クレアパーク(スタート)→小江戸蔵里(川越市産業観光館)→出世稲荷神社→川越大師 喜多院→成田山川越別院(本行院)→七曲り→三芳野神社→菓子屋横丁→新河岸川遊歩道→クレアパーク(ゴール)

小江戸川越ウオークⅣ ・成田山別院 ・初雁公園(三芳野神社) ・濯柴公園 ・菓子屋横丁
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小江戸川越ウオークⅣ

・成田山別院

・初雁公園(三芳野神社)

・濯柴公園

・菓子屋横丁

クレアモール・八幡通り・中央通り周辺地区 都市景観形成地域
クレアモール・八幡通り・中央通り周辺地区 都市景観形成地域
クレアモール・八幡通り・中央通り周辺地区 都市景観形成地域
クレアモール・八幡通り・中央通り周辺地区 都市景観形成地域

クレアモール・八幡通り・中央通り周辺地区

都市景観形成地域

 川越駅・本川越駅を核とした中心商業地とその周囲の住宅地を含む地区は、景観法に基づく川越市景観計画の都市景観形成地域に指定されています。

 中心商業地の個性と秩序ある町並みづくりや周囲の住宅地の落ち着いた環境を守り育てるために景観づくりのルールを定めています。このルールを守るとともに、建築行為等に際して事前に市に届出をする必要があります。

🔶主な景観づくりのルール🔶

1.建築物や店舗、屋外広告物は、町並みの魅力向上に寄与するデザインとする。

2.建築物の外壁等の色彩は、周囲の町並みや環境との調和を図る。

3.クレアモールに面する建築物は道路境界線から1m以上壁面を後退させる。

4.クレアモール、中央通りに面して門、塀等の設置は極力避ける。

5.規模の大きな建築物は、町並みの連続性や、日照、通風など周知の環境に配慮する。

出典:川越市都市計画部都市景観課

〒350-1122 埼玉県川越市脇田町
〒350-1122 埼玉県川越市脇田町
〒350-1122 埼玉県川越市脇田町11−5
〒350-1122 埼玉県川越市脇田町11−5
〒350-0043 埼玉県川越市新富町2丁目9−8 ZARA川越店
〒350-0043 埼玉県川越市新富町2丁目9−8 ZARA川越店
〒350-0043 埼玉県川越市新富町1丁目19−4 すき家本川越クレアモール店
〒350-0043 埼玉県川越市新富町1丁目19−4 すき家本川越クレアモール店
〒350-0043 埼玉県川越市新富町1丁目11−2
〒350-0043 埼玉県川越市新富町1丁目11−2
小江戸蔵里(川越市産業観光館)〒350-0043 埼玉県小江戸蔵里 埼玉県川越市新富町1丁目10−1
小江戸蔵里(川越市産業観光館)〒350-0043 埼玉県小江戸蔵里 埼玉県川越市新富町1丁目10−1

小江戸蔵里

小江戸蔵里(こえどくらざと)』は、この場所で明治8年(1875年)に創業した旧鏡山酒造の建築物を、当面の面影を残しつつ改修した施設です。

市民と観光客との交流、地域の活性化を図るとともに、川越市の物産等を楽しんでいただく新しい名所として平成2210月に誕生しました。

施設は、明治・大正・昭和の時代に建てられた酒造を改装した、おみやげ処(明治蔵)、まかない処(大正蔵)、くら市場(昭和蔵)の3つの蔵からなっています。

これらの蔵は、国の登録有形文化財に指定されています。

 なお『小江戸蔵里』という名称は、川越市の別名『小江戸』蔵造りの町並みを表す「蔵」、人々が気軽に立ち寄れてくつろげる心のふるさと「里」、という意味を込めて公募の中から選ばれました。

出典:小江戸蔵里

川越まつり 家光の山車 新富町一丁目
川越まつり 家光の山車 新富町一丁目
小江戸蔵里
小江戸蔵里
蔵里のご案内
蔵里のご案内
I〒350-0043 埼玉県川越市新富町1丁目10−7
I〒350-0043 埼玉県川越市新富町1丁目10−7
〒350-0043 埼玉県川越市新富町1丁目9−11
〒350-0043 埼玉県川越市新富町1丁目9−11
出世稲荷神社
出世稲荷神社

出世稲荷神社について

出世稲荷神社は、江戸時代(天保2/1832)に、京都の伏見稲荷神社本宮より分祀した神社です。

名前の通り出世の御利益があります!また伏見稲荷同様に、五穀豊穣や商売繁盛の御利益も。

すぐ近くにある賑やかな商店街をよそに、境内はとても静かです。時たま併設された公園から聞こえる、子供たちの声にふと心が和みます。

出典:カワゴエール

イ チ ョ ウ
イ チ ョ ウ
市指定・天然記念物 イ チ ョ ウ
市指定・天然記念物 イ チ ョ ウ

イ チ ョ ウ

いちょう窪の出世稲荷の公孫樹として名声がある。

向かって右は幹回り(目通り)5.67m、根回り7.6m、左は幹回り7.25m、根回り9.7mあり、二本とも樹高は約26.5m。

樹齢は650余年と推定され、みごとな美しさと枝張りを示し、樹勢もきわめて旺盛である。

公孫樹は、日本と中国の一部に産するイチョウ科を代表する落葉樹で、秋にはあざやかに黄葉する。

雌雄異株で、種はいわゆるギンナンで食用となる。

 

昭和3336

川越市教育委員会

〒350-0056 埼玉県川越市松江町1丁目5−11
〒350-0056 埼玉県川越市松江町1丁目5−11
〒350-0056 埼玉県川越市松江町1丁目8−1
〒350-0056 埼玉県川越市松江町1丁目8−1
〒350-0056 埼玉県川越市松江町1丁目6−22
〒350-0056 埼玉県川越市松江町1丁目6−22
内川豆腐店(〒350-0035 埼玉県川越市西小仙波町1丁目7−32
内川豆腐店(〒350-0035 埼玉県川越市西小仙波町1丁目7−32
内川豆腐店(〒350-0035 埼玉県川越市西小仙波町1丁目7−32
内川豆腐店(〒350-0035 埼玉県川越市西小仙波町1丁目7−32
〒350-0035 埼玉県川越市西小仙波町1丁目7−32
〒350-0035 埼玉県川越市西小仙波町1丁目7−32
〒350-0035 埼玉県川越市西小仙波町1丁目5−3
〒350-0035 埼玉県川越市西小仙波町1丁目5−3
どろぼう橋(〒350-0035 埼玉県川越市西小仙波町1丁目18−2)
どろぼう橋(〒350-0035 埼玉県川越市西小仙波町1丁目18−2)

どろぼう橋

むかし、どろぼう橋がまだ木造の細い橋だったころ、町で泥棒をはたらいた者が町奉行の捕り方(罪人を捕らえる役目の人)に追われ、この橋をわたり喜多院に逃げ込みました。喜多院寺領は、江戸幕府のご朱印地なので、捕り方は境内に入ることができません。泥棒は、喜多院の大師さまにお参りをし、罪を深く悔い改め、善人になったといいます。

 それ以来、この橋を「どろぼう橋」と呼ぶようになりました。

出展:カワゴエール

どろぼう橋(〒350-0035 埼玉県川越市西小仙波町1丁目18−2)
どろぼう橋(〒350-0035 埼玉県川越市西小仙波町1丁目18−2)
どろぼうばしの由来
どろぼうばしの由来
どろぼうばしの由来
どろぼうばしの由来

どろぼうばしの由来

 所在地 川越市小仙波町一丁目

 昔、この橋は、一本の丸木橋であったといわれ、これは、その頃の話である。

 ここ喜多院と東照宮の境内地は御神領で、江戸幕府の御朱印地でもあり、川越藩の町奉行ではとらえることができないことを知っていた一人の盗賊が、町奉行の捕り方に追われ、この橋から境内に逃げこんだ。しかし、盗賊は寺男たちに捕えられ、寺僧に諭され悪いことがふりかかる恐しさを知った。盗賊は、厄除元三大師 に心から罪を許してもらえるよう祈り、ようやく真人間に立ち直ることができた。そこで寺では幕府の寺院奉行にその処置を願い出たところ、無罪放免の許しが出た。その後、町方の商家に奉公先を世話されると、全く悪事を働くことなくまじめに一生を過ごしたという。

 この話は大師の無限の慈悲を物語る話として伝わっており、それ以来、この橋を「どろうぼうばし 」というようになったということである。

 

 昭和五十八年三月

 出典:埼玉県

喜多院 慈恵堂
喜多院 慈恵堂

喜多院 慈恵堂

喜多院(きたいん)は、埼玉県川越市にある天台宗の寺院。山号は星野山(せいやさん)。良源(慈恵大師、元三大師とも)を祀り川越大師の別名で知られる。建物の多くが重要文化財に指定され、寺宝にも貴重な美術工芸品を多く有する。広大な境内は池や掘を廻らせた景勝地となっている。1月3日の初大師(だるま市)、節分、長月護摩講塔、七五三、菊祭りなど諸行事はむろん、四季折々の行楽客で賑わう。境内にある五百羅漢の石像も有名である。毎年、正月三が日の初詣には埼玉県内の寺院の中では最も多い約40万人の参拝客が訪れる。

ソース: 喜多院 – https://ja.wikipedia.org

小江戸川越七福神 大黒天
小江戸川越七福神 大黒天

小江戸川越七福神

喜多院(天台宗)小仙波町1-20-1

第三番 大黒天

大黒天は古代インドの神様で、密教では大自在天の化身、生産の神様です。くろ(黒)くなってまめ(魔滅)に働いて大黒天を拝むと、財宝糧食の大福利益が得られます。

 

小江戸川越七つの音風景

水琴窟(すいきんくつ)

 水琴窟は江戸時代初期の茶人、小堀遠州が考えた排水装置「洞水門」から発祥したといわれています。

 甕(かめ)の底に溜まった水面に水滴が落ちると、甕の空間に反響する音色が琴に似ていることから「水琴窟」と呼ばれるようになりました。

 

 

秋の七草            

しら露もこぼさぬ萩のうねり哉

                   芭蕉

 萩の名は古い株から芽を出す生え芽(ぎ)から出たといわれ、山萩の別名です。山野に多く、七~九月に紅柴色の蝶形花を開きます。

花言葉―想い

喜多院 多宝塔
喜多院 多宝塔

喜多院 多宝塔

境内にそびえる朱色の多宝塔

寛永16年(1639/江戸時代)に建造され、現在埼玉県の有形文化財に指定されています。

この多宝塔は、江戸時代の大工棟梁「平内(へいのうち)政信(まさのぶ)」が建造。平内政信は、全5巻からなる木割書「匠明」を著した人物で、喜多院多宝塔以外に、和歌浦天満宮(和歌山市)や輪王寺常行堂(日光市)なども建造しています。

現在は、本堂の斜め前に建てられている多宝塔ですが、もともとは山門前にある「白山権現」と「日枝神社」の間の古墳上に建てられていました。その後、2度の移築をし現在地にあります。

江戸時代初期の多宝塔の特徴が表れ、境内で一際鮮やかで目を引きます。喜多院を訪れた際は、是非みておきたい建物の1つです。

出典:カワゴエール

喜多院 多宝塔
喜多院 多宝塔
川越大師 喜多院
川越大師 喜多院
川越大師 喜多院案内図
川越大師 喜多院案内図
川越大師 喜多院案内図
川越大師 喜多院案内図

国指定重要文化財

川越大師 喜多院案内図

伝説によるとその昔仙波辺の漫々たる海水を仙芳仙人の法力によりとり除き尊像を安置したというが、平安時代、天長7年(830)淳和天皇の勅により慈覚大師が創建された勅願寺で本尊阿弥陀如来を祀り無量寿寺と名づけた。

 その後鎌倉時代、元久2年(1205)兵火で炎上の後、永仁4年(1296)伏見天皇が尊海僧正に再興せしめられたとき、慈恵大師(厄除元三大師)を歓請して官田五十石を寄せられ関東天台の中心となった。

 正安3年(1301)後伏見天皇は星野山(現在の山号)の勅額を下した。更に室町時代、天文6年(1537)北条氏綱、上杉朝定の兵火で炎上した。

 江戸時代、慶長4年(1599)天海僧正(慈眼大師)が第二十七世の法統をつぐが、同16年(161111月徳川家康が川越を訪れたとき寺領四万八千坪及び五百石を下し、酒井備後守忠利に工事を命じ、仏蔵院北院を喜多院と改め、四代家綱のとき東照宮に二百石を下すなど大いに寺勢をふるった。寛永15年(16381月の川越大火で現存の山門を除き堂宇はすべて焼失した。そこで三代将軍家光公は堀田加賀守正盛に命じてすぐに復興にかかり、江戸城紅葉山(皇居)の別殿を移築して客殿、書院などに当てた。家光誕生の間、春日局(家光公の乳母)の間があるのはそのためである。その他慈恵堂(本堂)、多宝塔、慈眼堂、鐘楼門、東照宮、日枝神社などの建物を数年間の間に再建し、それらが今日文化財として大切に保存されている。

 江戸時代までは寺領四万8千坪、七百五十石の幕府の御朱印地として寺勢をふるったが、明治以降財力の欠如とその広さ、大きさのため荒廃に向った。

 戦後文化財の指定とともに昭和大復興にとりかかり関係者の並々ならぬ努力によってその主な建造物の複原修理が完成し、それら偉観は、盛時を偲ばせるまでになった。しかし未だ完成しないところもかずあり今日までその整備事業は継続して行われている。

 現在の境内地は東照宮を含めて一万四千坪あり、今日その緑は市民にとって貴重な憩いの場となっており池や堀をめぐらした景勝はそこに点在する文化財群とともに川越随一の名勝地霊場地として名高く厄除元三大師のお参りとともに四季を通じて史跡を訪れる人々がいつも絶えない。

 1月3日の厄除初大師のご縁日には家内安全、厄除等の護摩祈願、また境内には、名物だるま市が軒をつらねて立ち並び、又2月3日の節分会、4月の長日護摩講の行事をはじめ毎日護摩供を奉じて所願成就の祈願を厳修している。

 文化財の拝観ができ、最近では毎年5月の連休の一週間宝物特別展も開かれている。

 

出典:喜  多  院

   川越市教育委員会

KAWAGOE
KAWAGOE

WELCOME TO

KAWAGOE

A CITY WHERE

HISTORY LIVES

WELCOME TO KAWAGOE A CITY WHERE HISTORY LIVES
WELCOME TO KAWAGOE A CITY WHERE HISTORY LIVES
(株)亀屋 妙喜庵 亀屋十吉(〒350-0036 埼玉県川越市小仙波町1丁目20−2)
(株)亀屋 妙喜庵 亀屋十吉(〒350-0036 埼玉県川越市小仙波町1丁目20−2)
成田山川越別院(本行院)(〒350-0055 埼玉県川越市久保町9−2)
成田山川越別院(本行院)(〒350-0055 埼玉県川越市久保町9−2)

成田山川越別院(本行院)

成田山川越別院本行院(なりたさんかわごえべついんほんぎょういん))は、埼玉県川越市にある真言宗智山派の寺院である。成田山新勝寺(千葉県成田市)の別院で、通称は川越不動。毎月28日には蚤の市(骨董市)で、11月には火渡り祭(柴灯護摩)で賑わう。本尊は不動明王。

歴史

嘉永6年(1853年)石川照温が廃寺になっていた久保町本行院を復興し創建。

明治10年(1877年)成田山川越別院本行院を称する(成田山最初の別院)。

交通アクセス

西武鉄道新宿線本川越駅から徒歩15分
東武東上線川越市駅から徒歩17分
東武東上線・JR川越線川越駅から徒歩約22分

ソース: 成田山川越別院本行院 – https://ja.wikipedia.org

成田山川越別院(本行院)(〒350-0055 埼玉県川越市久保町9−2)
成田山川越別院(本行院)(〒350-0055 埼玉県川越市久保町9−2)
成田山川越別院(本行院)(〒350-0055 埼玉県川越市久保町9−2)
成田山川越別院(本行院)(〒350-0055 埼玉県川越市久保町9−2)
成田山川越別院(本行院)(〒350-0055 埼玉県川越市久保町9−2)
成田山川越別院(本行院)(〒350-0055 埼玉県川越市久保町9−2)
ぷち・まがざん(〒350-0055 埼玉県川越市久保町7−4ときわや)
ぷち・まがざん(〒350-0055 埼玉県川越市久保町7−4ときわや)
靴のオチアイ(〒350-0055 埼玉県川越市久保町6−15)
靴のオチアイ(〒350-0055 埼玉県川越市久保町6−15)
太田屋茶店(〒350-0055 埼玉県川越市久保町6−7)
太田屋茶店(〒350-0055 埼玉県川越市久保町6−7)
七曲り(〒350-0054 埼玉県川越市三久保町10−15)
七曲り(〒350-0054 埼玉県川越市三久保町10−15)

七曲り

成田山川越別院のほど近く。県道15号線から1本路地に入って行くと、そこはくねくね折り曲がった細道が続く「七曲がり」ワールド!

