クレアパーク(スタート)→蔵里(WC)→出世稲荷→大正浪漫夢通り→蔵造りの町並み→菓子屋横丁→濯柴公園(教室)(WC)→時の鐘→連雀町交差点→喜多院(昼飯)(WC)→中院→仙波河岸史跡公園(WC)→川越駅(ゴール)

川越わくわくウオーキング教室 NPO法人埼玉ウオーキング協会 小江戸川越ウオークⅡ・蔵造りの町並み ・菓子屋横丁 ・仙波河岸史跡公園

川越わくわくウオーキング教室
NPO法人埼玉ウオーキング協会
小江戸川越ウオークⅡ
・蔵造りの町並み
・菓子屋横丁
・仙波河岸史跡公園

クレアパーク(スタート)
クレアパーク(スタート)
クレアパーク(スタート)
クレアパーク(スタート)
クレアパーク(スタート)
クレアパーク(スタート)
クレアパーク(スタート)
クレアパーク(スタート)
〒350-0043埼玉県川越市新富町1丁目
〒350-0043埼玉県川越市新富町1丁目
蔵里(WC)
蔵里(WC)

蔵 里 小江戸蔵里(川越市産業観光館)

120年間の歴史を持つ酒蔵を改装した「小江戸蔵里(産業観光館)」には、川越らしさと本物にこだわる「小江戸川越ブランド産品」、埼玉県内35蔵の日本酒、地場食材を生かした料理や加工品などが集結。

「蔵」の雰囲気を生かしたくつろぎと憩いの空間で、ここにしかない川越の魅力を発信しています。

「見て(酒蔵)」、「買って(お土産・地酒・発酵食品)」、「食べて(地場食材を使ったお食事)」、川越とそして埼玉の魅力を体験できる小江戸蔵里を、ぜひご利用ください。

歴史的・文化的な香りが漂う一番街の蔵造りの町並みと、商業・業務施設が集まるクレアモール。この中間に位置する小江戸蔵里は、観光客も市民の皆さんも楽しむことができる、地域のにぎわいを創造する施設です。

出典:川越市役所

蔵里(WC)
蔵里(WC)
火除稲荷大明神
火除稲荷大明神

火 除 稲 荷 大 明 神

大正浪漫夢通り
大正浪漫夢通り

川越大正浪漫夢通り

古き良き大正時代を思わせる情緒あふれる大正浪漫夢通り。通りを歩けば、そこかしこに大正ロマンの風情が漂います。毎日の買い物から、こだわりの逸品、川越観光のお土産などを販売する、個性豊かなお店が軒を並べています。大正ロマンの雰囲気を求めて、テレビや映画の撮影によく使われる商店街です。大正ロマンの風を感じに川越の大正浪漫夢通りへぜひお越し下さい。

出典:大正浪漫夢通り

大正浪漫夢通り
大正浪漫夢通り
山崎美術館周辺
山崎美術館周辺
蔵造りの町並み
蔵造りの町並み

明治の香り漂う蔵造りの街並み一番街

大きな鬼瓦の屋根に黒しっくいの壁と分厚い観音開きの扉…。まるでタイムスリップしてしまったかの様な感覚になる蔵造りの趣豊かな建物が立ち並ぶ町並み-「一番街」。

同じように見えて一軒一軒違う造りをしており、それぞれに個性を出しながら、堂々とした風格さえ漂わせている。その中で最も古く、1792(寛政4)に建てられた大沢家住宅(写真左)は国の重要文化財に指定されている。

江戸時代、川越藩主松平信綱の町割りによって、通りに店が向かい合う形の家並みができあがったが、度重なる大火のため幕府がかわらぶきを奨励し、火事に強い建物として江戸の町で土蔵造りが流行した。これによって商業で江戸と結び付きが強かった川越でも、蔵造りの商家が建つようになった。 現在の蔵造りの多くは、川越大火後に建てられたもので、今も30数棟が残る。大正12年、関東大震災やその後の戦災によって東京の蔵造りが姿を消したこともあり、江戸の景観を受け継ぐ重要な歴史的遺産として、「時の鐘」をはじめとするこの一番街周辺は、平成11121日に重要伝統的建造物群保存地区に選定された。また埼玉りそな銀行の古い洋館は大正7年に建築されたもの。(写真右下)近年では新しい建築物も、景観を壊さないように工夫され、新しいものと古いものとが調和した街づくりが行われている。当時のたばこ問屋を整備した「蔵造り資料館」では、蔵造りの構造をはじめ、敷地内の各蔵の配置なども見る事が出来る。

出典:公益社団法人 小江戸川越観光協会

蔵造りの町並み
蔵造りの町並み
蔵造りの町並み
蔵造りの町並み
菓子屋横丁
菓子屋横丁
菓子屋横丁
菓子屋横丁

懐かしい味を今に伝える菓子屋横丁

色とりどりのガラスが散りばめられた石畳の道に、20軒程度の菓子屋などがひしめく川越の有名なスポット「菓子屋横丁」。素朴で昔懐かしい味を今に伝える菓子作りの店が立ち並び、一歩足を踏み入れると、誰もが子供に返ったような気分になってしまう。醤油の焼ける香ばしい香り、ニッキやハッカ飴、駄菓子やだんごなど、昔ながらの手法で作られる飴菓子・カルメ焼きなど、思わず「あっこれ!」と言ってしまう駄菓子の数々。百円玉を握りしめ、あれにしようかこれにしようかと頭をひねった幼い頃を思い出す大人も、駄菓子をあまり知らない子供も世代を超えて、誰もがワクワクしてしまうような場所である。

「菓子屋横丁」は明治の始め頃、鈴木藤左衛門が養寿院の門前町として栄えるこの町で江戸っ子好みの 気取らない菓子を製造したことが始まりといわれている。その後の大正12年、関東大震災によって被害を受けた東京に代わって製造供給を賄い、昭和初期には70軒以上の店があったといわれている。その後、戦争や生活の変化などによって店舗数は激減したものの、人情味あふれる横丁の情緒、威勢の良い呼び込みの声、素朴で懐かしく温かい街角は、時代が変わっても人々に安らぎを与えてくれる。 「菓子屋横丁」に漂う素朴で懐かしい香りは、平成13年環境省の“かおり風景100に選定された。

