NPO法人埼玉ウオーキング協会
川越わくわくウオーキング教室
小江戸川越ウオークⅠ
・観音寺・広済寺
・富士見やぐら・濯柴公園
川 越 市
川越市は東京の北西に位置し、かつては江戸時代の城下町として栄え、蔵造りと呼ばれる建築様式の古い土蔵や商家が立ち並ぶ町並みで知られています。明治時代から続く菓子屋横丁には、昔ながらの菓子屋や駄菓子屋が軒を連ねています。喜多院は江戸城の遺構が残る有名な寺で、境内には、仏弟子をかたどった五百羅漢という石像が 500 体以上もあります。
出典:川越市
アトレマルヒロ
第三セクターの川越都市開発が運営管理するアトレの核テナントとして1990年(平成2年)5月16日開店。百貨店としては丸広百貨店アトレ店が正式な店名である。名称の「アトレ」とはフランス語で「魅力」を意味し、公募によって名称を決定した。他には「アピコ」「ケリア」などが候補に挙がっていた。なお、日本で最初に“アトレ”と称したのは当店であり、JR東日本の首都圏にある駅ビルのアトレとは無関係(JR川越駅ビルはルミネ)。
丸広百貨店川越店とは500mほどしか離れていないが、中高年層に強い川越店に対しアトレ店では若者を意識した品揃えを徹底することで川越店と差別化をはかり、丸広が苦手としてきた若い世代の顧客獲得と川越商圏の拡大で丸広百貨店は川越2店体制を確立、川越地区での売上を急拡大させたことで注目された。紙袋や包装紙は丸広百貨店で使われている埼玉県花「さくら草」が描かれたものではなく、当初から独自のatre MARUHIROロゴが入った白と青のものが使われていたが、食品売場のみ2000年代初頭から他の丸広百貨店と同じさくら草の袋に変更された。
2012年に改装工事が行なわれ、2012年9月15日に「新・川越ライフスタイル発信ステーション」をストアコンセプトにリニューアルされ、百貨店機能は川越本店に集約してショッピングセンターに転換した。リニューアル後の年商目標は140億円としている。また、唯一の丸広直営売場であった地下食品売場も2015年8月に、ザ・ガーデン自由が丘(セブン&アイ・ホールディングス)としてリニューアルオープンした。そのため、全国百貨店共通商品券と丸広のポイントカードが使用できなくなった。なお、ザ・ガーデン自由が丘は2018年3月25日に閉店している。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
『小江戸蔵里』は、この場所で明治8年(1875年)に創業した旧鏡山酒造の建築物を、当面の面影を残しつつ改修した施設です。
市民と観光客との交流、地域の活性化を図るとともに、川越市の物産等を楽しんでいただく新しい名所として平成22年10月に誕生しました。
施設は、明治・大正・昭和の時代に建てられた酒造を改装した、おみやげ処(明治蔵)、まかない処(大正蔵)、くら市場(昭和蔵)の3つの蔵からなっています。
これらの蔵は、国の登録有形文化財に指定されています。
なお『小江戸蔵里』という名称は、川越市の別名『小江戸』蔵造りの町並みを表す「蔵」、人々が気軽に立ち寄れてくつろげる心のふるさと「里」、という意味を込めて公募の中から選ばれました。
出典:小江戸蔵里
出世稲荷神社について
出世稲荷神社は、江戸時代(天保2年/1832)に、京都の伏見稲荷神社本宮より分祀した神社です。
名前の通り出世の御利益があります!また伏見稲荷同様に、五穀豊穣や商売繁盛の御利益も。
すぐ近くにある賑やかな商店街をよそに、境内はとても静かです。時たま併設された公園から聞こえる、子供たちの声にふと心が和みます。
出典:カワゴエール
市指定・天然記念物
イ チ ョ ウ
いちょう窪の出世稲荷の公孫樹として名声がある。
向かって右は幹回り(目通り)5.67m、根回り7.6m、左は幹回り7.25m、根回り9.7mあり、二本とも樹高は約26.5m。
樹齢は650余年と推定され、みごとな美しさと枝張りを示し、樹勢もきわめて旺盛である。
公孫樹は、日本と中国の一部に産するイチョウ科を代表する落葉樹で、秋にはあざやかに黄葉する。
雌雄異株で、種はいわゆるギンナンで食用となる。
昭和33年3月6日
川越市教育委員会
川越大正浪漫夢通り
