クレアパーク(スタート)→蔵里→蔵造の町並み→川越城中ノ門堀跡→川越城本丸御殿→初雁公園→通町→喜多院→新河岸川→仙波河岸史跡公園→愛宕神社→川越駅(ゴール)

小江戸川越ウオークⅢ 
・蔵造の町並み
・川越城本丸御殿
・仙波河岸史跡公園

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〒350-1122 埼玉県川越市脇田町3−18
〒350-1122 埼玉県川越市脇田町3−18
至 クレアパーク(スタート)
至 クレアパーク(スタート)
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クレアパーク(スタート)
クレアパーク(スタート)
小江戸蔵里(川越市産業観光館)
小江戸蔵里(川越市産業観光館)

小江戸蔵里

小江戸蔵里(こえどくらざと)』は、この場所で明治8年(1875年)に創業した旧鏡山酒造の建築物を、当面の面影を残しつつ改修した施設です。

市民と観光客との交流、地域の活性化を図るとともに、川越市の物産等を楽しんでいただく新しい名所として平成2210月に誕生しました。

施設は、明治・大正・昭和の時代に建てられた酒造を改装した、おみやげ処(明治蔵)、まかない処(大正蔵)、くら市場(昭和蔵)の3つの蔵からなっています。

これらの蔵は、国の登録有形文化財に指定されています。

なお『小江戸蔵里』という名称は、川越市の別名『小江戸』蔵造りの町並みを表す「蔵」、人々が気軽に立ち寄れてくつろげる心のふるさと「里」、という意味を込めて公募の中から選ばれました。

出典:小江戸蔵里

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小江戸蔵里(川越市産業観光館)
小江戸蔵里(川越市産業観光館)
小江戸蔵里(川越市産業観光館)
小江戸蔵里(川越市産業観光館)
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小江戸蔵里(川越市産業観光館)
小江戸蔵里(川越市産業観光館)
小江戸蔵里(川越市産業観光館)
小江戸蔵里(川越市産業観光館)
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出世稲荷の大銀杏
出世稲荷の大銀杏

出世稲荷神社について

出世稲荷神社は、江戸時代(天保2/1832)に、京都の伏見稲荷神社本宮より分祀した神社です。

名前の通り出世の御利益があります!また伏見稲荷同様に、五穀豊穣や商売繁盛の御利益も。

すぐ近くにある賑やかな商店街をよそに、境内はとても静かです。時たま併設された公園から聞こえる、子供たちの声にふと心が和みます。

出典:カワゴエール

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出世稲荷神社
出世稲荷神社

市指定・天然記念物

イ チ ョ ウ

いちょう窪の出世稲荷の公孫樹として名声がある。

向かって右は幹回り(目通り)5.67m、根回り7.6m、左は幹回り7.25m、根回り9.7mあり、二本とも樹高は約26.5m。

樹齢は650余年と推定され、みごとな美しさと枝張りを示し、樹勢もきわめて旺盛である。

公孫樹は、日本と中国の一部に産するイチョウ科を代表する落葉樹で、秋にはあざやかに黄葉する。

雌雄異株で、種はいわゆるギンナンで食用となる。

昭和3336

川越市教育委員会

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連雀町 交差点
連雀町 交差点
川越熊野神社
川越熊野神社

川越 熊野神社

室町時代に紀州熊野本宮大社から分祀された開運・縁結びの神社。境内には、本殿や拝殿、神楽殿の他、歌碑がある。

出典:熊野神社

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川越熊野神社 周辺
川越熊野神社 周辺
夏詣 川越熊野神社
夏詣 川越熊野神社
蓮馨寺
蓮馨寺

蓮 馨 寺

蓮馨寺は、埼玉県川越市連雀町にある浄土宗の寺院である。山号は孤峰山。院号は宝池院。本尊は阿弥陀如来。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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仲町 交差点
仲町 交差点
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まめ屋 小江戸川越店
まめ屋 小江戸川越店

小江戸 まめ屋

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山崎美術館
山崎美術館

公益財団法人 山崎美術館

橋本雅邦画伯

橋本雅邦画伯は、川越藩のお抱え絵師橋本晴園養師の子息にて、画道に勝れ、日本革新の先覚者であり明治時代における我が国画壇の最長老であります。

依って、郷土川越の有志が集まり、明治32(1899)画宝会を結成し、先生のご力作の頒布をいただきました。

山崎家4代目故山崎豊翁は、同会の幹事として率先活躍するとともに、画伯から受けた作品をすべて大切に保管し、これを子孫に伝承させたものであります。

併し、子孫としては、社会公益の為、一般に広く鑑賞を仰ぎ、以って美学向上の資料に供するに、如かずと考え、ここに翁の誕生150年を記念し、昭和57年文化の日に山崎美術館を発足いたしました。

より多くの方々のご利用を切にお願いします。

出典:龜屋

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蔵造りの町並
蔵造りの町並

蔵造りの町並み

「世に小京都は数あれど、小江戸は川越ばかりなり」

そう言わせた”蔵造りの町並み”は、江戸の町並みが今なお残るエリアです。黒漆喰の壁に、重厚で豪華な蔵造り商家が軒をつらね、商人の活気と道行く観光客で賑わいをみせています。

出典:カワゴエール

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蔵造りの町並
蔵造りの町並
蔵造りの町並
蔵造りの町並
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蔵造りの町並
蔵造りの町並
蔵造りの町並
蔵造りの町並
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蔵造りの町並
蔵造りの町並
時の鐘
時の鐘

時の鐘

時の鐘は、埼玉県川越市の中心部、幸町北部の蔵造りの街並みに建てられている鐘楼。建物は、川越市指定有形文化財に指定されている。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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時の鐘
時の鐘
時の鐘
時の鐘
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時の鐘
時の鐘
蔵造りの町並
蔵造りの町並
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至 菓子屋横丁
至 菓子屋横丁

懐かしい味を今に伝える菓子屋横丁

色とりどりのガラスが散りばめられた石畳の道に、20軒程度の菓子屋などがひしめく川越の有名なスポット「菓子屋横丁」。素朴で昔懐かしい味を今に伝える菓子作りの店が立ち並び、一歩足を踏み入れると、誰もが子供に返ったような気分になってしまう。醤油の焼ける香ばしい香り、ニッキやハッカ飴、駄菓子やだんごなど、昔ながらの手法で作られる飴菓子・カルメ焼きなど、思わず「あっこれ!」と言ってしまう駄菓子の数々。百円玉を握りしめ、あれにしようかこれにしようかと頭をひねった幼い頃を思い出す大人も、駄菓子をあまり知らない子供も世代を超えて、誰もがワクワクしてしまうような場所である。

「菓子屋横丁」は明治の始め頃、鈴木藤左衛門が養寿院の門前町として栄えるこの町で江戸っ子好みの 気取らない菓子を製造したことが始まりといわれている。その後の大正12年、関東大震災によって被害を受けた東京に代わって製造供給を賄い、昭和初期には70軒以上の店があったといわれている。その後、戦争や生活の変化などによって店舗数は激減したものの、人情味あふれる横丁の情緒、威勢の良い呼び込みの声、素朴で懐かしく温かい街角は、時代が変わっても人々に安らぎを与えてくれる。 「菓子屋横丁」に漂う素朴で懐かしい香りは、平成13年環境省の“かおり風景100に選定された。

出典:公益社団法人 小江戸川越観光協会

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至 札の辻
至 札の辻

札の辻

札の辻、札ノ辻、札之辻など。街道や宿場町など往来の多い場所に高札を立てた道・辻。

高札古代から明治時代初期にかけて行われた、法令を板に記して往来などに掲示して民衆に周知させる方法。多くの地名や交差点名・バス停名などに使用されている。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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川越市役所
川越市役所

川越市役所

「川越町役場」町役場は江戸町の元山粂工場の場所にあったが、大正元年11月に陸軍特別大演習が川越地方で行われるため、本町に新築を急ぎ、どうやらこれに間に合った。当時町役場としてこれだけモダンでしかも立派な建物は、全国どこにもあるまいと大いに自慢したものである。その後この建物は、大正11年に市役所となり、昭和47年の新庁舎落成とともに壊された。そこには60年の長い市政の歴史がある。

岡村一郎著『写真集 明治大正昭和 川越』ふるさとの想い出 より抜粋

[出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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川越市役所前
川越市役所前
川越城中ノ門堀跡
川越城中ノ門堀跡

川越城と中ノ門堀

川越城は、長禄(ちょうろく)元年(1457)に扇谷(おうぎがやつ)上杉(もち)(とも)の家臣である太田(どう)(しん)道灌(どうかん)父子によって築城されました。

当時、(もち)(とも)古河(こが)公方(くぼう)足利(しげ)(うじ)と北武蔵の覇権を巡る攻防の渦中(かちゅう)にあり、川越城の築城はこれに備えたものです。

天文(てんぶん)6年(1537)、小田原を本拠とする後北条(ごほうじょう)氏は川越城を攻め落とし、同15年の河越夜戦によって北武蔵への支配を盤石(ばんじゃく)なものとします。

しかし、(てん)(しょう)18年(1590)の豊臣秀吉の関東攻略に際しては前田利家に攻められて落城します。

江戸時代になると、川越城は江戸の北の守りとして重視され、親藩(しんばん)譜代(ふだい)の大名が藩主に任じられました。

寛永(かんえい)16年(1639)に藩主となった松平信綱(のぶつな)は城の大規模な改修を行い、川越城は近世城郭として体裁(ていさい)を整えるにいたりました。

中ノ門堀はこの松平信綱による城の大改修の折に造られたものと考えられます。まだ天下が(おさ)まって間もないこの時代、戦いを想定して作られたのが中ノ門堀だったのです。

現在地のあたりには、名前の由来となった中ノ門が建てられていました。多加(たが)()家所蔵の絵図によれば、中ノ門は2階建ての櫓門(やぐらもん)で、屋根は入母屋(いりもや)、本瓦葺き1階部分は(はり)(ゆき)152寸(4.605m)、(けた)(ゆき)3031分(9.183m)ほどの規模でした。

棟筋を東西方向に向け、両側に土塁が取り付き、土塁の上には狭間(きま)を備えた土塀が巡っていました。

 

※本整備工事は、国土交通省まちづくり交付金・埼玉県観光資源魅力アップ

事業の補助を受けて実施しました。

 

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川越城と中ノ門堀
川越城と中ノ門堀

川越城と中ノ門堀

川越城は、長禄(ちょうろく)元年(1457)に扇谷(おうぎがやつ)上杉(もち)(とも)の家臣である太田(どう)(しん)道灌(どうかん)父子によって築城されました。

当時、(もち)(とも)古河(こが)公方(くぼう)足利(しげ)(うじ)と北武蔵の覇権を巡る攻防の渦中(かちゅう)にあり、川越城の築城はこれに備えたものです。

天文(てんぶん)6年(1537)、小田原を本拠とする後北条(ごほうじょう)氏は川越城を攻め落とし、同15年の河越夜戦によって北武蔵への支配を盤石(ばんじゃく)なものとします。

しかし、(てん)(しょう)18年(1590)の豊臣秀吉の関東攻略に際しては前田利家に攻められて落城します。

江戸時代になると、川越城は江戸の北の守りとして重視され、親藩(しんばん)譜代(ふだい)の大名が藩主に任じられました。

寛永(かんえい)16年(1639)に藩主となった松平信綱(のぶつな)は城の大規模な改修を行い、川越城は近世城郭として体裁(ていさい)を整えるにいたりました。

中ノ門堀はこの松平信綱による城の大改修の折に造られたものと考えられます。まだ天下が(おさ)まって間もないこの時代、戦いを想定して作られたのが中ノ門堀だったのです。

現在地のあたりには、名前の由来となった中ノ門が建てられていました。多加(たが)()家所蔵の絵図によれば、中ノ門は2階建ての櫓門(やぐらもん)で、屋根は入母屋(いりもや)、本瓦葺き1階部分は(はり)(ゆき)152寸(4.605m)、(けた)(ゆき)3031分(9.183m)ほどの規模でした。

棟筋を東西方向に向け、両側に土塁が取り付き、土塁の上には狭間(きま)を備えた土塀が巡っていました。

 

※本整備工事は、国土交通省まちづくり交付金・埼玉県観光資源魅力アップ

事業の補助を受けて実施しました。

 

川越城図(川越市立中央図書館蔵)

 

中之御門東西棟図

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川越城と中ノ門堀
川越城と中ノ門堀
川越城中ノ門堀跡 あじさい
川越城中ノ門堀跡 あじさい
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中ノ門堀
中ノ門堀
中ノ門堀のしくみ
中ノ門堀のしくみ

中ノ門堀のしくみ

中ノ門堀は戦いの際、敵が西大手門(市役所方面)から城内に攻め込んだ場合を想定して造られています。

西大手門から本丸(博物館方面)をめざして侵入した敵は中ノ門堀を含む3本の堀に阻まれて直進できません。

進撃の歩みがゆるんだところに、城兵が弓矢を射かけ鉄砲を撃ちかけるしくみでした。

また、発掘調査ではす城の内側と外側で堀の法面勾配が異なることがわかりました。

中ノ門堀の当初の規模は深さ7m、幅18m、東側の法面勾配は60度、西側は30度でした。

つまり、城の内側では堀が壁のように切り立って、敵の行く手を阻んでいたのです。

明治時代以降、川越城の多くの施設・建物が取り壊される中、中ノ門堀跡は旧城内に残る唯一の堀跡となりました。

川越城の名残をとどめるこの堀跡を保存してゆこうという声が市民の間から起こり、川越市では平成2021年度に整備工事を行いました。

 