出典:公益社団法人 小江戸川越観光協会

菓子屋横丁
菓子屋横丁
菓子屋横丁
菓子屋横丁
菓子屋横丁
菓子屋横丁
菓子屋横丁
菓子屋横丁
菓子屋横丁
菓子屋横丁
菓子屋横丁
菓子屋横丁
菓子屋横丁
菓子屋横丁
至濯柴公園
至濯柴公園
濯柴公園(教室)
濯柴公園(教室)

濯 紫 公 園

濯紫園と呼ばれた庭園のあった場所を新河岸川と合わせた親水公園として整備された公園。公園中程に起伏があり、登ると遊具が設置されている。

藤棚やベンチがあり子どもたちが遊ぶ空間が広がる。川沿いを歩くことができるので水辺の散策が楽しめる。

出典:川越市役所広報室

濯柴公園(教室)
濯柴公園(教室)
濯柴公園(教室)
濯柴公園(教室)

濯紫公園の由来

昔、ここに柳沢吉保の家臣山東小市郎の別荘があり、(たく)()(えん)と呼ばれる大変美しい庭園がありました。その後、唯心という僧がここで唯心庵を営んでいました。明治2年には水村氏により水車がつくられ、この水車は通称いおりの水車と呼ばれ人々に親しまれていました。

いおりの堰の上流側は子供たちの絶好の水泳や水遊び場だったそうです。

その後、新河岸川周辺の農地には住宅が建ち並び、水車も必要とはなくなり取り壊され、川も改修工事によって現在の姿になりました。

この公園は新河岸川の親水拠点として地元の人々と行政が協力し、川と公園を一体的に整備したものです。

この公園の名はかつての濯紫園にちなみ「濯紫公園」としました。

平成元年3

川越夜戦古戦場跡周辺
川越夜戦古戦場跡周辺

川越夜戦古戦場跡(河越夜戦古戦場跡)

東明寺

所在地 川越市志多町

東明寺は時宗(開祖一遍上人)の寺で稲荷山称名院東明寺と称し、本尊は虚空蔵菩薩である。

お寺の位置は、川越台地の先端が水田地帯に接する北の端にある。このあたりからは、新河岸川を境として川越の町の北側を入間川を主流とする分流が幾筋も流れ、水田地帯を形成しており、古くからこの穀倉地帯を領する多くの武士団が存在した。東明寺はこうした土豪の一人河越氏の荘園の東端に連なる広い寺領を有していた。その寺領は東明寺村、寺井三か村、寺山村などに及び、広大な境内を有して、その惣門は今の喜多町の中ほどにあったと伝えられている。このことから喜多町の古名を東明寺門前町と称したといわれている。天文15年(1546)4月に戦われた、上杉、北条軍の川越夜戦は、一名東明寺口合戦といわれ、この地の要路松山街道を含んだ東明寺寺領と境内で争われたものである。

昭和57年3月

出典:埼玉県

さいたま地方裁判所川越支部周辺
さいたま地方裁判所川越支部周辺
時の鐘
時の鐘

小江戸の街に今も時を伝える川越の

シンボル時の鐘

情緒あふれる蔵造りの町並みにひときわ高くそびえる川越のシンボル「時の鐘」。蔵造りの町並み「一番街」と同様に、城下の頃の面影を残す建造物で、江戸時代初頭から城下の町に時を告げ、庶民に親しまれてきた鐘つき堂である。

今から約400年前、当時の川越藩主だった酒井(さかい)(ただ)(かつ)によって創建されたといわれる。以来度重なる火災で鐘楼や銅鐘が焼失したが江戸時代を通じて度々建て替えられた。

現在建っているのは4代目に当たり、明治26年に起きた川越大火直後に再建されたもの。 町の3分の1が焼失した中で、暮らしに欠かせない「時」を告げる時計台は、自らの店も再建していない川越の商人達によって、いち早く建て直された。

時代が変わり鐘つきの方法が鐘つき守りから機械仕掛けへと変化しても、昔と変わらず今も蔵造りの町並みに時を告げている。また、その響きの良い音色は平成 8年、環境省の「残したい日本の音風景100」に認定された。

木造で3層のやぐらで高さは約16メートル。午前6時・正午・午後3時・午後6時の14回鳴る鐘の音は、その時間時間の空の色や街の風景、漂う香りなどによってそれぞれに趣が感じられ、小江戸川越の情緒をたっぷりと味合わせてくれる。

公益社団法人 小江戸川越観光協会

/時の鐘
/時の鐘
時の鐘
時の鐘
山崎美術館
山崎美術館

公益財団法人 山崎美術館

橋本雅邦画伯

橋本雅邦画伯は、川越藩のお抱え絵師橋本晴園養師の子息にて、画道に勝れ、日本革新の先覚者であり明治時代における我が国画壇の最長老であります。

依って、郷土川越の有志が集まり、明治32(1899)画宝会を結成し、先生のご力作の頒布をいただきました。

山崎家4代目故山崎豊翁は、同会の幹事として率先活躍するとともに、画伯から受けた作品をすべて大切に保管し、これを子孫に伝承させたものであります。

併し、子孫としては、社会公益の為、一般に広く鑑賞を仰ぎ、以って美学向上の資料に供するに、如かずと考え、ここに翁の誕生150年を記念し、昭和57年文化の日に山崎美術館を発足いたしました。

より多くの方々のご利用を切にお願いします。

出典:龜屋

山崎美術館
山崎美術館
仲町交差点
仲町交差点
仲町交差点
仲町交差点
〒350-0066 埼玉県川越市連雀町10−1
〒350-0066 埼玉県川越市連雀町10−1
連雀町交差点
連雀町交差点
成田山川越別院本行院
成田山川越別院本行院

成田山川越別院(本行院)