古き良き大正時代を思わせる情緒あふれる大正浪漫夢通り。通りを歩けば、そこかしこに大正ロマンの風情が漂います。毎日の買い物から、こだわりの逸品、川越観光のお土産などを販売する、個性豊かなお店が軒を並べています。大正ロマンの雰囲気を求めて、テレビや映画の撮影によく使われる商店街です。大正ロマンの風を感じに川越の大正浪漫夢通りへぜひお越し下さい。
出典:大正浪漫夢通り
公益財団法人 山崎美術館
橋本雅邦画伯
橋本雅邦画伯は、川越藩のお抱え絵師橋本晴園養師の子息にて、画道に勝れ、日本革新の先覚者であり明治時代における我が国画壇の最長老であります。
依って、郷土川越の有志が集まり、明治32年(1899)画宝会を結成し、先生のご力作の頒布をいただきました。
山崎家4代目故山崎豊翁は、同会の幹事として率先活躍するとともに、画伯から受けた作品をすべて大切に保管し、これを子孫に伝承させたものであります。
併し、子孫としては、社会公益の為、一般に広く鑑賞を仰ぎ、以って美学向上の資料に供するに、如かずと考え、ここに翁の誕生150年を記念し、昭和57年文化の日に山崎美術館を発足いたしました。
より多くの方々のご利用を切にお願いします。
出典:龜屋
鴉山稲荷神社について
歴 史
社説によると、長禄元年(1457)上杉持朝の命によって川越城築城の任にあたった大田道真が、城の櫓より四方を眺めたところ南西を森がさえぎり、富士山が眺望出来ないために、これを伐採させたところ森の中に石祠があり、「源家勝平、怨敵退散、子孫長栄、大願成就、守護、永安三癸巳夭㋃17日願主河島武盛」と記した祈願文が発見された。道真はこれを築城の吉兆としてここに仮宮を建立した。以来、代々藩主の信仰厚く、松平斉典の養子斉省の奉納「鴉山祠」の額が現存している。
当社は塚上にあり、鴉が群摟していたことにより鴉山稲荷神社と称すると云う。また、古くは周囲に塚が多く、中でも鴉山が大きいので、川越7社の第一位としてその名は「親塚稲荷」とも言われる。
また、町内では「お稲荷さん」とも呼ばれ、親しみ大切に信仰され、今も尚、町民全体の文化遺産として伝わり引き継がれている。
平成24年4月吉日
出典:鴉山神社修復実行委委員会
鴉山稲荷神社について
歴 史
社記によると、長禄元年(1457)上杉持朝の命によって川越城築城の任にあった太田道真が、城の櫓より四方を眺めたところ南西を森がさえぎり、冨士山が眺望出来ないために、これを伐採させたところ森の中に石祠があり、「源家勝平、怨敵退散、子孫長栄、大願成就、守護、承安三癸巳天4月17日願主河島武盛」と記した祈願文が発見された。道真はこれを築城の吉兆としてここに仮宮を建立した。以来、代々藩主の信仰厚く、松平斉典の養子斉省の奉納「鴉山祠」の額が現存している。当社は塚上にあり、鴉が群樓していたことにより鴉山神社と称すると云う。また、古くは周囲に塚が多く、中でも鴉山が大きいので、川越七社の第一位としてその名は「親塚稲荷」とも云われる。
また、町内では「お稲荷さん」とも呼ばれ、親しみ大切に信仰され、今も尚、町民全体の文化遺産として伝わり引き継がれている。
平成24年4月吉日
出典:鴉山神社修復実行委員会
曹洞宗 栄林寺
(寺井宿・寺井松郷・寺井伊佐沼)永林寺
寺井松郷分にあり、禅宗洞派、近江國栗太郎浮気村源昌寺の末、興雲山と號す、開山巻岑文舒寛永17年9月26日示寂、開基は玉寳榮琳大姉慶長5年8月6日卒す、酒井備後守忠利の伯母なり、されど其實は慶安3年5月3日に寂せし當寺の二世、嶺室文雪が草創にて、己は其任に當らず、彼巻岑文舒を勧請して、開山とせしと寺僧は傳へり、本尊釋迦を安ぜり、寛永11年酒井讃岐守忠勝家臣よりの舊記、今當寺に残れり。
天照太神第六天白山権現合殿社、秋葉社、稲荷社。以上三社は慶安三年の勧請なり。
出典:新編武蔵風土記稿より
新河岸たかざわはし
札の辻にほど近い、元町と石原町の境となる新河岸川にかかる橋。六塚稲荷神社に隣接し、石橋だった頃は川面に映った影と合わせ見ると眼鏡のように見えることから「眼鏡橋」とかつて呼ばれていた。
今の姿となり50年余り、菓子屋横丁が近いこの場所は観光客が多く通行するが、かつては川越城下の西の玄関口でもあった。
出典:川越市役所広報室
六塚稲荷神社
「新編武蔵風土記稿」にこんな記載があります。