中ノ門堀のしくみ①

 

中ノ門堀のしくみ②

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川越城中ノ門堀跡
川越城中ノ門堀跡
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川越市立美術館 川越市立博物館
川越市立美術館 川越市立博物館

川越市立美術館

川越市市制施行80周年の事業として、2002年(平成14年)121日(川越市民の日)に開館した。 川越城二の丸跡にある川越市立博物館の隣接地にあり、川越の蔵造りの商家のデザインを外観に取り入れている。

小村雪岱、小茂田青樹、岩崎勝平、相原求一朗など川越生まれの画家や、橋本雅邦、井上安治、森脇雲溪など川越藩の画家、小泉智英、長沢秀之、内田静馬、久保提多など川越市ゆかりの画家の、日本画、洋画、版画などを展示している常設展示室がある。相原求一朗は記念室がある。斎藤与里、寺内萬治郎、池田幹雄など県内他市で活躍した作家の作品も充実しつつあり、平成243月現在のコレクション総数は1998点に及ぶ(資料含む)。

他にも企画展示室では年5回の特別展を開催している。タッチアートコーナー、パソコンによる収蔵品紹介などの美術情報コーナーもある。美術書なども数多く刊行しており、ミュージアムショップもある(川越市立博物館のミュージアムショップと重複するものもある)。

創作室では、デッサン・油彩・水彩、木版画・銅版画などの実技講座を開講、市民に貸し出しも行っている。市民ギャラリーは市民の誰でも利用でき観覧は無料。彫塑、工芸、写真なども展示しており、川越市美術展覧会の出品作も展示される。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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初雁公園野球場
初雁公園野球場

川越市営初雁公園野球場

高校野球埼玉大会、草野球、少年野球などに使用されている。

西武新宿線の本川越駅から北東方向に約2kmの初雁公園の中にある。同公園内には、他に市民プールもある。

初雁公園を中心とする一帯は川越城址であり、すぐ西側には川越城本丸御殿がある。野球場は川越城の中でも帯郭や新郭があった付近に位置している。周辺は江戸時代の風情を残す町並みとなっており、近くに市立博物館、市営美術館、国道254号線があり、やや離れて川越市役所、市立中央図書館、県立川越高校などがある。

外野の左中間からレフトスタンド裏手にかけて新河岸川が流れており、また三塁側は崖となっている為グラウンドの拡張はほぼ不可能と思われる。

以前にプロ野球の公式戦が行われた事が有る。

市は初雁公園を川越城址公園として再整備することを明らかにしており、2018年に策定される初雁公園基本計画において球場の移転を明記する方針を示している。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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川越城 本丸御殿
川越城 本丸御殿

川越城 本丸御殿

川越城は、埼玉県川越市にある日本の城。江戸時代には川越藩の藩庁が置かれた。別名、初雁城、霧隠城。関東七名城・日本100名城。通常、川越城の名称を表記する場合、中世については河越城、近世以降は川越城と表記されることが多い。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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川越城 本丸御殿
川越城 本丸御殿
三芳野神社(童歌「通りゃんせ」はこの神社の参道が舞台)
三芳野神社(童歌「通りゃんせ」はこの神社の参道が舞台)

三芳野神社

三芳野神社は、埼玉県川越市郭町の神社。童歌「通りゃんせ」はこの神社の参道が舞台といわれる。川越城築城以前から当地にあったが、太田道真・太田道灌父子による川越城築城により城内の天神曲輪に位置することになった。平成元年に大修理が行われ、平成4年に完成。埼玉県指定文化財。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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三芳野神社(童歌「通りゃんせ」はこの神社の参道が舞台)
三芳野神社(童歌「通りゃんせ」はこの神社の参道が舞台)

大楠に関するご説明

江戸期に建立された三芳野神社社殿は修復時の時期を迎え、去る平成4年に第1期修復工事が竣功、平成27年より第2期の修復工事を行うこととなりました。

今期の修復に当たり、社殿並びに創建当時よりの石組の排水溝が大楠の根によって持ち上げられ、旧態を留めることが困難になっていることを鑑み、関係各位と協議し、やむなく大楠を伐採することとなりました。

これも川越の先人方の志を継ぎ、社殿を保全するためでございますので、皆様方のご理解をお願い申し上げる次第でございます。

出典:三芳野神社社務所

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三芳野神社(童歌「通りゃんせ」はこの神社の参道が舞台)
三芳野神社(童歌「通りゃんせ」はこの神社の参道が舞台)
三芳野神社(童歌「通りゃんせ」はこの神社の参道が舞台)
三芳野神社(童歌「通りゃんせ」はこの神社の参道が舞台)

三芳野神社社殿及び蛭子社・大黒社

付明暦2年棟礼(県指定・建造物)

 

本殿正面

三芳野神社本殿・幣殿・拝殿平面図

平安時代のはじめ大同年間(806810)の創建と伝え、三芳野十八郷の惣社として宗敬をあつめました。太田道灌は川越城築城にあたって当社を鎮守とし、江戸時代以降は徳川幕府直営の社として庇護を受けました。

寛永元年(1624)幕府の命をうけて川越城主酒井忠勝が奉行となり再興に着手、幕府棟染鈴木近江守長次が造営にあたりました。その後、明暦2年(1656)川越城主松平伊豆守信綱が奉行となり、幕府棟染木原義久が改修を加えました。社殿の屋根はこけらでしたが、弘化4年(1848)幕府棟染甲良若狭により瓦に改められ、さらに大正11年銅板葺に改められました。

三芳野神社社殿は本殿、(へい)殿(でん)、拝殿からなる権現造(ごんげんづく)りで、屋根はこけら葺形の銅板葺です。外部は朱漆塗を基調とし、内部は軸部を朱漆塗、建具と天井を黒漆塗とします。

本殿は正面三間、側面二間の入母屋造(いりもやづくり)で、四周に縁と高欄をまわし、正面に木階をもうけ、前面は幣殿に接続します。身舎(もや)内部は内陣外陣に分割し、内陣正面の柱間三間に(いた)唐戸(からと)、外陣正面は中央間に板唐戸、両脇間に(しとみ)()を装置します。組物は出組(でぐみ)で、幣殿に面した正面だけ()三斗(みつど)とします。中備(なかぞなえ)は極彩色をほどこした(かえるまた)股です。

幣殿は正面一間、側面二間の両下造(りょうさげづくり)で、背面は本殿、前面は拝殿に接続します。組物は出三斗で、中備は外部が蟇股、内部が間斗束(けんとづか)になっています。

内部は(ぬぐい)板敷(いたじき)小組(こぐみ)(ごう)天井(てんじょう)です。

拝殿は正面三間、側面二間の入母屋造で、背面は幣殿に接続します。三方に縁高欄をまわし、背面柱筋に脇障子をたて、正面に一間の向拝をもうけます。組物は出三斗で、中備は外部が蟇股、内部が間斗束です。内部は拭板敷に小組格天井です。向拝は大面を取った角柱を(ろく)(ばり)形の(かしら)(ぬき)でつないで、両端に獅子鼻を付け、(つれ)三斗(みつど)を組んで中備に蟇股を飾ります。裏側には花木を篭彫した手狭(たばさみ)を飾ります。

三芳野神社社殿の造営経過はいささか複雑です。

寛永元年(1624)の造営は、慶安2年(1649)松平信綱が奉納した「三芳野天神縁起絵巻」に詳細に記されていますが、そこに描かれた社殿は、流造(ながれづくり)ほ本殿と入母屋造の拝殿のみで幣殿は存在せず、現社殿とは大きく異なっています。

平成元年から平成4年にかけて実施された解体修理の報告書『三芳野神社社殿修理工事報告書』によれば、蟇股と各部取合わせを調査した結果、本殿・幣殿・拝殿の計二十三面の蟇股はすべて同形式ですが、当初からのものではなく、正面より押込み、斜め釘打ちで羽目板に取り付けられた後補の蟇股であることが判明しました。また、痕跡から、拝殿には寛永元年の造立当初より蟇股が存在していましたが(ただし現在の蟇股とは異なる)、本殿は蟇股の無い建築であったことも明らかになりました。現在の蟇股は、社殿全体を同一体裁に整えるために、新たに作製し取り付けたものと考えられます。また、本殿と幣殿、幣殿と拝殿の取合せでおさまりが不自然な所も数カ所指摘されています。

以上を勘案すれば、現社殿にみる権現造は、寛永建立当初からのものではなく、修造時に幣殿を増設して形成されたもので、さらに、寛永建立当初の本殿と、現本殿は本来別の建築と考えられます。

明暦2年の修造時には、江戸城二の丸東照宮が移築され、その幣殿と拝殿が三芳野神社の外宮(天神外宮)となり、明治5年に氷川神社境内(宮下町)に移され、八坂神社社殿として現存しています。確証はありませんが、現在の三芳野神社本殿は江戸城二の丸東照宮の本殿であり、明暦2年に移築され大改修を受け、幣殿を増設し、本殿と拝殿を連結して現在見るような権現造社殿となったと推定されます。

蛭子社本殿と大黒社本殿は、拝殿の前方、参道に向かい合って鎮座します。拝殿から見て左が蛭子社、右が大黒社です。両社は同寸法、同形式で、拝殿前に一対となって配置され社格を高めています。朱塗の一間社流造(いっけんしゃながれづくり)()()棚造(だなづくり)で、屋根はこけら葺形の銅板葺とします。蛭子社本殿と大黒社本殿は、ほとんど装飾のない簡素な建築で、身舎組物は(ふな)(ひじ)()で中備はなく、妻飾は(こう)(りょう)(いのこ)扠首(さす)です。庇も柱上に舟肘木を置くだけで、いたって簡素なつくりになっています。明暦2年(1656)の「三芳野天神別当常海覚書」に「末社両宇」とあるのが相当すると思われ、元禄11年(1698)の「元禄11年川越市街屋敷社寺記」に末社貳ヶ所共 表四尺四寸 奥七尺九寸」とあって、規模が記されています。しかし、現本殿は正面四尺、側面は身舎と庇をあわせて六尺四寸五分であり、元禄の記録と一致しません。蛭子社に掲げられた額の背面に享保15年(1734)の年紀があるので、その頃再建されたものと思われます。

昭和3011日(平成4311日追加)指定

出典:川越市教育委員会

 

 

 

 

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三芳野神社参道
三芳野神社参道
三芳野神社参道入口
三芳野神社参道入口
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郭町浄水場
郭町浄水場

(くるわ)(まち)浄水場(じょうすいじょう)

この地は、昔郭の東南に位置し「本丸御殿」をはじめ童唄「通りゃんせ」にゆかりのある「三芳野神社」などの史跡が近くにある。

この施設は昭和282月に、水道事業の創設により、最初の浄水場として建設された。

郭町浄水場の概略

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川越郵便局 周辺
川越郵便局 周辺
隆清堂芋菓子 周辺
隆清堂芋菓子 周辺
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松江町 交差点
松江町 交差点
松江町 交差点
松江町 交差点
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通町 交差点
通町 交差点
東照宮中院通り
東照宮中院通り
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東照宮中院通り
東照宮中院通り
東照宮中院通り
東照宮中院通り
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川越 ラーメン 麺やてつ
川越 ラーメン 麺やてつ
どろぼうばし
どろぼうばし
どろぼうばし
どろぼうばし
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どろぼうばし
どろぼうばし

どろぼうばしの由来

所在地 川越市小仙波町一丁目

昔、この橋は、一本の丸木橋であったといわれ、これは、その頃の話である。

ここ喜多院と東照宮の境内地は御神領で、江戸幕府の御朱印地でもあり、川越藩の町奉行ではとらえることができないことを知っていた一人の盗賊が、町奉行の捕り方に追われ、この橋から境内に逃げこんだ。しかし、盗賊は寺男たちに捕えられ、寺僧に諭され悪いことがふりかかる恐しさを知った。盗賊は、厄除元三大師 に心から罪を許してもらえるよう祈り、ようやく真人間に立ち直ることができた。そこで寺では幕府の寺院奉行にその処置を願い出たところ、無罪放免の許しが出た。その後、町方の商家に奉公先を世話されると、全く悪事を働くことなくまじめに一生を過ごしたという。

この話は大師の無限の慈悲を物語る話として伝わっており、それ以来、この橋を「どろうぼうばし 」というようになったということである。

 

昭和五十八年三月

出典:埼玉県

 

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喜多院公園
喜多院公園

喜多院公園

喜多院の南西の角にある小さな公園。喜多院からも繋がっています。

遊具の種類は、ブランコ、滑り台、円形ジャングルジム、ぶら下がり遊具、スプリング遊具(上に乗ってぶらぶらするヤツ)、鉄棒など。子供たちのかっこうの遊び場になっています。

夏場は、大きなイチョウが木陰をつくってくれます。

出典:カワゴエール

 

