百羅漢尊
五百羅漢 紅葉
五百羅漢 紅葉
五百羅漢 紅葉
五百羅漢 紅葉
川越市小仙波町1丁目17−17
川越市小仙波町1丁目17−17
新河岸川
新河岸川
新河岸川
新河岸川
新河岸川
新河岸川
新河岸川
新河岸川
仙波河岸史跡公園
仙波河岸史跡公園
仙波河岸史跡公園
仙波河岸史跡公園
仙波河岸のむかし
仙波河岸史跡公園

仙波河岸のむかし

むかしこの場所には「仙波河岸」という河岸場がありました。仙波河岸ができたのは明治の初めごろのことです。

これまでにも新河岸川の下流にはすでに数箇所の河岸場があり、江戸と川越の間を船を使って物品を運んでいました。これが「新河岸川舟運」と言われているものです。

仙波河岸は新河岸川の最も上流に位置し一番新しくできた河岸場です。

しかし、明治の中ごろから東京との間に鉄道が整備されはじめました。また、大正時代には新河岸川の改修工事が始まり、昭和の初めには新河岸舟運も終わりをむかえました。

下の写真は仙波河岸に荷船が並んでいる様子を写した明治時代後期の写真です。

 

仙波河岸史跡公園
仙波河岸史跡公園
仙波河岸のむかし
仙波河岸のむかし
仙波河岸史跡公園
仙波河岸史跡公園

仙波浅間神社

冨士浅間神社

川越市富士見町、「川越駅」東口より徒歩12分ほどの場所に「仙波浅間神社」があります。

平安時代の武将「源頼義」がこの地に分霊をしたことにはじまり、それぞれの時代にそれぞれの人々が篤い信仰をして現在に至っています。

出典:カワゴエール

仙波愛宕神社 銀杏
仙波愛宕神社 銀杏
冨士浅間神社
冨士浅間神社
冨士浅間神社
川越駅 広場

あけぼの公園 はなみずき公園 ふじ道 クレアパーク ケーブルカー高尾山駅 ホテルグランビュー沖縄 三芳野神社 中央会場・松一小 二の丸庭園 仙波河岸史跡公園 初雁公園 北の丸公園 北原公園 千代田区役所 千代田区立スポーツセンター 千鳥ヶ淵公園 半蔵門 和光市役所 喜多院 城山公園 大手門 大正浪漫夢通り 小金井公園 川越氷川神社 川越駅 平川門 新座緑道 新河岸川 日比谷公園健康運動広場 朝霞中央公園 桜田門 楠公レストハウス 気象観測露場 氷川神社 清水門 皇居東御苑 菓子屋横丁 蔵里 青葉台公園 飯能市役所 駒場運動公園 高尾山口駅 高尾山頂 高尾駅北口 1号路

クレアパーク(スタート)→ウエスタ川越(WC)→岸町健康ふれあい広場(WC)→いなげや→新河岸駅→氷川神社→新河岸川(昼飯)→仙波河岸史跡公園→川越駅(ゴール)

川越わくわくウオーキング教室 NPO法人埼玉ウオーキング協会 小江戸川越ウオークⅢ

川越わくわくウオーキング教室
NPO法人埼玉ウオーキング協会
小江戸川越ウオークⅢ
・岸町健康ふれあい広場
・新河岸駅
・仙波河岸史跡公園

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クレアパーク(スタート)
クレアパーク(スタート)
脇田町5−4周辺
脇田町5−4周辺
三番町通り陸橋
三番町通り陸橋
脇田本町交差点
脇田本町交差点
脇田本町14−32周辺
脇田本町14−32周辺
小江戸薬局
小江戸薬局
小江戸薬局
小江戸薬局
脇田本町10−18周辺
脇田本町10−18周辺
脇田本町10−18周辺
脇田本町10−18周辺
脇田本町10−18周辺
脇田本町10−18周辺
新宿町1丁目17−17周辺
新宿町1丁目17−17周辺
新宿町6丁目10−10周辺
新宿町6丁目10−10周辺
新宿町6丁目公園 周辺
新宿町6丁目公園 周辺
新宿町6丁目3−7陸橋
新宿町6丁目3−7陸橋
岸町3丁目24−15周辺
岸町3丁目24−15周辺
岸町健康ふれあい広場 周辺
岸町健康ふれあい広場 周辺
岸町健康ふれあい広場 周辺
岸町健康ふれあい広場 周辺
岸町健康ふれあい広場 教室
岸町健康ふれあい広場 教室
岸町健康ふれあい広場 教室
岸町健康ふれあい広場 教室
岸町健康ふれあい広場 教室
岸町健康ふれあい広場 教室
サクラ シナミザクラ
サクラ シナミザクラ