「六塚稲荷又六丘稲荷とも呼ぶ。相伝ふ昔太田道真この地に住せし時、荒野を開かんとして、古丘六つを穿崩してそのあとへ稲荷六社をたてしが、其後五社をば廃してこの一社に合祀す」
要するに…
「室町時代に太田道真が、この場所にあった6つの塚を崩した代わりに、6つの稲荷社を建造。その後、6つの内5社を無くして1つの稲荷神社にまとめて祀った。」ということかと思われます。
合祀した稲荷神社こそ現在の六塚稲荷神社で、元々6つの塚からはじまったので六塚稲荷神社と呼ばれているのでしょう。
出典:カワゴエー濯 紫 公 園
濯紫園と呼ばれた庭園のあった場所を新河岸川と合わせた親水公園として整備された公園。公園中程に起伏があり、登ると遊具が設置されている。
藤棚やベンチがあり子どもたちが遊ぶ空間が広がる。川沿いを歩くことができるので水辺の散策が楽しめる。
出典:川越市役所広報室
濯紫公園の由来
昔、ここに柳沢吉保の家臣山東小市郎の別荘があり、濯紫園と呼ばれる大変美しい庭園がありました。その後、唯心という僧がここで唯心庵を営んでいました。明治2年には水村氏により水車がつくられ、この水車は通称いおりの水車と呼ばれ人々に親しまれていました。
いおりの堰の上流側は子供たちの絶好の水泳や水遊び場だったそうです。
その後、新河岸川周辺の農地には住宅が建ち並び、水車も必要とはなくなり取り壊され、川も改修工事によって現在の姿になりました。
この公園は新河岸川の親水拠点として地元の人々と行政が協力し、川と公園を一体的に整備したものです。
この公園の名はかつての濯紫園にちなみ「濯紫公園」としました。
平成元年3月
金比羅大神 鳥居井
観光客で賑わう「蔵造りの町並み」の最北端である札の辻交差点。その札の辻を越えた喜多町にある広済寺。
さっきまでの賑わいも無くなり、静かに佇む広済寺は、観光客さえ余り来ないがとても歴史あるお寺です。
創建は室町時代。河越の武将 大導寺駿河政繁が菩提寺として建立した歴史あるお寺です。
本堂は、寄棟造・桟瓦葺の風格ある建物で、中を見学することは出来ませんが、意匠がとても凝っており見応えがあります。
そんな広済寺。川越では「どっこい喜多町広済寺」と呼ばれ慕われている他、実は様々なエピソード・見所があるお寺なのです!
出典:カワゴエール
広済寺 皺地蔵尊
江戸の初め上州厩橋の浪人が北町(喜多町)に住んでいました。
ある夜異様な気配を感じて帰宅し、不思議に思い部屋を見ると片隅に三尺程の石仏らしきものがあったそうです。
翌朝俗家に置くのは如何と思い石仏を広済寺に納めました。
数日後、風邪や喘息で長患の豪商綿屋の娘が石仏に霊感を感じ、荒縄を巻き付け百日間の願掛けをしたところ百日も経たずに全快しました。
お礼にお茶と入り豆を納めましたそうです。
この話が近隣で評判となり風邪、百日咳や咳の病の時には縄で石仏を縛りお参りするとご利益があり、病が治ると縄をほどきお茶と入り豆(明治以降は金平糖をお供えしたそうです。)
広済寺 無腮地地蔵
歯痛治療を願った地蔵は全国にたくさんあります。腮が無いから歯痛もない歯痛治療を願う故に腮を欠いて建てたと言うのが大筋の理由です。
古くは小野篁802~852年平安初期の漢詩人・歌人・参議等が遺唐使渡航失敗や拒否で隠岐な流された折思いを寄せた人の歯痛平癒 のため建てたと言われています。
治癒礼として、「あごなし地蔵様へお願いすると治ります」と言う仮名まじり金釘流の文字で書いた貼り紙を貼ったそうです。
歯痛祈願する習俗は島根・新潟・岐阜・長野・神奈川等に多くこの地蔵尊は、「全国異称地蔵一覧日本寺院名鑑地」に明記されていますが制作年代等の詳細は不明です。
道 灌 橋
東明寺西側には現在、道灌橋が架かっています。昭和6年に、この橋がコンクリート化されたとき、「新編武蔵風土記稿」の太田道灌屋敷の記述にあやかり、「道灌橋」と命名されたそうです。その近辺は今、ごく普通の住宅地であり、「太田道灌屋敷跡」であることを示す遺構や標示は何もありません。訪問者は、川べりに立って風に当たり、いにしえの道灌屋敷を偲ぶしかありません。田谷橋の下で、大きな鯉が泳ぎまわり、川に沿って桜並木がつづき、秋には彼岸花が咲いています。このあたりに、「太田道灌屋敷跡の碑」を一本建ててほしいものです。
太田道灌屋敷跡=埼玉県川越市志多町8番地
出典:blog.doukan.jp