成田山川越別院本行院は、埼玉県川越市にある真言宗智山派の寺院である。成田山新勝寺の別院で、通称は川越不動。毎月28日には蚤の市で、11月には火渡り祭で賑わう。本尊は不動明王。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

成田山川越別院本行院
成田山川越別院本行院
成田山川越別院本行院
成田山川越別院本行院
川越歴史博物館前
川越歴史博物館前

川越歴史博物館

喜多院
喜多院

国指定重要文化財

川越大師 喜多院案内図

伝説によるとその昔仙波辺の漫々たる海水を仙芳仙人の法力によりとり除き尊像を安置したというが、平安時代、天長7年(830)淳和天皇の勅により慈覚大師が創建された勅願寺で本尊阿弥陀如来を祀り無量寿寺と名づけた。

その後鎌倉時代、元久2年(1205)兵火で炎上の後、永仁4年(1296)伏見天皇が尊海僧正に再興せしめられたとき、慈恵大師(厄除元三大師)を歓請して官田五十石を寄せられ関東天台の中心となった。

正安3年(1301)後伏見天皇は星野山(現在の山号)の勅額を下した。更に室町時代、天文6年(1537)北条氏綱、上杉朝定の兵火で炎上した。

江戸時代、慶長4年(1599)天海僧正(慈眼大師)が第二十七世の法統をつぐが、同16年(161111月徳川家康が川越を訪れたとき寺領四万八千坪及び五百石を下し、酒井備後守忠利に工事を命じ、仏蔵院北院を喜多院と改め、四代家綱のとき東照宮に二百石を下すなど大いに寺勢をふるった。寛永15年(16381月の川越大火で現存の山門を除き堂宇はすべて焼失した。そこで三代将軍家光公は堀田加賀守正盛に命じてすぐに復興にかかり、江戸城紅葉山(皇居)の別殿を移築して客殿、書院などに当てた。家光誕生の間、春日局(家光公の乳母)の間があるのはそのためである。その他慈恵堂(本堂)、多宝塔、慈眼堂、鐘楼門、東照宮、日枝神社などの建物を数年間の間に再建し、それらが今日文化財として大切に保存されている。

江戸時代までは寺領四万8千坪、七百五十石の幕府の御朱印地として寺勢をふるったが、明治以降財力の欠如とその広さ、大きさのため荒廃に向った。

戦後文化財の指定とともに昭和大復興にとりかかり関係者の並々ならぬ努力によってその主な建造物の複原修理が完成し、それら偉観は、盛時を偲ばせるまでになった。しかし未だ完成しないところもかずあり今日までその整備事業は継続して行われている。

現在の境内地は東照宮を含めて一万四千坪あり、今日その緑は市民にとって貴重な憩いの場となっており池や堀をめぐらした景勝はそこに点在する文化財群とともに川越随一の名勝地霊場地として名高く厄除元三大師のお参りとともに四季を通じて史跡を訪れる人々がいつも絶えない。

1月3日の厄除初大師のご縁日には家内安全、厄除等の護摩祈願、また境内には、名物だるま市が軒をつらねて立ち並び、又2月3日の節分会、4月の長日護摩講の行事をはじめ毎日護摩供を奉じて所願成就の祈願を厳修している。

文化財の拝観ができ、最近では毎年5月の連休の一週間宝物特別展も開かれている。

 

出典:喜 多 院

川越市教育委員会

川越大師 喜多院
川越大師 喜多院
喜多院 五百羅漢
喜多院 五百羅漢

喜多院 五百(ごひゃく)羅漢(らかん)

川越の観光名所の中でも、ことのほか人気の高い喜多院の五百羅漢。日本三大羅漢の一つに数えられます。この五百余りの羅漢さまは、川越北田島の()(じょう)の発願により、天明2年(1782)から文政8年(1825)の約50年間にわたり建立されたものです。

十大弟子、十六羅漢を含め、533体のほか、中央高座の大仏に釈迦如来、脇侍の文殊・普賢の両菩薩、左右高座の阿弥陀如来、地蔵菩薩を合わせ、全体538体が鎮座しています。

笑うのあり、泣いたのあり、怒ったのあり、ヒソヒソ話をするのもあり、本当にさまざまな表情をした羅漢様がおられます。そして、いろいろな仏具、日用品を持っていたり、動物を従えていたりと、観察しだしたらいつまで見ていても飽きないくらい、変化に富んでいます。

また、深夜こっそりと羅漢さまの頭をなでると、一つだけ必ず温かいものがあり、それは亡くなった親の顔に似ているのだという言い伝えも残っています。

出典:喜多院

中院庭園
中院庭園

河越茶・狭山茶発祥の地 天台宗別格本山

中 院

喜多院の直ぐ南方にあり、正式には天台宗別格本山中院といい、閑静な佇まいが趣のある寺院。

古くは星野山無量寿寺仏地院と呼ばれ、鎌倉時代の終わり頃、無量寿寺から分かれたとされる天台宗の寺で、喜多院に天海僧正が来往するまではこの地の中心的な寺院であったといわれている。

中院は島崎藤村ゆかりの寺院として知られており、境内には川越市の文化財に指定された島崎藤村ゆかりの茶室・不染亭があり、現在は茶道を楽しむ人々に利用され、保存伝承されている。

また、境内には藤村の義母加藤みきの墓があり、藤村も度々足を運び墓石の「蓮月不染之墓」という戒名は、藤村が自ら筆をとり記したものだといわれる。 また桜の名所としても名高く、本堂前の枝垂桜(しだれざくら)は特に有名である。緑豊かな境内は春だけでなく、夏・秋・冬とそれぞれに色を変え、四季折々の表情で人々を楽しませてくれる。さらに、ここ中院は川越茶・狭山茶の発祥の地としても有名。

開山の際、円仁が京より茶の実を携え、境内に薬用として栽培したのが始まりで、30年ほど前までは境内にも茶畑があったという。境内にはその旨を記した石碑が建てられている。 木々を愛でながら 時の流れをゆっくりと感じ、心洗われるひとときを感じられる場所だ。