七曲がりとは、川越城への敵の侵入を防ぐ為に造られた道で、わざと折れ曲がった道をつくることで敵の進軍を真っ直ぐに進めない様にしました。

ここ周辺は建物こそ新しい住宅が建ち始めてはいますが、道は当時の面影を残しています。

 

川越の町には、今でも「道のワナ」が多く残されています。例えば「鈎(かぎ)の手」「丁字路(ていじろ)」「袋小路」など。もしかしたら川越を観光・散策していると、ふと当時のワナに迷い込むかもしれません!

出典:カワゴエール

玉鉉ラーメン(〒350-0054 埼玉県川越市三久保町1−7)
玉鉉ラーメン(〒350-0054 埼玉県川越市三久保町1−7)
玉鉉ラーメン(〒350-0054 埼玉県川越市三久保町1−7)
玉鉉ラーメン(〒350-0054 埼玉県川越市三久保町1−7)
永島家住宅(旧武家屋敷)(〒350-0054 埼玉県川越市三久保町5丁目3)
永島家住宅(旧武家屋敷)(〒350-0054 埼玉県川越市三久保町5丁目3)
永島家住宅(旧武家屋敷)(〒350-0054 埼玉県川越市三久保町5丁目3)
永島家住宅(旧武家屋敷)(〒350-0054 埼玉県川越市三久保町5丁目3)
永島家住宅(武家屋敷)(市指定・史跡)
永島家住宅(武家屋敷)(市指定・史跡)

永島家住宅(武家屋敷)(市指定・史跡)

永島家住宅は、旧南久保町通り東よりの、川越城南大手門に近い位置にあります。伝聞によれば、旧川越藩御典医(ごてんい)の屋敷跡であると言います。

松平大和守家七代が川越藩主をつとめた明和4年(1767)~慶応2年(1866)当時の城下絵図によると、この場所には250石から300石の藩士が居住しました。

当家屋の小屋組は叉首(さす)構造で、棟の高さは三段となっており、痕跡などから、現在の住形態になるまで大きく2回の増改築を実施したと推測されます。当初形態を復元すると、玄関及び台所の位置は不明ですが、現在の玄関から床の間付きの座敷に至る諸室と東側に張り出す内向き諸室に分かれ、公私空間を区分した武家住宅の特質を残す遺構と考えられます。

また、松平大和守家記録による武家住宅の建築規則(明和562日条)の範囲内であり、他藩武家住宅の事例(信州上田藩ほか)と比較してもほぼ相違なく、武家住宅であることにまちがいありません。

また、増改築の手が加えられているものの、当初形態に復元可能な建物であり、敷地内は後年植栽が加えられていますが、屋敷周りなど当時の状況をよく保存しています。

現在埼玉県下三城下町(川越、忍、岩槻)では、武家屋敷の遺構はほとんど残されていません。また、関東圏内でも残存事例はわずかで、学術的にも貴重な遺構と言えます。

  平成18327日指定

出典:川越市教育委員会

永島家住宅(旧武家屋敷)(〒350-0054 埼玉県川越市三久保町5丁目3)
永島家住宅(旧武家屋敷)(〒350-0054 埼玉県川越市三久保町5丁目3)
七曲り
七曲り
七曲(ななまが)り
七曲(ななまが)り

七曲(ななまが)

 川越城下の武家地は、城の近くに上級武士、離れるに従って中・下級武士、街道筋には足軽屋敷が配置されていた。こうした構成は江戸時代を通じて変化はないが、家臣団の規模により武家地の領域には変動があった。

 松平大和(やまとの)(かみ)の入封に伴い、武家地は大きく拡大する。

秋元家時代(17041767)の川越城下の様子を描いたとされる『秋元但馬守様川越城主之(あきもとたじまかみさまかわごえじょうしゅの)頃図(ころず)』と松平大和守家時代(17671866)の城下図とされる『川越城下図』と比較すると、秋元家時代に城下の外であったところにまで武家地が拡大し、これに伴い道もつくられたことがわかる。ここでの道のつくられ方は直線路となっている。一方、秋元家時代に郷分(ごうぶん)(まち)(村が町場化したところ)や燈明寺(東明寺)・泰安寺の寺域となっていたところにまでも武家地が拡大し、同様に道がつくられたことがわかる。こちらでは、郷分町であったところや寺域境であったところに沿うように道がつくられている。この拡大範囲の道は非常に屈曲が多い、郷分町であった側は、通称「七曲り」と呼ばれるようになった。なお、「七曲り」とは道が幾重にも折れ曲がっている場所のことをいう。

 ふたつの城下図から「七曲り」は、江戸時代も後半になってつくられた屈曲路であることが明らかであるが、防衛上の目的からつくられたのかどうか定かではない。『秋元但馬守様川越城主之頃図』では既に屋敷割の原型がつくられており、松平大和守家時代にはその屋敷割を踏襲するかたちで武家地は拡大された。そして、この屋敷割に沿うとともに各屋敷への出入りを容易にするために道がつくられ、結果的に複雑な屈曲路をかたちづくることになったのであろう。「七曲り」は、武家地の広大という事実が生んだ道であること。そして、今に江戸時代の名残を留める道であることは間違いない。

出典:川越市教育委員会

JAZZ(〒350-0054 埼玉県川越市三久保町6−1)
JAZZ(〒350-0054 埼玉県川越市三久保町6−1)
川越火力発電所跡地
川越火力発電所跡地
川越火力発電所跡地
川越火力発電所跡地

川越火力発電所跡地

東京電力川越支社は、かっては川越火力発電所でした。

明治37年(1904年)埼玉県下で初めての石炭火力発電所として100kw発電機2台を使用し、川越町での電灯供給を開始しました。

川越電気鉄道

発電所で作られた電気を使い、明治3910月には川越~大宮間を結ぶ電気鉄道が開通し、チンチン電車の愛称で親しまれました。なお、駅の跡地は、川越市立中央公民館となっています。

出典:東京電力パワーグリッド㈱埼玉県電灯発祥の地

ひまわり幼稚園(〒350-0054 埼玉県川越市三久保町16−6)
ひまわり幼稚園(〒350-0054 埼玉県川越市三久保町16−6)
前川製餡所(〒350-0054 埼玉県川越市三久保町21−32)
前川製餡所(〒350-0054 埼玉県川越市三久保町21−32)
前川製餡所(〒350-0054 埼玉県川越市三久保町21−32)
前川製餡所(〒350-0054 埼玉県川越市三久保町21−32)
ひまわり東幼稚園(〒350-0053 埼玉県川越市郭町2丁目18−7)
ひまわり東幼稚園(〒350-0053 埼玉県川越市郭町2丁目18−7)
三芳野神社(〒350-0053 埼玉県川越市郭町2丁目25−25−11)
三芳野神社(〒350-0053 埼玉県川越市郭町2丁目25−25−11)
三芳野神社(〒350-0053 埼玉県川越市郭町2丁目25−25−11)
三芳野神社(〒350-0053 埼玉県川越市郭町2丁目25−25−11)
三芳野神社
三芳野神社
三芳野神社 (市指定 史跡)
三芳野神社 (市指定 史跡)
三芳野神社参道
三芳野神社参道
三芳野神社本殿
三芳野神社本殿
三芳野神社社殿及び蛭子社・大黒社 付明暦2年棟礼(県指定・建造物)
三芳野神社社殿及び蛭子社・大黒社 付明暦2年棟礼(県指定・建造物)
三芳野神社社殿及び蛭子社・大黒社 付明暦2年棟礼(県指定・建造物)
三芳野神社社殿及び蛭子社・大黒社 付明暦2年棟礼(県指定・建造物)

三芳野神社社殿及び蛭子社・大黒社

        付明暦2年棟礼(県指定・建造物)

 

本殿正面

 

三芳野神社本殿・幣殿・拝殿平面図

 平安時代のはじめ大同年間(806810)の創建と伝え、三芳野十八郷の惣社として宗敬をあつめました。太田道灌は川越城築城にあたって当社を鎮守とし、江戸時代以降は徳川幕府直営の社として庇護を受けました。

 寛永元年(1624)幕府の命をうけて川越城主酒井忠勝が奉行となり再興に着手、幕府棟染鈴木近江守長次が造営にあたりました。その後、明暦2年(1656)川越城主松平伊豆守信綱が奉行となり、幕府棟染木原義久が改修を加えました。社殿の屋根はこけらでしたが、弘化4年(1848)幕府棟染甲良若狭により瓦に改められ、さらに大正11年銅板葺に改められました。

 三芳野神社社殿は本殿、(へい)殿(でん)、拝殿からなる権現造(ごんげんづく)りで、屋根はこけら葺形の銅板葺です。外部は朱漆塗を基調とし、内部は軸部を朱漆塗、建具と天井を黒漆塗とします。

 本殿は正面三間、側面二間の入母屋造(いりもやづくり)で、四周に縁と高欄をまわし、正面に木階をもうけ、前面は幣殿に接続します。身舎(もや)内部は内陣外陣に分割し、内陣正面の柱間三間に(いた)唐戸(からと)、外陣正面は中央間に板唐戸、両脇間に(しとみ)()を装置します。組物は出組(でぐみ)で、幣殿に面した正面だけ()三斗(みつど)とします。中備(なかぞなえ)は極彩色をほどこした(かえるまた)股です。

 幣殿は正面一間、側面二間の両下造(りょうさげづくり)で、背面は本殿、前面は拝殿に接続します。組物は出三斗で、中備は外部が蟇股、内部が間斗束(けんとづか)になっています。

内部は(ぬぐい)板敷(いたじき)小組(こぐみ)(ごう)天井(てんじょう)です。

拝殿は正面三間、側面二間の入母屋造で、背面は幣殿に接続します。三方に縁高欄をまわし、背面柱筋に脇障子をたて、正面に一間の向拝をもうけます。組物は出三斗で、中備は外部が蟇股、内部が間斗束です。内部は拭板敷に小組格天井です。向拝は大面を取った角柱を(ろく)(ばり)形の(かしら)(ぬき)でつないで、両端に獅子鼻を付け、(つれ)三斗(みつど)を組んで中備に蟇股を飾ります。裏側には花木を篭彫した手狭(たばさみ)を飾ります。

三芳野神社社殿の造営経過はいささか複雑です。

 寛永元年(1624)の造営は、慶安2年(1649)松平信綱が奉納した「三芳野天神縁起絵巻」に詳細に記されていますが、そこに描かれた社殿は、流造(ながれづくり)ほ本殿と入母屋造の拝殿のみで幣殿は存在せず、現社殿とは大きく異なっています。

平成元年から平成4年にかけて実施された解体修理の報告書『三芳野神社社殿修理工事報告書』によれば、蟇股と各部取合わせを調査した結果、本殿・幣殿・拝殿の計二十三面の蟇股はすべて同形式ですが、当初からのものではなく、正面より押込み、斜め釘打ちで羽目板に取り付けられた後補の蟇股であることが判明しました。また、痕跡から、拝殿には寛永元年の造立当初より蟇股が存在していましたが(ただし現在の蟇股とは異なる)、本殿は蟇股の無い建築であったことも明らかになりました。現在の蟇股は、社殿全体を同一体裁に整えるために、新たに作製し取り付けたものと考えられます。また、本殿と幣殿、幣殿と拝殿の取合せでおさまりが不自然な所も数カ所指摘されています。

 以上を勘案すれば、現社殿にみる権現造は、寛永建立当初からのものではなく、修造時に幣殿を増設して形成されたもので、さらに、寛永建立当初の本殿と、現本殿は本来別の建築と考えられます。

 明暦2年の修造時には、江戸城二の丸東照宮が移築され、その幣殿と拝殿が三芳野神社の外宮(天神外宮)となり、明治5年に氷川神社境内(宮下町)に移され、八坂神社社殿として現存しています。確証はありませんが、現在の三芳野神社本殿は江戸城二の丸東照宮の本殿であり、明暦2年に移築され大改修を受け、幣殿を増設し、本殿と拝殿を連結して現在見るような権現造社殿となったと推定されます。

 蛭子社本殿と大黒社本殿は、拝殿の前方、参道に向かい合って鎮座します。拝殿から見て左が蛭子社、右が大黒社です。両社は同寸法、同形式で、拝殿前に一対となって配置され社格を高めています。朱塗の一間社流造(いっけんしゃながれづくり)()()棚造(だなづくり)で、屋根はこけら葺形の銅板葺とします。蛭子社本殿と大黒社本殿は、ほとんど装飾のない簡素な建築で、身舎組物は(ふな)(ひじ)()で中備はなく、妻飾は(こう)(りょう)(いのこ)扠首(さす)です。庇も柱上に舟肘木を置くだけで、いたって簡素なつくりになっています。明暦2年(1656)の「三芳野天神別当常海覚書」に「末社両宇」とあるのが相当すると思われ、元禄11年(1698)の「元禄11年川越市街屋敷社寺記」に末社貳ヶ所共 表四尺四寸 奥七尺九寸」とあって、規模が記されています。しかし、現本殿は正面四尺、側面は身舎と庇をあわせて六尺四寸五分であり、元禄の記録と一致しません。蛭子社に掲げられた額の背面に享保15年(1734)の年紀があるので、その頃再建されたものと思われます。

 昭和3011日(平成4311日追加)指定

出典:川越市教育委員会

大楠に関するご説明
大楠に関するご説明
大楠に関するご説明
大楠に関するご説明

大楠に関するご説明

 江戸期に建立された三芳野神社社殿は修復時の時期を迎え、去る平成4年に第1期修復工事が竣功、平成27年より第2期の修復工事を行うこととなりました。

 今期の修復に当たり、社殿並びに創建当時よりの石組の排水溝が大楠の根によって持ち上げられ、旧態を留めることが困難になっていることを鑑み、関係各位と協議し、やむなく大楠を伐採することとなりました。

 これも川越の先人方の志を継ぎ、社殿を保全するためでございますので、皆様方のご理解をお願い申し上げる次第でございます。

出典:三芳野神社社務所

わらべ唄発祥の所
わらべ唄発祥の所

ここはどこの細道じゃ

    天神さまのほそみちじゃ

わらべ唄発祥の所

    昭和54113

川越市文化財保護協会

川越七不思議
川越七不思議

川越城の七不思議

一、    霧吹(きりぶき)の井戸

二、    初雁(はつかり)の杉

三、    片葉の葦(あし)

四、    天神洗足(みたらし)の井水(せいすい)

五、    人身御供(ひとみごくう)

六、    遊女(よな)川の小石供養

七、    城中蹄(ひずめ)の音

川越城の七不思議
川越城の七不思議
川越(かわごえ)城(じょう)の七不思議(ななふしぎ)
川越(かわごえ)城(じょう)の七不思議(ななふしぎ)

川越(かわごえ)(じょう)七不思議(ななふしぎ)

一、霧吹(きりふき)の井戸

 城中に(こけ)むした大きな井戸があった。

ふだんは蓋をしておくが、万一敵が攻めて来て、一大事という場合には、この蓋を取ると、中からもうもうと霧が立ち込めて、城は敵から見えなくなったという。

そのため、川越城は別名霧隠(きりがくれ)(じょう)ともいわれる。

 

二、初雁(はつかり)の杉

 川越城内にある()芳野(よしの)神社の裏には大きな杉の老木あった。

いつの頃からか毎年雁の渡りの時期になると時を違えず飛んできた雁は、杉の真上まで来ると三声鳴きながら、杉の回りを三度回って、南を指して飛び去ったということである。

そのため、川越城は別名初雁城ともいわれている。

 

三、片葉の(あし)