川 越 氷 川 神 社
氷川神社は、埼玉県川越市宮下町にある神社。太田道灌以来、川越の総鎮守とされ歴代川越藩主の篤い崇敬を受けた。 国の重要無形民俗文化財である川越まつりは毎年10月14日に氷川神社にて斎行される「例大祭」、直後に行われる「神幸祭」や「山車行事」から成り立っている。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
第11回ベルリンオリンピック(1936)出場アスリート
鈴木聞多命顕彰碑
旧制川越中学校(現 県立川越高等学校)在学中、昭和5年(1930年)の全国の陸上競技大会において100mで2冠を達成するなど多くの輝かしい成績をもって慶応義塾大学の進学。大学でも国際大会で次々に好成績を残した、昭和11年(1936)の第11回ベルリンオリンピックに出場しました。100m走では第2次予選敗退となりましたが、彼の走りは当時の国民に勇気と希望を与えました。そして次の東京オリンピック(昭和15年)での活躍を誰もが期待しましたが、戦争により中止となったため、大学卒業後は㈱日立製作所に入社、その後陸軍将校の道を志し、再び陸上競技の場に戻ってくることはありませんでした。「陸上競技に愛を、記録に夢を、練習に心を」後輩たちに常に話していたこの言葉には、練習を重んじた彼の精神が表れています。
鈴木聞多 経歴
大正2年(1913)4月1日 埼玉県比企郡三保谷村大字宮前
(現 川島町宮前)に生まれる
父:鈴木庸三、母:多つ、兄:誠一
大正8年4月 三保谷村立三保谷小学校
(現 川島町立つばさ南小学校)入学
大正15年4月 県立川越中学(現 県立川越高等学校)入学
昭和 6年3月 同校卒業【中学29回】
4月 慶應義塾大学予科入学
昭和12年3月 慶應義塾大学法学部政治科卒業
昭和12年4月 ㈱日立製作所入社
昭和13年1月 旭川連隊入隊
昭和14年(1939)7月10日 中華民国(現 中華人民共和国)河南省泌陽県當平村北方高地にて戦死、二階級特進し陸軍歩兵少尉(満26歳)
昭和16年2月 勲六等功五級を賜る。
主な競技歴
昭和10年(1935)五ヵ国対抗陸上競技大会
昭和11年(1936)第11回ベルリンオリンピック
100m走2次予選敗退)
400mリレー走出場
国内外競技会で主に短距離においてメダル多数獲得
「地球が一公転するごとに季節の四季は巡る。何度でも巡ってくる。
だが、青春、朱夏、白秋、玄冬・・・・・・人生の四季は一限りである「地球が一公転するごとに季節の四季は巡る。何度でも巡ってくる。
だが、青春、朱夏、白秋、玄冬・・・・・・人生の四季は一限りである人は皆いずれかの季節を、いま生きている。中には若くして逝き、白秋、玄冬を見ずに終わる人生もある。だが吉田松陰は、人は十歳で死んでも、その人なりの人生の四季を生きて死ぬのだ、といっている。二十九歳の若さで生涯を終えた松陰自身が、人生の四季を堪能して旅立った人なのだろう。」聞多氏も二十六歳という短いがしかし凝縮された人生の四季を生き切った人なのだ。大正時代に生まれ、昭和に生き、祖国のために戦い、現在の豊かな日本の礎になられた方々を尊敬しそのお一人である鈴木聞多氏に感謝します。
人生二度なし、与えられた四季を想い、志を立て、今を一所懸命生きる。
(顕彰碑奉納者)
川越氷川神社
ご神木の倒壊について
平成23年9月、関東地方を襲った台風12号の暴風雨を受け、樹齢600年の欅のご神木が幹先10mほどの部分から倒壊しました。
ご神木は奇跡的にも、傍の本殿・石碑そして参拝者を全く傷つけることなく、神社裏に続く細い参道上にその巨体を横たえました。
長年にわたり地域を見守り続けてきたご神木は現在、市内喜多町の共和木材に大切に安置されています。
数年後にはご神木の材を用い、木に宿られた氷川大神の広大無辺なご神徳を、何らかの形で氏子崇敬者の皆様にお頒けしたいと考えております。
出典:川越氷川神社
縁むすび風鈴
かざぐるま
むかし、日本人は
「風が想いを運んでくれる」
と信じていました。
川越氷川神社では6月27日頃まで、
鳥居下の風鈴棚に藤色の「かざぐるま」を掛けています。
7月1日からは「かざぐるま」にかわり、
二千個の江戸風鈴が境内を彩る
「縁むすび風鈴」がはじまります。