出典:公益社団法人 小江戸川越観光協会

中院庭園
中院庭園
中院庭園
中院庭園
星野山 無量寿寺 中院
星野山 無量寿寺 中院
泥足地蔵
泥足地蔵
仙波河岸史跡公園
仙波河岸史跡公園
仙波河岸史跡公園周辺
仙波河岸史跡公園周辺
仙波河岸のむかし
仙波河岸のむかし

仙波河岸のむかし

むかしこの場所には「仙波河岸」という河岸場がありました。仙波河岸ができたのは明治の初めごろのことです。

これまでにも新河岸川の下流にはすでに数箇所の河岸場があり、江戸と川越の間を船を使って物品を運んでいました。これが「新河岸川舟運」と言われているものです。

仙波河岸は新河岸川の最も上流に位置し一番新しくできた河岸場です。

しかし、明治の中ごろから東京との間に鉄道が整備されはじめました。また、大正時代には新河岸川の改修工事が始まり、昭和の初めには新河岸舟運も終わりをむかえました。

下の写真は仙波河岸に荷船が並んでいる様子を写した明治時代後期の写真です。

 

仙波河岸史跡公園
仙波河岸史跡公園

仙波(せんば)河岸(がし)史跡(しせき)公園(こうえん)

新河岸川舟運の面影を伝える仙波河岸跡や、水や緑といった自然が多く残っており、歴史と自然を楽しむことができる歴史公園です。

仙波河岸跡、仙波の滝、湿性地などの区域を遊歩道や木デッキで回遊することができます。

出典:川越市役所

仙波河岸史跡公園
仙波河岸史跡公園
〒350-0033埼玉県川越市富士見町
〒350-0033埼玉県川越市富士見町
〒350-0033埼玉県川越市富士見町
〒350-0033埼玉県川越市富士見町
川越駅(ゴール
川越駅(ゴール
川越駅(ゴール)
川越駅(ゴール)

クレアパーク(スタート)→蔵里→大正浪漫通り→かもん楽座→お茶屋橋→観音寺→濯柴公園→広済寺→川越氷川神社→富士見やぐら→喜多院→クレアパーク(ゴール)

川越わくわくウオーキング教室
NPO法人埼玉ウオーキング協会
小江戸川越ウオークⅠ
・観音寺
・広済寺
・富士見やぐら
・濯柴公園

〒350-0043 埼玉県川越市新富町2丁目11‐3
〒350-0043 埼玉県川越市新富町2丁目11‐3
小江戸蔵里 力持ち
小江戸蔵里 力持ち
小江戸蔵里 添え仕込み
小江戸蔵里 添え仕込み
小江戸蔵里 放冷
小江戸蔵里 放冷
小江戸蔵里 酛掲り
小江戸蔵里 酛掲り
小江戸蔵里 ?
小江戸蔵里 ?
江戸蔵里 大正蔵
江戸蔵里 大正蔵

大 正 蔵

「新蔵」ともいわれた大正蔵は、大正時代初期に建てられた木造2階建の建物。中は仕切りのない広い空間で、改造はほとんどなく、関東地方の典型的な酒造の姿を今に残しています。

大正蔵には多数の貯蔵タンクが設置され、出荷前にの酒が貯蔵されたほか、一部、瓶詰、パッケージングなどの用途としても使用された。

 

大正蔵内部

【豆知識】

鏡山酒造跡地内の明治蔵・大正蔵・昭和蔵の三棟は、外観が建設当時の意匠を保ち、内部も酒造りに適した空間構成を維持していることから、平成20年㋂、国の登録有形文化財に登録されました。

小江戸蔵里 昭和蔵
小江戸蔵里 昭和蔵

昭 和 蔵

重々しい屋根や、白壁などいかに重厚長大な景観を醸し出す昭和蔵は、鏡山酒造の歴史と伝統をしのばせる建物。蔵の中心部には太い杉柱が3本配置され、建物全体を「やじろべい」のように支えています。

建築年代は、酒造会社時代の全盛期ともいわれる昭和6年(1931年)。登記簿上の構造は、木造2階建てですが、3層に仕切られていました。

ここでは、(こうじ)と蒸米から「酒母(しゃぼ)」や「もろみ」を仕込む作業を行っていました。

 

昭和蔵内部

【豆知識】

昭和蔵は、4代目竹内孝也氏(19301998)の誕生を祝して翌年の昭和6年に建てられました。

同氏は、東北大学卒業後、国税庁の酒造試験場で2年間、酒造学を学んだ研究者。杜氏(とうじ)を育てることもじょうずで、たくさんの名杜氏を世に送り出しました。

小江戸蔵里 昭和初期の作業風景
小江戸蔵里 昭和初期の作業風景

昭和初期の作業風景

酒造りは、㋊から翌年の㋂まで続きます。天然の米と水が酒の命なら、酒の仕込みを采配(さいはい)する杜氏(とうじ)の腕が、酒を生かしたり殺したりするそうです。「(むし)(こめ)に菌を繁殖させるときの湿度管理が、酒づくりの重要なポイント。昔からこの湿度の操作が秘けつとされています。

 

昭和初期の蒸米の作業風景

【豆知識】

酒造りの最盛期、寒い時期のほうが、空気中の雑菌が少なく、発酵条件がよいため、シーズンは㋊から翌年の㋂ごろまで。

小江戸蔵里 詩情豊かな鏡山のルーツ
小江戸蔵里 詩情豊かな鏡山のルーツ

詩情豊かな鏡山のルーツ

初代当主の竹内栄吉(1843年~1915年)は、現在の新潟県上越市出身の杜氏(とうじ)で、埼玉県内で酒づくりの技術を習得し、明治8年(1875年)、現在地で酒造蔵を創業しました。

鏡山という名称は、滋賀県の琵琶湖のほとりにある山の名前から由来しています。歌人藤原定家の秀歌の一つに

『鏡山映される波の影ながら

空さえ凍る有明の月』

という歌がありますが、ここにある美しい詩情豊かな景観こそが鏡山のルーツです。

 