 浮島稲荷(いなり)神社の裏側一帯は、(かや)(あし)が密生した湿地帯で、別名「七ッ(かま)」といわれていた。

ここに生える葦は不思議なことに片葉であって、次のような話が伝わっている。

 川越城が敵に攻められ落城寸前に、城中から姫が乳母(うば)と逃げのび、ようやくこの七ッ釜のところまでやって来たが、足を踏みはずしてしまった。

姫は、川辺の葦にとりすがり岸にはい上がろうとしたところ、葦の葉がちぎれてしまい、姫は葦の葉をつかんだまま水底へ沈んでしまった。

この辺の葦は、この姫の恨みによってどれも片葉であるといわれている。

 

四、天神洗足(みたらし)(せい)(すい)

大田(どう)(しん)道灌(どうかん)父子が川越城を築城するに当たって、堀の水源が見つからず困っていたところ、一人の老人が井水で足を洗っているのに出会った。

この老人の案内によって水源を見つけた道灌は、かねての懸案を解決し、難攻不落の川越城を完成させることができたといわれている。

かの老人の気品にあふれた姿に気がついた道灌は、これぞまぎれもない三芳野天神の化身(けしん)であったかと思い、以来これを天神洗足の井水と名づけて大事に神慮にこたえたという。

 

五、人身御供(ひとみごくう)

 川越城築城の際、太田道真、道灌父子は、三方(北、西、東)の水田が泥深く、築城に必要な土塁(どるい)がなかなか完成せず苦心をしていたところ、ある夜龍神が道真の夢枕にたって、「明朝一番早く汝(汝)のもとに参った者を人身御供(ひとみごくう)に差し出せばすみやかに成就(じょうじゅ)する」と言った。

 道真は、龍神にそのことを約束をしたが、明朝一番早く現れたのは、最愛の娘の世禰(よね)姫であった。

 さすがの道真も龍神との約束を守れずにいると、姫は、ある夜、城の完成を祈りながら、七ッ釜の淵に身を投げてしまった。

そののち川越城はまもなく完成したという。

 

六、遊女(よな)川の小石供養

 むかし、川越城主にたいそう狩の好きな殿様がいて、毎日のように(たか)狩りに出かけていた。

ある日、供の若侍が小川のほとりを通りかかると、一人の美しい百姓の娘に出会ったので、名前をたずねるとおよねといい、やがてこの娘は縁あって若侍の嫁となったが、(しゅうと)にいびられ実家に帰されてしまった。

およねは自分の運命を悲しみ、夫に出会った小川のほとりで夫が通りかかるのを待っていたが、会うことができず小川の淵へ身を投げてしまった。

やがてこの川を「よな川」と呼ぶようになったが、川の名は「およね」からきているとも、よなよな泣く声が聞こえるからともいわれている。

 

七、城中(じょうちゅう)(ひづめ)の音

 川越城主酒井(さかい)重忠(しげただ)は、不思議なことに夜ごと矢叫(やたけび)(ひづめ)の音に眠りをさまされていた。

ある日、易者に見てもらったところ、城内のどこかにある戦争の図がわざわいしているとの()が出たので、さっそく土蔵を調べたところ堀川夜討の戦いの場面をえがいた一双の屏風(びょうぶ)絵がでてきた。

この屏風の半双を引き離して養寿院に寄進したところ、その夜から矢叫や蹄の音が聞こえなくなったという。

昭和五十七年三月 出典:川越市

川越城跡(〒350-0053 埼玉県川越市郭町2丁目27)
川越城跡(〒350-0053 埼玉県川越市郭町2丁目27)

川越城跡

川越城(かわごえじょう)は、埼玉県川越市にある日本の城。江戸時代には川越藩の藩庁が置かれた。別名、初雁城、霧隠城。関東七名城・日本100名城。通常、川越城の名称を表記する場合、中世については河越城、近世以降は川越城と表記されることが多い。

概要

武蔵野台地の北東端に位置する平山城。1848年(嘉永元年)に建られた本丸御殿の一部が現存する(埼玉県有形文化財)。かつての城は、現在の初雁公園から川越市役所に至る広さであった。大半は失われ、二の丸跡は川越市立博物館・川越市立美術館、三の丸跡は埼玉県立川越高等学校となっているが、高校の南に、小高い丘の「富士見櫓」跡(埼玉県指定史跡)が残り、頂に御嶽神社と浅間神社が建っている。川越城には天守はなく、宇都宮城の清明台櫓と同様に、城の中で一番高い所にあった富士見櫓が天守の代わりをしていた。富士見櫓は三層と考えられている。

中世から近世にかけて改築がなされ規模を大きく変えた。藩政時代には、酒井忠勝・松平信綱(知恵伊豆)や柳沢吉保など、幕府の要職についた歴代藩主が多く、幕閣の老中数7名は全国でも最多の藩の1つであり、江戸時代中期までは「老中の居城」であった(中期以降は親藩)。

別名

初雁城

城内の三芳野神社に「初雁の杉」があった。毎年同じ時期に北から初雁が飛来し杉の真上で三声鳴き三度回って南に飛び去った、という故事による。太田道灌が川越城築城祝いで開いた宴の折も初雁が来て鳴いたことから道灌が「初雁城」と命名したとされる。3代目の初雁の杉が神社の社殿裏にある。霧隠城

城内に「霧吹きの井戸」という井戸があり、普段は蓋をしておくが危急の際は蓋を開くと霧が城を隠したという伝承による。井戸は移築され、現在は市立博物館の前庭にある。

ソース: 川越城 – https://ja.wikipedia.org

初雁公園駐車場夜間施錠管理のお知らせ
初雁公園駐車場夜間施錠管理のお知らせ

初雁公園駐車場夜間施錠管理のお知らせ

初雁公園を適正に管理するため、この駐車場。は平成20111日から、左記のとおり夜間施錠管理になります。

開場時間を過ぎると、翌日の開場時間まで、退場できません。

1.41日から1031日まで

  開場時間 午前7時から午後10時まで

2.111日から331日まで

  開場時間・午前7時から午後7時まで

出典:川越市

小江戸 川越 山吹の里
小江戸 川越 山吹の里
再建の辞
再建の辞

再建の辞

この川越城本丸御殿は明治維新の入間高麗郡立中学校郡庁舎等を経て昭和初年度に至り初雁武徳殿と名を改め武道錬磨の場となったこれを記念し当時の有志祖謀って剣聖高野佐三郎先生に揮毫を嘱し此の碑を建立したのである。然るに星霜を経ること数十載碑は空しく御殿庭内の一隅にあり顧みる人も希であった滴々その状を傷む者より碑復旧の示唆を得会員一同の出資を以て茲に再建の功が成ったのである。

 昭和621

 出典:川越初雁ライオンズクラブ

川越城図
川越城図

川越(かわごえ)城図(じょうず)

所在地 川越市郭町二丁目

 この図は、慶応2年(1866)に松平直克候と松平康英候が引継をした当時の住居・惣門・堀の位置等を顕かにしたものである。

川越(かわごえ)城図(じょうず)
川越(かわごえ)城図(じょうず)

昭和583

出典:川越市

初雁の由来
初雁の由来

初雁の由来

 “とうりゃんせ”のわらべ唄発祥の地といわれている市内郭町に在る三芳野神社の裏手に見事な杉の老木があった。一名「初雁の杉」と呼ばれた。昔、北の空から飛んできた初雁が毎年決まって、この杉の木の上で三度グルッと回り、南の空に飛び去ったという。このことから川越城のことを「初雁城」と呼ぶようになったという。

出典:川越初雁ライオンズクラブ20周年記念事業

初雁の像
初雁の像
初雁公園野球場(〒350-0053 埼玉県川越市郭町2丁目13−1)
初雁公園野球場(〒350-0053 埼玉県川越市郭町2丁目13−1)
霧吹きの井戸(〒350-0053 埼玉県川越市郭町2丁目30−1)
霧吹きの井戸(〒350-0053 埼玉県川越市郭町2丁目30−1)
〒350-0053 埼玉県川越市郭町2丁目9−4
〒350-0053 埼玉県川越市郭町2丁目9−4
〒350-0053 埼玉県川越市郭町2丁目9−4
〒350-0053 埼玉県川越市郭町2丁目9−4
埼玉県立川越高等学校(〒350-0053 埼玉県川越市郭町2−6)
埼玉県立川越高等学校(〒350-0053 埼玉県川越市郭町2−6)

埼玉県立川越高等学校

埼玉県立川越高等学校(さいたまけんりつ かわごえこうとうがっこう)は、埼玉県川越市郭町(くるわまち)二丁目にある男子校の県立高等学校。通称は、川高(かわたか)。埼玉県立川越工業高等学校の略称と区別するため、一般の人は『かわたか』と表現するが、在校生や卒業生は『かわこう』と呼ぶ。

ソース: 埼玉県立川越高等学校 – https://ja.wikipedia.org

川越明信館跡(〒350-0053 埼玉県川越市郭町1丁目17−3)
川越明信館跡(〒350-0053 埼玉県川越市郭町1丁目17−3)
初雁幼稚園(〒350-0057 埼玉県川越市大手町8−5)
初雁幼稚園(〒350-0057 埼玉県川越市大手町8−5)
めんこや 小江戸店(〒350-0057 埼玉県川越市大手町5−1)
めんこや 小江戸店(〒350-0057 埼玉県川越市大手町5−1)
弓削多醤油 川越店(〒350-0057 埼玉県川越市大手町14−5)
弓削多醤油 川越店(〒350-0057 埼玉県川越市大手町14−5)
時の鐘(〒350-0063 埼玉県川越市幸町15−7)
時の鐘(〒350-0063 埼玉県川越市幸町15−7)

時の鐘

(とき)(かね)は、埼玉県川越市の中心部、幸町北部の蔵造りの街並みに建てられている鐘楼(時計台)。

建物は、川越市指定有形文化財に指定されている。

ソース: 時の鐘 (川越市) – https://ja.wikipedia.org

時の鐘(〒350-0063 埼玉県川越市幸町15−7)
時の鐘(〒350-0063 埼玉県川越市幸町15−7)
鐘つき通り(〒350-0063 埼玉県川越市幸町)
鐘つき通り(〒350-0063 埼玉県川越市幸町)
門前横丁(〒350-0062 埼玉県川越市元町2丁目1−40)
門前横丁(〒350-0062 埼玉県川越市元町2丁目1−40)
門前横丁(〒350-0062 埼玉県川越市元町2丁目1−40)
門前横丁(〒350-0062 埼玉県川越市元町2丁目1−40)
小江戸横丁(〒350-0062 埼玉県川越市元町2丁目1−3)
小江戸横丁(〒350-0062 埼玉県川越市元町2丁目1−3)
うなっ子(〒350-0062 埼玉県川越市元町2丁目10−6)
うなっ子(〒350-0062 埼玉県川越市元町2丁目10−6)
うなっ子(〒350-0062 埼玉県川越市元町2丁目10−6)
うなっ子(〒350-0062 埼玉県川越市元町2丁目10−6)
菓子屋横丁
菓子屋横丁
菓子屋横丁
菓子屋横丁

菓子屋横丁

菓子屋横丁は、江戸時代の末期から明治時代の初めごろに、江戸っ子好みの気取らない菓子を製造したのが始まりといわれています。関東大地震で大きな被害を受けた東京に代わって全国への製造・供給を賄い、昭和初期には、約70軒が軒を連ねていました。

 平成13年には環境省の「かおり風景百選」に選定されています。

菓子屋横丁
菓子屋横丁
菓子屋横丁
菓子屋横丁
川越十カ町地区都市景観形成地域
川越十カ町地区都市景観形成地域
川越十カ町地区都市景観形成地域
川越十カ町地区都市景観形成地域

川越十カ町地区都市景観形成地域

 蔵造りの町並みが残る川越市伝統的建造物群保存地区を含む十カ町地区(約78.0ha)は、景観に基づく川越市景観計画の都市景観形成地域に指定されています。

 地域の歴史に誇りを持ち、町並み景観を守り育て、住み続けられる町を作るためにルールを定めています。このルールを守るとともに、建築行為等に際して市に届をする必要があります。

🔶主なルール

1.建築物の高さは、周囲の町並みに配慮する。

(一部で、「時の鐘」高さ16mを超えてはならない地域が定められています。)

2.主要な道路に面する建築デザインは伝統的な建物と調和するようにする。

3.大規模な広告物は禁止する。

4.地域住民等による自主的なまちづくりのルールを尊重する。

出典:十カ町会

新河岸川遊歩道(〒350-0824 埼玉県川越市石原町1丁目18)
新河岸川遊歩道(〒350-0824 埼玉県川越市石原町1丁目18)
〒350-0824 埼玉県川越市石原町1丁目42−20
〒350-0824 埼玉県川越市石原町1丁目42−20
〒350-0064 埼玉県川越市末広町3丁目6−34
〒350-0064 埼玉県川越市末広町3丁目6−34
〒350-0064 埼玉県川越市末広町3丁目8−2
〒350-0064 埼玉県川越市末広町3丁目8−2
〒350-0064 埼玉県川越市末広町1丁目
〒350-0064 埼玉県川越市末広町1丁目
〒350-0064 埼玉県川越市末広町1丁目11−8
〒350-0064 埼玉県川越市末広町1丁目11−8
〒350-0064 埼玉県川越市末広町1丁目11−8
〒350-0064 埼玉県川越市末広町1丁目11−8
山門(川越城移築蓮池門)(〒350-0064 埼玉県川越市末広町1丁目8−6)
山門(川越城移築蓮池門)(〒350-0064 埼玉県川越市末広町1丁目8−6)

山門(川越城移築蓮池門)

川越の観光地から少し離れた、静かな住宅地の合間に「榮林寺」があります。

江戸時代の初期に創建された歴史あるお寺で、川越城内の門を移築した山門に、立派な本堂。境内にはお掃除する小僧も…。また、春になると本堂前の見事なしだれ桜が参拝者を出迎えてくれます。

榮林寺は、川越城の城主「酒井備後守忠利」が、祖母の玉室榮琳(ぎょくひつえいりん)大姉(だいし)の為に建立したお寺。創建時は、現在の場所ではなく裏宿(現 元町1丁目)にあったと言います。

出典:カワゴエール
〒350-0065 埼玉県川越市仲町12−5
〒350-0065 埼玉県川越市仲町12−5
㈱松本醤油商店(〒350-0065 埼玉県川越市仲町10−13)
㈱松本醤油商店(〒350-0065 埼玉県川越市仲町10−13)
コメダ珈琲店 川越仲町店(〒350-0065 埼玉県川越市仲町8−3)
コメダ珈琲店 川越仲町店(〒350-0065 埼玉県川越市仲町8−3)
武蔵貨物自動車(株) 本社(〒350-0065 埼玉県川越市仲町3−13)
武蔵貨物自動車(株) 本社(〒350-0065 埼玉県川越市仲町3−13)
雑貨屋サク(〒350-0066 埼玉県川越市連雀町16−5)
雑貨屋サク(〒350-0066 埼玉県川越市連雀町16−5)
Zara(〒350-0043 埼玉県川越市新富町2丁目9−8)
Zara(〒350-0043 埼玉県川越市新富町2丁目9−8)
Zara(〒350-0043 埼玉県川越市新富町2丁目9−8)
Zara(〒350-0043 埼玉県川越市新富町2丁目9−8)

あけぼの公園 はなみずき公園 ふじ道 クレアパーク ケーブルカー高尾山駅 ホテルグランビュー沖縄 三芳野神社 中央会場・松一小 二の丸庭園 仙波河岸史跡公園 初雁公園 北の丸公園 北原公園 千代田区役所 千代田区立スポーツセンター 千鳥ヶ淵公園 半蔵門 和光市役所 喜多院 城山公園 大手門 大正浪漫夢通り 小金井公園 川越氷川神社 川越駅 平川門 新座緑道 新河岸川 日比谷公園健康運動広場 朝霞中央公園 桜田門 楠公レストハウス 気象観測露場 氷川神社 清水門 皇居東御苑 菓子屋横丁 蔵里 青葉台公園 飯能市役所 駒場運動公園 高尾山口駅 高尾山頂 高尾駅北口 1号路

クレアパーク(スタート)→小江戸蔵里(川越市産業観光館)→出世稲荷の大銀杏→大正浪漫夢通り→山崎美術館→鴉山稲荷神社→曹洞宗 栄林寺→六塚稲荷神社→濯紫公園→広済寺→元町休憩所→川越氷川神社→三芳野神社→川越大師 喜多院→川越八幡宮→クレアパーク(ゴール)