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川越大師 喜多院
川越大師 喜多院
川越大師 喜多院 案内図
川越大師 喜多院 案内図

国指定重要文化財

川越大師 喜多院案内図

伝説によるとその昔仙波辺の漫々たる海水を仙芳仙人の法力によりとり除き尊像を安置したというが、平安時代、天長7年(830)淳和天皇の勅により慈覚大師が創建された勅願寺で本尊阿弥陀如来を祀り無量寿寺と名づけた。

その後鎌倉時代、元久2年(1205)兵火で炎上の後、永仁4年(1296)伏見天皇が尊海僧正に再興せしめられたとき、慈恵大師(厄除元三大師)を歓請して官田五十石を寄せられ関東天台の中心となった。

正安3年(1301)後伏見天皇は星野山(現在の山号)の勅額を下した。更に室町時代、天文6年(1537)北条氏綱、上杉朝定の兵火で炎上した。

江戸時代、慶長4年(1599)天海僧正(慈眼大師)が第二十七世の法統をつぐが、同16年(161111月徳川家康が川越を訪れたとき寺領四万八千坪及び五百石を下し、酒井備後守忠利に工事を命じ、仏蔵院北院を喜多院と改め、四代家綱のとき東照宮に二百石を下すなど大いに寺勢をふるった。寛永15年(16381月の川越大火で現存の山門を除き堂宇はすべて焼失した。そこで三代将軍家光公は堀田加賀守正盛に命じてすぐに復興にかかり、江戸城紅葉山(皇居)の別殿を移築して客殿、書院などに当てた。家光誕生の間、春日局(家光公の乳母)の間があるのはそのためである。その他慈恵堂(本堂)、多宝塔、慈眼堂、鐘楼門、東照宮、日枝神社などの建物を数年間の間に再建し、それらが今日文化財として大切に保存されている。

江戸時代までは寺領四万8千坪、七百五十石の幕府の御朱印地として寺勢をふるったが、明治以降財力の欠如とその広さ、大きさのため荒廃に向った。

戦後文化財の指定とともに昭和大復興にとりかかり関係者の並々ならぬ努力によってその主な建造物の複原修理が完成し、それら偉観は、盛時を偲ばせるまでになった。しかし未だ完成しないところもかずあり今日までその整備事業は継続して行われている。

現在の境内地は東照宮を含めて一万四千坪あり、今日その緑は市民にとって貴重な憩いの場となっており池や堀をめぐらした景勝はそこに点在する文化財群とともに川越随一の名勝地霊場地として名高く厄除元三大師のお参りとともに四季を通じて史跡を訪れる人々がいつも絶えない。

1月3日の厄除初大師のご縁日には家内安全、厄除等の護摩祈願、また境内には、名物だるま市が軒をつらねて立ち並び、又2月3日の節分会、4月の長日護摩講の行事をはじめ毎日護摩供を奉じて所願成就の祈願を厳修している。

文化財の拝観ができ、最近では毎年5月の連休の一週間宝物特別展も開かれている。

 

出典:喜 多 院

川越市教育委員会

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川越大師 喜多院 案内図
川越大師 喜多院 案内図
喜多院 多宝塔
喜多院 多宝塔

喜多院 多宝塔

境内にそびえる朱色の多宝塔

寛永16年(1639/江戸時代)に建造され、現在埼玉県の有形文化財に指定されています。

この多宝塔は、江戸時代の大工棟梁「平内(へいのうち)政信(まさのぶ)」が建造。平内政信は、全5巻からなる木割書「匠明」を著した人物で、喜多院多宝塔以外に、和歌浦天満宮(和歌山市)や輪王寺常行堂(日光市)なども建造しています。

現在は、本堂の斜め前に建てられている多宝塔ですが、もともとは山門前にある「白山権現」と「日枝神社」の間の古墳上に建てられていました。その後、2度の移築をし現在地にあります。

江戸時代初期の多宝塔の特徴が表れ、境内で一際鮮やかで目を引きます。喜多院を訪れた際は、是非みておきたい建物の1つです。

出典:カワゴエール

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川越大師 喜多院
川越大師 喜多院
喜多院 五百羅漢
喜多院 五百羅漢

喜多院 五百(ごひゃく)羅漢(らかん)

川越の観光名所の中でも、ことのほか人気の高い喜多院の五百羅漢。日本三大羅漢の一つに数えられます。この五百余りの羅漢さまは、川越北田島の()(じょう)の発願により、天明2年(1782)から文政8年(1825)の約50年間にわたり建立されたものです。

十大弟子、十六羅漢を含め、533体のほか、中央高座の大仏に釈迦如来、脇侍の文殊・普賢の両菩薩、左右高座の阿弥陀如来、地蔵菩薩を合わせ、全体538体が鎮座しています。

笑うのあり、泣いたのあり、怒ったのあり、ヒソヒソ話をするのもあり、本当にさまざまな表情をした羅漢様がおられます。そして、いろいろな仏具、日用品を持っていたり、動物を従えていたりと、観察しだしたらいつまで見ていても飽きないくらい、変化に富んでいます。

また、深夜こっそりと羅漢さまの頭をなでると、一つだけ必ず温かいものがあり、それは亡くなった親の顔に似ているのだという言い伝えも残っています。

出典:喜多院

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喜多院 五百羅漢 拝観案内
喜多院 五百羅漢 拝観案内
随身門 あじさい
随身門 あじさい
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随身門 あじさい
随身門 あじさい
随身門 あじさい
随身門 あじさい
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随身門 あじさい
随身門 あじさい
東照宮随身門・石鳥居
東照宮随身門・石鳥居

重要文化財・建造物

東照宮随身門(ずいしんもん)(いし)鳥居(どりい)

境内入口にある随身門は朱塗(やつ)脚門(あしもん)・切妻造でとち(ぶき)(がた)(どう)(ばん)(ぶき)である。八脚門とは三間×二間の門で、門柱4本の前後に各一本ずつの控柱をもっている屋根つき門のことである。以前には()水尾(みずのお)天皇の御染筆なる「東照大権現」の額が揚げられていた。記録によるとこの勅額は寛永10年(16331224日とあるから東照宮の創始の時期を知るひとつの資料となっている。石鳥居は寛永15年(16389月に造営奉行の堀田正盛が奉納したもので、柱に「東照大権現御宝前、寛永15917日堀田加賀守従四位下藤原正盛」の銘文が刻まれており、様式は明神鳥居である。

出典:川越市教育委員会

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東照宮随身門・石鳥居
東照宮随身門・石鳥居
東照宮中院通り
東照宮中院通り
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東照宮中院通り
東照宮中院通り
東照宮中院通り
東照宮中院通り
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〒350-0034 埼玉県川越市仙波町3丁目34
〒350-0034 埼玉県川越市仙波町3丁目34
新河岸川右岸
新河岸川右岸
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16・254号 隊道
16・254号 隊道
16・254号 隊道
16・254号 隊道
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仙波河岸史跡公園
仙波河岸史跡公園

仙波河岸史跡公園

公園を利用される皆さんへ

この公園は、むかし「仙波河岸」という河岸場があった跡地を整備したものです。

だれでもが気持ちよく楽しく利用できるよう、次のことを守りましょう。

1.公園の花や木は、大切にしましょう

2.ゴミくずや空きカンなどは、散らかさずに持ち帰りましょう。

3.みんなで注意し合ってケガのないように遊びましょう。

4.犬の糞は絶対に捨てないよう袋に入れて持ち帰りましょう。

5.犬の放し飼いは禁止します。

6.公園内でたき火、打ち上げ花火、その他の火気を扱い周囲に迷惑を及ぼす行為は禁止します。

7.公園内へのオートバイ、自転車の乗り入れは禁止します。

8.付近に迷惑を及ぼすボール遊びは禁止します。

9.植物などを守るため、ロープ柵の中にははいらないようにしましょう。

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新河岸川右岸
新河岸川右岸
仙波河岸史跡公園
仙波河岸史跡公園
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仙波河岸史跡公園
仙波河岸史跡公園
仙波河岸史跡公園
仙波河岸史跡公園
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仙波河岸史跡公園
仙波河岸史跡公園
仙波河岸史跡公園
仙波河岸史跡公園
仙波河岸のむかし
仙波河岸のむかし

仙波河岸のむかし

むかしこの場所には「仙波河岸」という河岸場がありました。仙波河岸ができたのは明治の初めごろのことです。

これまでにも新河岸川の下流にはすでに数箇所の河岸場があり、江戸と川越の間を船を使って物品を運んでいました。これが「新河岸川舟運」と言われているものです。

仙波河岸は新河岸川の最も上流に位置し一番新しくできた河岸場です。

しかし、明治の中ごろから東京との間に鉄道が整備されはじめました。また、大正時代には新河岸川の改修工事が始まり、昭和の初めには新河岸舟運も終わりをむかえました。

下の写真は仙波河岸に荷船が並んでいる様子を写した明治時代後期の写真です。

 

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仙波河岸史跡公園
仙波河岸史跡公園

仙波河岸史跡公園

公園を利用される皆さんへ

この公園は、むかし「仙波河岸」という河岸場があった跡地を整備したものです。

だれでもが気持ちよく楽しく利用できるよう、次のことを守りましょう。

1.公園の花や木は、大切にしましょう

2.ゴミくずや空きカンなどは、散らかさずに持ち帰りましょう。

3.みんなで注意し合ってケガのないように遊びましょう。

4.犬の糞は絶対に捨てないよう袋に入れて持ち帰りましょう。

5.犬の放し飼いは禁止します。

6.公園内でたき火、打ち上げ花火、その他の火気を扱い周囲に迷惑を及ぼす行為は禁止します。

7.公園内へのオートバイ、自転車の乗り入れは禁止します。

8.付近に迷惑を及ぼすボール遊びは禁止します。

9.植物などを守るため、ロープ柵の中にははいらないようにしましょう。

公園内で見られる植物

園内には下記のような植物が見られます。静かに観察しましょう。

カワヂシャタコノアシミクリ
カワヂシャ
ゴマノハグサ科
タコノアシ
ユキノシタ科
ミクリ
ミクリ科
葉はチシャ(レタスの仲間)に似て、若葉は食べられます。初夏に小さな白い花をたくさん咲かせます。晩夏につく花の穂は数本に分かれ、黄白色の花が片側につき、タコの足を連想させるので、この名がつきました。緑色のいが状の実が栗を連想させるので、この名がつきました。茎は簾(すだれ)に、根は漢方薬にされます。
公園内で見られる植物

 

出典:川越市都市計画部公園整備課

公 園 管 理 事 務 所

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仙波河岸史跡公園
仙波河岸史跡公園
うゆうかん川越校 周辺
うゆうかん川越校 周辺
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川越マイン 周辺
川越マイン 周辺
川越マイン 周辺
川越マイン 周辺
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川越駅(ゴール)
川越駅(ゴール)

クレアパーク(スタート)→蔵里(WC)→蔵造りの町並み→川越城中ノ門堀跡→川越城本丸御殿→初雁公園(WC)(教室)→七曲がり→通町→喜多院(WC)→新河岸川→仙波河岸史跡公園(WC)→愛宕神社→川越駅(ゴール)

川越わくわくウオーキング教室 NPO法人埼玉ウオーキング協会 小江戸川越ウオークⅢ

川越わくわくウオーキング教室
NPO法人埼玉ウオーキング協会
小江戸川越ウオークⅢ
・蔵造りの町並み
・川越城本丸御殿
・仙波河岸史跡公園

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クレアモール
クレアモール
川越市新富町1丁目10
川越市新富町1丁目10
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川越市新富町1丁目8−5
川越市新富町1丁目8−5
出世稲荷神社
出世稲荷神社

出世稲荷神社について

出世稲荷神社は、江戸時代(天保2/1832)に、京都の伏見稲荷神社本宮より分祀した神社です。

名前の通り出世の御利益があります!また伏見稲荷同様に、五穀豊穣や商売繁盛の御利益も。

すぐ近くにある賑やかな商店街をよそに、境内はとても静かです。時たま併設された公園から聞こえる、子供たちの声にふと心が和みます。

出典:カワゴエール

市指定・天然記念物

イ チ ョ ウ

いちょう窪の出世稲荷の公孫樹として名声がある。

向かって右は幹回り(目通り)5.67m、根回り7.6m、左は幹回り7.25m、根回り9.7mあり、二本とも樹高は約26.5m。

樹齢は650余年と推定され、みごとな美しさと枝張りを示し、樹勢もきわめて旺盛である。

公孫樹は、日本と中国の一部に産するイチョウ科を代表する落葉樹で、秋にはあざやかに黄葉する。

雌雄異株で、種はいわゆるギンナンで食用となる。

昭和3336

川越市教育委員会

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熊野神社
熊野神社

川越 熊野神社

室町時代に紀州熊野本宮大社から分祀された開運・縁結びの神社。境内には、本殿や拝殿、神楽殿の他、歌碑がある。

出典:熊野神社

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川越市連雀町8
川越市連雀町8
蓮馨寺
蓮馨寺

蓮 馨 寺

蓮馨寺は、埼玉県川越市連雀町にある浄土宗の寺院である。山号は孤峰山。院号は宝池院。本尊は阿弥陀如来。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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蓮馨寺
蓮馨寺
川越市仲町3−8
川越市仲町3−8
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まめ屋 小江戸川越店
まめ屋 小江戸川越店