夏は小江戸川越に、風を「聴きに」お越しください。
境内に吹く風に乗った皆さまの想いが、きっと届きますように。
出典:川越氷川神社
川越市立博物館
蔵造りをイメージした切り妻の瓦屋根に漆喰風の白壁姿の博物館は、旧川越城の二の丸跡に建っています。川越が繁栄した江戸時代から明治時代を中心に、原始時代から近・現代までの長い川越の歴史が総合的に理解できるような展示となっています。特に、城下町全体が見られるジオラマ模型や細部まで復元した蔵造りの町並み模型、また蔵造りの建築工程を再現した実物大模型は迫力満点です。見学した後に、市内を巡れば川越散策がさらに楽しめます。
出典:川越市
川越城 本丸御殿
川越城は、埼玉県川越市にある日本の城。江戸時代には川越藩の藩庁が置かれた。別名、初雁城、霧隠城。関東七名城・日本100名城。通常、川越城の名称を表記する場合、中世については河越城、近世以降は川越城と表記されることが多い。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
三芳野神社
三芳野神社は、埼玉県川越市郭町の神社。童歌「通りゃんせ」はこの神社の参道が舞台といわれる。川越城築城以前から当地にあったが、太田道真・太田道灌父子による川越城築城により城内の天神曲輪に位置することになった。平成元年に大修理が行われ、平成4年に完成。埼玉県指定文化財。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ここはどこの細道じゃ
天神さまのほそみちじゃ
わらべ唄発祥の所
昭和54年11月3日
川越市文化財保護協会
川越城七不思議
・初かりの杉
・きりふきの井戸
・人身御供
・よな川の小石供養
・七ツ釜と片葉の葦
・天神足洗いの井戸
・城内ひずめの音
川越城の七不思議
一、霧吹の井戸
城中に苔むした大きな井戸があった。
ふだんは蓋をしておくが、万一敵が攻めて来て、一大事という場合には、この蓋を取ると、中からもうもうと霧が立ち込めて、城は敵から見えなくなったという。
そのため、川越城は別名霧隠城ともいわれる。
二、初雁の杉
川越城内にある三芳野神社の裏には大きな杉の老木あった。
いつの頃からか毎年雁の渡りの時期になると時を違えず飛んできた雁は、杉の真上まで来ると三声鳴きながら、杉の回りを三度回って、南を指して飛び去ったということである。
そのため、川越城は別名初雁城ともいわれている。
三、片葉の葦
浮島稲荷神社の裏側一帯は、萱や葦が密生した湿地帯で、別名「七ッ釜」といわれていた。
ここに生える葦は不思議なことに片葉であって、次のような話が伝わっている。
川越城が敵に攻められ落城寸前に、城中から姫が乳母と逃げのび、ようやくこの七ッ釜のところまでやって来たが、足を踏みはずしてしまった。
姫は、川辺の葦にとりすがり岸にはい上がろうとしたところ、葦の葉がちぎれてしまい、姫は葦の葉をつかんだまま水底へ沈んでしまった。
この辺の葦は、この姫の恨みによってどれも片葉であるといわれている。
四、天神洗足の井水
大田道真・道灌父子が川越城を築城するに当たって、堀の水源が見つからず困っていたところ、一人の老人が井水で足を洗っているのに出会った。
この老人の案内によって水源を見つけた道灌は、かねての懸案を解決し、難攻不落の川越城を完成させることができたといわれている。
かの老人の気品にあふれた姿に気がついた道灌は、これぞまぎれもない三芳野天神の化身であったかと思い、以来これを天神洗足の井水と名づけて大事に神慮にこたえたという。
五、人身御供
川越城築城の際、太田道真、道灌父子は、三方(北、西、東)の水田が泥深く、築城に必要な土塁がなかなか完成せず苦心をしていたところ、ある夜龍神が道真の夢枕にたって、「明朝一番早く汝(汝)のもとに参った者を人身御供に差し出せばすみやかに成就する」と言った。
道真は、龍神にそのことを約束をしたが、明朝一番早く現れたのは、最愛の娘の世禰姫であった。
さすがの道真も龍神との約束を守れずにいると、姫は、ある夜、城の完成を祈りながら、七ッ釜の淵に身を投げてしまった。
そののち川越城はまもなく完成したという。
六、遊女川の小石供養
むかし、川越城主にたいそう狩の好きな殿様がいて、毎日のように鷹狩りに出かけていた。