NPO法人埼玉ウオーキング協会
川越わくわくウオーキング教室
小江戸川越ウオークⅠ
・観音寺・広済寺
・富士見やぐら・濯柴公園

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驛の鐘(川越駅2階改札口)
驛の鐘(川越駅2階改札口)

(かわ) (ごえ) ()

川越市は東京の北西に位置し、かつては江戸時代の城下町として栄え、蔵造りと呼ばれる建築様式の古い土蔵や商家が立ち並ぶ町並みで知られています。明治時代から続く菓子屋横丁には、昔ながらの菓子屋や駄菓子屋が軒を連ねています。喜多院は江戸城の遺構が残る有名な寺で、境内には、仏弟子をかたどった五百羅漢という石像が 500 体以上もあります。

出典:川越市

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川越アトレ
川越アトレ

アトレマルヒロ

第三セクターの川越都市開発が運営管理するアトレの核テナントとして1990年(平成2年)516日開店。百貨店としては丸広百貨店アトレ店が正式な店名である。名称の「アトレ」とはフランス語で「魅力」を意味し、公募によって名称を決定した。他には「アピコ」「ケリア」などが候補に挙がっていた。なお、日本で最初にアトレと称したのは当店であり、JR東日本の首都圏にある駅ビルのアトレとは無関係(JR川越駅ビルはルミネ)。

丸広百貨店川越店とは500mほどしか離れていないが、中高年層に強い川越店に対しアトレ店では若者を意識した品揃えを徹底することで川越店と差別化をはかり、丸広が苦手としてきた若い世代の顧客獲得と川越商圏の拡大で丸広百貨店は川越2店体制を確立、川越地区での売上を急拡大させたことで注目された。紙袋や包装紙は丸広百貨店で使われている埼玉県花「さくら草」が描かれたものではなく、当初から独自のatre MARUHIROロゴが入った白と青のものが使われていたが、食品売場のみ2000年代初頭から他の丸広百貨店と同じさくら草の袋に変更された。

2012年に改装工事が行なわれ、2012915日に「新・川越ライフスタイル発信ステーション」をストアコンセプトにリニューアルされ、百貨店機能は川越本店に集約してショッピングセンターに転換した。リニューアル後の年商目標は140億円としている。また、唯一の丸広直営売場であった地下食品売場も20158月に、ザ・ガーデン自由が丘(セブン&アイ・ホールディングス)としてリニューアルオープンした。そのため、全国百貨店共通商品券と丸広のポイントカードが使用できなくなった。なお、ザ・ガーデン自由が丘は2018325日に閉店している。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

川越アトレ
川越アトレ
個室居酒屋 なかなか川越店 周辺
個室居酒屋 なかなか川越店 周辺
小江戸蔵里(川越市産業観光館)
小江戸蔵里(川越市産業観光館)

小江戸蔵里

小江戸蔵里(こえどくらざと)』は、この場所で明治8年(1875年)に創業した旧鏡山酒造の建築物を、当面の面影を残しつつ改修した施設です。

市民と観光客との交流、地域の活性化を図るとともに、川越市の物産等を楽しんでいただく新しい名所として平成2210月に誕生しました。

施設は、明治・大正・昭和の時代に建てられた酒造を改装した、おみやげ処(明治蔵)、まかない処(大正蔵)、くら市場(昭和蔵)の3つの蔵からなっています。

これらの蔵は、国の登録有形文化財に指定されています。

なお『小江戸蔵里』という名称は、川越市の別名『小江戸』蔵造りの町並みを表す「蔵」、人々が気軽に立ち寄れてくつろげる心のふるさと「里」、という意味を込めて公募の中から選ばれました。

出典:小江戸蔵里

蔵里の御案内
蔵里の御案内
〒350-0043 埼玉県川越市新富町1丁目10−7
〒350-0043 埼玉県川越市新富町1丁目10−7
出世稲荷の大銀杏
出世稲荷の大銀杏

出世稲荷神社について

出世稲荷神社は、江戸時代(天保2/1832)に、京都の伏見稲荷神社本宮より分祀した神社です。

名前の通り出世の御利益があります!また伏見稲荷同様に、五穀豊穣や商売繁盛の御利益も。

すぐ近くにある賑やかな商店街をよそに、境内はとても静かです。時たま併設された公園から聞こえる、子供たちの声にふと心が和みます。

出典:カワゴエール

市指定・天然記念物

イ チ ョ ウ

いちょう窪の出世稲荷の公孫樹として名声がある。

向かって右は幹回り(目通り)5.67m、根回り7.6m、左は幹回り7.25m、根回り9.7mあり、二本とも樹高は約26.5m。

樹齢は650余年と推定され、みごとな美しさと枝張りを示し、樹勢もきわめて旺盛である。

公孫樹は、日本と中国の一部に産するイチョウ科を代表する落葉樹で、秋にはあざやかに黄葉する。

雌雄異株で、種はいわゆるギンナンで食用となる。

昭和3336

川越市教育委員会

大正浪漫夢通り
大正浪漫夢通り

川越大正浪漫夢通り

古き良き大正時代を思わせる情緒あふれる大正浪漫夢通り。通りを歩けば、そこかしこに大正ロマンの風情が漂います。毎日の買い物から、こだわりの逸品、川越観光のお土産などを販売する、個性豊かなお店が軒を並べています。大正ロマンの雰囲気を求めて、テレビや映画の撮影によく使われる商店街です。大正ロマンの風を感じに川越の大正浪漫夢通りへぜひお越し下さい。

出典:大正浪漫夢通り

大正浪漫夢通り
大正浪漫夢通り
大正浪漫夢通り
大正浪漫夢通り
大正浪漫夢通り
大正浪漫夢通り
大正浪漫夢通り
大正浪漫夢通り
大正浪漫夢通り
大正浪漫夢通り
大正浪漫夢通り
大正浪漫夢通り
大正浪漫夢通り
大正浪漫夢通り
仲町観光案内所 周辺
仲町観光案内所 周辺
山崎美術館
山崎美術館

公益財団法人 山崎美術館

橋本雅邦画伯

橋本雅邦画伯は、川越藩のお抱え絵師橋本晴園養師の子息にて、画道に勝れ、日本革新の先覚者であり明治時代における我が国画壇の最長老であります。

依って、郷土川越の有志が集まり、明治32(1899)画宝会を結成し、先生のご力作の頒布をいただきました。

山崎家4代目故山崎豊翁は、同会の幹事として率先活躍するとともに、画伯から受けた作品をすべて大切に保管し、これを子孫に伝承させたものであります。

併し、子孫としては、社会公益の為、一般に広く鑑賞を仰ぎ、以って美学向上の資料に供するに、如かずと考え、ここに翁の誕生150年を記念し、昭和57年文化の日に山崎美術館を発足いたしました。

より多くの方々のご利用を切にお願いします。

出典:龜屋

仲町 交差点
仲町 交差点
山崎美術館
山崎美術館
水玉堂 KIMONO & Color consulting 周辺
水玉堂 KIMONO & Color consulting 周辺
水玉堂 KIMONO & Color consulting 周辺
水玉堂 KIMONO & Color consulting 周辺
鴉山稲荷神社
鴉山稲荷神社

鴉山(からすやま)稲荷(いなり)神社(じんじゃ)について

歴 史

社説によると、長禄元年(1457)上杉持朝の命によって川越城築城の任にあたった大田道真が、城の櫓より四方を眺めたところ南西を森がさえぎり、富士山が眺望出来ないために、これを伐採させたところ森の中に石祠があり、「源家勝平、怨敵退散、子孫長栄、大願成就、守護、永安三癸巳夭㋃17日願主河島武盛」と記した祈願文が発見された。道真はこれを築城の吉兆としてここに仮宮を建立した。以来、代々藩主の信仰厚く、松平(なり)(つね)の養子斉省(なりさだ)の奉納「鴉山祠」の額が現存している。

当社は塚上にあり、鴉が群摟していたことにより鴉山稲荷神社と称すると云う。また、古くは周囲に塚が多く、中でも鴉山が大きいので、川越7社の第一位としてその名は「親塚稲荷」とも言われる。

また、町内では「お稲荷さん」とも呼ばれ、親しみ大切に信仰され、今も尚、町民全体の文化遺産として伝わり引き継がれている。

平成244月吉日

出典:鴉山神社修復実行委委員会

鴉山稲荷神社
鴉山稲荷神社
鴉山稲荷神社
鴉山稲荷神社
鴉山稲荷神社
鴉山稲荷神社
鴉山稲荷神社
鴉山稲荷神社
鴉山稲荷神社
鴉山稲荷神社
鴉山稲荷神社
鴉山稲荷神社
鴉山稲荷神社
鴉山稲荷神社

鴉山稲荷神社について

歴 史

社記によると、長禄元年(1457)上杉持朝の命によって川越城築城の任にあった太田道真が、城の櫓より四方を眺めたところ南西を森がさえぎり、冨士山が眺望出来ないために、これを伐採させたところ森の中に石祠があり、「源家勝平、怨敵退散、子孫長栄、大願成就、守護、承安三癸巳天417日願主河島武盛」と記した祈願文が発見された。道真はこれを築城の吉兆としてここに仮宮を建立した。以来、代々藩主の信仰厚く、松平(なり)(つね)の養子斉省(なりさだ)の奉納「鴉山祠」の額が現存している。当社は塚上にあり、鴉が群樓していたことにより鴉山神社と称すると云う。また、古くは周囲に塚が多く、中でも鴉山が大きいので、川越七社の第一位としてその名は「親塚稲荷」とも云われる。

また、町内では「お稲荷さん」とも呼ばれ、親しみ大切に信仰され、今も尚、町民全体の文化遺産として伝わり引き継がれている。

平成244月吉日

出典:鴉山神社修復実行委員会

蔵の町・川越居宅介護支援 事業所 周辺
蔵の町・川越居宅介護支援 事業所 周辺
足立屋米穀店
足立屋米穀店
曹洞宗 栄林寺
曹洞宗 栄林寺

曹洞宗 栄林寺

(寺井宿・寺井松郷・寺井伊佐沼)永林寺

寺井松郷分にあり、禅宗洞派、近江國栗太郎浮気村源昌寺の末、興雲山と號す、開山巻岑文舒寛永17926日示寂、開基は玉寳榮琳大姉慶長586日卒す、酒井備後守忠利の伯母なり、されど其實は慶安353日に寂せし當寺の二世、嶺室文雪が草創にて、己は其任に當らず、彼巻岑文舒を勧請して、開山とせしと寺僧は傳へり、本尊釋迦を安ぜり、寛永11年酒井讃岐守忠勝家臣よりの舊記、今當寺に残れり。

天照太神第六天白山権現合殿社、秋葉社、稲荷社。以上三社は慶安三年の勧請なり。

出典:新編武蔵風土記稿より

新河岸川
新河岸川
/新河岸川
/新河岸川
埼玉県川越市 月吉陸橋
埼玉県川越市 月吉陸橋
川越丸ノ内線車両 周辺
川越丸ノ内線車両 周辺
新河岸左岸
新河岸左岸
新河岸左岸
新河岸左岸
新河岸左岸
新河岸左岸
新河岸左岸
新河岸左岸
新河岸左岸
新河岸左岸
新河岸たかざわはし
新河岸たかざわはし

新河岸たかざわはし

札の辻にほど近い、元町と石原町の境となる新河岸川にかかる橋。六塚稲荷神社に隣接し、石橋だった頃は川面に映った影と合わせ見ると眼鏡のように見えることから「眼鏡橋」とかつて呼ばれていた。

今の姿となり50年余り、菓子屋横丁が近いこの場所は観光客が多く通行するが、かつては川越城下の西の玄関口でもあった。

出典:川越市役所広報室

六塚稲荷神社
六塚稲荷神社
六塚稲荷神社
六塚稲荷神社

六塚稲荷神社

「新編武蔵風土記稿」にこんな記載があります。

「六塚稲荷又六丘稲荷とも呼ぶ。相伝ふ昔太田道真この地に住せし時、荒野を開かんとして、古丘六つを穿(うがち)崩してそのあとへ稲荷六社をたてしが、其後五社をば廃してこの一社に合祀す」

要するに…

「室町時代に太田道真が、この場所にあった6つの塚を崩した代わりに、6つの稲荷社を建造。その後、6つの内5社を無くして1つの稲荷神社にまとめて祀った。」ということかと思われます。

合祀した稲荷神社こそ現在の六塚稲荷神社で、元々6つの塚からはじまったので六塚稲荷神社と呼ばれているのでしょう。

出典:カワゴエー
新河岸左岸
新河岸左岸
新河岸左岸
新河岸左岸
濯紫公園
濯紫公園

濯 紫 公 園

濯紫園と呼ばれた庭園のあった場所を新河岸川と合わせた親水公園として整備された公園。公園中程に起伏があり、登ると遊具が設置されている。

藤棚やベンチがあり子どもたちが遊ぶ空間が広がる。川沿いを歩くことができるので水辺の散策が楽しめる。

出典:川越市役所広報室

濯紫公園
濯紫公園
濯紫公園
濯紫公園
濯紫公園
濯紫公園
 濯紫公園
濯紫公園
 濯紫公園
濯紫公園
  濯紫公園
濯紫公園
濯紫公園の由来
濯紫公園の由来

濯紫公園の由来

昔、ここに柳沢吉保の家臣山東小市郎の別荘があり、(たく)()(えん)と呼ばれる大変美しい庭園がありました。その後、唯心という僧がここで唯心庵を営んでいました。明治2年には水村氏により水車がつくられ、この水車は通称いおりの水車と呼ばれ人々に親しまれていました。

いおりの堰の上流側は子供たちの絶好の水泳や水遊び場だったそうです。

その後、新河岸川周辺の農地には住宅が建ち並び、水車も必要とはなくなり取り壊され、川も改修工事によって現在の姿になりました。

この公園は新河岸川の親水拠点として地元の人々と行政が協力し、川と公園を一体的に整備したものです。

この公園の名はかつての濯紫園にちなみ「濯紫公園」としました。

平成元年3

金比羅大神 鳥居井
金比羅大神 鳥居井

金比羅大神 鳥居井

観光客で賑わう「蔵造りの町並み」の最北端である札の辻交差点。その札の辻を越えた喜多町にある広済寺。

さっきまでの賑わいも無くなり、静かに佇む広済寺は、観光客さえ余り来ないがとても歴史あるお寺です。

創建は室町時代。河越の武将 大導寺駿河政繁が菩提寺として建立した歴史あるお寺です。

本堂は、寄棟造・桟瓦葺の風格ある建物で、中を見学することは出来ませんが、意匠がとても凝っており見応えがあります。

そんな広済寺。川越では「どっこい喜多町広済寺」と呼ばれ慕われている他、実は様々なエピソード・見所があるお寺なのです!