小江戸 まめ屋

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山崎美術館
山崎美術館

公益財団法人 山崎美術館

橋本雅邦画伯

橋本雅邦画伯は、川越藩のお抱え絵師橋本晴園養師の子息にて、画道に勝れ、日本革新の先覚者であり明治時代における我が国画壇の最長老であります。

依って、郷土川越の有志が集まり、明治32(1899)画宝会を結成し、先生のご力作の頒布をいただきました。

山崎家4代目故山崎豊翁は、同会の幹事として率先活躍するとともに、画伯から受けた作品をすべて大切に保管し、これを子孫に伝承させたものであります。

併し、子孫としては、社会公益の為、一般に広く鑑賞を仰ぎ、以って美学向上の資料に供するに、如かずと考え、ここに翁の誕生150年を記念し、昭和57年文化の日に山崎美術館を発足いたしました。

より多くの方々のご利用を切にお願いします。

出典:公益財団法人 山崎美術館

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川越市仲町6−2
川越市仲町6−2
川越市仲町6−2
川越市仲町6−2
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一番街 蔵造りの町並み
一番街 蔵造りの町並み
一番街 蔵造りの町並み
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一番街 蔵造りの町並み
一番街 蔵造りの町並み
一番街 蔵造りの町並み
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一番街 蔵造りの町並み
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一番街 蔵造りの町並み
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一番街 蔵造りの町並み
一番街 蔵造りの町並み
一番街 蔵造りの町並み
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一番街 蔵造りの町並み
一番街 蔵造りの町並み
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一番街 蔵造りの町並み
一番街 蔵造りの町並み
時の鐘 (川越市)
時の鐘 (川越市)

時の鐘

時の鐘は、埼玉県川越市の中心部、幸町北部の蔵造りの街並みに建てられている鐘楼。建物は、川越市指定有形文化財に指定されている。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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小江戸川越 いも釜めし『翠扇亭』
小江戸川越 いも釜めし『翠扇亭』
川越市元町1丁目11
川越市元町1丁目11
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川越市役所
川越市役所
川越市元町1丁目11
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川越市元町1丁目11
川越市元町1丁目11
川越市役所
川越市役所
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川越城中ノ門堀跡
川越城中ノ門堀跡

川越城と中ノ門堀

川越城は、長禄元年(1457)に扇谷上杉持朝の家臣である太田道真・道灌父子によって築城されました。

当時、持朝は古河公方足利成氏と北武蔵の覇権を巡る攻防の渦中にあり、川越城の築城はこれに備えたものです。

天文6年(1537)、小田原を本拠とする後北条氏は川越城を攻め落とし、同15年の河越夜戦によって北武蔵への支配を盤石なものとします。

しかし、天正18年(1590)の豊臣秀吉の関東攻略に際しては前田利家に攻められて落城します。

江戸時代になると、川越城は江戸の北の守りとして重視され、親藩・譜代の大名が藩主に任じられました。

寛永16年(1639)に藩主となった松平信綱は城の大規模な改修を行い、川越城は近世城郭として体裁を整えるにいたりました。

中ノ門堀はこの松平信綱による城の大改修の折に造られたものと考えられます。まだ天下が治まって間もないこの時代、戦いを想定して作られたのが中ノ門堀だったのです。

現在地のあたりには、名前の由来となった中ノ門が建てられていました。多加谷家所蔵の絵図によれば、中ノ門は2階建ての櫓門で、屋根は入母屋、本瓦葺き1階部分は梁行152寸(4.605m)、桁行3031分(9.183m)ほどの規模でした。

棟筋を東西方向に向け、両側に土塁が取り付き、土塁の上には狭間を備えた土塀が巡っていました。

 

※本整備工事は、国土交通省まちづくり交付金・埼玉県観光資源魅力アップ

事業の補助を受けて実施しました。

 

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川越市元町1丁目11
川越市元町1丁目11
川越城中ノ門堀跡
川越城中ノ門堀跡

川越城と中ノ門堀

川越城は、長禄(ちょうろく)元年(1457)に扇谷(おうぎがやつ)上杉(もち)(とも)の家臣である太田(どう)(しん)道灌(どうかん)父子によって築城されました。

当時、(もち)(とも)古河(こが)公方(くぼう)足利(しげ)(うじ)と北武蔵の覇権を巡る攻防の渦中(かちゅう)にあり、川越城の築城はこれに備えたものです。

天文(てんぶん)6年(1537)、小田原を本拠とする後北条(ごほうじょう)氏は川越城を攻め落とし、同15年の河越夜戦によって北武蔵への支配を盤石(ばんじゃく)なものとします。

しかし、(てん)(しょう)18年(1590)の豊臣秀吉の関東攻略に際しては前田利家に攻められて落城します。

江戸時代になると、川越城は江戸の北の守りとして重視され、親藩(しんばん)譜代(ふだい)の大名が藩主に任じられました。

寛永(かんえい)16年(1639)に藩主となった松平信綱(のぶつな)は城の大規模な改修を行い、川越城は近世城郭として体裁(ていさい)を整えるにいたりました。

中ノ門堀はこの松平信綱による城の大改修の折に造られたものと考えられます。まだ天下が(おさ)まって間もないこの時代、戦いを想定して作られたのが中ノ門堀だったのです。

現在地のあたりには、名前の由来となった中ノ門が建てられていました。多加(たが)()家所蔵の絵図によれば、中ノ門は2階建ての櫓門(やぐらもん)で、屋根は入母屋(いりもや)、本瓦葺き1階部分は(はり)(ゆき)152寸(4.605m)、(けた)(ゆき)3031分(9.183m)ほどの規模でした。

棟筋を東西方向に向け、両側に土塁が取り付き、土塁の上には狭間(きま)を備えた土塀が巡っていました。

 

※本整備工事は、国土交通省まちづくり交付金・埼玉県観光資源魅力アップ

事業の補助を受けて実施しました。

 

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川越城中ノ門堀跡
川越城中ノ門堀跡
川越城中ノ門堀
川越城中ノ門堀
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川越城中ノ門堀
川越城中ノ門堀
川越城中ノ門堀しくみ
川越城中ノ門堀しくみ

中ノ門堀のしくみ

中ノ門堀は戦いの際、敵が西大手門(市役所方面)から城内に攻め込んだ場合を想定して造られています。

西大手門から本丸(博物館方面)をめざして侵入した敵は中ノ門堀を含む3本の堀に阻まれて直進できません。

進撃の歩みがゆるんだところに、城兵が弓矢を射かけ鉄砲を撃ちかけるしくみでした。

また、発掘調査ではす城の内側と外側で堀の法面勾配が異なることがわかりました。

中ノ門堀の当初の規模は深さ7m、幅18m、東側の法面勾配は60度、西側は30度でした。

つまり、城の内側では堀が壁のように切り立って、敵の行く手を阻んでいたのです。

明治時代以降、川越城の多くの施設・建物が取り壊される中、中ノ門堀跡は旧城内に残る唯一の堀跡となりました。

川越城の名残をとどめるこの堀跡を保存してゆこうという声が市民の間から起こり、川越市では平成2021年度に整備工事を行いました。

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川越市立博物館
川越市立博物館

川越市立博物館

川越市立博物館は、埼玉県川越市の川越城二の丸跡に建設された川越市立の博物館。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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川越市郭町2丁目12
川越市郭町2丁目12
川越市郭町2丁目12
川越市郭町2丁目12
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川越市郭町2丁目25−7
川越市郭町2丁目25−7
初雁公園(WC)(教室)
初雁公園(WC)(教室)

(はつ) (かり) (こう) (えん)

旧川越城本丸跡で、本丸御殿などの史跡も数多くあり、隣接する博物館、美術館とともに観光コースともなっています。また、ナイター設備のある野球場、夏季に開園するプールなどスポーツ施設があります。

野球場は、高校野球の予選会場としても利用されており、開催期間中は選手や関係者など多くの人で賑わいます。

出典:川越市公園管理事務所

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初雁公園(WC)(教室)
初雁公園(WC)(教室)
初雁公園(WC)(教室)
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初雁公園(WC)(教室)
初雁公園(WC)(教室)
初雁公園(WC)(教室)
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初雁公園(WC)(教室)
初雁公園(WC)(教室)
三芳野神社
三芳野神社

三芳野神社

三芳野神社は、埼玉県川越市郭町の神社。童歌「通りゃんせ」はこの神社の参道が舞台といわれる。川越城築城以前から当地にあったが、太田道真・太田道灌父子による川越城築城により城内の天神曲輪に位置することになった。平成元年に大修理が行われ、平成4年に完成。埼玉県指定文化財。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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川越城 富士見櫓跡
川越城 富士見櫓跡

川越城 富士見(ふじみ)(やぐら)(あと)

所在地 川越市郭町二丁目

 

御嶽(おんたけ)神社が祀られているこの高台は、かつては川越城の富士見櫓が建てられていたところである。

櫓は矢倉とも書いて、合戦の際に物見として、あるいは防戦の足場として、城壁や城門の高い場所に設けられた建物を意味するが、天守閣のなかった川越城には東北の隅に二重の虎櫓、本丸の北に(ひし)櫓、西南の隅に三層の富士見櫓があって、城の中で一番高い所にあった富士見櫓が天守閣(てんしゅかく)の代わりとなっていたと思われる。

今日では、木々や建物のため、すっかり眺望も失われてしまったが、その昔はこの高台に立てば、富士見櫓の名の通り遠く富士山までも望めたことであろう。

元来、城の構造及び建造物は戦略上の都合もあって、その大部分が明らかにされることはなく、正確な規模は分からないが、江戸末期の慶応(けいおう)2年(1866)に川越城を測量した記録によれば、この富士見櫓は長さ八間三尺(約15m)、横八間(約14m)あったと記されている。

 

昭和573

出典:埼玉県

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川越城 富士見櫓跡
川越城 富士見櫓跡
川越市三久保町1−5
川越市三久保町1−5
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川越市松江町1丁目20−8
川越市松江町1丁目20−8
七曲がり周辺(瘡守(かさもり)神社)
七曲がり周辺(瘡守(かさもり)神社)

七曲がり周辺((かさ)(もり)神社)

成田山川越別院のほど近く。県道15号線から1本路地に入って行くと、そこはくねくね折り曲がった細道が続く「七曲がり」ワールド!

七曲がりとは、川越城への敵の侵入を防ぐ為に造られた道で、わざと折れ曲がった道をつくることで敵の進軍を真っ直ぐに進めない様にしました。

ここ周辺は建物こそ新しい住宅が建ち始めてはいますが、道は当時の面影を残しています。

川越の町には、今でも「道のワナ」が多く残されています。例えば「鈎(かぎ)の手」「丁字路(ていじろ)」「袋小路」など。もしかしたら川越を観光・散策していると、ふと当時のワナに迷い込むかもしれません!

出典:カワゴエール

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くらづくり本舗
くらづくり本舗

くらづくり本舗

くらづくり本舗とは、埼玉県川越市に本社を置く和菓子メーカー。埼玉県内に43店舗を展開する。代表取締役会長は自由民主党元衆議院議員の中野清。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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川越市久保町5−3
川越市久保町5−3
川越市久保町1−13
川越市久保町1−13
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川越市久保町1−13
川越市久保町1−13
川越市小仙波町1丁目21
川越市小仙波町1丁目21
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どろぼうはし
どろぼうはし

どろぼうばしの由来

所在地 川越市小仙波町一丁目

昔、この橋は、一本の丸木橋であったといわれ、これは、その頃の話である。

ここ喜多院と東照宮の境内地は御神領で、江戸幕府の御朱印地でもあり、川越藩の町奉行ではとらえることができないことを知っていた一人の盗賊が、町奉行の捕り方に追われ、この橋から境内に逃げこんだ。しかし、盗賊は寺男たちに捕えられ、寺僧に諭され悪いことがふりかかる恐しさを知った。盗賊は、厄除元三大師 に心から罪を許してもらえるよう祈り、ようやく真人間に立ち直ることができた。そこで寺では幕府の寺院奉行にその処置を願い出たところ、無罪放免の許しが出た。その後、町方の商家に奉公先を世話されると、全く悪事を働くことなくまじめに一生を過ごしたという。

この話は大師の無限の慈悲を物語る話として伝わっており、それ以来、この橋を「どろうぼうばし 」というようになったということである。

 

昭和五十八年三月

出典:埼玉県

 

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どろぼうはし
どろぼうはし
喜多院鐘楼門 附銅鐘 銀杏
喜多院鐘楼門 附銅鐘 銀杏
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喜多院鐘楼門
喜多院鐘楼門

喜多院 鐘楼門

喜多院にあるいくつかの国指定重要文化財の中の1つ「(しょう)楼門(ろうもん)」。

鮮やかな朱塗りの2階建てで、寛永10年(1633/江戸時代)の建造と伝えられています。

1.鐘楼門の見どころ。

それは彫物。正面は「竜」、背面は「鷹」の彫物で色鮮やかな極彩色仕上げです。

2.鐘楼門の見どころの

見えそうで見えない銅鐘です。この銅鐘は、鐘楼門とともに重要文化財に指定されています。

出典:カワゴエール

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喜多院の紅葉
喜多院の紅葉
喜多院 行先板
喜多院 行先板
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喜多院 多宝塔
喜多院 多宝塔