ある日、供の若侍が小川のほとりを通りかかると、一人の美しい百姓の娘に出会ったので、名前をたずねるとおよねといい、やがてこの娘は縁あって若侍の嫁となったが、姑にいびられ実家に帰されてしまった。
およねは自分の運命を悲しみ、夫に出会った小川のほとりで夫が通りかかるのを待っていたが、会うことができず小川の淵へ身を投げてしまった。
やがてこの川を「よな川」と呼ぶようになったが、川の名は「およね」からきているとも、よなよな泣く声が聞こえるからともいわれている。
七、城中蹄の音
川越城主酒井重忠は、不思議なことに夜ごと矢叫や蹄の音に眠りをさまされていた。
ある日、易者に見てもらったところ、城内のどこかにある戦争の図がわざわいしているとの卦が出たので、さっそく土蔵を調べたところ堀川夜討の戦いの場面をえがいた一双の屏風絵がでてきた。
この屏風の半双を引き離して養寿院に寄進したところ、その夜から矢叫や蹄の音が聞こえなくなったという。
昭和五十七年三月 出典:川越市
三芳野神社社殿及び蛭子社・大黒社
付明暦2年棟礼(県指定・建造物)
本殿正面
三芳野神社本殿・幣殿・拝殿平面図
平安時代のはじめ大同年間(806~810)の創建と伝え、三芳野十八郷の惣社として宗敬をあつめました。太田道灌は川越城築城にあたって当社を鎮守とし、江戸時代以降は徳川幕府直営の社として庇護を受けました。
寛永元年(1624)幕府の命をうけて川越城主酒井忠勝が奉行となり再興に着手、幕府棟染鈴木近江守長次が造営にあたりました。その後、明暦2年(1656)川越城主松平伊豆守信綱が奉行となり、幕府棟染木原義久が改修を加えました。社殿の屋根はこけら葺でしたが、弘化4年(1848)幕府棟染甲良若狭により瓦葺に改められ、さらに大正11年銅板葺に改められました。
三芳野神社社殿は本殿、幣殿、拝殿からなる権現造りで、屋根はこけら葺形の銅板葺です。外部は朱漆塗を基調とし、内部は軸部を朱漆塗、建具と天井を黒漆塗とします。
本殿は正面三間、側面二間の入母屋造で、四周に縁と高欄をまわし、正面に木階をもうけ、前面は幣殿に接続します。身舎内部は内陣外陣に分割し、内陣正面の柱間三間に板唐戸、外陣正面は中央間に板唐戸、両脇間に蔀戸を装置します。組物は出組で、幣殿に面した正面だけ出三斗とします。中備は極彩色をほどこした蟇股です。
幣殿は正面一間、側面二間の両下造で、背面は本殿、前面は拝殿に接続します。組物は出三斗で、中備は外部が蟇股、内部が間斗束になっています。
内部は拭板敷に小組格天井です。
拝殿は正面三間、側面二間の入母屋造で、背面は幣殿に接続します。三方に縁高欄をまわし、背面柱筋に脇障子をたて、正面に一間の向拝をもうけます。組物は出三斗で、中備は外部が蟇股、内部が間斗束です。内部は拭板敷に小組格天井です。向拝は大面を取った角柱を陸梁形の頭貫でつないで、両端に獅子鼻を付け、連三斗を組んで中備に蟇股を飾ります。裏側には花木を篭彫した手狭を飾ります。
三芳野神社社殿の造営経過はいささか複雑です。
寛永元年(1624)の造営は、慶安2年(1649)松平信綱が奉納した「三芳野天神縁起絵巻」に詳細に記されていますが、そこに描かれた社殿は、流造ほ本殿と入母屋造の拝殿のみで幣殿は存在せず、現社殿とは大きく異なっています。
平成元年から平成4年にかけて実施された解体修理の報告書『三芳野神社社殿修理工事報告書』によれば、蟇股と各部取合わせを調査した結果、本殿・幣殿・拝殿の計二十三面の蟇股はすべて同形式ですが、当初からのものではなく、正面より押込み、斜め釘打ちで羽目板に取り付けられた後補の蟇股であることが判明しました。また、痕跡から、拝殿には寛永元年の造立当初より蟇股が存在していましたが(ただし現在の蟇股とは異なる)、本殿は蟇股の無い建築であったことも明らかになりました。現在の蟇股は、社殿全体を同一体裁に整えるために、新たに作製し取り付けたものと考えられます。また、本殿と幣殿、幣殿と拝殿の取合せでおさまりが不自然な所も数カ所指摘されています。
以上を勘案すれば、現社殿にみる権現造は、寛永建立当初からのものではなく、修造時に幣殿を増設して形成されたもので、さらに、寛永建立当初の本殿と、現本殿は本来別の建築と考えられます。