出典:カワゴエール

広済寺
広済寺
皺地藏尊(しゃぶきばば)
皺地藏尊(しゃぶきばば)

広済寺(こうさいじ) (しわ)地蔵(ぶき)(さま)

江戸の初め上州厩橋の浪人が北町(喜多町)に住んでいました。

ある夜異様な気配を感じて帰宅し、不思議に思い部屋を見ると片隅に三尺程の石仏らしきものがあったそうです。

翌朝俗家に置くのは如何と思い石仏を広済寺に納めました。

数日後、風邪や喘息で長患の豪商綿屋の娘が石仏に霊感を感じ、荒縄を巻き付け百日間の願掛けをしたところ百日も経たずに全快しました。

お礼にお茶と入り豆を納めましたそうです。

この話が近隣で評判となり風邪、百日咳や咳の病の時には縄で石仏を縛りお参りするとご利益があり、病が治ると縄をほどきお茶と入り豆(明治以降は金平糖をお供えしたそうです。)

咳地蔵尊
咳地蔵尊
無腮地藏尊
無腮地藏尊
無腮地藏尊(あごなしじぞう)
無腮地藏尊(あごなしじぞう)

広済寺(こうさいじ) 無腮地(あごなし)地蔵(じぞう)

歯痛治療を願った地蔵は全国にたくさんあります。腮が無いから歯痛もない歯痛治療を願う故に腮を欠いて建てたと言うのが大筋の理由です。

古くは小野篁802852年平安初期の漢詩人・歌人・参議等が遺唐使渡航失敗や拒否で隠岐な流された折思いを寄せた人の歯痛平癒 のため建てたと言われています。

治癒礼として、「あごなし地蔵様へお願いすると治ります」と言う仮名まじり金釘流の文字で書いた貼り紙を貼ったそうです。

歯痛祈願する習俗は島根・新潟・岐阜・長野・神奈川等に多くこの地蔵尊は、「全国異称地蔵一覧日本寺院名鑑地」に明記されていますが制作年代等の詳細は不明です。

/広済寺
/広済寺
/広済寺
/広済寺
/広済寺
/広済寺
/広済寺
/広済寺
華とんぼ 周辺
華とんぼ 周辺
華とんぼ 周辺
華とんぼ 周辺
札の辻 交差点
札の辻 交差点
元町休憩所
元町休憩所
小江戸川越観光協会 周辺
小江戸川越観光協会 周辺
〒350-0062 埼玉県川越市元町1丁目11−3
〒350-0062 埼玉県川越市元町1丁目11−3
道灌橋
道灌橋

(どう) (かん) (ばし)

東明寺西側には現在、道灌橋が架かっています。昭和6年に、この橋がコンクリート化されたとき、「新編武蔵風土記稿」の太田道灌屋敷の記述にあやかり、「道灌橋」と命名されたそうです。その近辺は今、ごく普通の住宅地であり、「太田道灌屋敷跡」であることを示す遺構や標示は何もありません。訪問者は、川べりに立って風に当たり、いにしえの道灌屋敷を偲ぶしかありません。田谷橋の下で、大きな鯉が泳ぎまわり、川に沿って桜並木がつづき、秋には彼岸花が咲いています。このあたりに、「太田道灌屋敷跡の碑」を一本建ててほしいものです。

太田道灌屋敷跡=埼玉県川越市志多町8番地

出典:blog.doukan.jp

新河岸川右岸
新河岸川右岸
川越氷川神社
川越氷川神社

川 越 氷 川 神 社

氷川神社は、埼玉県川越市宮下町にある神社。太田道灌以来、川越の総鎮守とされ歴代川越藩主の篤い崇敬を受けた。 国の重要無形民俗文化財である川越まつりは毎年1014日に氷川神社にて斎行される「例大祭」、直後に行われる「神幸祭」や「山車行事」から成り立っている。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

鈴木聞多命顕彰碑
鈴木聞多命顕彰碑

11回ベルリンオリンピック1936)出場アスリート

鈴木(ぶん)多命(たのみこと)顕彰碑

旧制川越中学校(現 県立川越高等学校)在学中、昭和5年(1930年)の全国の陸上競技大会において100mで2冠を達成するなど多くの輝かしい成績をもって慶応義塾大学の進学。大学でも国際大会で次々に好成績を残した、昭和11年(1936)の第11回ベルリンオリンピックに出場しました。100m走では第2次予選敗退となりましたが、彼の走りは当時の国民に勇気と希望を与えました。そして次の東京オリンピック(昭和15年)での活躍を誰もが期待しましたが、戦争により中止となったため、大学卒業後は㈱日立製作所に入社、その後陸軍将校の道を志し、再び陸上競技の場に戻ってくることはありませんでした。「陸上競技に愛を、記録に夢を、練習に心を」後輩たちに常に話していたこの言葉には、練習を重んじた彼の精神が表れています。

鈴木聞多 経歴

大正2年(191341日 埼玉県比企郡三保谷村大字宮前

(現 川島町宮前)に生まれる

父:鈴木庸三、母:多つ、兄:誠一

大正84月 三保谷村立三保谷小学校

(現 川島町立つばさ南小学校)入学

大正154 県立川越中学(現 県立川越高等学校)入学

昭和 63月 同校卒業【中学29回】

4月  慶應義塾大学予科入学

昭和12年3月 慶應義塾大学法学部政治科卒業

昭和124月 ㈱日立製作所入社

昭和131月 旭川連隊入隊

昭和14年(1939710日 中華民国(現 中華人民共和国)河南省泌陽県當平村北方高地にて戦死、二階級特進し陸軍歩兵少尉(満26歳)

昭和162月 勲六等功五級を賜る。

主な競技歴

昭和10年(1935)五ヵ国対抗陸上競技大会

昭和11年(1936)第11回ベルリンオリンピック

100m走2次予選敗退)

400mリレー走出場

国内外競技会で主に短距離においてメダル多数獲得

「地球が一公転するごとに季節の四季は巡る。何度でも巡ってくる。

だが、青春、朱夏、白秋、玄冬・・・・・・人生の四季は一限りである「地球が一公転するごとに季節の四季は巡る。何度でも巡ってくる。

だが、青春、朱夏、白秋、玄冬・・・・・・人生の四季は一限りである人は皆いずれかの季節を、いま生きている。中には若くして逝き、白秋、玄冬を見ずに終わる人生もある。だが吉田松陰は、人は十歳で死んでも、その人なりの人生の四季を生きて死ぬのだ、といっている。二十九歳の若さで生涯を終えた松陰自身が、人生の四季を堪能して旅立った人なのだろう。」聞多氏も二十六歳という短いがしかし凝縮された人生の四季を生き切った人なのだ。大正時代に生まれ、昭和に生き、祖国のために戦い、現在の豊かな日本の礎になられた方々を尊敬しそのお一人である鈴木聞多氏に感謝します。

 

人生二度なし、与えられた四季を想い、志を立て、今を一所懸命生きる。

(顕彰碑奉納者)

 

 

川越氷川神社 ご神木
川越氷川神社 ご神木

川越氷川神社

ご神木の倒壊について

平成239月、関東地方を襲った台風12号の暴風雨を受け、樹齢600年の欅のご神木が幹先10mほどの部分から倒壊しました。

ご神木は奇跡的にも、傍の本殿・石碑そして参拝者を全く傷つけることなく、神社裏に続く細い参道上にその巨体を横たえました。

長年にわたり地域を見守り続けてきたご神木は現在、市内喜多町の共和木材に大切に安置されています。

数年後にはご神木の材を用い、木に宿られた氷川大神の広大無辺なご神徳を、何らかの形で氏子崇敬者の皆様にお頒けしたいと考えております。

出典:川越氷川神社

川越氷川神社 ご神木
川越氷川神社 ご神木
令和(川越氷川神社 舞殿)
令和(川越氷川神社 舞殿)
令和(川越氷川神社 舞殿)
令和(川越氷川神社 舞殿)
川越氷川神社
川越氷川神社
令和(川越氷川神社 鳥居)
令和(川越氷川神社 鳥居)
川越氷川神社のかざぐるま
川越氷川神社のかざぐるま

縁むすび風鈴

かざぐるま

むかし、日本人は

「風が想いを運んでくれる」

と信じていました。

川越氷川神社では627日頃まで、

鳥居下の風鈴棚に藤色の「かざぐるま」を掛けています。

71日からは「かざぐるま」にかわり、

二千個の江戸風鈴が境内を彩る

「縁むすび風鈴」がはじまります。

夏は小江戸川越に、風を「聴きに」お越しください。

境内に吹く風に乗った皆さまの想いが、きっと届きますように。

出典:川越氷川神社

川越氷川神社 鳥居
川越氷川神社 鳥居
川越市立博物館
川越市立博物館

川越市(かわごえし)(りつ)博物館(はくぶつかん)

蔵造りをイメージした切り妻の瓦屋根に漆喰風の白壁姿の博物館は、旧川越城の二の丸跡に建っています。川越が繁栄した江戸時代から明治時代を中心に、原始時代から近・現代までの長い川越の歴史が総合的に理解できるような展示となっています。特に、城下町全体が見られるジオラマ模型や細部まで復元した蔵造りの町並み模型、また蔵造りの建築工程を再現した実物大模型は迫力満点です。見学した後に、市内を巡れば川越散策がさらに楽しめます。

出典:川越市

川越市立博物館前の案内板
川越市立博物館前の案内板
川越城 本丸御殿
川越城 本丸御殿

川越城 本丸御殿

川越城は、埼玉県川越市にある日本の城。江戸時代には川越藩の藩庁が置かれた。別名、初雁城、霧隠城。関東七名城・日本100名城。通常、川越城の名称を表記する場合、中世については河越城、近世以降は川越城と表記されることが多い。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

川越城 本丸御殿
川越城 本丸御殿
童歌『通りゃんせ』発祥地 三芳野神社
童歌『通りゃんせ』発祥地 三芳野神社

三芳野神社

三芳野神社は、埼玉県川越市郭町の神社。童歌「通りゃんせ」はこの神社の参道が舞台といわれる。川越城築城以前から当地にあったが、太田道真・太田道灌父子による川越城築城により城内の天神曲輪に位置することになった。平成元年に大修理が行われ、平成4年に完成。埼玉県指定文化財。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

童歌『通りゃんせ』発祥地 三芳野神社
童歌『通りゃんせ』発祥地 三芳野神社
童歌『通りゃんせ』発祥地 三芳野神社
童歌『通りゃんせ』発祥地 三芳野神社
童歌『通りゃんせ』発祥地 三芳野神社
童歌『通りゃんせ』発祥地 三芳野神社

ここはどこの細道じゃ

天神さまのほそみちじゃ

わらべ唄発祥の所

昭和54113

川越市文化財保護協会

童歌『通りゃんせ』発祥地 三芳野神社
童歌『通りゃんせ』発祥地 三芳野神社

川越城七不思議

・初かりの杉

・きりふきの井戸

・人身御供

・よな川の小石供養

・七ツ釜と片葉の葦

・天神足洗いの井戸

・城内ひずめの音

童歌『通りゃんせ』発祥地 三芳野神社
童歌『通りゃんせ』発祥地 三芳野神社

川越(かわごえ)(じょう)七不思議(ななふしぎ)

一、霧吹(きりふき)の井戸

城中に(こけ)むした大きな井戸があった。

ふだんは蓋をしておくが、万一敵が攻めて来て、一大事という場合には、この蓋を取ると、中からもうもうと霧が立ち込めて、城は敵から見えなくなったという。

そのため、川越城は別名霧隠(きりがくれ)(じょう)ともいわれる。

 

二、初雁(はつかり)の杉

川越城内にある()芳野(よしの)神社の裏には大きな杉の老木あった。

いつの頃からか毎年雁の渡りの時期になると時を違えず飛んできた雁は、杉の真上まで来ると三声鳴きながら、杉の回りを三度回って、南を指して飛び去ったということである。

そのため、川越城は別名初雁城ともいわれている。

 

三、片葉の(あし)

浮島稲荷(いなり)神社の裏側一帯は、(かや)(あし)が密生した湿地帯で、別名「七ッ(かま)」といわれていた。

ここに生える葦は不思議なことに片葉であって、次のような話が伝わっている。

川越城が敵に攻められ落城寸前に、城中から姫が乳母(うば)と逃げのび、ようやくこの七ッ釜のところまでやって来たが、足を踏みはずしてしまった。

姫は、川辺の葦にとりすがり岸にはい上がろうとしたところ、葦の葉がちぎれてしまい、姫は葦の葉をつかんだまま水底へ沈んでしまった。

この辺の葦は、この姫の恨みによってどれも片葉であるといわれている。

 

四、天神洗足(みたらし)(せい)(すい)

大田(どう)(しん)道灌(どうかん)父子が川越城を築城するに当たって、堀の水源が見つからず困っていたところ、一人の老人が井水で足を洗っているのに出会った。

この老人の案内によって水源を見つけた道灌は、かねての懸案を解決し、難攻不落の川越城を完成させることができたといわれている。

かの老人の気品にあふれた姿に気がついた道灌は、これぞまぎれもない三芳野天神の化身(けしん)であったかと思い、以来これを天神洗足の井水と名づけて大事に神慮にこたえたという。

 

五、人身御供(ひとみごくう)

川越城築城の際、太田道真、道灌父子は、三方(北、西、東)の水田が泥深く、築城に必要な土塁(どるい)がなかなか完成せず苦心をしていたところ、ある夜龍神が道真の夢枕にたって、「明朝一番早く汝(汝)のもとに参った者を人身御供(ひとみごくう)に差し出せばすみやかに成就(じょうじゅ)する」と言った。

道真は、龍神にそのことを約束をしたが、明朝一番早く現れたのは、最愛の娘の世禰(よね)姫であった。

さすがの道真も龍神との約束を守れずにいると、姫は、ある夜、城の完成を祈りながら、七ッ釜の淵に身を投げてしまった。

そののち川越城はまもなく完成したという。

 

六、遊女(よな)川の小石供養

むかし、川越城主にたいそう狩の好きな殿様がいて、毎日のように(たか)狩りに出かけていた。

ある日、供の若侍が小川のほとりを通りかかると、一人の美しい百姓の娘に出会ったので、名前をたずねるとおよねといい、やがてこの娘は縁あって若侍の嫁となったが、(しゅうと)にいびられ実家に帰されてしまった。

およねは自分の運命を悲しみ、夫に出会った小川のほとりで夫が通りかかるのを待っていたが、会うことができず小川の淵へ身を投げてしまった。

やがてこの川を「よな川」と呼ぶようになったが、川の名は「およね」からきているとも、よなよな泣く声が聞こえるからともいわれている。

 

七、城中(じょうちゅう)(ひづめ)の音

川越城主酒井(さかい)重忠(しげただ)は、不思議なことに夜ごと矢叫(やたけび)(ひづめ)の音に眠りをさまされていた。

ある日、易者に見てもらったところ、城内のどこかにある戦争の図がわざわいしているとの()が出たので、さっそく土蔵を調べたところ堀川夜討の戦いの場面をえがいた一双の屏風(びょうぶ)絵がでてきた。

この屏風の半双を引き離して養寿院に寄進したところ、その夜から矢叫や蹄の音が聞こえなくなったという。

昭和五十七年三月 出典:川越市

川越城七不思議 とおりゃんせ発祥の地
川越城七不思議 とおりゃんせ発祥の地
三芳野神社
三芳野神社
三芳野神社
三芳野神社
三芳野神社社殿及び蛭子社・大黒社 付明暦2年棟礼(県指定・建造物)

三芳野神社社殿及び蛭子社・大黒社

        付明暦2年棟礼(県指定・建造物)

本殿正面

三芳野神社本殿・幣殿・拝殿平面図

三芳野神社本殿・幣殿・拝殿平面図

 平安時代のはじめ大同年間(806810)の創建と伝え、三芳野十八郷の惣社として宗敬をあつめました。太田道灌は川越城築城にあたって当社を鎮守とし、江戸時代以降は徳川幕府直営の社として庇護を受けました。

 寛永元年(1624)幕府の命をうけて川越城主酒井忠勝が奉行となり再興に着手、幕府棟染鈴木近江守長次が造営にあたりました。その後、明暦2年(1656)川越城主松平伊豆守信綱が奉行となり、幕府棟染木原義久が改修を加えました。社殿の屋根はこけらでしたが、弘化4年(1848)幕府棟染甲良若狭により瓦に改められ、さらに大正11年銅板葺に改められました。

 三芳野神社社殿は本殿、(へい)殿(でん)、拝殿からなる権現造(ごんげんづく)りで、屋根はこけら葺形の銅板葺です。外部は朱漆塗を基調とし、内部は軸部を朱漆塗、建具と天井を黒漆塗とします。

 本殿は正面三間、側面二間の入母屋造(いりもやづくり)で、四周に縁と高欄をまわし、正面に木階をもうけ、前面は幣殿に接続します。身舎(もや)内部は内陣外陣に分割し、内陣正面の柱間三間に(いた)唐戸(からと)、外陣正面は中央間に板唐戸、両脇間に(しとみ)()を装置します。組物は出組(でぐみ)で、幣殿に面した正面だけ()三斗(みつど)とします。中備(なかぞなえ)は極彩色をほどこした(かえるまた)股です。

 幣殿は正面一間、側面二間の両下造(りょうさげづくり)で、背面は本殿、前面は拝殿に接続します。組物は出三斗で、中備は外部が蟇股、内部が間斗束(けんとづか)になっています。

内部は(ぬぐい)板敷(いたじき)小組(こぐみ)(ごう)天井(てんじょう)です。

拝殿は正面三間、側面二間の入母屋造で、背面は幣殿に接続します。三方に縁高欄をまわし、背面柱筋に脇障子をたて、正面に一間の向拝をもうけます。組物は出三斗で、中備は外部が蟇股、内部が間斗束です。内部は拭板敷に小組格天井です。向拝は大面を取った角柱を(ろく)(ばり)形の(かしら)(ぬき)でつないで、両端に獅子鼻を付け、(つれ)三斗(みつど)を組んで中備に蟇股を飾ります。裏側には花木を篭彫した手狭(たばさみ)を飾ります。