喜多院 多宝塔

境内にそびえる朱色の多宝塔

寛永16年(1639/江戸時代)に建造され、現在埼玉県の有形文化財に指定されています。

この多宝塔は、江戸時代の大工棟梁「平内(へいのうち)政信(まさのぶ)」が建造。平内政信は、全5巻からなる木割書「匠明」を著した人物で、喜多院多宝塔以外に、和歌浦天満宮(和歌山市)や輪王寺常行堂(日光市)なども建造しています。

現在は、本堂の斜め前に建てられている多宝塔ですが、もともとは山門前にある「白山権現」と「日枝神社」の間の古墳上に建てられていました。その後、2度の移築をし現在地にあります。

江戸時代初期の多宝塔の特徴が表れ、境内で一際鮮やかで目を引きます。喜多院を訪れた際は、是非みておきたい建物の1つです。

出典:カワゴエール

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喜多院 慈恵堂
喜多院 慈恵堂

喜多院 慈恵堂

埼玉県川越市にある天台宗の寺院。山号は星野山(せいやさん)。良源(慈恵大師、元三大師とも)を祀り川越大師の別名で知られる。建物の多くが重要文化財に指定され、寺宝にも貴重な美術工芸品を多く有する。広大な境内は池や掘を廻らせた景勝地となっている。13日の初大師(だるま市)、節分、長月護摩講塔、七五三、菊祭りなど諸行事はむろん、四季折々の行楽客で賑わう。境内にある五百羅漢の石像も有名である。毎年、正月三が日の初詣には埼玉県内の寺院の中では最も多い約40万人の参拝客が訪れる。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia

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喜多院 慈眼堂
喜多院 慈眼堂

喜多院 慈眼堂

喜多院境内の小高い丘の上には、天海僧正をまつる()眼堂(げんどう)が佇んでいます。

この慈眼堂は、天海僧正が亡くなった3年後の天保2年(1645/江戸時代)に、徳川家光の命令により建てられたもの。国の重要文化財の指定をうけています。

建物の構造は、桁行(正面)3間、梁間(奥行)3間、背面は1間で庇がついています。シンプルながら趣を感じる建物です。

出典:カワゴエール

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喜多院案内図
喜多院案内図

国指定重要文化財

川越大師 喜多院案内図

伝説によるとその昔仙波辺の漫々たる海水を仙芳仙人の法力によりとり除き尊像を安置したというが、平安時代、天長7年(830)淳和天皇の勅により慈覚大師が創建された勅願寺で本尊阿弥陀如来を祀り無量寿寺と名づけた。

その後鎌倉時代、元久2年(1205)兵火で炎上の後、永仁4年(1296)伏見天皇が尊海僧正に再興せしめられたとき、慈恵大師(厄除元三大師)を歓請して官田五十石を寄せられ関東天台の中心となった。

正安3年(1301)後伏見天皇は星野山(現在の山号)の勅額を下した。更に室町時代、天文6年(1537)北条氏綱、上杉朝定の兵火で炎上した。

江戸時代、慶長4年(1599)天海僧正(慈眼大師)が第二十七世の法統をつぐが、同16年(161111月徳川家康が川越を訪れたとき寺領四万八千坪及び五百石を下し、酒井備後守忠利に工事を命じ、仏蔵院北院を喜多院と改め、四代家綱のとき東照宮に二百石を下すなど大いに寺勢をふるった。寛永15年(16381月の川越大火で現存の山門を除き堂宇はすべて焼失した。そこで三代将軍家光公は堀田加賀守正盛に命じてすぐに復興にかかり、江戸城紅葉山(皇居)の別殿を移築して客殿、書院などに当てた。家光誕生の間、春日局(家光公の乳母)の間があるのはそのためである。その他慈恵堂(本堂)、多宝塔、慈眼堂、鐘楼門、東照宮、日枝神社などの建物を数年間の間に再建し、それらが今日文化財として大切に保存されている。

江戸時代までは寺領四万8千坪、七百五十石の幕府の御朱印地として寺勢をふるったが、明治以降財力の欠如とその広さ、大きさのため荒廃に向った。

戦後文化財の指定とともに昭和大復興にとりかかり関係者の並々ならぬ努力によってその主な建造物の複原修理が完成し、それら偉観は、盛時を偲ばせるまでになった。しかし未だ完成しないところもかずあり今日までその整備事業は継続して行われている。

現在の境内地は東照宮を含めて一万四千坪あり、今日その緑は市民にとって貴重な憩いの場となっており池や堀をめぐらした景勝はそこに点在する文化財群とともに川越随一の名勝地霊場地として名高く厄除元三大師のお参りとともに四季を通じて史跡を訪れる人々がいつも絶えない。

1月3日の厄除初大師のご縁日には家内安全、厄除等の護摩祈願、また境内には、名物だるま市が軒をつらねて立ち並び、又2月3日の節分会、4月の長日護摩講の行事をはじめ毎日護摩供を奉じて所願成就の祈願を厳修している。

文化財の拝観ができ、最近では毎年5月の連休の一週間宝物特別展も開かれている。

 

出典:喜 多 院

川越市教育委員会

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川越大師 喜多院
川越大師 喜多院
五百羅漢入口
五百羅漢入口

() (ひゃく) () (かん)

喜多院の五百羅漢の始まりは、これまで天明2年(1782)説がとられてきました。しかし近年、五百羅漢に関する詳細な調査が行われ、その経緯や造立年代などが明瞭になってきました。

それによると、本願主は川越北田島の()(じょう)の他に蔦右衛門がいて、寛永8年(1796)に両名が発願しました。そして喜多院真珠院の協力を得て「五百羅漢建立募縁疏」を上木し広く寄進を募りました。羅漢像は翌年の寛永9年(1797)から文政8年(1825)のおよそ30年にわたって造立され、ほぼ完成したそうです。(寄付募金帳なる古文書が見つかっており、今後の研究が待たれるところです)

喜多院の五百羅漢は中央高座の大仏(おおぼとけ)に釈迦如来、両脇(わき)()(わきじ)に獅子に乗った文殊菩薩と象に乗った普腎菩薩、左の高座に阿弥陀如来、右の高座に地蔵菩薩があり、大小の石仏像すべて合わせると538体です。このうち533体が羅漢像です。

出典:旅に行き隊![About]

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五百羅漢
五百羅漢

拝観案内(三代将軍家光公誕生の間

三代将軍家光公誕生の間

春日局(かすがのつぼね)の化粧の間

五百羅漢(らかん)

拝観事務所にて受付の上ご参拝下さい。

拝観時間

3/111/23

8:5016:30

11/24~㋁末日

8:5016:00

※日・祝は閉館時間を20分延長

拝観休業日

12/251/8

2/22/3 4/24/5 8/16

その他特別行事の時

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五百羅漢 拝観案内
五百羅漢 拝観案内
五百羅漢尊
五百羅漢尊

天明2年建立

五百羅漢尊

喜多院の五百羅漢の始まりは、これまで天明2年(1782)説がとられてきました。しかし近年、五百羅漢に関する詳細な調査が行われ、その経緯や造立年代などが明瞭になってきました。

それによると、本願主は川越北田島の志()(じょう)の他に蔦右衛門がいて、寛永8年(1796)に両名が発願しました。そして喜多院真珠院の協力を得て「五百羅漢建立募縁疏」を上木し広く寄進を募りました。羅漢像は翌年の寛永9年(1797)から文政8年(1825)のおよそ30年にわたって造立され、ほぼ完成したそうです。(寄付募金帳なる古文書が見つかっており、今後の研究が待たれるところです)

喜多院の五百羅漢は中央高座の大仏(おおぼとけ)に釈迦如来、両脇(わき)()(わきじ)に獅子に乗った文殊菩薩と象に乗った普腎菩薩、左の高座に阿弥陀如来、右の高座に地蔵菩薩があり、大小の石仏像すべて合わせると538体です。このうち533体が羅漢像です。

出典:旅に行き隊![About]

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五百羅漢 紅葉
五百羅漢 紅葉
五百羅漢 紅葉
五百羅漢 紅葉
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川越市小仙波町1丁目17−17
川越市小仙波町1丁目17−17
新河岸川
新河岸川
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新河岸川
新河岸川
新河岸川
新河岸川
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新河岸川
新河岸川
仙波河岸史跡公園
仙波河岸史跡公園
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仙波河岸史跡公園
仙波河岸史跡公園
仙波河岸史跡公園
仙波河岸史跡公園
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仙波河岸史跡公園
仙波河岸史跡公園
仙波河岸のむかし
仙波河岸のむかし

仙波河岸のむかし

むかしこの場所には「仙波河岸」という河岸場がありました。仙波河岸ができたのは明治の初めごろのことです。

これまでにも新河岸川の下流にはすでに数箇所の河岸場があり、江戸と川越の間を船を使って物品を運んでいました。これが「新河岸川舟運」と言われているものです。

仙波河岸は新河岸川の最も上流に位置し一番新しくできた河岸場です。

しかし、明治の中ごろから東京との間に鉄道が整備されはじめました。また、大正時代には新河岸川の改修工事が始まり、昭和の初めには新河岸舟運も終わりをむかえました。

下の写真は仙波河岸に荷船が並んでいる様子を写した明治時代後期の写真です。

 

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仙波河岸史跡公園
仙波河岸史跡公園
仙波愛宕神社 銀杏
仙波愛宕神社 銀杏
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冨士浅間神社
冨士浅間神社

仙波浅間神社

冨士浅間神社

川越市富士見町、「川越駅」東口より徒歩12分ほどの場所に「仙波浅間神社」があります。

平安時代の武将「源頼義」がこの地に分霊をしたことにはじまり、それぞれの時代にそれぞれの人々が篤い信仰をして現在に至っています。

出典:カワゴエール

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冨士浅間神社
川越駅 広場
川越駅 広場
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クレアパーク(スタート)→蔵里(WC)→蔵造の町並み→川越城中ノ門堀跡→氷川神社→川越城本丸御殿→初雁公園(WC)(教室)→七曲がり→通町→喜多院(昼飯)(WC)→新河岸川→仙波河岸史跡公園(WC)→愛宕神社→川越駅(ゴール)

7月度川越わくわくウオーキング教室
NPO法人埼玉ウオーキング協会
小江戸川越ウオークⅢ
・蔵造の町並み
・川越城本丸御殿
・仙波河岸史跡公園

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クレアパーク(スタート)
クレアパーク(スタート)
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クレアパーク(スタート)
クレアパーク(スタート)
クレアパーク(スタート)
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クレアパーク(スタート)
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小江戸蔵里(川越市産業観光館)
小江戸蔵里(川越市産業観光館)
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〒350-1122 埼玉県川越市脇田町11‐5 JOY3rd.ビル
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小江戸蔵里(川越市産業観光館)
小江戸蔵里(川越市産業観光館)
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〒350-0043 埼玉県川越市新富町1丁目10 月極TM56久星2P駐車場
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出世稲荷神社(いちょう稲荷神社)
出世稲荷神社(いちょう稲荷神社)
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〒350-0066 埼玉県川越市連雀町 県道229号線
〒350-0066 埼玉県川越市連雀町 県道229号線
〒350-0066 埼玉県川越市連雀町6‐1 レーベンリヴァーレ川越連雀町
〒350-0066 埼玉県川越市連雀町6‐1 レーベンリヴァーレ川越連雀町
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〒350-0066 埼玉県川越市連雀町10 おもちゃのおびつ第二売場
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蔵造の町並み
蔵造の町並み
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蔵造の町並み
蔵造の町並み
蔵造の町並み
蔵造の町並み
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蔵造の町並み
蔵造の町並み
蔵造の町並み
蔵造の町並み
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蔵造の町並み
蔵造の町並み
時の鐘
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川越元町郵便局
川越元町郵便局
蔵造の町並み
蔵造の町並み
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川越城中ノ門堀跡
川越城中ノ門堀跡
川越城中ノ門堀跡
川越城中ノ門堀跡
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中ノ門堀
中ノ門堀
川越城と中ノ門堀
川越城と中ノ門堀

川越城と中ノ門堀

川越城は、長禄元年(1457)に扇谷上杉持朝の家臣である太田道真・道灌父子によって築城されました。

当時、持朝は古河公方足利成氏と北武蔵の覇権を巡る攻防の渦中にあり、川越城の築城はこれに備えたものです。

天文6年(1537)、小田原を本拠とする後北条氏は川越城を攻め落とし、同15年の河越夜戦によって北武蔵への支配を盤石なものとします。

しかし、天正18年(1590)の豊臣秀吉の関東攻略に際しては前田利家に攻められて落城します。

江戸時代になると、川越城は江戸の北の守りとして重視され、親藩・譜代の大名が藩主に任じられました。

寛永16年(1639)に藩主となった松平信綱は城の大規模な改修を行い、川越城は近世城郭として体裁を整えるにいたりました。

中ノ門堀はこの松平信綱による城の大改修の折に造られたものと考えられます。まだ天下が治まって間もないこの時代、戦いを想定して作られたのが中ノ門堀だったのです。

現在地のあたりには、名前の由来となった中ノ門が建てられていました。多加谷家所蔵の絵図によれば、中ノ門は2階建ての櫓門で、屋根は入母屋、本瓦葺き1階部分は梁行152寸(4.605m)、桁行3031分(9.183m)ほどの規模でした。