サクラ(シナミザクラ)

系統      シナミザクラ系(中国産)

開花時期             早い(ソメイヨシノと比較して)

花弁の色             白色(淡紅色)

花の大きさ         小輪

花の咲き方         一重咲

特徴            雄しべが長く、花の雰囲気ががややウメに似る。

中国産。名前や別名の唐実桜(カラミザクラ)は、これに由来する。日本には自生しない。

6月頃に赤く熟する果実はいわゆるサクランボで、食べられる。

出典:岐阜県森林研究所

サクラ シナミザクラ
サクラ シナミザクラ
今福2745周辺
今福2745周辺
砂新田1丁目21−1周辺
砂新田1丁目21−1周辺
砂新田2丁目11−6周辺
砂新田2丁目11−6周辺
砂 自転車預り所細野 前
砂 自転車預り所細野 前
砂849−4周辺
砂849−4周辺
砂966−7周辺
砂966−7周辺
新河岸28−1周辺
新河岸28−1周辺
新河岸 河岸場跡
新河岸 河岸場跡

新河岸

河岸場跡

出典:川越中央ライオンズクラブ

25周年記念植樹

新河岸 河岸場跡
新河岸 河岸場跡

川越市指定史跡 新河岸川河岸場跡

今から300余年まえ川越城主松平伊豆守信綱がもと内川といった荒川の支流、新河岸川を改修して川越と江戸間の舟運を開いた。当初は年貢米を主としたが、のち、貨客の輸送がふえ旭橋を中心に上下新河岸、牛子、扇、寺尾の五河岸には船問屋、商家が軒を並べ、日夜発着の船が絶えなかった。また、その物資を運搬する車馬の出入りも多く賑わいを極めた。しかし鉄道の開通により次第に衰微に傾き、いわゆる99曲30里の舟唄もすべて昔の語り草となった。

 

新河岸川舟唄

〽 九十九曲り エー 仇では越せぬ

遠い水路の 三十里

〽 押せよ押せ押せ エー 二挺櫓で押せよ

押せば千住が 近くなる

〽 着いた着いたよ エー 新河岸橋へ

主もでてとれ おもてもや

 

新河岸 河岸場跡
新河岸 河岸場跡

市指定・史跡

新河岸川河岸場跡

新河岸川船運の歴史は、寛永十五年(1638)川越仙波にあった東照宮が火災で焼け川越藩がその再建用資材を江戸から運ぶのに新河岸川を利用したことに始まるといわれる。

翌寛永十六年、川越城主となった松平信綱は、もと内川といった荒川の支流、新河岸川を本格的に改修、水量を確保して川越―江戸間の舟運体制を整えた。

旭橋を中心に、上新河岸、下新河岸、扇河岸、牛子河岸、寺尾河岸、の五河岸沿には船問屋商家が軒を並べ、さらに下流には古市場、福岡、百目木、伊佐島、本河岸、前河岸、志木河岸、宮戸河岸などが開設され明治維新まで繁栄が続いた。

当初は川越藩の年貢米運搬が主だったが、後一般商品も多く運ばれるようになり(江戸行―醤油・綿実・炭・材木・川越―油・反物・砂糖・塩・荒物・干鰯等)舟運を更に発展させた。

現在も周辺には元禄年間の「そうめん蔵」や水神宮、また明治三年建造の船問屋伊勢安の店構えなどがあり、往時を偲ばせている。

昭和五十五年十一月

出典:川越市教育委員会

河岸跡(船運遺構)
河岸跡(船運遺構)
河岸跡(船運遺構)
河岸跡(船運遺構)
河岸跡(船運遺構)
河岸跡(船運遺構)
新河岸26−4周辺
新河岸26−4周辺
川越線高架下
川越線高架下
新河岸川の水草
新河岸川の水草
岸町1丁目35−6周辺
岸町1丁目35−6周辺
岸町1丁目44−65周辺
岸町1丁目44−65周辺
仙波河岸史跡公園入口
仙波河岸史跡公園入口
仙波河岸史跡公
仙波河岸史跡公
仙波河岸史跡公園
仙波河岸史跡公園
仙波河岸史跡公園
仙波河岸史跡公園
仙波河岸史跡公園
仙波河岸史跡公園