三芳野神社社殿の造営経過はいささか複雑です。

 寛永元年(1624)の造営は、慶安2年(1649)松平信綱が奉納した「三芳野天神縁起絵巻」に詳細に記されていますが、そこに描かれた社殿は、流造(ながれづくり)ほ本殿と入母屋造の拝殿のみで幣殿は存在せず、現社殿とは大きく異なっています。

平成元年から平成4年にかけて実施された解体修理の報告書『三芳野神社社殿修理工事報告書』によれば、蟇股と各部取合わせを調査した結果、本殿・幣殿・拝殿の計二十三面の蟇股はすべて同形式ですが、当初からのものではなく、正面より押込み、斜め釘打ちで羽目板に取り付けられた後補の蟇股であることが判明しました。また、痕跡から、拝殿には寛永元年の造立当初より蟇股が存在していましたが(ただし現在の蟇股とは異なる)、本殿は蟇股の無い建築であったことも明らかになりました。現在の蟇股は、社殿全体を同一体裁に整えるために、新たに作製し取り付けたものと考えられます。また、本殿と幣殿、幣殿と拝殿の取合せでおさまりが不自然な所も数カ所指摘されています。

 以上を勘案すれば、現社殿にみる権現造は、寛永建立当初からのものではなく、修造時に幣殿を増設して形成されたもので、さらに、寛永建立当初の本殿と、現本殿は本来別の建築と考えられます。

 明暦2年の修造時には、江戸城二の丸東照宮が移築され、その幣殿と拝殿が三芳野神社の外宮(天神外宮)となり、明治5年に氷川神社境内(宮下町)に移され、八坂神社社殿として現存しています。確証はありませんが、現在の三芳野神社本殿は江戸城二の丸東照宮の本殿であり、明暦2年に移築され大改修を受け、幣殿を増設し、本殿と拝殿を連結して現在見るような権現造社殿となったと推定されます。

 蛭子社本殿と大黒社本殿は、拝殿の前方、参道に向かい合って鎮座します。拝殿から見て左が蛭子社、右が大黒社です。両社は同寸法、同形式で、拝殿前に一対となって配置され社格を高めています。朱塗の一間社流造(いっけんしゃながれづくり)()()棚造(だなづくり)で、屋根はこけら葺形の銅板葺とします。蛭子社本殿と大黒社本殿は、ほとんど装飾のない簡素な建築で、身舎組物は(ふな)(ひじ)()で中備はなく、妻飾は(こう)(りょう)(いのこ)扠首(さす)です。庇も柱上に舟肘木を置くだけで、いたって簡素なつくりになっています。明暦2年(1656)の「三芳野天神別当常海覚書」に「末社両宇」とあるのが相当すると思われ、元禄11年(1698)の「元禄11年川越市街屋敷社寺記」に末社貳ヶ所共 表四尺四寸 奥七尺九寸」とあって、規模が記されています。しかし、現本殿は正面四尺、側面は身舎と庇をあわせて六尺四寸五分であり、元禄の記録と一致しません。蛭子社に掲げられた額の背面に享保15年(1734)の年紀があるので、その頃再建されたものと思われます。

 昭和3011日(平成4311日追加)指定

出典:川越市教育委員会

至 川越城 富士見櫓跡
至 川越城 富士見櫓跡

川越城 富士見(ふじみ)(やぐら)(あと)

所在地 川越市郭町二丁目

 

御嶽(おんたけ)神社が祀られているこの高台は、かつては川越城の富士見櫓が建てられていたところである。

櫓は矢倉とも書いて、合戦の際に物見として、あるいは防戦の足場として、城壁や城門の高い場所に設けられた建物を意味するが、天守閣のなかった川越城には東北の隅に二重の虎櫓、本丸の北に(ひし)櫓、西南の隅に三層の富士見櫓があって、城の中で一番高い所にあった富士見櫓が天守閣(てんしゅかく)の代わりとなっていたと思われる。

今日では、木々や建物のため、すっかり眺望も失われてしまったが、その昔はこの高台に立てば、富士見櫓の名の通り遠く富士山までも望めたことであろう。

元来、城の構造及び建造物は戦略上の都合もあって、その大部分が明らかにされることはなく、正確な規模は分からないが、江戸末期の慶応(けいおう)2年(1866)に川越城を測量した記録によれば、この富士見櫓は長さ八間三尺(約15m)、横八間(約14m)あったと記されている。

 

昭和573

出典:埼玉県

喜多院入口 交差点
喜多院入口 交差点
日枝神社
日枝神社

日枝神社 (川越市)

円仁(慈覚大師)が喜多院を創建(天長7年・830年)したおりに、その鎮守として貞観2年(860年)に坂本の日吉大社を勧請したものであるといわれている。東京赤坂の日枝神社(旧官幣大社)は、文明10年(1478年)、太田道灌が江戸城築城の際に、この川越日枝神社から分祀したものである。(赤坂日枝神社もそう記述している)

本殿は朱塗りの三間社流造、銅板葺で国の重要文化財に指定されている。拝殿は老朽化が深刻だったため、近年、新拝殿が再建された。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

天海大僧正 - 川越大師 喜多院
天海大僧正 – 川越大師 喜多院

天海(てんかい)大僧正(だいそうじょう)

15361643

喜多院(きたいん)27世住職であり、会津高田(あいづたかだ)(現 福島県会津(あいづ)美里(みさと)町)出身、江戸時代初期、喜多院を復興(ふっこう)しました。

将軍徳川(とくがわ)家康(いえやす)(こう)信頼(しんらい)あつく、宗教(しゅうきょう)政策(せいさく)顧問(こもん)的存在として助言(じょげん)を行い、将軍も度々(たびたび)、川越城また喜多院を(おとず)れています。

108歳で遷化(せんげ)(亡くなる)後、朝廷により「(じげ)()大師(たいし)」の称号を(たまわ)りました。

白山権現
白山権現

白山(はくさん)権現(ごんげん)

830年(天長7年)()(かく)大師(だいし)円仁(えんにん)が喜多院を創建(そうけん)された時に、天台宗修験(しゅげん)(どう)の霊場である白山より、この守護(しゅご)(しん)として白山の神仏の分霊を(まつ)ったと伝えられています。

右道路向かい側の日枝(ひえ)神社(じんじゃ)は、同じく創建時に、天台宗の本山である比叡山(ひえいざん)ふもとの日吉(ひよし)大社(たいしゃ)の神様の分霊を(まつ)った神社です。

天台宗では、人物(じんぶつ)習合(しゅうごう)といい、お寺も日本の神様にお守りいただきながら、神仏ともに礼拝(らいはい)し、人々の幸せをお祈りします。

修験(しゅげん)(どう)=神様と仏様の両方の力を得る修行方法

川越大師 喜多院
川越大師 喜多院
喜多院 山門
喜多院 山門

喜多院 山門

国指定重要文化財

山門は、4本の柱の上に屋根が乗る()脚門(きゃくもん)の形式で、屋根は切妻造り、本瓦葺。もとは後奈良天皇の「星野山」の刺額が揚げられていたといいます。棟礼を見る寛永9年(1632)に天海僧正により建立されたことが分かり、寛永15年(1639)の川越大火で焼失を免れ、喜多院では現存する最古の建物です。昭和30年度に部分修理が行われ、現在に至ります。

出典:川越大師 喜多院

川越大師 喜多院
川越大師 喜多院

国指定重要文化財

川越大師 喜多院案内図

伝説によるとその昔仙波辺の漫々たる海水を仙芳仙人の法力によりとり除き尊像を安置したというが、平安時代、天長7年(830)淳和天皇の勅により慈覚大師が創建された勅願寺で本尊阿弥陀如来を祀り無量寿寺と名づけた。

その後鎌倉時代、元久2年(1205)兵火で炎上の後、永仁4年(1296)伏見天皇が尊海僧正に再興せしめられたとき、慈恵大師(厄除元三大師)を歓請して官田五十石を寄せられ関東天台の中心となった。

正安3年(1301)後伏見天皇は星野山(現在の山号)の勅額を下した。更に室町時代、天文6年(1537)北条氏綱、上杉朝定の兵火で炎上した。

江戸時代、慶長4年(1599)天海僧正(慈眼大師)が第二十七世の法統をつぐが、同16年(161111月徳川家康が川越を訪れたとき寺領四万八千坪及び五百石を下し、酒井備後守忠利に工事を命じ、仏蔵院北院を喜多院と改め、四代家綱のとき東照宮に二百石を下すなど大いに寺勢をふるった。寛永15年(16381月の川越大火で現存の山門を除き堂宇はすべて焼失した。そこで三代将軍家光公は堀田加賀守正盛に命じてすぐに復興にかかり、江戸城紅葉山(皇居)の別殿を移築して客殿、書院などに当てた。家光誕生の間、春日局(家光公の乳母)の間があるのはそのためである。その他慈恵堂(本堂)、多宝塔、慈眼堂、鐘楼門、東照宮、日枝神社などの建物を数年間の間に再建し、それらが今日文化財として大切に保存されている。

江戸時代までは寺領四万8千坪、七百五十石の幕府の御朱印地として寺勢をふるったが、明治以降財力の欠如とその広さ、大きさのため荒廃に向った。

戦後文化財の指定とともに昭和大復興にとりかかり関係者の並々ならぬ努力によってその主な建造物の複原修理が完成し、それら偉観は、盛時を偲ばせるまでになった。しかし未だ完成しないところもかずあり今日までその整備事業は継続して行われている。

現在の境内地は東照宮を含めて一万四千坪あり、今日その緑は市民にとって貴重な憩いの場となっており池や堀をめぐらした景勝はそこに点在する文化財群とともに川越随一の名勝地霊場地として名高く厄除元三大師のお参りとともに四季を通じて史跡を訪れる人々がいつも絶えない。

1月3日の厄除初大師のご縁日には家内安全、厄除等の護摩祈願、また境内には、名物だるま市が軒をつらねて立ち並び、又2月3日の節分会、4月の長日護摩講の行事をはじめ毎日護摩供を奉じて所願成就の祈願を厳修している。

文化財の拝観ができ、最近では毎年5月の連休の一週間宝物特別展も開かれている。

 

出典:喜 多 院

川越市教育委員会
川越大師 喜多院
川越大師 喜多院
仙波東照宮
仙波東照宮

重要文化財・建造物

仙 波 東 照 宮

徳川家康をまつる東照宮は、家康の没後その遺骸を久能山から日光に移葬した元和3年(16173月、喜多院に四日間とう留して供養したので、天海僧正が寛永10年(16331月この地に創建した。

その後寛永15年(1638)正月の河越大火で延焼したが、堀田加賀守正盛を造営奉行とし、同年6月起工、同17年完成した。当初から独立した社格をもたず。

喜多院の一隅に造営されたもので、日光・久能山の東照宮とともに三大東照宮といわれている。

社の規模は表門(随身門)・鳥居・拝幣殿・中門(平唐門)・瑞垣・本殿からなっている。

本殿の前には歴代城主奉献の石灯籠がある。

なお拝殿には岩佐又兵衛勝以筆の三十六歌仙額と幣殿には岩槻城主阿部対馬守重次が奉納した十二聡の鷹絵額がある。

出典:埼玉県教育委員会

出典:川越市教育委員会

仙波東照宮
仙波東照宮

(せん) () (とう) (しょう) (ぐう)

〒350-0035 埼玉県川越市西小仙波町2丁目6−3
〒350-0035 埼玉県川越市西小仙波町2丁目6−3
〒350-0045 埼玉県川越市南通町7−10
〒350-0045 埼玉県川越市南通町7−10
至 クレアパーク(ゴール)
至 クレアパーク(ゴール)

(かわ) (こえ) (はち) (まん) (ぐう)

当宮は川越の地に創建してから約千年。

市内に約200社ある神社の中で、唯一「川越(河越)」の地名を有す由緒あるお宮です。

境内には、縁結びの夫婦イチョウや足腰健康の民部稲荷神社など見どころがいっぱい。お祭りやこども相撲大会、ちんじゅの森コンサートなど、四季を通じてさまざまなイベントもあります。

近所のお散歩がてらに、観光に、ぜひお気軽にお参りください。

出典:川越八幡宮

川越八幡宮
クレアパーク(ゴール)

あけぼの公園 はなみずき公園 ふじ道 クレアパーク ケーブルカー高尾山駅 ホテルグランビュー沖縄 三芳野神社 中央会場・松一小 二の丸庭園 仙波河岸史跡公園 初雁公園 北の丸公園 北原公園 千代田区役所 千代田区立スポーツセンター 千鳥ヶ淵公園 半蔵門 和光市役所 喜多院 城山公園 大手門 大正浪漫夢通り 小金井公園 川越氷川神社 川越駅 平川門 新座緑道 新河岸川 日比谷公園健康運動広場 朝霞中央公園 桜田門 楠公レストハウス 気象観測露場 氷川神社 清水門 皇居東御苑 菓子屋横丁 蔵里 青葉台公園 飯能市役所 駒場運動公園 高尾山口駅 高尾山頂 高尾駅北口 1号路

クレアパーク(スタート)→1番妙善寺(毘沙門天)→仙波河岸史跡公園(教室)→2番天然寺(寿老人)→3番喜多院(大黒天)→4番成田山(恵比寿天)→5番蓮馨寺(福禄寿神)→三芳野神社(昼飯)→川越氷川神社→6番見立寺(布袋尊)→7番妙昌寺(弁財天)→クレアパーク(ゴール)

川越わくわくウオーキング教室 NPO法人埼玉ウオーキング協会 小江戸川越ウオークⅤ ・川越七福神 ・仙波河岸史跡公園 ・氷川神社

川越わくわくウオーキング教室
NPO法人埼玉ウオーキング協会
小江戸川越ウオークⅤ
・川越七福神
・仙波河岸史跡公園
・氷川神社

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クレアパーク(スタート)
クレアパーク(スタート)
クレアパーク(スタート)
クレアパーク(スタート)
川越市脇田町10
川越市脇田町10
川越市脇田町
川越市脇田町
1番妙善寺(毘沙門天)
1番妙善寺(毘沙門天)

毘沙門天 善國寺

1番妙善寺(毘沙門天)
1番妙善寺(毘沙門天)
1番妙善寺(毘沙門天)
1番妙善寺(毘沙門天)
1番妙善寺(毘沙門天)
1番妙善寺(毘沙門天)
1番妙善寺(毘沙門天)
1番妙善寺(毘沙門天)
1番妙善寺(毘沙門天)
1番妙善寺(毘沙門天)
1番妙善寺(毘沙門天)
1番妙善寺(毘沙門天)

小江戸川越七福神

(みょう)善寺(ぜんじ)(天台宗)菅原町9-6

第一番 毘沙門天(びしゃもんてん)

毘沙門天は仏教の守護神

で、多聞天ともよばれてい

ます。鎧、兜に身を包み、

左手に持つ宝塔から宝物を

授け、右手の鉾で邪を払う

という、物心共々の福を施

す神であります。

 

小江戸川越七つの音風景

水琴窟(すいきんくつ)

水琴窟は江戸時代初期の茶人、小堀遠州が考えた排水装置「洞水門」から発祥したといわれています。

甕(かめ)の底に溜まった水面に水滴が落ちると、甕の空間に反響する音色が琴に似ていることから「水琴窟」と呼ばれるようになりました。

 

 

秋の七草        女郎花(おみなえし)

手にとれば袖さへ匂ふ女郎花

この白露に散らまく惜しも

                   山上憶良

オミナエシのオミナは女

で、姿のやさしさを現した

名。根は漢方で敗醤といい

利尿、解毒に用います。

花言葉―美人

1番妙善寺(毘沙門天)周辺
1番妙善寺(毘沙門天)周辺
仙波河岸史跡公園(教室)
仙波河岸史跡公園(教室)
仙波河岸史跡公園(教室)
仙波河岸史跡公園(教室)