棟筋を東西方向に向け、両側に土塁が取り付き、土塁の上には狭間を備えた土塀が巡っていました。

 

※本整備工事は、国土交通省まちづくり交付金・埼玉県観光資源魅力アップ

事業の補助を受けて実施しました。

 

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中ノ門堀のしくみ
中ノ門堀のしくみ

中ノ門堀のしくみ

中ノ門堀は戦いの際、敵が西大手門(市役所方面)から城内に攻め込んだ場合を想定して造られています。

西大手門から本丸(博物館方面)をめざして侵入した敵は中ノ門堀を含む3本の堀に阻まれて直進できません。

進撃の歩みがゆるんだところに、城兵が弓矢を射かけ鉄砲を撃ちかけるしくみでした。

また、発掘調査ではす城の内側と外側で堀の法面勾配が異なることがわかりました。

中ノ門堀の当初の規模は深さ7m、幅18m、東側の法面勾配は60度、西側は30度でした。

つまり、城の内側では堀が壁のように切り立って、敵の行く手を阻んでいたのです。

明治時代以降、川越城の多くの施設・建物が取り壊される中、中ノ門堀跡は旧城内に残る唯一の堀跡となりました。

川越城の名残をとどめるこの堀跡を保存してゆこうという声が市民の間から起こり、川越市では平成2021年度に整備工事を行いました。

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〒350-0052 埼玉県川越市宮下町1丁目9‐4
〒350-0052 埼玉県川越市宮下町1丁目9‐4
氷川神社
氷川神社
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氷川神社 本殿
氷川神社 本殿
氷川神社
氷川神社
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氷川神社
氷川神社
氷川神社 縁むすび風鈴
氷川神社 縁むすび風鈴
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氷川神社 縁むすび風鈴
氷川神社 縁むすび風鈴
氷川神社 縁むすび風鈴
氷川神社 縁むすび風鈴
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氷川神社 縁むすび風鈴
氷川神社 縁むすび風鈴
氷川神社 縁むすび風鈴
氷川神社 縁むすび風鈴
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氷川神社 縁むすび風鈴
氷川神社 縁むすび風鈴
氷川神社 縁むすび風鈴
氷川神社 縁むすび風鈴
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氷川神社 縁むすび風鈴
氷川神社 縁むすび風鈴
氷川神社 ご神木
氷川神社 ご神木

川越氷川神社

ご神木(欅樹齢約600年)

太根保護のため石路を設けてあります。

ご神木廻りされる方は石路の上を

お通り下さい。

川越氷川神社

ご神木の倒壊について

平成239月、関東地方を襲った台風12号の暴風雨を受け、樹齢600年の欅のご神木が幹先10mほどの部分から倒壊しました。

ご神木は奇跡的にも、傍の本殿・石碑そして参拝者を全く傷つけることなく、神社裏に続く細い参道上にその巨体を横たえました。

長年にわたり地域を見守り続けてきたご神木は現在、市内喜多町の共和木材に大切に安置されています。

数年後にはご神木の材を用い、木に宿られた氷川大神の広大無辺なご神徳を、何らかの形で氏子崇敬者の皆様にお頒けしたいと考えております。

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氷川神社 絵馬トンネル
氷川神社 絵馬トンネル
〒350-0052 埼玉県川越市宮下町1丁目16‐19
〒350-0052 埼玉県川越市宮下町1丁目16‐19
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川越市立美術館
川越市立美術館
初雁公園野球場前
初雁公園野球場前
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川越城本丸御殿
川越城本丸御殿
川越城跡
川越城跡
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初雁公園
初雁公園
初雁公園
初雁公園
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〒350-0053 埼玉県川越市郭町2丁目4‐2
〒350-0053 埼玉県川越市郭町2丁目4‐2
〒350-0054 埼玉県川越市三久保町1‐3
〒350-0054 埼玉県川越市三久保町1‐3
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〒350-0054 埼玉県川越市三久保町13‐1 川越郵便局
〒350-0054 埼玉県川越市三久保町13‐1 川越郵便局
どろぼう橋
どろぼう橋

どろぼうばしの由来

所在地 川越市小仙波町一丁目

 

昔、この橋は、一本の丸木橋であったといわれ、これは、その頃の話である。

ここ喜多院 と東照宮 の境内地は御神領で、江戸幕府の御朱印地でもあり、川越藩の町奉行ではとらえることができないことを知っていた一人の盗賊が、町奉行の捕り方に追われ、この橋から境内に逃げこんだ。しかし、盗賊は寺男たちに捕えられ、寺僧に諭され悪いことがふりかかる恐しさを知った。

盗賊は、厄除元三大師 に心から罪を許してもらえるよう祈り、ようやく真人間に立ち直ることができた。

そこで寺では幕府の寺院奉行にその処置を願い出たところ、無罪放免の許しが出た。

その後、町方の商家に奉公先を世話されると、全く悪事を働くことなくまじめに一生を過ごしたという。

この話は大師の無限の慈悲を物語る話として伝わっており、それ以来、この橋を「どろうぼうばし 」というようになったということである。

 

昭和583

出典:埼玉県

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どろぼう橋
どろぼう橋
どろぼう橋の由来
どろぼう橋の由来

どろぼうばしの由来

所在地 川越市小仙波町一丁目

 

昔、この橋は、一本の丸木橋であったといわれ、これは、その頃の話である。

ここ喜多院 と東照宮 の境内地は御神領で、江戸幕府の御朱印地でもあり、川越藩の町奉行ではとらえることができないことを知っていた一人の盗賊が、町奉行の捕り方に追われ、この橋から境内に逃げこんだ。しかし、盗賊は寺男たちに捕えられ、寺僧に諭され悪いことがふりかかる恐しさを知った。

盗賊は、厄除元三大師 に心から罪を許してもらえるよう祈り、ようやく真人間に立ち直ることができた。

そこで寺では幕府の寺院奉行にその処置を願い出たところ、無罪放免の許しが出た。

その後、町方の商家に奉公先を世話されると、全く悪事を働くことなくまじめに一生を過ごしたという。

この話は大師の無限の慈悲を物語る話として伝わっており、それ以来、この橋を「どろうぼうばし 」というようになったということである。

 

昭和583

出典:埼玉県

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喜多院
喜多院
喜多院
喜多院
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拝観案内
拝観案内

拝観案内(三代将軍家光公誕生の間

三代将軍家光公誕生の間

春日局(かすがのつぼね)の化粧の間

五百羅漢(らかん)

拝観事務所にて受付の上ご参拝下さい。

拝観時間

3/111/23

8:5016:30

11/24~㋁末日

8:5016:00

※日・祝は閉館時間を20分延長

拝観休業日

12/251/8

2/22/3 4/24/5 8/16

その他特別行事の時

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仙波東照宮
仙波東照宮
仙波東照宮
仙波東照宮
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仙波東照宮
仙波東照宮
〒350-0032 埼玉県川越市大仙波971
〒350-0032 埼玉県川越市大仙波971
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仙波河岸史跡公園
仙波河岸史跡公園
仙波の滝の水音
仙波の滝の水音

仙波の滝の水音

むかしこの場所には「仙波の滝」と呼ばれる滝がありました。これは愛宕神社のがけ下からの豊かな湧水による滝で、昭和の中ごろまで流れていたそうです。

「仙波河岸」は明治の初めごろにこの仙波の滝を利用して開設されました。

下の写真は仙波の滝で憩う人びとの様子を写した明治34年ごろの写真です。

 

 

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愛宕神社
愛宕神社
愛宕神社延命地蔵尊
愛宕神社延命地蔵尊
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延命地蔵尊
延命地蔵尊

       延命地蔵尊

この延命地蔵尊は、今から約270年前の元文元年(1736年)に祀られました。

延命地蔵尊は延命、利生を請願する地蔵菩薩であります。

新しく生まれた子を護り、短命、天折(若死に)の難を免かせるという。

お姿は、左足を垂下する半跏像が多いといわれていますが、ここの延命地蔵尊も半跏像であります。片足を他の足の腿上に組んで座っておられます。

歴史を訪ね、先人の信仰の篤かったことを偲びながら、参観するのも意義あることでしょう。

 

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クレアパーク(スタート)→小江戸 蔵里→出世稲荷神社→喜多院→成田山川越別院本行院→七曲がり→旧武家屋敷→初雁公園→県立川越高校→時の鐘→濯柴公園→菓子屋横丁→お茶屋橋→大正浪漫通り→クレアパーク(ゴール)

小江戸川越ウオークⅣ
・成田山別院
・初雁公園(三芳野神社)
・濯柴公園
・菓子屋横丁

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クレアパーク(スタート)
クレアパーク(スタート)
クレアパーク(スタート)

クレアパーク(スタート)
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クレアパーク(スタート)

クレアパーク(スタート)
クレアパーク(スタート)

クレアパーク(スタート)
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小江戸 蔵里
小江戸 蔵里

小江戸蔵里

小江戸蔵里(こえどくらざと)』は、この場所で明治8年(1875年)に創業した旧鏡山酒造の建築物を、当面の面影を残しつつ改修した施設です。

市民と観光客との交流、地域の活性化を図るとともに、川越市の物産等を楽しんでいただく新しい名所として平成2210月に誕生しました。

施設は、明治・大正・昭和の時代に建てられた酒造を改装した、おみやげ処(明治蔵)、まかない処(大正蔵)、くら市場(昭和蔵)の3つの蔵からなっています。

これらの蔵は、国の登録有形文化財に指定されています。

 なお『小江戸蔵里』という名称は、川越市の別名『小江戸』蔵造りの町並みを表す「蔵」、人々が気軽に立ち寄れてくつろげる心のふるさと「里」、という意味を込めて公募の中から選ばれました。

出典:小江戸蔵里

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小江戸 蔵里

小江戸 蔵里
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出世稲荷神社
出世稲荷神社

出世稲荷神社について

出世稲荷神社は、江戸時代(天保2/1832)に、京都の伏見稲荷神社本宮より分祀した神社です。

名前の通り出世の御利益があります!また伏見稲荷同様に、五穀豊穣や商売繁盛の御利益も。

すぐ近くにある賑やかな商店街をよそに、境内はとても静かです。時たま併設された公園から聞こえる、子供たちの声にふと心が和みます。

出典:カワゴエール

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出世稲荷神社

出世稲荷神社
市指定・天然記念物 イ チ ョ ウ
市指定・天然記念物 イ チ ョ ウ

市指定・天然記念物

イ チ ョ ウ

いちょう窪の出世稲荷の公孫樹として名声がある。

向かって右は幹回り(目通り)5.67m、根回り7.6m、左は幹回り7.25m、根回り9.7mあり、二本とも樹高は約26.5m。

樹齢は650余年と推定され、みごとな美しさと枝張りを示し、樹勢もきわめて旺盛である。

公孫樹は、日本と中国の一部に産するイチョウ科を代表する落葉樹で、秋にはあざやかに黄葉する。

雌雄異株で、種はいわゆるギンナンで食用となる。

昭和3336

川越市教育委員会

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出世稲荷神社

出世稲荷神社
出世稲荷神社

出世稲荷神社
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どろぼうはし
どろぼうはし
どろぼうばしの由来
どろぼうばしの由来

どろぼうばしの由来

所在地 川越市小仙波町一丁目

 

昔、この橋は、一本の丸木橋であったといわれ、これは、その頃の話である。

ここ喜多院 と東照宮 の境内地は御神領で、江戸幕府の御朱印地でもあり、川越藩の町奉行ではとらえることができないことを知っていた一人の盗賊が、町奉行の捕り方に追われ、この橋から境内に逃げこんだ。しかし、盗賊は寺男たちに捕えられ、寺僧に諭され悪いことがふりかかる恐しさを知った。

盗賊は、厄除元三大師 に心から罪を許してもらえるよう祈り、ようやく真人間に立ち直ることができた。

そこで寺では幕府の寺院奉行にその処置を願い出たところ、無罪放免の許しが出た。

その後、町方の商家に奉公先を世話されると、全く悪事を働くことなくまじめに一生を過ごしたという。

この話は大師の無限の慈悲を物語る話として伝わっており、それ以来、この橋を「どろうぼうばし 」というようになったということである。

 

昭和583

出典:埼玉県

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〒350-0036 埼玉県川越市小仙波町1丁目2‐11
〒350-0036 埼玉県川越市小仙波町1丁目2‐11
成田山川越別院本行院
成田山川越別院本行院
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成田山川越別院本行院

成田山川越別院本行院
川越大師
川越大師
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成田山川越別院本行院
成田山川越別院本行院
成田山川越別院本行院

成田山川越別院本行院
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成田山川越別院本行院

成田山川越別院本行院

成田山川越別院(本行院)

成田山川越別院本行院(なりたさんかわごえべついんほんぎょういん))は、埼玉県川越市にある真言宗智山派の寺院である。成田山新勝寺(千葉県成田市)の別院で、通称は川越不動。毎月28日には蚤の市(骨董市)で、11月には火渡り祭(柴灯護摩)で賑わう。本尊は不動明王。