仙波河岸史跡公園

仙波河岸史跡公園

公園を利用される皆さんへ

この公園は、むかし「仙波河岸」という河岸場があった跡地を整備したものです。

だれでもが気持ちよく楽しく利用できるよう、次のことを守りましょう。

1.公園の花や木は、大切にしましょう

2.ゴミくずや空きカンなどは、散らかさずに持ち帰りましょう。

3.みんなで注意し合ってケガのないように遊びましょう。

4.犬の糞は絶対に捨てないよう袋に入れて持ち帰りましょう。

5.犬の放し飼いは禁止します。

6.公園内でたき火、打ち上げ花火、その他の火気を扱い周囲に迷惑を及ぼす行為は禁止します。

7.公園内へのオートバイ、自転車の乗り入れは禁止します。

8.付近に迷惑を及ぼすボール遊びは禁止します。

9.植物などを守るため、ロープ柵の中にははいらないようにしましょう。

公園内で見られる植物

園内には下記のような植物が見られます。静かに観察しましょう。

カワヂシャタコノアシミクリ
カワヂシャ
ゴマノハグサ科
タコノアシ
ユキノシタ科
ミクリ
ミクリ科
葉はチシャ(レタスの仲間)に似て、若葉は食べられます。初夏に小さな白い花をたくさん咲かせます。晩夏につく花の穂は数本に分かれ、黄白色の花が片側につき、タコの足を連想させるので、この名がつきました。緑色のいが状の実が栗を連想させるので、この名がつきました。茎は簾(すだれ)に、根は漢方薬にされます。
公園内で見られる植物

出典:川越市都市計画部公園整備課

   公 園 管 理 事 務 所

富士見町29−4周辺
富士見町29−4周辺
富士見町27−11周辺
富士見町27−11周辺
菅原町11−6周辺
菅原町11−6周辺
妙善寺
妙善寺
川越駅東口 バスロータリー
川越駅東口 バスロータリー

あけぼの公園 はなみずき公園 ふじ道 クレアパーク ケーブルカー高尾山駅 ホテルグランビュー沖縄 三芳野神社 中央会場・松一小 二の丸庭園 仙波河岸史跡公園 初雁公園 北の丸公園 北原公園 千代田区役所 千代田区立スポーツセンター 千鳥ヶ淵公園 半蔵門 和光市役所 喜多院 城山公園 大手門 大正浪漫夢通り 小金井公園 川越氷川神社 川越駅 平川門 新座緑道 新河岸川 日比谷公園健康運動広場 朝霞中央公園 桜田門 楠公レストハウス 気象観測露場 氷川神社 清水門 皇居東御苑 菓子屋横丁 蔵里 青葉台公園 飯能市役所 駒場運動公園 高尾山口駅 高尾山頂 高尾駅北口 1号路

クレアパーク(スタート)→蔵里→大正浪漫通り→かもん楽座→お茶屋橋→観音寺→濯柴公園→広済寺→川越氷川神社→富士見やぐら→喜多院→クレアパーク(ゴール)

川越わくわくウオーキング教室
NPO法人埼玉ウオーキング協会
小江戸川越ウオークⅠ
・観音寺
・広済寺
・富士見やぐら
・濯柴公園

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〒350-0043 埼玉県川越市新富町2丁目11‐3
〒350-0043 埼玉県川越市新富町2丁目11‐3
小江戸蔵里 力持ち
小江戸蔵里 力持ち
小江戸蔵里 添え仕込み
小江戸蔵里 添え仕込み
小江戸蔵里 放冷
小江戸蔵里 放冷
小江戸蔵里 酛掲り
小江戸蔵里 酛掲り
小江戸蔵里 ?
小江戸蔵里 ?
江戸蔵里 大正蔵
江戸蔵里 大正蔵

大 正 蔵

 「新蔵」ともいわれた大正蔵は、大正時代初期に建てられた木造2階建の建物。中は仕切りのない広い空間で、改造はほとんどなく、関東地方の典型的な酒造の姿を