仙波河岸史跡公園

仙波河岸史跡公園

公園を利用される皆さんへ

この公園は、むかし「仙波河岸」という河岸場があった跡地を整備したものです。

だれでもが気持ちよく楽しく利用できるよう、次のことを守りましょう。

1.公園の花や木は、大切にしましょう

2.ゴミくずや空きカンなどは、散らかさずに持ち帰りましょう。

3.みんなで注意し合ってケガのないように遊びましょう。

4.犬の糞は絶対に捨てないよう袋に入れて持ち帰りましょう。

5.犬の放し飼いは禁止します。

6.公園内でたき火、打ち上げ花火、その他の火気を扱い周囲に迷惑を及ぼす行為は禁止します。

7.公園内へのオートバイ、自転車の乗り入れは禁止します。

8.付近に迷惑を及ぼすボール遊びは禁止します。

9.植物などを守るため、ロープ柵の中にははいらないようにしましょう。

公園内で見られる植物

園内には下記のような植物が見られます。静かに観察しましょう。

カワヂシャミクリタコノアシ
カワヂシャ
ゴマノハグサ科
タコノアシ
ユキノシタ科
ミクリ
ミクリ科
葉はチシャ(レタスの仲間)に似て、若葉は食べられます。初夏に小さな白い花をたくさん咲かせます。晩夏につく花の穂は数本に分かれ、黄白色の花が片側につき、タコの足を連想させるので、この名がつきました。緑色のいが状の実が栗を連想させるので、この名がつきました。茎は簾(すだれ)に、根は漢方薬にされます。
公園内で見られる植物

出典:川越市都市計画部公園整備課

   公 園 管 理 事 務 所

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仙波河岸史跡公園(教室)
仙波河岸史跡公園(教室)

仙波河岸のむかし

むかしこの場所には「仙波河岸」という河岸場がありました。仙波河岸ができたのは明治の初めごろのことです。

これまでにも新河岸川の下流にはすでに数箇所の河岸場があり、江戸と川越の間を船を使って物品を運んでいました。これが「新河岸川舟運」と言われているものです。

仙波河岸は新河岸川の最も上流に位置し一番新しくできた河岸場です。

しかし、明治の中ごろから東京との間に鉄道が整備されはじめました。また、大正時代には新河岸川の改修工事が始まり、昭和の初めには新河岸舟運も終わりをむかえました。

下の写真は仙波河岸に荷船が並んでいる様子を写した明治時代後期の写真です。

 

2番天然寺(寿老人)
2番天然寺(寿老人)

小江戸川越七福神

天然寺(天台宗)小仙波町1-10-10

第二番 寿老人

寿老人は中国の神様で老人星の化身、福禄寿と同体異名であるといわれ、富財、子宝、諸病平癒とご利益は多岐にわたっており、特に長寿の神として信仰されております

 

小江戸川越七つの音風景

水琴窟(すいきんくつ)

水琴窟は江戸時代初期の茶人、小堀遠州が考えた排水装置「洞水門」から発祥したといわれています。

甕(かめ)の底に溜まった水面に水滴が落ちると、甕の空間に反響する音色が琴に似ていることから「水琴窟」と呼ばれるようになりました。

 

 

秋の七草        桔梗

桔梗の花咲く時く時ぽんと言ひそうな

                   千代女

秋の七草の朝顔は桔梗をいいます。根にはサポニンが大量に含まれており、去痰剤として薬用に用いています。。

花言葉―変わらぬ愛

2番天然寺(寿老人)
2番天然寺(寿老人)
2番天然寺(寿老人)
2番天然寺(寿老人)
2番天然寺(寿老人)
2番天然寺(寿老人)
2番天然寺(寿老人)
2番天然寺(寿老人)
2番天然寺(寿老人)
2番天然寺(寿老人)

木造大日如来坐像

(市指定・彫刻)

像高159.8㎝、寄木造(よせぎづくり)(ちょう)(がん)(しっ)(ぱく)、胸前で智奉印(ちけんいん)結跏趺坐(けっかふざ)する。

頭部内刳(うちぐり)部に建武2年(1335)、体部背板に永禄13年(1570)の修理銘がある。

様式・形制から1112世紀頃の造立と考えられる。後補の部分が多く、面部も大幅に削り直しを受けているが、市内に現存する仏像としては、最も古い作例の一つである。

平成4416日指定

出典:川越市教育委員会

2番天然寺(寿老人)
2番天然寺(寿老人)
2番天然寺(寿老人)
2番天然寺(寿老人)

(すい) (きん) (くつ)

水琴窟は江戸時代初期の茶人、小堀遠州が考えた排水装置「洞水門」から発祥したといわれています。

(かめ)の底に溜まった水面に水滴が落ちると、甕の空洞に反響する音色が琴に似ていることから「水琴窟」と呼ばれるようになりました。

(すい) (きん) (くつ)

(いや)し」

 

竹筒に耳をあて

滴の奏でる

癒しの音色を

お楽しみください。

3番喜多院(大黒天)
3番喜多院(大黒天)
3番喜多院(大黒天)
3番喜多院(大黒天)
3番喜多院(大黒天)
3番喜多院(大黒天)

小江戸川越七福神

喜多院(天台宗)小仙波町1-20-1

第三番 大黒天

大黒天は古代インドの神様で、密教では大自在天の化身、生産の神様です。くろ(黒)くなってまめ(魔滅)に働いて大黒天を拝むと、財宝糧食の大福利益が得られます。

 

小江戸川越七つの音風景

水琴窟(すいきんくつ)

水琴窟は江戸時代初期の茶人、小堀遠州が考えた排水装置「洞水門」から発祥したといわれています。

甕(かめ)の底に溜まった水面に水滴が落ちると、甕の空間に反響する音色が琴に似ていることから「水琴窟」と呼ばれるようになりました。

 

 

秋の七草       

しら露もこぼさぬ萩のうねり哉

                   芭蕉

萩の名は古い株から芽を出す生え芽(ぎ)から出たといわれ、山萩の別名です。山野に多く、七~九月に紅柴色の蝶形花を開きます。

花言葉―想い

 

3番喜多院(大黒天)
3番喜多院(大黒天)

拝観案内(三代将軍家光公誕生の間

三代将軍家光公誕生の間

春日局(かすがのつぼね)の化粧の間

五百羅漢(らかん)

拝観事務所にて受付の上ご参拝下さい。

拝観時間

3/111/23

8:5016:30

11/24~㋁末日

8:5016:00

※日・祝は閉館時間を20分延長

拝観休業日

12/251/8

2/22/3 4/24/5 8/16

その他特別行事の時

3番喜多院(大黒天)
3番喜多院(大黒天)

(すい) (きん) (くつ)

水琴窟は江戸時代初期の茶人、小堀遠州が考えた排水装置「洞水門」から発祥したといわれています。

(かめ)の底に溜まった水面に水滴が落ちると、甕の空洞に反響する音色が琴に似ていることから「水琴窟」と呼ばれるようになりました。

3番喜多院(大黒天)
3番喜多院(大黒天)
3番喜多院(大黒天)
3番喜多院(大黒天)

喜多院 多宝塔

境内にそびえる朱色の多宝塔

寛永16年(1639/江戸時代)に建造され、現在埼玉県の有形文化財に指定されています。

この多宝塔は、江戸時代の大工棟梁「平内(へいのうち)政信(まさのぶ)」が建造。平内政信は、全5巻からなる木割書「匠明」を著した人物で、喜多院多宝塔以外に、和歌浦天満宮(和歌山市)や輪王寺常行堂(日光市)なども建造しています。

現在は、本堂の斜め前に建てられている多宝塔ですが、もともとは山門前にある「白山権現」と「日枝神社」の間の古墳上に建てられていました。その後、2度の移築をし現在地にあります。

江戸時代初期の多宝塔の特徴が表れ、境内で一際鮮やかで目を引きます。喜多院を訪れた際は、是非みておきたい建物の1つです。

出典:カワゴエール

3番喜多院(大黒天)
3番喜多院(大黒天)

喜多院 慈恵堂

埼玉県川越市にある天台宗の寺院。山号は星野山(せいやさん)。良源(慈恵大師、元三大師とも)を祀り川越大師の別名で知られる。建物の多くが重要文化財に指定され、寺宝にも貴重な美術工芸品を多く有する。広大な境内は池や掘を廻らせた景勝地となっている。13日の初大師(だるま市)、節分、長月護摩講塔、七五三、菊祭りなど諸行事はむろん、四季折々の行楽客で賑わう。境内にある五百羅漢の石像も有名である。毎年、正月三が日の初詣には埼玉県内の寺院の中では最も多い約40万人の参拝客が訪れる。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

川越市小仙波町1丁目
川越市小仙波町1丁目
4番成田山(恵比須天)
4番成田山(恵比須天)
4番成田山(恵比須天)
4番成田山(恵比須天)
4番成田山(恵比須天)
4番成田山(恵比須天)

小江戸川越七福神

成田山(真言宗)久保町9-2

第四番 恵比須天(えびすてん)

恵比須天様は「福の神」の代

表で、農村では、田の神、

街では市神、福利を招く神

として、鯛を抱いた福々し

い相好でなじみ深く、人々

から深い信仰が寄せられて

います。

 

小江戸川越七つの音風景

水琴窟(すいきんくつ)

水琴窟は江戸時代初期の茶人、小堀遠州が考えた排水装置「洞水門」から発祥したといわれています。

甕(かめ)の底に溜まった水面に水滴が落ちると、甕の空間に反響する音色が琴に似ていることから「水琴窟」と呼ばれるようになりました。

 

 

秋の七草        (なで) (しこ)

なでしこが花見る毎にをとめらが

ゑまひのにほひ思ほゆるかも

                   万葉集巻十八

河原撫子は河原辺に生え

るかれんな花の意味で、美

しい淡紅色の花を開かせま

す。

花言葉―貞節

 

4番成田山(恵比須天)
4番成田山(恵比須天)
川越 熊野神社
川越 熊野神社

川越 熊野神社

室町時代に紀州熊野本宮大社から分祀された開運・縁結びの神社。境内には、本殿や拝殿、神楽殿の他、歌碑がある。

出典:熊野神社

川越 熊野神社
川越 熊野神社
川越 熊野神社
川越 熊野神社
川越 熊野神社
川越 熊野神社
川越 熊野神社
川越 熊野神社
川越 熊野神社
川越 熊野神社
川越 熊野神社 水子地藏
川越 熊野神社 水子地藏

水 子 地 蔵 尊

この世の光を見ずして逝った胎児や、生まれて間もなく亡くなった子供を、俗に水子(みずこ)と云いますが、そうした(さち)(うす)い子等は、今の世にどれ程多いことでしょう。やる方ない悲しい思いを持つ方々はどうかこのお地蔵様に祈って、水子の冥福と己が罪障の消滅を念じて下さい、薄命不憫な子等をお救い下さるのが水子地蔵尊です。

当山

 

5番蓮馨寺(福禄寿神)
5番蓮馨寺(福禄寿神)

小江戸川越七福神

(れん)馨寺(けいじ)(浄土宗)連雀町7-1

第五番 (ふく)(ろく)寿(じゅ)(じん)

福禄寿神とは幸福、高禄

長寿の三徳を具えて人に与

える方で、右手に霊芝、左

手に神亀を持ち、癌や脳卒

中を治しなさい。そうすれ

ば福禄寿が得られますと教

えています。

 

小江戸川越七つの音風景

水琴窟(すいきんくつ)

水琴窟は江戸時代初期の茶人、小堀遠州が考えた排水装置「洞水門」から発祥したといわれています。

甕(かめ)の底に溜まった水面に水滴が落ちると、甕の空間に反響する音色が琴に似ていることから「水琴窟」と呼ばれるようになりました。

 

 

秋の七草        () (ばな)(すすき)

山は暮れて野は黄昏の芒かな             蕪村

ススキは穂が獣の尾のよ

うな形をしているので尾花

ともいいます。又すくすく

と立つ木の意でススキとい

われました。

花言葉―勢力、活力

 

5番蓮馨寺(福禄寿神)
5番蓮馨寺(福禄寿神)
川越市仲町
川越市仲町
時の鐘
時の鐘

時の鐘

時の鐘は、埼玉県川越市の中心部、幸町北部の蔵造りの街並みに建てられている鐘楼。建物は、川越市指定有形文化財に指定されている。

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川越スカラ座
川越スカラ座

川越スカラ座

前身は1905年(明治38年)に開業した寄席「一力亭」。その後、1907年(明治40年)に「おいで館」、1921年(大正10年)に「川越演芸館」と改称し営業を継続したが、戦後の1945年(昭和20年)に松竹の封切館「川越松竹館」として再建。1963年(昭和38年)に現館名に改称。「シアターホームラン」(旧:ホームラン劇場)と共に川越市内を代表する映画館として市内の映画ファンに親しまれた。

2000年代に入り、埼玉県内の主要都市にシネマコンプレックスが多数開業し、経営的にも苦戦を強いられる。さらには経営者の高齢化も逆風となり、ライバル館だった「シアターホームラン」が閉館(20062月)に追い込まれた13ヵ月後の2007年(平成19年)527日を最後に、しばらくの休館を余儀なくされる。しかし、この劇場で上映会を行った経験を持つ特定非営利活動法人「プレイグラウンド」に経営が譲られ、賛助会員を募って同年818日、500万円の出資金で再オープンを果たす。

 

現在はミニシアター向きの作品を中心に上映する一方、俳優や映画監督を招いての舞台挨拶やトークショーなどの催しも行う“市民映画館”として営業を続けている。定員124人。

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川越城 本丸御殿
川越城 本丸御殿

川越城 本丸御殿

川越城は、埼玉県川越市にある日本の城。江戸時代には川越藩の藩庁が置かれた。別名、初雁城、霧隠城。関東七名城・日本100名城。通常、川越城の名称を表記する場合、中世については河越城、近世以降は川越城と表記されることが多い。

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三芳野神社(昼飯)
三芳野神社(昼飯)

三芳野神社

三芳野神社は、埼玉県川越市郭町の神社。童歌「通りゃんせ」はこの神社の参道が舞台といわれる。川越城築城以前から当地にあったが、太田道真・太田道灌父子による川越城築城により城内の天神曲輪に位置することになった。平成元年に大修理が行われ、平成4年に完成。埼玉県指定文化財。

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三芳野神社(昼飯)
三芳野神社(昼飯)

大楠に関するご説明

江戸期に建立された三芳野神社社殿は修復時の時期を迎え、去る平成4年に第1期修復工事が竣功、平成27年より第2期の修復工事を行うこととなりました。

今期の修復に当たり、社殿並びに創建当時よりの石組の排水溝が大楠の根によって持ち上げられ、旧態を留めることが困難になっていることを鑑み、関係各位と協議し、やむなく大楠を伐採することとなりました。

これも川越の先人方の志を継ぎ、社殿を保全するためでございますので、皆様方のご理解をお願い申し上げる次第でございます。

出典:三芳野神社社務所

川越氷川神社
川越氷川神社

川 越 氷 川 神 社

氷川神社は、埼玉県川越市宮下町にある神社。太田道灌以来、川越の総鎮守とされ歴代川越藩主の篤い崇敬を受けた。 国の重要無形民俗文化財である川越まつりは毎年1014日に氷川神社にて斎行される「例大祭」、直後に行われる「神幸祭」や「山車行事」から成り立っている。

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川越氷川神社
川越氷川神社
川越氷川神社
川越氷川神社
川越氷川神社
川越氷川神社
川越市元町2丁目7
川越市元町2丁目7
6番見立寺(布袋尊)
6番見立寺(布袋尊)

小江戸川越七福神

見立寺(浄土宗)元町2-9-11

第六番 布袋(ほてい)(そん)

布袋尊は唐の弾僧で名は

契此といいました。小柄で

太鼓腹。大きな袋を背負っ

て放浪し福徳を施したとい

い、世人は弥勒菩薩の化身

ともいって尊びました。

 

小江戸川越七つの音風景

水琴窟(すいきんくつ)

水琴窟は江戸時代初期の茶人、小堀遠州が考えた排水装置「洞水門」から発祥したといわれています。

甕(かめ)の底に溜まった水面に水滴が落ちると、甕の空間に反響する音色が琴に似ていることから「水琴窟」と呼ばれるようになりました。

 

 

秋の七草        (くず)

山は辺ににほひし葛の房花は

藤波よりもあはれなりけり

斎藤茂吉        

    

葛は昔大和の国・栖(くず)の人がくず粉を売り出したので出た名といわれ、根から葛粉がとれます。又、葛根湯は風邪薬になります。

花言葉―根気、努力

6番見立寺(布袋尊)
6番見立寺(布袋尊)
6番見立寺(布袋尊)
6番見立寺(布袋尊)
6番見立寺(布袋尊)
6番見立寺(布袋尊)
6番見立寺(布袋尊)
6番見立寺(布袋尊)

旅立ちの法然さま

(十三才当時のお姿)