歴史

嘉永6年(1853年)石川照温が廃寺になっていた久保町本行院を復興し創建。

明治10年(1877年)成田山川越別院本行院を称する(成田山最初の別院)。

交通アクセス

西武鉄道新宿線本川越駅から徒歩15分
東武東上線川越市駅から徒歩17分
東武東上線・JR川越線川越駅から徒歩約22分

ソース: 成田山川越別院本行院 – https://ja.wikipedia.org

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成田山川越別院本行院

成田山川越別院本行院

武州川越仙波喜多院

武州川越仙波喜多院
武州川越仙波喜多院
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永島家住宅(旧武家屋敷)
永島家住宅(旧武家屋敷)
永島家住宅(旧武家屋敷)
永島家住宅(旧武家屋敷)
永島家住宅(武家屋敷)(市指定・史跡)
永島家住宅(武家屋敷)(市指定・史跡)

永島家住宅(武家屋敷)(市指定・史跡)

永島家住宅は、旧南久保町通り東よりの、川越城南大手門に近い位置にあります。

伝聞によれば、旧川越藩御典医(ごてんい)の屋敷跡であると言います。

松平大和守家七代が川越藩士をつとめた明治4年(1767)~慶応2年(1866)当時の城下絵図によると。

この場所には250名から300石の藩主が居住しました。当家屋の小屋組は叉首(さず)構造で、棟の高さは三段となっており、痕跡などから、現在の住形態になるまで大きく2回の増改築を実施したと推測されます。当初形態を復元すると、玄関及び台所の位置は不明ですが、現在の玄関から床の間付きの座敷に至る諸室と東側に張り出す内向き諸室に分かれ、公私空間を区分した武家屋敷の特質を残す遺構と考えられます。

また、松平大和守家記録による武家屋敷の建築規則(明和5年6月2日条)の範囲内であり、他藩武家住宅の事例(信州上田藩ほか)と比較してもほぼ相違なく、武家屋敷であることにまちがいありません。

また、増改築の手が加えられているものの、当初形態に復元可能な建物であり、敷地内は後年植裁

が加えられていますが、屋敷周りなど当時の状況をよく保存しています。

現在埼玉県下三城下町(川越、忍、岩槻)では、武家屋敷の遺構はほとんど残されていません。

また、関東圏でも残存事例はわずかで、学術的にも貴重な機構と言えます。

平成18年3月27日

出典:川越市教育委員会

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初雁公園(三芳野神社)
初雁公園(三芳野神社)
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〒350-0053 埼玉県川越市郭町2丁目10‐14
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〒350-0057 埼玉県川越市大手町6 県道51号線
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市民会館入口交差点
市民会館入口交差点
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鐘つき通り
鐘つき通り
鐘つき通り

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鐘つき通り

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〒350-0062 埼玉県川越市元町2丁目4‐2 辻の吉野屋
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〒350-0824 埼玉県川越市石原町1丁目18‐9
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星野高等学校
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〒350-0064 埼玉県川越市末広町1丁目11‐14 末広ハイツ
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〒350-0065 埼玉県川越市仲町8‐3 NTT東日本川越仲町ビル
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〒350-0065 埼玉県川越市仲町8‐3 NTT東日本川越仲町ビル
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〒350-0065 埼玉県川越市仲町10‐15
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〒350-0065 埼玉県川越市 県道39号線
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〒350-0065 埼玉県川越市仲町1‐12 川越商工会議所
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クレアパーク(スタート)→蔵里→蔵造の町並み→川越城中ノ門堀跡→川越城本丸御殿→初雁公園→七曲がり→通町→喜多院→新河岸川→仙波河岸史跡公園→愛宕神社→川越駅(ゴール)

小江戸川越ウオークⅢ
・蔵造の町並み
・川越城本丸御殿
・仙波河岸史跡公園

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蔵里
蔵里

小江戸蔵里

小江戸蔵里(こえどくらざと)』は、この場所で明治8年(1875年)に創業した旧鏡山酒造の建築物を、当面の面影を残しつつ改修した施設です。

市民と観光客との交流、地域の活性化を図るとともに、川越市の物産等を楽しんでいただく新しい名所として平成2210月に誕生しました。

施設は、明治・大正・昭和の時代に建てられた酒造を改装した、おみやげ処(明治蔵)、まかない処(大正蔵)、くら市場(昭和蔵)の3つの蔵からなっています。

これらの蔵は、国の登録有形文化財に指定されています。

なお『小江戸蔵里』という名称は、川越市の別名『小江戸』蔵造りの町並みを表す「蔵」、人々が気軽に立ち寄れてくつろげる心のふるさと「里」、という意味を込めて公募の中から選ばれました。

出典:小江戸蔵里

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蔵里

蔵里
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蔵里

蔵里
蔵里

蔵里
蔵里
蔵里

小江戸蔵里

『小江戸蔵里(こえどくらり)』は、この場所で明治8年(1875年)に創業した旧鏡山酒造の建築物を、当面の面影を残しつつ改修した施設です。

市民と観光客との交流、地域の活性化を図るとともに、川越市の物産等を楽しんでいただく新しい名所として平成2210月に誕生しました。

施設は、明治・大正・昭和の時代に建てられた酒造を改装した、おみやげ処(明治蔵)、まかない処(大正蔵)、くら市場(昭和蔵)の3つの蔵からなっています。

これらの蔵は、国の登録有形文化財に指定されています。

なお『小江戸蔵里』という名称は、川越市の別名『小江戸』蔵造りの町並みを表す「蔵」、人々が気軽に立ち寄れてくつろげる心のふるさと「里」、という意味を込めて公募の中から選ばれました。

 

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〒350-0065 埼玉県川越市 県道39号線
〒350-0065 埼玉県川越市 県道39号線
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蔵造の町並み
蔵造の町並み

蔵造りの町並み

「世に小京都は数あれど、小江戸は川越ばかりなり」

そう言わせた”蔵造りの町並み”は、江戸の町並みが今なお残るエリアです。黒漆喰の壁に、重厚で豪華な蔵造り商家が軒をつらね、商人の活気と道行く観光客で賑わいをみせています。

出典:カワゴエール

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蔵造の町並み

蔵造の町並み
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蔵造の町並み

蔵造の町並み
蔵造の町並み

蔵造の町並み
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蔵造の町並み

蔵造の町並み
蔵造の町並み

蔵造の町並み
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時の鐘
時の鐘

時の鐘

時の鐘は、埼玉県川越市の中心部、幸町北部の蔵造りの街並みに建てられている鐘楼。建物は、川越市指定有形文化財に指定されている。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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時の鐘

時の鐘
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時の鐘

時の鐘
時の鐘

時の鐘
時の鐘・薬師神社
時の鐘・薬師神社

時の鐘・薬師神社

時の鐘

 

時の鐘は、江戸時代の初期、酒井忠勝が川越城主(16271634)のころに建設されたと伝えられています。

その後何度か焼失し、現在の時の鐘は、明治26年の川越大火の翌年に再建されたもので、高さは約16mあります。

平成8年には、環境庁の「残したい日本の音風景百選」に選ばれています。

 

薬師神社の由来

 

薬師神社は、以前瑞光山医王院常蓮寺という寺でしたが、明治維新の折に薬師神社となりました。

御本尊は薬師如来の立像で行基菩薩の作といわれています。五穀豊穣、家運隆昌、病気平癒、特に眼病にご利益があるといわれています。

右奥の稲荷神社は、出世、開運、合格に著しいご利益があるといわれています。
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金笛
金笛
川越元町郵便局
川越元町郵便局
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川越市役所
川越市役所
太田道灌像
太田道灌像
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越城中ノ門堀跡
越城中ノ門堀跡
川越城と中ノ門堀跡
川越城と中ノ門堀跡
川越城と中ノ門堀
川越城と中ノ門堀

川越城と中ノ門堀

川越城は、長禄元年(1457)に扇谷上杉持朝の家臣である太田道真・道灌父子によって築城されました。

当時、持朝は古河公方足利成氏と北武蔵の覇権を巡る攻防の渦中にあり、川越城の築城はこれに備えたものです。

天文6年(1537)、小田原を本拠とする後北条氏は川越城を攻め落とし、同15年の河越夜戦によって北武蔵への支配を盤石なものとします。

しかし、天正18年(1590)の豊臣秀吉の関東攻略に際しては前田利家に攻められて落城します。

江戸時代になると、川越城は江戸の北の守りとして重視され、親藩・譜代の大名が藩主に任じられました。

寛永16年(1639)に藩主となった松平信綱は城の大規模な改修を行い、川越城は近世城郭として体裁を整えるにいたりました。

中ノ門堀はこの松平信綱による城の大改修の折に造られたものと考えられます。まだ天下が治まって間もないこの時代、戦いを想定して作られたのが中ノ門堀だったのです。

現在地のあたりには、名前の由来となった中ノ門が建てられていました。多加谷家所蔵の絵図によれば、中ノ門は2階建ての櫓門で、屋根は入母屋、本瓦葺き1階部分は梁行152寸(4.605m)、桁行3031分(9.183m)ほどの規模でした。

棟筋を東西方向に向け、両側に土塁が取り付き、土塁の上には狭間を備えた土塀が巡っていました。

 

※本整備工事は、国土交通省まちづくり交付金・埼玉県観光資源魅力アップ

事業の補助を受けて実施しました。

 

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川越城と中ノ門堀跡

川越城と中ノ門堀跡
中ノ門堀しくみ
中ノ門堀しくみ
中ノ門堀のしくみ
中ノ門堀のしくみ

中ノ門堀のしくみ

中ノ門堀は戦いの際、敵が西大手門(市役所方面)から城内に攻め込んだ場合を想定して造られています。

西大手門から本丸(博物館方面)をめざして侵入した敵は中ノ門堀を含む3本の堀に阻まれて直進できません。

進撃の歩みがゆるんだところに、城兵が弓矢を射かけ鉄砲を撃ちかけるしくみでした。

また、発掘調査ではす城の内側と外側で堀の法面勾配が異なることがわかりました。

中ノ門堀の当初の規模は深さ7m、幅18m、東側の法面勾配は60度、西側は30度でした。

つまり、城の内側では堀が壁のように切り立って、敵の行く手を阻んでいたのです。

明治時代以降、川越城の多くの施設・建物が取り壊される中、中ノ門堀跡は旧城内に残る唯一の堀跡となりました。

川越城の名残をとどめるこの堀跡を保存してゆこうという声が市民の間から起こり、川越市では平成2021年度に整備工事を行いました。

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川越城本丸御殿
川越城本丸御殿

川越城本丸御殿

川越城は、埼玉県川越市にある日本の城。江戸時代には川越藩の藩庁が置かれた。別名、初雁城、霧隠城。関東七名城・日本100名城。通常、川越城の名称を表記する場合、中世については河越城、近世以降は川越城と表記されることが多い。

ソース: 川越城 – https://ja.wikipedia.org

 

初雁公園
初雁公園
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初雁公園

初雁公園
わらべ唄発祥の所
わらべ唄発祥の所

「とおりゃんせ」発祥の地

わらべ唄発祥の碑

通りゃんせ 通りゃんせ

ここはどこの 細通じゃ

天神さまの 細道じゃ

ちっと通して 下しゃんせ

御用のないもの 通しゃせぬ

この子の七つの お祝いに

お札を納めに まいります

行きはよいよい 帰りはこわい

こわいながらも

通りゃんせ 通りゃんせ

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初雁公園

初雁公園
川越城の七不思議
川越城の七不思議

川越城の七不思議

一、    霧吹(きりぶき)の井戸

二、    初雁(はつかり)の杉

三、    片葉の葦(あし)

四、    天神洗足(みたらし)の井水(せいすい)

五、    人身御供(ひとみごくう)

六、    遊女(よな)川の小石供養

七、    城中蹄(ひずめ)の音

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初雁公園 川越城の七不思議
初雁公園 川越城の七不思議
川越(かわごえ)城(じょう)の七不思議(ななふしぎ)
川越(かわごえ)城(じょう)の七不思議(ななふしぎ)

川越城(かわごえじょう)の
七不思議(ななふしぎ)

一、霧吹(きりぶき)の井戸

城中に苔(こけ)むした大きな井戸があった。

ふだんは蓋をしておくが、万一敵が攻めて来て、一大事という場合には、この蓋を取ると、中からもうもうと霧が立ち込めて、城は敵から見えなくなったという。

そのため、川越城は別名霧隠城(きりがくれじょう)ともいわれる。

 

二、初雁(はつかり)の杉

川越城内にある三芳野(みよしの)神社の裏には大きな杉の老木あった。

いつの頃からか毎年雁の渡りの時期になると時を違えず飛んできた雁は、杉の真上まで来ると三声鳴きながら、杉の回りを三度回って、南を指して飛び去ったということである。

そのため、川越城は別名初雁城ともいわれている。

 

三、片葉の葦(あし)

浮島稲荷(いなり)神社の裏側一帯は、萱(かや)や葦(あし)が密生した湿地帯で、別名「七ッ釜(かま)」といわれていた。

ここに生える葦は不思議なことに片葉であって、次のような話が伝わっている。

川越城が敵に攻められ落城寸前に、城中から姫が乳母(うば)と逃げのび、ようやくこの七ッ釜のところまでやって来たが、足を踏みはずしてしまった。

姫は、川辺の葦にとりすがり岸にはい上がろうとしたところ、葦の葉がちぎれてしまい、姫は葦の葉をつかんだまま水底へ沈んでしまった。

この辺の葦は、この姫の恨みによってどれも片葉であるといわれている。

 