鏡山(滋賀県竜王町・竜王町観光協会提供)

【豆知識】

杜氏(とうじ)。日本酒の製造に」携わる蔵人(くろうど)と呼ばれる技能手段を率いる、酒造りの総責任者です。原料の仕込から熟成(じゅくせい)にいたるまで、すべての工程を管理します。

小江戸蔵里 明治蔵
小江戸蔵里 明治蔵

明 治 蔵

明治時代中期に建築された明治蔵は、「本造」ともいわれるとおり、敷地内の酒造群中一番歴史が古く、また、最大規模の木造の建物。

ここでは、搾り機、ブレンドタンクなどが設置され、酒を搾った

り、調合する作業である上槽(じょうそう)濾過(ろか)など酒造工程の後半部分が行われていました。また、入口右手には、酒造醸造において一番重要な工程である(せい)(ぎく)作業を行う「麹室(こうじむろ)」が併設されていました。

 

明治蔵内部

【豆知識】

酒造りと蔵。酒造りに土蔵が適しているのは、熱が外に逃げにくく、湿度が年間を通して一定なためです。

 

 

小江戸蔵里 瓶詰作業場・倉庫
小江戸蔵里 瓶詰作業場・倉庫

瓶詰作業場・倉庫

「瓶詰作業場」、そしてその西側に隣接する「倉庫」の建築年代は、ともに不明。瓶詰作業場は瓶詰め作業や、酒粕の貯蔵庫に使われました。

倉庫は、当初、上層(じょうそう)工程でぬれ袋を乾燥させるために使われていましたが、その後、竹内家の個人的な収蔵品の倉庫として使用されていました。

また、大正蔵前の「検査室」は、税務署員が帳簿類の立会い検査をする場所として使われていました。

 

 

倉庫・ギャラリー

【豆知識】

お酒の税金である「酒税」は、「蔵出し税」ともいわれ、蔵から出荷した時点で税金がかかります。

そのため、水をどのくらい使ったか、(ぬか)酒粕(さけかす)はどのくらい出たかなどすべて厳しい検査を税務署から受けました。

小江戸蔵里
小江戸蔵里
小江戸蔵里の御案内
小江戸蔵里の御案内
〒350-0056 埼玉県川越市松江町1丁目1‐8
〒350-0056 埼玉県川越市松江町1丁目1‐8
出世稲荷神社 (通称 いちょう稲荷神社)
出世稲荷神社 (通称 いちょう稲荷神社)
火除稲荷大明神
火除稲荷大明神
大正浪漫通り
大正浪漫通り
大正浪漫通り
大正浪漫通り
大正浪漫通り
大正浪漫通り
大正浪漫通り
大正浪漫通り
〒350-0065 埼玉県川越市仲町10‐1
〒350-0065 埼玉県川越市仲町10‐1
鴉山稲荷神社
鴉山稲荷神社
鴉山稲荷について
鴉山稲荷について

鴉山稲荷神社について

歴 史

社説によると、長禄元年(1457)上杉持朝の命によって川越城築城の任にあたった大田道真が、城の櫓より四方を眺めたところ南西を森がさえぎり、富士山が眺望出来ないために、これを伐採させたところ森の中に石祠があり、「源家勝平、怨敵退散、子孫長栄、大願成就、守護、永安三癸巳夭㋃17日願主河島武盛」と記した祈願文が発見された。道真はこれを築城の吉兆としてここに仮宮を建立した。以来、代々藩主の信仰厚く、松平(なり)(つね)の養子斉省(なりさだ)の奉納「鴉山祠」の額が現存している。

当社は塚上にあり、鴉が群摟していたことにより鴉山稲荷神社と称すると云う。また、古くは周囲に塚が多く、中でも鴉山が大きいので、川越7社の第一位としてその名は「親塚稲荷」とも言われる。

また、町内では「お稲荷さん」とも呼ばれ、親しみ大切に信仰され、今も尚、町民全体の文化遺産として伝わり引き継がれている。

平成244月吉日

出典:鴉山神社修復実行委委員会

曹洞宗 榮林寺
曹洞宗 榮林寺
昔懐かしい丸の内線?
昔懐かしい丸の内線?
新河岸川
新河岸川
新河岸川
新河岸川
新河岸川
新河岸川
新河岸川 遊歩道
新河岸川 遊歩道


濯柴公園
濯柴公園
濯柴公園
濯柴公園
濯柴公園
濯柴公園

(たく) () (こう) (えん)

濯紫公園の由来

昔、ここに柳沢吉保の家臣山東小一郎の別荘があり、濯紫園と呼ばれる大変美しい庭園がありました。

その後、唯心という僧がここで唯心庵を営んでいました。

明治2年には水村氏により水車がつくられ、この水車は通称いおりの水車と呼ばれ人々に親しまれていました。

いおりの堰の上流側は子供達の絶好の水泳や水遊び場だったそうです。

その後、新河岸川周辺の農地には住宅が建ち並び、水車も必要とはなくなり取り壊され、川も改修工事によって現在の姿になりました。

この公園は新河岸川の親水拠点として地元の人々と行政が協力し、川と公園を一体的に整備したものです。

この公園の名はかつての(たく)()(えん)にちなみ「(たく)()公園(こうえん)」としました。

平成元年㋂
広済寺
広済寺
〒350-0061 埼玉県川越市喜多町 県道12号線
〒350-0061 埼玉県川越市喜多町 県道12号線
広済寺
広済寺
広済寺 地蔵尊
広済寺 地蔵尊
あごなし地蔵尊
あごなし地蔵尊

広済寺(こうさいじ) 無腮地(あごなし)地蔵(じぞう)

