有楽町線新富町駅(スタート)→築地本願寺→築地場外市場→築地銀だこ 築地本店→万年橋東→中央区立築地川銀座公園ビル→歌舞伎座→三原橋交差点→銀座四丁目交差点→並木通り口交差点→LUMINE有楽町→数寄屋橋交差点→有楽町線有楽町駅(ゴール)

師走の寒空の下、銀座界隈(築地本願寺、築地場外市場、歌舞伎座)を散策
するウオーキング

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至 築地本願寺(新大橋通り)
至 築地本願寺(新大橋通り)
至 築地本願寺(新大橋通り)
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至 築地本願寺(新大橋通り)
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築地本願寺前(新大橋通り)
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築地本願寺前(新大橋通り)
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築地本願寺
築地本願寺
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築地本願寺案内図
築地本願寺案内図
築地本願寺本堂
築地本願寺本堂
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重要文化財 築地本願寺 一棟
重要文化財 築地本願寺 一棟

重要文化財

築地(つきじ)本願寺(ほんがんじ)本堂(ほんどう) 一棟(いちとう)

附 正門・北門・南門(各一所)、石塀(五基)

所在地 中央区築地3丁目151

浄土真宗本願寺派(京都西本願寺)の直轄寺院・築地本願寺は、江戸時代初期の元和3年(1617)、浅草近くの横山町に創建されました。

江戸浅草御坊と称された当寺院は、明暦3年(1657)の大火で焼失した後、現在位置に移転・再建されました。特に本殿の大屋根は、江戸湊に入る船の目印であり、江戸庶民によく知られた名所の一つでした。

江戸時代から明治期にかけて何度か再建された木造の本堂は、大正12年(1923)の関東大地震で焼失した後、昭和9年(1934)に現在の本堂(鉄骨鉄筋コンクリート造、地上2階・地下1階)となりました。

西本願寺二十二世紀宗主・大谷光瑞の依頼を受けた、設計者の建築家・伊東(いとう)(ちゅう)()18671954)は、日本の伝統的な寺様式ではなく、仏教の発祥地である。インドの建築様式を独自の解釈で外観に取り入れ、特異な雰囲気をもつ伽藍(がらん)を創出しました。

花崗岩が用いられた建物中央の本堂は、上部に銅板で葺いた巨大な円形屋根がのせられ、左右対称にのびた翼部には鐘楼と鼓楼の塔屋を置き、正面中央と左右の人口には独特の曲線による破風を設けています。内部は伝統的な浄土真宗寺院の本殿形式でありながら、外観各部にはインド風の建築手法が見られ、入口の破風(はふ)・柱頭飾り・屋根上の尖塔、さらに細部の装飾が一体となり、全体として調和のある外観を創り出しています。

当寺院本殿は、建築家・伊東忠太が最新の技術を用いて東洋的な建築を追求した典型例であるとともに、秀逸な建築デザインを保持する震災復興期の貴重な建造物といえます。また、本堂とほぼ同時期に建築された外周の石積塀や石造柱門(正門・北門・南門)も共通のデザインを踏襲しており、本堂と一体をなす貴重な建造物となっています。

これらの建造物は、平成26年に重要文化財として指定されました。

平成273

本堂二階平面図(竣功時)築地本願寺本堂 配置図
築地本願寺本堂

国指定重要文化財

築地本願寺本堂一棟

附 正門、北門、南門、大谷石積塀

所 有 者:浄土真宗本願寺派築地本願寺

年 代:昭和9年(1934

構 造:鉄筋コンクリート造(一部鉄骨鉄筋コンクリート造)

設 計 者:松井組

推定年月日:平成261210日(建築2617号)

指定 基準:(一)意匠的に優秀なもの(二)技術的に優秀なもの

 

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築地本願寺(晴海通り)出口
築地本願寺(晴海通り)出口
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築地四丁目交差点
築地四丁目交差点
築地四丁目交差点
築地四丁目交差点
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築地場外市場
築地場外市場
築地場外市場
築地場外市場

築地場外市場

築地六丁目にある駐車場の一部を除き、築地市場の所在地は「東京都中央区築地五丁目21号」。 築地市場は、面積約23ヘクタール。この中で、7の卸売業者と約1000(うち水産約820)の仲卸業者によってせりが行われる。2005年の取扱数量は、全品目合計で約916,866トン(一日当たり水産物2,167トン、青果1,170トン)、金額にして約5657億円(一日当たり水産物1,768百万円、青果320百万円)であった。

築地市場で取り扱っていた品目は水産物(取扱量は日本最大)のほか、青果(野菜・果物、東京では大田市場に次ぐ第二位)、鳥卵(鶏肉および鶏卵)、漬物、各種加工品(豆腐・もやし・冷凍食品等)だった。

競り場や大卸・仲卸があった建物は、大きな弧を描いている。これは国鉄東京市場駅がかつて存在していた名残である。この駅は築地市場と一体的に設置されており、線路は市場の外周部に沿うように敷設され、長大な鮮魚貨物列車の入線が可能だった。貨車から降ろしてすぐに競り売りが行われたため、 競り場や大卸・仲卸がこの場所にあった。しかし高速道路網の整備が進むと鮮魚の運送は貨物列車からトラックに移行し、取扱量は年々減少していき、19871月末をもって鉄道輸送は終了した。線路は市場内外でも撤去されているが、市場の青果門付近から朝日新聞東京本社の脇を通って旧汐留駅跡へと伸びる細い道路が線路跡であり、踏切の警報機も残されている。