明暦2年の修造時には、江戸城二の丸東照宮が移築され、その幣殿と拝殿が三芳野神社の外宮(天神外宮)となり、明治5年に氷川神社境内(宮下町)に移され、八坂神社社殿として現存しています。確証はありませんが、現在の三芳野神社本殿は江戸城二の丸東照宮の本殿であり、明暦2年に移築され大改修を受け、幣殿を増設し、本殿と拝殿を連結して現在見るような権現造社殿となったと推定されます。
蛭子社本殿と大黒社本殿は、拝殿の前方、参道に向かい合って鎮座します。拝殿から見て左が蛭子社、右が大黒社です。両社は同寸法、同形式で、拝殿前に一対となって配置され社格を高めています。朱塗の一間社流造、見世棚造で、屋根はこけら葺形の銅板葺とします。蛭子社本殿と大黒社本殿は、ほとんど装飾のない簡素な建築で、身舎組物は舟肘木で中備はなく、妻飾は虹梁豕扠首です。庇も柱上に舟肘木を置くだけで、いたって簡素なつくりになっています。明暦2年(1656)の「三芳野天神別当常海覚書」に「末社両宇」とあるのが相当すると思われ、元禄11年(1698)の「元禄11年川越市街屋敷社寺記」に末社貳ヶ所共 表四尺四寸 奥七尺九寸」とあって、規模が記されています。しかし、現本殿は正面四尺、側面は身舎と庇をあわせて六尺四寸五分であり、元禄の記録と一致しません。蛭子社に掲げられた額の背面に享保15年(1734)の年紀があるので、その頃再建されたものと思われます。
昭和30年1月1日(平成4年3月11日追加)指定
出典:川越市教育委員会
川越城 富士見櫓跡
所在地 川越市郭町二丁目
御嶽神社が祀られているこの高台は、かつては川越城の富士見櫓が建てられていたところである。
櫓は矢倉とも書いて、合戦の際に物見として、あるいは防戦の足場として、城壁や城門の高い場所に設けられた建物を意味するが、天守閣のなかった川越城には東北の隅に二重の虎櫓、本丸の北に菱櫓、西南の隅に三層の富士見櫓があって、城の中で一番高い所にあった富士見櫓が天守閣の代わりとなっていたと思われる。
今日では、木々や建物のため、すっかり眺望も失われてしまったが、その昔はこの高台に立てば、富士見櫓の名の通り遠く富士山までも望めたことであろう。
元来、城の構造及び建造物は戦略上の都合もあって、その大部分が明らかにされることはなく、正確な規模は分からないが、江戸末期の慶応2年(1866)に川越城を測量した記録によれば、この富士見櫓は長さ八間三尺(約15m)、横八間(約14m)あったと記されている。
昭和57年3月
出典:埼玉県
日枝神社 (川越市)
円仁(慈覚大師)が喜多院を創建(天長7年・830年)したおりに、その鎮守として貞観2年(860年)に坂本の日吉大社を勧請したものであるといわれている。東京赤坂の日枝神社(旧官幣大社)は、文明10年(1478年)、太田道灌が江戸城築城の際に、この川越日枝神社から分祀したものである。(赤坂日枝神社もそう記述している)
本殿は朱塗りの三間社流造、銅板葺で国の重要文化財に指定されている。拝殿は老朽化が深刻だったため、近年、新拝殿が再建された。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
天海大僧正
(1536~1643)
喜多院第27世住職であり、会津高田(現 福島県会津美里町)出身、江戸時代初期、喜多院を復興しました。
将軍徳川家康公の信頼あつく、宗教政策の顧問的存在として助言を行い、将軍も度々、川越城また喜多院を訪れています。
108歳で遷化(亡くなる)後、朝廷により「慈眼大師」の称号を賜りました。
白山権現
830年(天長7年)慈覚大師円仁が喜多院を創建された時に、天台宗修験道の霊場である白山より、この守護神として白山の神仏の分霊を祀ったと伝えられています。
右道路向かい側の日枝神社は、同じく創建時に、天台宗の本山である比叡山ふもとの日吉大社の神様の分霊を祀った神社です。
天台宗では、人物習合といい、お寺も日本の神様にお守りいただきながら、神仏ともに礼拝し、人々の幸せをお祈りします。
※修験道=神様と仏様の両方の力を得る修行方法
喜多院 山門
国指定重要文化財
山門は、4本の柱の上に屋根が乗る四脚門の形式で、屋根は切妻造り、本瓦葺。もとは後奈良天皇の「星野山」の刺額が揚げられていたといいます。棟礼を見る寛永9年(1632)に天海僧正により建立されたことが分かり、寛永15年(1639)の川越大火で焼失を免れ、喜多院では現存する最古の建物です。昭和30年度に部分修理が行われ、現在に至ります。