歯痛治療を願った地蔵は全国にたくさんあります。腮が無いから歯痛もない歯痛治療を願う故に腮を欠いて建てたと言うのが大筋の理由です。

古くは小野篁802852年平安初期の漢詩人・歌人・参議等が遺唐使渡航失敗や拒否で隠岐な流された折思いを寄せた人の歯痛平癒 のため建てたと言われています。

治癒礼として、「あごなし地蔵様へお願いすると治ります」と言う仮名まじり金釘流の文字で書いた貼り紙を貼ったそうです。

歯痛祈願する習俗は島根・新潟・岐阜・長野・神奈川等に多くこの地蔵尊は、「全国□称地蔵一覧日本寺院名鑑地」に明記されていますが□作年代等の詳細は不明です。

咳(しわぶき)地蔵尊
咳(しわぶき)地蔵尊

広済寺(こうさいじ) (しわ)地蔵(ぶき)(さま)

江戸の初め上州厩橋の浪人が北町(喜多町)に住んでいました。

ある夜異様な気配を感じて帰宅し、不思議に思い部屋を見ると片隅に三尺程の石仏らしきものがあったそうです。

翌朝俗家に置くのは如何と思い石仏を広済寺に納めました。

数日後、風邪や喘息で長患の豪商綿屋の娘が石仏に霊感を感じ、荒縄を巻き付け百日間の願掛けをしたところ百日も経たずに全快しました。

お礼にお茶と入り豆を納めましたそうです。

この話が近隣で評判となり風邪、百日咳や咳の病の時には縄で石仏を縛りお参りするとご利益があり、病が治ると縄をほどきお茶と入り豆(明治以降は金平糖をお供えしたそうです。)

広済寺
広済寺
埼玉縣信用金庫川越西支店
埼玉縣信用金庫川越西支店
〒350-0062 埼玉県川越市元町2丁目 高澤通り
〒350-0062 埼玉県川越市元町2丁目 高澤通り
元町休憩所
元町休憩所
〒350-0062 埼玉県川越市元町1丁目10‐6
〒350-0062 埼玉県川越市元町1丁目10‐6
〒350-0052 埼玉県川越市宮下町1丁目2‐36
〒350-0052 埼玉県川越市宮下町1丁目2‐36
〒350-0062 埼玉県川越市元町1丁目 裏宿通り
〒350-0062 埼玉県川越市元町1丁目 裏宿通り
さいたま地方裁判所川越支部
さいたま地方裁判所川越支部
川越 氷川神社
川越 氷川神社
川越 氷川神社風鈴
川越 氷川神社風鈴
川越 氷川神社風鈴
川越 氷川神社風鈴
川越 氷川神社風鈴
川越 氷川神社風鈴
川越 氷川神社風鈴
川越 氷川神社風鈴
川越 氷川神社風鈴
川越 氷川神社風鈴
川越 氷川神社風鈴
川越 氷川神社風鈴
川越 氷川神社風鈴
川越 氷川神社風鈴
川越 氷川神社風鈴
川越 氷川神社風鈴
川越 氷川神社大鳥居
川越 氷川神社大鳥居

氷川神社大鳥居

明神型・杉材

平成の御代替わりを奉祝し同二年に建立された高さ15㍍の大鳥居は、木製のものとしては国内随一の規模を誇る(笠木の幅20㍍・柱周3.45㍍)中央扁額の社号文字は幕臣勝海舟の直撃によるものである。

川越 氷川神社大鳥居
川越 氷川神社大鳥居
川越市立美術館
川越市立美術館
小江戸川越 観光案内図
小江戸川越 観光案内図
川越富士見やぐら 階段
川越富士見やぐら 階段
川越富士見やぐら
川越富士見やぐら
川越富士見やぐら から 川越高校
川越富士見やぐら から 川越高校
川越富士見やぐら 跡
川越富士見やぐら 跡
喜多院 山門
喜多院 山門
喜多院 山門
喜多院 山門
仙波東照宮 階段
仙波東照宮 階段
南院(多聞院)
南院(多聞院)
〒350-0044 埼玉県川越市通町1‐5
〒350-0044 埼玉県川越市通町1‐5
川越八幡宮 参道
川越八幡宮 参道
川越八幡宮 参道
川越八幡宮 参道
川越八幡宮 参道
川越八幡宮 参道
川越八幡宮 鳥居
川越八幡宮 鳥居
川越八幡宮
川越八幡宮
縁むすびイチョウ由来(川越八幡宮御神木)
縁むすびイチョウ由来(川越八幡宮御神木)

縁むすびイチョウ由来

(川越八幡宮御神木)

平成。明仁天皇がお生まれになった御年(昭和81223日生)

川越八幡宮の崇敬者によって男イチョウと女イチョウ二本を植林したが、いつしかその二本の木は寄り添い、一本に結ばれてしまったことに由来する。

固く結ばれた二本の御神木に触れ御守りを身につけ、二度拍手を打つと夫婦円満・良縁に巡り逢うと伝えられている。

良縁祈願・御守りは社務所にお申しつけ下さい。

縁むすびの木 御神木(夫婦イチョウ)
縁むすびの木 御神木(夫婦イチョウ)
クレアパーク(ゴール)
クレアパーク(ゴール)

クレアパーク(スタート)→小江戸 蔵里→出世稲荷神社→喜多院→成田山川越別院本行院→七曲がり→旧武家屋敷→初雁公園→県立川越高校→時の鐘→濯柴公園→菓子屋横丁→お茶屋橋→大正浪漫通り→クレアパーク(ゴール)

小江戸川越ウオークⅣ
・成田山別院
・初雁公園(三芳野神社)
・濯柴公園
・菓子屋横丁

クレアパーク(スタート)
クレアパーク(スタート)
クレアパーク(スタート)

クレアパーク(スタート)
クレアパーク(スタート)

クレアパーク(スタート)
クレアパーク(スタート)

クレアパーク(スタート)




小江戸 蔵里
小江戸 蔵里
小江戸 蔵里

小江戸 蔵里
出世稲荷神社
出世稲荷神社
出世稲荷神社

出世稲荷神社

市指定・天然記念物

イ チ ョ ウ

いちょう窪の出世稲荷の公孫樹として名声がある。

向かって右は幹回り(目通り)5.67m、根回り7.6m、左は幹回り7.25m、根回り9.7mあり、二本とも樹高は約26.5m。

樹齢は650余年と推定され、みごとな美しさと枝張りを示し、樹勢もきわめて旺盛である。

公孫樹は、日本と中国の一部に産するイチョウ科を代表する落葉樹で、秋にはあざやかに黄葉する。

雌雄異株で、種はいわゆるギンナンで食用となる。

昭和3336

川越市教育委員会

出世稲荷神社

出世稲荷神社
出世稲荷神社

出世稲荷神社
どろぼうはし
どろぼうはし

どろぼうばしの由来

所在地 川越市小仙波町一丁目

 