四、天神洗足(みたらし)の井水(せいすい)

大田道真(どうしん)・道灌(どうかん)父子が川越城を築城するに当たって、堀の水源が見つからず困っていたところ、一人の老人が井水で足を洗っているのに出会った。

この老人の案内によって水源を見つけた道灌は、かねての懸案を解決し、難攻不落の川越城を完成させることができたといわれている。

かの老人の気品にあふれた姿に気がついた道灌は、これぞまぎれもない三芳野天神の化身(けしん)であったかと思い、以来これを天神洗足の井水と名づけて大事に神慮にこたえたという。

 

五、人身御供(ひとみごくう)

川越城築城の際、太田道真、道灌父子は、三方(北、西、東)の水田が泥深く、築城に必要な土塁(どるい)がなかなか完成せず苦心をしていたところ、ある夜龍神が道真の夢枕にたって、「明朝一番早く汝(汝)のもとに参った者を人身御供(ひとみごくう)に差し出せばすみやかに成就(じょうじゅ)する」と言った。

道真は、龍神にそのことを約束をしたが、明朝一番早く現れたのは、最愛の娘の世禰(よね)姫であった。

さすがの道真も龍神との約束を守れずにいると、姫は、ある夜、城の完成を祈りながら、七ッ釜の淵に身を投げてしまった。

そののち川越城はまもなく完成したという。

 

六、遊女(よな)川の小石供養

むかし、川越城主にたいそう狩の好きな殿様がいて、毎日のように鷹(たか)狩りに出かけていた。

ある日、供の若侍が小川のほとりを通りかかると、一人の美しい百姓の娘に出会ったので、名前をたずねるとおよねといい、やがてこの娘は縁あって若侍の嫁となったが、姑(しゅうと)にいびられ実家に帰されてしまった。

およねは自分の運命を悲しみ、夫に出会った小川のほとりで夫が通りかかるのを待っていたが、会うことができず小川の淵へ身を投げてしまった。

やがてこの川を「よな川」と呼ぶようになったが、川の名は「およね」からきているとも、よなよな泣く声が聞こえるからともいわれている。

 

七、城中蹄(ひずめ)の音

川越城主酒井重忠(さかいしげただ)は、不思議なことに夜ごと矢叫(やたけび)や蹄(ひづめ)の音に眠りをさまされていた。

ある日、易者に見てもらったところ、城内のどこかにある戦争の図がわざわいしているとの卦(け)が出たので、さっそく土蔵を調べたところ堀川夜討の戦いの場面をえがいた一双の屏風(びょうぶ)絵がでてきた。

この屏風の半双を引き離して養寿院に寄進したところ、その夜から矢叫や蹄の音が聞こえなくなったという。

昭和五十七年三月 出典:川越市
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大楠に関するご説明
大楠に関するご説明
大楠に関するご説明
大楠に関するご説明

大楠に関するご説明

江戸期に建立された三芳野神社社殿は修復の時期を迎え、去る平成4年に第一期修復工事が竣功、平成27年より第二期の修復工事を行うこととなりました。

今期の修復に当たり、社殿並びに創建当時よりの石組の排水溝が大楠の根によって持ち上げられ、旧態を留めることが困難になっていることを鑑み、関係各位と協議し、やむなく大楠を伐採することとなりました。

これも川越の先人方の志を継ぎ、社殿を保全するためでございますので、皆様方のご理解をお願い申し上げる次第でございます。

出典:三芳野神社社務所

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〒350-0053 埼玉県川越市郭町2丁目4‐34
〒350-0053 埼玉県川越市郭町2丁目4‐34
通町
通町
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喜多院
喜多院
喜多院

喜多院

喜 多 院

喜多院は、埼玉県川越市にある天台宗の寺院。山号は星野山(せいやさん)。良源(慈恵大師、元三大師とも)を祀り川越大師の別名で知られる。

建物の多くが重要文化財に指定され、寺宝にも貴重な美術工芸品を多く有する。

広大な境内は池や掘を廻らせた景勝地となっている。1月3日の初大師(だるま市)、節分、長月護摩講塔、七五三、菊祭りなど諸行事はむろん、四季折々の行楽客で賑わう。境内にある五百羅漢の石像も有名である。毎年、正月三が日の初詣には埼玉県内の寺院の中では最も多い約40万人の参拝客が訪れる。

ソース: 喜多院 – https://ja.wikipedia.org

 

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喜多院

喜多院
喜多院

喜多院
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喜多院

喜多院
喜多院

喜多院
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喜多院

喜多院
喜多院

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喜多院

喜多院
喜多院

喜多院
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仙波東照宮
仙波東照宮

仙波東照宮

仙波東照宮(せんばとうしょうぐう)、埼玉県川越市小仙波町にある神社(東照宮)。日光・久能山と並ぶ日本三大東照宮の1つ。旧社格は無格社。


祭神


徳川家康公(東照大権現)歴史


元和2年(1616年)に薨去した祭神の法要は、久能山から日光山に改葬される際の元和3年(1617年)に、江戸幕府の「黒衣の宰相」と称された天台宗の僧侶・天海によって喜多院で行われ、後水尾天皇から東照大権現の勅額が下賜され、同年にその地に天海によって創建された。1638年(寛永15年)の川越大火で焼失するが、徳川家光によって川越藩主で老中の堀田正盛が造営奉行に命ぜられ、幕府によって再建された。江戸時代を通じ社殿や神器等全て江戸幕府直営であった。

本殿には木像の家康公像が祀られている。石鳥居は寛永15年(1638年)に堀田正盛が奉納したもの。本殿のまわりには歴代の川越藩主が献燈した石灯籠が並ぶ。拝殿にある三十六歌仙絵額は岩佐又兵衛筆で知られ国の重要文化財。岩槻藩主の阿部重次が奉納した「鷹絵額十二面」は狩野探幽作で知られる。

童謡『あんたがたどこさ』発祥の地と言われる。

ソース: 仙波東照宮 – https://ja.wikipedia.org

 

仙波東照宮

仙波東照宮
仙 波 東 照 宮
仙 波 東 照 宮

重要文化財・建造物

仙 波 東 照 宮

徳川家康をまつる東照宮は、家康の没後その遺骸を久能山から日光に移葬した元和3年(16173月、喜多院に四日間とう留して供養したので、天海僧正が寛永10年(16331月この地に創建した。

その後寛永15年(1638)正月の河越大火で延焼したが、堀田加賀守正盛を造営奉行とし、同年6月起工、同17年完成した。当初から独立した社格をもたず。

喜多院の一隅に造営されたもので、日光・久能山の東照宮とともに三大東照宮といわれている。

社の規模は表門(随身門)・鳥居・拝幣殿・中門(平唐門)・瑞垣・本殿からなっている。

本殿の前には歴代城主奉献の石灯籠がある。

なお拝殿には岩佐又兵衛勝以筆の三十六歌仙額と幣殿には岩槻城主阿部対馬守重次が奉納した十二聡の鷹絵額がある。

出典:埼玉県教育委員会

出典:川越市教育委員会

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仙波河岸のむかし
仙波河岸のむかし

仙波河岸のむかし

仙波河岸のむかし
仙波河岸のむかし

むかしこの場所には「仙波河岸」という河岸場がありました。仙波河岸ができたのは明治の初めごろのことです。

これまでにも新河岸川の下流にはすでに数箇所の河岸場があり、江戸と川越の間を船を使って物品を運んでいました。これが「新河岸川舟運」と言われているものです。

仙波河岸は新河岸川の最も上流に位置し一番新しくできた河岸場です。

しかし、明治の中ごろから東京との間に鉄道が整備されはじめました。また、大正時代には新河岸川の改修工事が始まり、昭和の初めには新河岸舟運も終わりをむかえました。

下の写真は仙波河岸に荷船が並んでいる様子を写した明治時代後期の写真です。

 

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仙波の滝の水音
仙波の滝の水音
仙波の滝の水音
仙波の滝の水音

仙波の滝の水音
むかしこの場所には「仙波の滝」と呼ばれる滝がありました。これは愛宕神社のがけ下からの豊かな湧水による滝で、昭和の中ごろまで流れていたそうです。

「仙波河岸」は明治の初めごろにこの仙波の滝を利用して開設されました。

下の写真は仙波の滝で憩う人びとの様子を写した明治34年ごろの写真です。

仙波の滝の水音写真
仙波の滝の水音写真
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仙波川岸史跡公園
仙波川岸史跡公園
愛宕神社
愛宕神社

仙波愛宕神社

仙波愛宕神社 拝殿

川越市富士見町にある仙波愛宕神社は、防火の神「火産霊神」を祀った神社。

仙波愛宕神社の拝殿・本殿は、盛り上がった小山の上にありますが、この小山はなんと古墳。川越市指定の史跡「愛宕神社古墳」です。

また境内には松尾芭蕉の句碑があり、こう刻まれています。

「名月に (ふもと)の霧や 田の(くもり))」

ここ一帯は仙波台地と呼ばれ、芭蕉がこの句を読んだ伊賀国上野赤坂(三重県)と同じく、台地の先っぼで眺望がよく月見がしやすいことからこの句碑が置かれています。

ちなみに、仙波愛宕神社境内では、木々が多いせいで素晴らしい眺望は望めません…。

出典:カワゴエール

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仙波浅間神社
仙波浅間神社
浅間神社の歴史と信仰
浅間神社の歴史と信仰
浅間神社の歴史と信仰
浅間神社の歴史と信仰

浅間神社の歴史と信仰

当神社は康平年間(10581065)源頼義が奥州征伐の途次に分霊したことに始まり、長禄元年(1457)に太田道灌が再営し、永禄9年(1566)に北条氏の臣・中山角四良左衛門が再興したという。

文政11年(1828)、川越南町の山田屋久兵衛が近郷富士講中並びに有志老若男女の助力を受け、拝殿一棟の再建と一丈余の岩室の上に更に一丈有余を新築したと棟札に記されている。

岩室前の石猿に天保4年(1833)の銘があることや、石碑類の多くが天保年間に造営されていることから、文政から天保年間に現在の姿が整えられたと考えられる。(この岩室は、大正12年の関東大震災により崩壊し間もなく再建したとの柵石がある)

拝殿の天井は、中央部が折上格天井(おりあげごうてんじょう)になっており、江野楳雪(18121873)による百人一首歌仙像の絵がくみこまれている。

神社の祭神には木花咲耶姫命が祀られている。江戸中期、関東一円に浅間信仰が起こり、富士浅間神社を分霊した当社には、近郷の多くの村々が講を作り、寄進したことが石碑や柵石に刻まれている。

毎年713日の初山には、子育ての神が転じて子宝に恵まれる神としても信じられ、新婚夫婦・幼児を抱いたお母さん方など毎年1万人にも及ぶ参拝客が訪れている。

参拝客は、暑さに向かう夏の健康を願いあんころ餅を、夏の難病と厄病を追払い毎日を健やかに過ごすようにと団扇を買い求め、お仲人や近親者に配る習わしになっている。

平成221月吉日

浅間神社総代一同

 

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浅間神社古墳
浅間神社古墳
浅間神社古墳(市指定・史跡)
浅間神社古墳(市指定・史跡)

浅間神社古墳(市指定・史跡)

円墳で、その規模は高さ約5m、周囲(直径?)42mである。現在この古墳の頂上には、浅間神社が祀られており、このためかなり削りとられて墳頂部は平坦になっている。

古墳のすその部分に低いところが見られる事から周溝が巡っていたと考えられる。

愛宕神社古墳と共に仙波古墳群の中では規模も大きく、群集墳が発生した初期の頃に築造されたものであり、6世紀の中頃のものであろう。

仙波地域一帯が農業を専業とする人々によって村落が形づくられ、その指導者の墓として作られたものであり、川越市内では、的場古墳群、南大塚古墳群、下小坂古墳群に次いで残っている仙波古墳群のひとつである。

昭和633

出典:川越市教育委員会

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占肩の鹿見塚
占肩の鹿見塚
占肩の鹿見塚
占肩の鹿見塚

県指定・史跡

占肩の鹿見塚

(うらかたのししみづか)

万葉集巻十四の

武蔵野に占(うら)へ肩灼きまさでにも

告(の)らぬ君が名うらに出にけり

という歌は古代日本人が多く住でいた鹿を持し、その肩を焼いて吉凶を占った習慣にことよせた情緒深い歌であるが、この誕生地が長いこと謎だった。

この仙波の地には、父塚・母塚もふくめて古墳群が形成されていた。

しかし、この鹿見塚は大正3年に東上線が開通する際、破壊され消滅してしまったが、土地の小名にも「シシミ塚」「シロシ塚」などと記録されている。

シシとは鹿のことである。

建碑の場所は便宜上浅間神社の前を選んだのである。

平成43

出典:川越市教育委員会

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萬葉遺跡 占肩之鹿見塚
萬葉遺跡 占肩之鹿見塚
仙波浅間神社本殿等復旧記念碑
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