出典:川越大師 喜多院
国指定重要文化財
川越大師 喜多院案内図
伝説によるとその昔仙波辺の漫々たる海水を仙芳仙人の法力によりとり除き尊像を安置したというが、平安時代、天長7年(830)淳和天皇の勅により慈覚大師が創建された勅願寺で本尊阿弥陀如来を祀り無量寿寺と名づけた。
その後鎌倉時代、元久2年(1205)兵火で炎上の後、永仁4年(1296)伏見天皇が尊海僧正に再興せしめられたとき、慈恵大師(厄除元三大師)を歓請して官田五十石を寄せられ関東天台の中心となった。
正安3年(1301)後伏見天皇は星野山(現在の山号)の勅額を下した。更に室町時代、天文6年(1537)北条氏綱、上杉朝定の兵火で炎上した。
江戸時代、慶長4年(1599)天海僧正(慈眼大師)が第二十七世の法統をつぐが、同16年(1611)11月徳川家康が川越を訪れたとき寺領四万八千坪及び五百石を下し、酒井備後守忠利に工事を命じ、仏蔵院北院を喜多院と改め、四代家綱のとき東照宮に二百石を下すなど大いに寺勢をふるった。寛永15年(1638)1月の川越大火で現存の山門を除き堂宇はすべて焼失した。そこで三代将軍家光公は堀田加賀守正盛に命じてすぐに復興にかかり、江戸城紅葉山(皇居)の別殿を移築して客殿、書院などに当てた。家光誕生の間、春日局(家光公の乳母)の間があるのはそのためである。その他慈恵堂(本堂)、多宝塔、慈眼堂、鐘楼門、東照宮、日枝神社などの建物を数年間の間に再建し、それらが今日文化財として大切に保存されている。
江戸時代までは寺領四万8千坪、七百五十石の幕府の御朱印地として寺勢をふるったが、明治以降財力の欠如とその広さ、大きさのため荒廃に向った。
戦後文化財の指定とともに昭和大復興にとりかかり関係者の並々ならぬ努力によってその主な建造物の複原修理が完成し、それら偉観は、盛時を偲ばせるまでになった。しかし未だ完成しないところもかずあり今日までその整備事業は継続して行われている。
現在の境内地は東照宮を含めて一万四千坪あり、今日その緑は市民にとって貴重な憩いの場となっており池や堀をめぐらした景勝はそこに点在する文化財群とともに川越随一の名勝地霊場地として名高く厄除元三大師のお参りとともに四季を通じて史跡を訪れる人々がいつも絶えない。
1月3日の厄除初大師のご縁日には家内安全、厄除等の護摩祈願、また境内には、名物だるま市が軒をつらねて立ち並び、又2月3日の節分会、4月の長日護摩講の行事をはじめ毎日護摩供を奉じて所願成就の祈願を厳修している。
文化財の拝観ができ、最近では毎年5月の連休の一週間宝物特別展も開かれている。
出典:喜 多 院
川越市教育委員会重要文化財・建造物
仙 波 東 照 宮
徳川家康をまつる東照宮は、家康の没後その遺骸を久能山から日光に移葬した元和3年(1617)3月、喜多院に四日間とう留して供養したので、天海僧正が寛永10年(1633)1月この地に創建した。
その後寛永15年(1638)正月の河越大火で延焼したが、堀田加賀守正盛を造営奉行とし、同年6月起工、同17年完成した。当初から独立した社格をもたず。
喜多院の一隅に造営されたもので、日光・久能山の東照宮とともに三大東照宮といわれている。
社の規模は表門(随身門)・鳥居・拝幣殿・中門(平唐門)・瑞垣・本殿からなっている。
本殿の前には歴代城主奉献の石灯籠がある。
なお拝殿には岩佐又兵衛勝以筆の三十六歌仙額と幣殿には岩槻城主阿部対馬守重次が奉納した十二聡の鷹絵額がある。
出典:埼玉県教育委員会
出典:川越市教育委員会
仙 波 東 照 宮
川 越 八 幡 宮
当宮は川越の地に創建してから約千年。
市内に約200社ある神社の中で、唯一「川越(河越)」の地名を有す由緒あるお宮です。
境内には、縁結びの夫婦イチョウや足腰健康の民部稲荷神社など見どころがいっぱい。お祭りやこども相撲大会、ちんじゅの森コンサートなど、四季を通じてさまざまなイベントもあります。
近所のお散歩がてらに、観光に、ぜひお気軽にお参りください。
出典:川越八幡宮
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