昔、この橋は、一本の丸木橋であったといわれ、これは、その頃の話である。

ここ喜多院 と東照宮 の境内地は御神領で、江戸幕府の御朱印地でもあり、川越藩の町奉行ではとらえることができないことを知っていた一人の盗賊が、町奉行の捕り方に追われ、この橋から境内に逃げこんだ。しかし、盗賊は寺男たちに捕えられ、寺僧に諭され悪いことがふりかかる恐しさを知った。

盗賊は、厄除元三大師 に心から罪を許してもらえるよう祈り、ようやく真人間に立ち直ることができた。

そこで寺では幕府の寺院奉行にその処置を願い出たところ、無罪放免の許しが出た。

その後、町方の商家に奉公先を世話されると、全く悪事を働くことなくまじめに一生を過ごしたという。

この話は大師の無限の慈悲を物語る話として伝わっており、それ以来、この橋を「どろうぼうばし 」というようになったということである。

 

昭和583

出典:埼玉県

〒350-0036 埼玉県川越市小仙波町1丁目2‐11
〒350-0036 埼玉県川越市小仙波町1丁目2‐11
成田山川越別院本行院
成田山川越別院本行院
成田山川越別院本行院

成田山川越別院本行院
川越大師
川越大師
成田山川越別院本行院
成田山川越別院本行院
成田山川越別院本行院

成田山川越別院本行院
成田山川越別院本行院

成田山川越別院本行院
成田山川越別院本行院

成田山川越別院本行院
永島家住宅(旧武家屋敷)
永島家住宅(旧武家屋敷)
永島家住宅(旧武家屋敷)
永島家住宅(旧武家屋敷)

永島家住宅(武家屋敷)(市指定・史跡)

永島家住宅は、旧南久保町通り東よりの、川越城南大手門に近い位置にあります。

伝聞によれば、旧川越藩御典医(ごてんい)の屋敷跡であると言います。

松平大和守家七代が川越藩士をつとめた明治4年(1767)~慶応2年(1866)当時の城下絵図によると。

この場所には250名から300石の藩主が居住しました。当家屋の小屋組は叉首(さず)構造で、棟の高さは三段となっており、痕跡などから、現在の住形態になるまで大きく2回の増改築を実施したと推測されます。当初形態を復元すると、玄関及び台所の位置は不明ですが、現在の玄関から床の間付きの座敷に至る諸室と東側に張り出す内向き諸室に分かれ、公私空間を区分した武家屋敷の特質を残す遺構と考えられます。

また、松平大和守家記録による武家屋敷の建築規則(明和5年6月2日条)の範囲内であり、他藩武家住宅の事例(信州上田藩ほか)と比較してもほぼ相違なく、武家屋敷であることにまちがいありません。

また、増改築の手が加えられているものの、当初形態に復元可能な建物であり、敷地内は後年植裁

が加えられていますが、屋敷周りなど当時の状況をよく保存しています。

現在埼玉県下三城下町(川越、忍、岩槻)では、武家屋敷の遺構はほとんど残されていません。

また、関東圏でも残存事例はわずかで、学術的にも貴重な機構と言えます。

平成18年3月27日

出典:川越市教育委員会

初雁公園(三芳野神社)
初雁公園(三芳野神社)
〒350-0053 埼玉県川越市郭町2丁目10‐14
〒350-0053 埼玉県川越市郭町2丁目10‐14
〒350-0057 埼玉県川越市大手町6 県道51号線
〒350-0057 埼玉県川越市大手町6 県道51号線
市民会館入口交差点
市民会館入口交差点
鐘つき通り
鐘つき通り
鐘つき通り

鐘つき通り
鐘つき通り

鐘つき通り
〒350-0062 埼玉県川越市元町2丁目4‐2 辻の吉野屋
〒350-0062 埼玉県川越市元町2丁目4‐2 辻の吉野屋
〒350-0824 埼玉県川越市石原町1丁目18‐9
〒350-0824 埼玉県川越市石原町1丁目18‐9
星野高等学校
星野高等学校
〒350-0064 埼玉県川越市末広町1丁目11‐14 末広ハイツ
〒350-0064 埼玉県川越市末広町1丁目11‐14 末広ハイツ
〒350-0065 埼玉県川越市仲町8‐3 NTT東日本川越仲町ビル
〒350-0065 埼玉県川越市仲町8‐3 NTT東日本川越仲町ビル
〒350-0065 埼玉県川越市仲町8‐3 NTT東日本川越仲町ビル
〒350-0065 埼玉県川越市仲町8‐3 NTT東日本川越仲町ビル
〒350-0065 埼玉県川越市仲町10‐15
〒350-0065 埼玉県川越市仲町10‐15
〒350-0065 埼玉県川越市 県道39号線
〒350-0065 埼玉県川越市 県道39号線
〒350-0065 埼玉県川越市仲町1‐12 川越商工会議所
〒350-0065 埼玉県川越市仲町1‐12 川越商工会議所

クレアパーク(スタート)→蔵里→出世稲荷→大正浪漫夢通り→蔵造りの町並み→菓子屋横丁→濯柴公園→時の鐘→連雀町交差点→喜多院→中院→仙波川岸史跡公園→川越駅(ゴール)

川越・わくわくウオーキング教室
小江戸川越ウオークⅡ
・蔵造りの町並み
・菓子屋横丁
・仙波川岸史跡公園

クレアパーク(スタート)
クレアパーク(スタート)
クレアパーク(スタート)

クレアパーク(スタート)
クレアパーク(スタート)