美作(みまさかの)(くに)(岡山県)武家に生まれた浄土宗の宗祖法然上人は、9歳の時父を夜襲で失いました。

その時の遺言は「(なんじ)、決して敵を討つ事なかれ、出家して悟りの道に進むべし。」というものでした。

そして四年間岡山で仏教の基礎を学び、その後本格的に仏道を進んで行く為、京都の比叡山へ旅立つことになったのです。

「誰もが平等に救われる

仏の教えを見つけたい」

その一歩を踏み出す、

その時のお姿です。

7番妙昌寺(弁財天)
7番妙昌寺(弁財天)
7番妙昌寺(弁財天)
7番妙昌寺(弁財天)
7番妙昌寺(弁財天)
7番妙昌寺(弁財天)

小江戸川越七福神

(みょう)昌寺(しょうじ)(日蓮宗)三光町29

第七番 弁財天(べんざいてん)

弁財天さまは、七福神唯一の女神で、弁舌、芸術、財福、延寿を授ける神として、古くから、商人や芸人などの幅広い人々の信仰を集めており、運を開き、福を招く女神です。

 

小江戸川越七つの音風景

水琴窟(すいきんくつ)

水琴窟は江戸時代初期の茶人、小堀遠州が考えた排水装置「洞水門」から発祥したといわれています。

甕(かめ)の底に溜まった水面に水滴が落ちると、甕の空間に反響する音色が琴に似ていることから「水琴窟」と呼ばれるようになりました。

 

7番妙昌寺(弁財天)
7番妙昌寺(弁財天)
7番妙昌寺(弁財天)
7番妙昌寺(弁財天)

経ヶ嶋辯財天

室町時代、時の地頭が小石に法華経を書写し、塚を築いて辯財天をまつって守護神としたのが始まりです。

江戸時代、長録元年に、太田道灌公が川越城を築城する際、辯財天の社が川越城の裏鬼門に向いていたことから、鬼門除けの守護神として尊崇(信仰)厚かったと伝えられています。

当社はその昔、螢の名所としても知られていました。

(昭和24年 川越市史跡より)

辨天財に寄せられた和歌(江戸時代)

・宝をもうち出す神の徳ゆへか

つちのとの巳にまつる御社

阪 月

・弁天の(よう)(こう)なれや燕子花(かきつばた)

池のおもても紫の雲

茂 躬

・この神の恵みに茂れ(へび)()盆子(ちご)

如 松

 

川越市新富町2丁目29
川越市新富町2丁目29
クレアパーク(ゴール)
クレアパーク(ゴール)

あけぼの公園 はなみずき公園 ふじ道 クレアパーク ケーブルカー高尾山駅 ホテルグランビュー沖縄 三芳野神社 中央会場・松一小 二の丸庭園 仙波河岸史跡公園 初雁公園 北の丸公園 北原公園 千代田区役所 千代田区立スポーツセンター 千鳥ヶ淵公園 半蔵門 和光市役所 喜多院 城山公園 大手門 大正浪漫夢通り 小金井公園 川越氷川神社 川越駅 平川門 新座緑道 新河岸川 日比谷公園健康運動広場 朝霞中央公園 桜田門 楠公レストハウス 気象観測露場 氷川神社 清水門 皇居東御苑 菓子屋横丁 蔵里 青葉台公園 飯能市役所 駒場運動公園 高尾山口駅 高尾山頂 高尾駅北口 1号路

クレアパーク(スタート)→妙善寺(毘沙門天)→仙波川岸史跡公園→天然寺(寿老人)→喜多院(大黒天)→成田山(恵比寿天)→連馨寺(福禄寺)→三芳野神社→川越氷川神社→見立寺(布袋尊)→妙昌寺(弁財天)→クレアパーク(ゴール)

小江戸川越ウオークV
(川越七福神、仙波史跡公園、
氷川神社) 埼玉ウオーキング協会

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妙善寺(毘沙門天)
妙善寺(毘沙門天)

大黒天

毘沙門天(梵名ベイシラマナ)
毘沙門天(梵名ベイシラマナ)

毘沙門天(梵名ベイシラマナ)は、仏教の守護神で多聞天とも呼ばれています。よろい、かぶとに身を包み左手に持っている宝塔より無量の宝物を衆生に与えて福徳を授け、右手の鉾は邪を払い魔を降す徳を示します。心には勇気決断、くらしには財という、物心ともどもの福を施す神であります。

小江戸川越七福神

(みょう)善寺(ぜんじ)(天台宗)菅原町9-6

第一番 毘沙門天(びしゃもんてん)

毘沙門天は仏教の守護神

で、多聞天ともよばれてい

ます。鎧、兜に身を包み、

左手に持つ宝塔から宝物を

授け、右手の鉾で邪を払う

という、物心共々の福を施

す神であります。

 

小江戸川越七つの音風景

水琴窟(すいきんくつ)

水琴窟は江戸時代初期の茶人、小堀遠州が考えた排水装置「洞水門」から発祥したといわれています。

甕(かめ)の底に溜まった水面に水滴が落ちると、甕の空間に反響する音色が琴に似ていることから「水琴窟」と呼ばれるようになりました。

 

 

秋の七草        女郎花(おみなえし)

手にとれば袖さへ匂ふ女郎花

この白露に散らまく惜しも

                   山上憶良

オミナエシのオミナは女

で、姿のやさしさを現した

名。根は漢方で敗醤といい

利尿、解毒に用います。

花言葉―美人

妙善寺(毘沙門天)
妙善寺(毘沙門天)
天然寺(寿老人)
天然寺(寿老人)

寿老人

寿老人
寿老人

寿老人は、中国の神様で、老人星の化身、福禄寿と同体異名であるともいわれ、そのお姿は多様であります。当寺の寿老人は、彦根智教寺に安置されていたもので、長頭、長髭、右手に杖を持ち、左手に長寿のしるしの桃を持っています。富財、子宝、諸病平癒とそのご利益は多岐にわたっておりますが、なんといっても長寿の神として信仰されております。

小江戸川越七福神

天然寺(天台宗)小仙波町1-10-10

第二番 寿老人

寿老人は中国の神様で老人星の化身、福禄寿と同体異名であるといわれ、富財、子宝、諸病平癒とご利益は多岐にわたっており、特に長寿の神として信仰されております

 

小江戸川越七つの音風景

水琴窟(すいきんくつ)

水琴窟は江戸時代初期の茶人、小堀遠州が考えた排水装置「洞水門」から発祥したといわれています。

甕(かめ)の底に溜まった水面に水滴が落ちると、甕の空間に反響する音色が琴に似ていることから「水琴窟」と呼ばれるようになりました。

 

 

秋の七草        桔梗

桔梗の花咲く時く時ぽんと言ひそうな

                   千代女

秋の七草の朝顔は桔梗をいいます。根にはサポニンが大量に含まれており、去痰剤として薬用に用いています。。

花言葉―変わらぬ愛

天然寺(寿老人)

天然寺(寿老人)
天然寺(寿老人)

天然寺(寿老人)
天然寺(寿老人)

天然寺(寿老人)


中院庭園
中院庭園
中院庭園
中院庭園
中院庭園

中院庭園
中院庭園

中院庭園
喜多院(大黒天)
喜多院(大黒天)

喜多院(大黒天)

大黒天

大黒天
大黒天

大黒天は古代インドの闇黒の神で、仏教での戦闘神です。平安以後食を司る台所の神と崇められました。又、日本の神大国主命を大国と混同させ、命のご神徳を合せ、糧食財宝が授かる神として信仰を得ました。くろ(黒)くなってまめ(魔滅)に働いて大黒天を拝むと大福利益が得られます。

小江戸川越七福神

喜多院(天台宗)小仙波町1-20-1

第三番 大黒天

大黒天は古代インドの神様で、密教では大自在天の化身、生産の神様です。くろ(黒)くなってまめ(魔滅)に働いて大黒天を拝むと、財宝糧食の大福利益が得られます。

 

小江戸川越七つの音風景

水琴窟(すいきんくつ)

水琴窟は江戸時代初期の茶人、小堀遠州が考えた排水装置「洞水門」から発祥したといわれています。

甕(かめ)の底に溜まった水面に水滴が落ちると、甕の空間に反響する音色が琴に似ていることから「水琴窟」と呼ばれるようになりました。

 

 

秋の七草       

しら露もこぼさぬ萩のうねり哉

                   芭蕉

萩の名は古い株から芽を出す生え芽(ぎ)から出たといわれ、山萩の別名です。山野に多く、七~九月に紅柴色の蝶形花を開きます。

花言葉―想い

 

喜多院(大黒天)

喜多院(大黒天)
喜多院(大黒天)

喜多院(大黒天)
喜多院(大黒天)

喜多院(大黒天)
喜多院(大黒天)

喜多院(大黒天)
喜多院(大黒天)

喜多院(大黒天)
喜多院(大黒天)

喜多院(大黒天)
喜多院(大黒天)

喜多院(大黒天)
成田山(恵比寿天)
成田山(恵比寿天)

恵比須天

恵比須天
恵比須天

恵比須様は「福の神」の代表。鯛を抱いた福々しい相好はなじみ深いものであります。恵比須の名は、外国人を意味するエビスの言葉と同一で、本来は異郷から来臨して人々に幸福をもたらすと信じられた神であります。漁村では海の神、農村では田の神、山村では山の神、都市では市神、福利を招く神として、商人からも深い信仰が寄せられています。

小江戸川越七福神

成田山(真言宗)久保町9-2

第四番 恵比須天(えびすてん)

恵比寿様は「福の神」の代

表で、農村では、田の神、

街では市神、福利を招く神

として、鯛を抱いた福々し

い相好でなじみ深く、人々

から深い信仰が寄せられて

います。

 

小江戸川越七つの音風景

水琴窟(すいきんくつ)

水琴窟は江戸時代初期の茶人、小堀遠州が考えた排水装置「洞水門」から発祥したといわれています。

甕(かめ)の底に溜まった水面に水滴が落ちると、甕の空間に反響する音色が琴に似ていることから「水琴窟」と呼ばれるようになりました。

 

 

秋の七草        (なで) (しこ)

なでしこが花見る毎にをとめらが

ゑまひのにほひ思ほゆるかも

                   万葉集巻十八

河原撫子は河原辺に生え

るかれんな花の意味で、美

しい淡紅色の花を開かせま

す。

花言葉―貞節

 

成田山(恵比寿天)
成田山(恵比寿天)


成田山(恵比寿天)

成田山(恵比寿天)
成田山(恵比寿天)

成田山(恵比寿天)
成田山(恵比寿天)

成田山(恵比寿天)
〒350-0066 埼玉県川越市連雀町15‐11
〒350-0066 埼玉県川越市連雀町15‐11
熊野神社
熊野神社
銭洗弁財天宇賀福神社
銭洗弁財天宇賀福神社
連馨寺(福禄寿神)
連馨寺(福禄寿神)

福禄寿神

福禄寿神
福禄寿神

福禄寿神とは、幸福、高禄、長寿の三徳を具えて、これを人に与え、方位除災、商売繁昌、延寿福楽等のご利益を現わされる方でありますが、当山の尊像は右手に霊芝、左手に神亀を持たれ、癌や脳卒中を早く治しなさい、そうすれば、福禄寿が得られますと教えています。

小江戸川越七福神

(れん)馨寺(けいじ)(浄土宗)連雀町7-1

第五番 (ふく)(ろく)寿(じゅ)(じん)

福禄寿神とは幸福、高禄

長寿の三徳を具えて人に与

える方で、右手に霊芝、左

手に神亀を持ち、癌や脳卒

中を治しなさい。そうすれ

ば福禄寿が得られますと教

えています。

 

小江戸川越七つの音風景

水琴窟(すいきんくつ)

水琴窟は江戸時代初期の茶人、小堀遠州が考えた排水装置「洞水門」から発祥したといわれています。

甕(かめ)の底に溜まった水面に水滴が落ちると、甕の空間に反響する音色が琴に似ていることから「水琴窟」と呼ばれるようになりました。

 

 

秋の七草        () (ばな)(すすき)

山は暮れて野は黄昏の芒かな             蕪村

ススキは穂が獣の尾のよ

うな形をしているので尾花

ともいいます。又すくすく

と立つ木の意でススキとい

われました。

花言葉―勢力、活力

 

連馨寺(福禄寿神)

連馨寺(福禄寿神)
川越氷川神社
川越氷川神社
川越氷川神社

川越氷川神社
川越氷川神社

川越氷川神社
見立寺(布袋尊)
見立寺(布袋尊)

布袋尊

布袋尊
布袋尊

布袋尊は中国唐代の禅僧で名は契此。小柄で太鼓腹、大きな袋を担って各地を放浪し、吉凶を占い、福を施して倦むことがなかったといいます。又、未来仏たる弥勒菩薩の化身ともいわれ、昔から崇められてきました。御真言「オンマイトレイヤソワカ」

小江戸川越七福神

見立寺(けんりゅうじ)(浄土宗)元町2-9-11

第六番 布袋(ほてい)(そん)

布袋尊は唐の禅僧で名は

契此といいました。小柄で

太鼓腹。大きな袋を背負っ

て放浪し福徳を施したとい

い、世人は弥勒菩薩の化身

ともいって尊びました。

 

小江戸川越七つの音風景

水琴窟(すいきんくつ)

水琴窟は江戸時代初期の茶人、小堀遠州が考えた排水装置「洞水門」から発祥したといわれています。

甕(かめ)の底に溜まった水面に水滴が落ちると、甕の空間に反響する音色が琴に似ていることから「水琴窟」と呼ばれるようになりました。

 

 

秋の七草        (くず)

山の辺ににほひし葛の房花は

藤波よりもあはれなりけり 斎藤茂吉

葛は昔大和の国・栖(くず)の人がくず粉を売り出したので出た名といわれ、根から葛粉がとれます。又、葛根湯は風邪薬になります。

花言葉―根気、努力

見立寺(布袋尊)

見立寺(布袋尊)
見立寺(布袋尊)

見立寺(布袋尊)
見立寺(布袋尊)

見立寺(布袋尊)
〒350-0824 埼玉県川越市石原町1丁目18‐7
〒350-0824 埼玉県川越市石原町1丁目18‐7
妙昌寺(弁財天)
妙昌寺(弁財天)

弁財天

弁財天
弁財天

弁財天さまは、七福神唯一の女神で、弁舌、芸術、財福、延寿を授ける神として、古くから、商人や芸人などの幅広い人々の信仰を集めており、運を開き、福を招く女神です。

小江戸川越七福神

(みょう)昌寺(しょうじ)(日蓮宗)三光町29

第七番 弁財天(べんざいてん)

弁財天さまは、七福神唯一の女神で、弁舌、芸術、財福、延寿を授ける神として、古くから、商人や芸人などの幅広い人々の信仰を集めており、運を開き、福を招く女神です。

 

小江戸川越七つの音風景

水琴窟(すいきんくつ)

水琴窟は江戸時代初期の茶人、小堀遠州が考えた排水装置「洞水門」から発祥したといわれています。

甕(かめ)の底に溜まった水面に水滴が落ちると、甕の空間に反響する音色が琴に似ていることから「水琴窟」と呼ばれるようになりました。

 

 

秋の七草        (ふじ) (ばかま)

宿りせし人のかたみか藤袴

わすられがたき香に匂ひつつ 紀貫之

花が藤色で弁の形が筒をなしているからついた名といいます。乾燥させたものは薬用で利尿、通経、黄疸に効果があるといいます。

花言葉―思いやり、落ちつき

妙昌寺(弁財天)

妙昌寺(弁財天)
妙昌寺(弁財天)

妙昌寺(弁財天)
然寺(寿老人)
然寺(寿老人)

あけぼの公園 はなみずき公園 ふじ道 クレアパーク ケーブルカー高尾山駅 ホテルグランビュー沖縄 三芳野神社 中央会場・松一小 二の丸庭園 仙波河岸史跡公園 初雁公園 北の丸公園 北原公園 千代田区役所 千代田区立スポーツセンター 千鳥ヶ淵公園 半蔵門 和光市役所 喜多院 城山公園 大手門 大正浪漫夢通り 小金井公園 川越氷川神社 川越駅 平川門 新座緑道 新河岸川 日比谷公園健康運動広場 朝霞中央公園 桜田門 楠公レストハウス 気象観測露場 氷川神社 清水門 皇居東御苑 菓子屋横丁 蔵里 青葉台公園 飯能市役所 駒場運動公園 高尾山口駅 高尾山頂 高尾駅北口 1号路