クレアパーク(スタート)
蔵里
蔵里
蔵里

蔵里
蔵里

蔵里
蔵里

蔵里
大正浪漫夢通り
大正浪漫夢通り
大正浪漫夢通り

大正浪漫夢通り
山崎美術館
山崎美術館
まめや川越店
まめや川越店
菓子屋横丁
菓子屋横丁
菓子屋横丁

菓子屋横丁


濯柴公園
濯柴公園
時の鐘
時の鐘
〒350-0065 埼玉県川越市仲町9‐2
〒350-0065 埼玉県川越市仲町9‐2
〒350-0036 埼玉県川越市小仙波町1丁目2 楽庵
〒350-0036 埼玉県川越市小仙波町1丁目2 楽庵
成田山川越別院本行院
成田山川越別院本行院
喜多院
喜多院
喜多院

喜多院
喜多院

喜多院
喜多院

喜多院
喜多院

喜多院

国指定重要文化財

川越大師 喜多院案内図

伝説によるとその昔仙波辺の漫々たる海水を仙芳仙人の法力によりとり除き尊像を安置したというが、平安時代、天長7年(830)淳和天皇の勅により慈覚大師が創建された勅願寺で本尊阿弥陀如来を祀り無量寿寺と名づけた。

その後鎌倉時代、元久2年(1205)兵火で炎上の後、永仁4年(1296)伏見天皇が尊海僧正に再興せしめられたとき、慈恵大師(厄除元三大師)を歓請して官田五十石を寄せられ関東天台の中心となった。

正安3年(1301)後伏見天皇は星野山(現在の山号)の勅額を下した。更に室町時代、天文6年(1537)北条氏綱、上杉朝定の兵火で炎上した。

江戸時代、慶長4年(1599)天海僧正(慈眼大師)が第二十七世の法統をつぐが、同16年(161111月徳川家康が川越を訪れたとき寺領四万八千坪及び五百石を下し、酒井備後守忠利に工事を命じ、仏蔵院北院を喜多院と改め、四代家綱のとき東照宮に二百石を下すなど大いに寺勢をふるった。寛永15年(16381月の川越大火で現存の山門を除き堂宇はすべて焼失した。そこで三代将軍家光公は堀田加賀守正盛に命じてすぐに復興にかかり、江戸城紅葉山(皇居)の別殿を移築して客殿、書院などに当てた。家光誕生の間、春日局(家光公の乳母)の間があるのはそのためである。その他慈恵堂(本堂)、多宝塔、慈眼堂、鐘楼門、東照宮、日枝神社などの建物を数年間の間に再建し、それらが今日文化財として大切に保存されている。

江戸時代までは寺領四万8千坪、七百五十石の幕府の御朱印地として寺勢をふるったが、明治以降財力の欠如とその広さ、大きさのため荒廃に向った。

戦後文化財の指定とともに昭和大復興にとりかかり関係者の並々ならぬ努力によってその主な建造物の複原修理が完成し、それら偉観は、盛時を偲ばせるまでになった。しかし未だ完成しないところもかずあり今日までその整備事業は継続して行われている。

現在の境内地は東照宮を含めて一万四千坪あり、今日その緑は市民にとって貴重な憩いの場となっており池や堀をめぐらした景勝はそこに点在する文化財群とともに川越随一の名勝地霊場地として名高く厄除元三大師のお参りとともに四季を通じて史跡を訪れる人々がいつも絶えない。

1月3日の厄除初大師のご縁日には家内安全、厄除等の護摩祈願、また境内には、名物だるま市が軒をつらねて立ち並び、又2月3日の節分会、4月の長日護摩講の行事をはじめ毎日護摩供を奉じて所願成就の祈願を厳修している。

文化財の拝観ができ、最近では毎年5月の連休の一週間宝物特別展も開かれている。

 

喜多院

喜多院
喜多院

喜多院
喜多院

喜多院
喜多院

喜多院
喜多院

喜多院
喜多院

喜多院
行幸啓記念碑
行幸啓記念碑

行幸(ぎょうこう)(けい)記念(きねん)()

2007328日(平成19年)、天皇・皇后両陛下におかれましては、スウェーデン国王陛下・王妃陛下と共に喜多院をご訪問ご視察されました。

左側には、19771110日(昭和52年)に、両陛下が皇太子殿下・同妃殿下として行啓(ぎょうけい)ご訪問下さいました時の記念碑があります。

天海大僧正
天海大僧正

天海(てんかい)大僧正(だいそうじょう)

15361643

喜多院(きたいん)27世住職であり、会津高田(あいづたかだ)(現 福島県会津(あいづ)美里(みさと)町)出身、江戸時代初期、喜多院を復興(ふっこう)しました。

将軍徳川(とくがわ)家康(いえやす)(こう)信頼(しんらい)あつく、宗教(しゅうきょう)政策(せいさく)顧問(こもん)的存在として助言(じょげん)を行い、将軍も度々(たびたび)、川越城また喜多院を(おとず)れています。

108歳で遷化(せんげ)(亡くなる)後、朝廷により「(じげ)()大師(たいし)」の称号を(たまわ)りました。

白山権現
白山権現

白山(はくさん)権現(ごんげん)

830年(天長7年)()(かく)大師(だいし)円仁(えんにん)が喜多院を創建(そうけん)された時に、天台宗修験(しゅげん)(どう)の霊場である白山より、この守護(しゅご)(しん)として白山の神仏の分霊を(まつ)ったと伝えられています。

右道路向かい側の日枝(ひえ)神社(じんじゃ)は、同じく創建時に、天台宗の本山である比叡山(ひえいざん)ふもとの日吉(ひよし)大社(たいしゃ)の神様の分霊を(まつ)った神社です。

天台宗では、人物(じんぶつ)習合(しゅうごう)といい、お寺も日本の神様にお守りいただきながら、神仏ともに礼拝(らいはい)し、人々の幸せをお祈りします。

修験(しゅげん)(どう)=神様と仏様の両方の力を得る修行方法

中院庭園
中院庭園
中院庭園

中院庭園
富士見町
富士見町