銀座の繁華街が近い。他の地方の卸売市場では繁華街から1km以内という立地条件はあまりない。

なお、ニュース番組等で、しばしば築地市場の場所を指して「つきじしじょう」と呼ぶことがあるが、場所を指す場合は「しじょう」ではなく「いちば」である[要出典]

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(

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築地やまはち(築地場外市場)
築地やまはち(築地場外市場)
築地佃權(築地場外市場)
築地佃權(築地場外市場)
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築地もんぜき通り(築地場外市場)
築地もんぜき通り(築地場外市場)
築地銀だこ 築地本店(〒104-0045 東京都中央区築地4丁目7−5)
築築地銀だこ 築地本店(〒104-0045 東京都中央区築地4丁目7−5)
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寿月堂(〒104-0045 東京都中央区築地4丁目7番5号築地共栄会ビル 1F)
寿月堂(〒104-0045 東京都中央区築地4丁目7番5号築地共栄会ビル 1F)
京橋郵便局(〒104-8799 東京都中央区築地4丁目2−2)
京橋郵便局(〒104-8799 東京都中央区築地4丁目2−2)
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万年橋東(東京都中央区築地1丁目)
万年橋東(東京都中央区築地1丁目)
万年橋東(東京都中央区築地1丁目)
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東劇(〒104-8422 東京都中央区築地4丁目1−1)
東劇(〒104-8422 東京都中央区築地4丁目1−1)

東劇(東京劇場)

東京劇場は、東京都中央区築地4-1-1に立地する、東銀座東劇ビル内の松竹マルチプレックスシアターズが所有している映画館である。通称は東劇、現在の定員は435人である。 本項では、現在の東劇ビル以前の建物に存在した映画館、東京中央劇場および銀座ニュース劇場、東劇バーレスクルーム等についても扱う。

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中央区立築地川銀座公園(〒104-0045 東京都中央区築地4丁目1)
中央区立築地川銀座公園(〒104-0045 東京都中央区築地4丁目1)
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いわて銀河プラザ(〒104-0061 東京都中央区銀座5丁目15−1南海東京ビル)
いわて銀河プラザ(〒104-0061 東京都中央区銀座5丁目15−1南海東京ビル)
歌舞伎座(〒104-0061 東京都中央区銀座4丁目12−15)
歌舞伎座(〒104-0061 東京都中央区銀座4丁目12−15)

歌舞伎座

歌舞伎座は、東京都中央区銀座4-12-15にある歌舞伎専用の劇場である。火災や戦災に遭うなど様々な変遷はあったが、今日に至るまで名実ともに代表的な歌舞伎劇場として知られる。 歌舞伎座は1889年に開場した。従来の劇場は地名や座元の名を冠するのが例であり、「歌舞伎座」という名称は異例であった。

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歌舞伎座(〒104-0061 東京都中央区銀座4丁目12−15)
歌舞伎座(〒104-0061 東京都中央区銀座4丁目12−15)
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三原橋交差点
三原橋交差点
三原橋交差点
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三原橋交差点
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中央区エリアマップ
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銀座四丁目交差点
銀座四丁目交差点
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並木通り口
並木通り口
LUMINE有楽町(〒100-0006 東京都千代田区有楽町2丁目5−1)
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数寄屋橋交差点
数寄屋橋交差点

日比谷公園(スタート)→JR新橋駅→旧新橋停車場跡→汐留シオサイド→芝商業高校前→海岸通り→区立埠頭公園→港南緑水公園→天王洲アイル→京浜運河緑道公園→中央京浜公園前→大井ふ頭中央海浜公園→新平和橋→首都高速1号上歩道橋→平和島公園→環七三原通り交差点→大森警察署前→京浜蒲田駅→六郷土手→稲毛公園(ゴール)

第26回汽笛一声ウオーク きぃてきいっせ

第26回汽笛一声ウオーク
きぃてきいっせい♬新橋を~♪
2018年12月23日(日祝)

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第26回 汽笛一声ウォーク(よこはまウォーキング協会)
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霞門
霞門
霞門
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霞門
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日比谷公園
日比谷公園

日比谷公園 触知案内板

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日比谷公園 雲形池と鶴の噴水
日比谷公園 雲形池と鶴の噴水
日比谷公園 雲形池と鶴の噴水
日比谷公園 雲形池と鶴の噴水
日比谷公園 雲形池と鶴の噴水
日比谷公園 雲形池と鶴の噴水

日比谷公園 雲形池と鶴の噴水

この噴水は、明治38年頃東京美術学校(現在の東京芸大)の津田信夫、岡崎雪声氏に依頼製作したもので、公園等で装飾用噴水としては、日本で3番目に古いものとのことです。(一番目は長崎諏訪神社、2番目は大阪箕面(みのお)公園)

当初は、鶴と台座とも銅製でしたが戦時中の金属回収で台座が石造りとなったものの、水面に薄氷が張り鶴の像につららが下がる景色は、当公園の冬の風物詩となっています。

日比谷公会堂
日比谷公会堂

日比谷公会堂

日比谷公会堂は、東京都千代田区の日比谷公園の中にある公会堂で、多目的ホールとしても使用される。現在は長期休館中。

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日比谷公会堂
日比谷公会堂
日比谷公園(スタート)
日比谷公園(スタート)
日比谷公園(スタート)
日比谷公園(スタート)
日比谷公園(スタート)
日比谷公園(スタート)
日比谷公園(スタート)
日比谷公園(スタート)
日比谷公園(スタート)
日比谷公園(スタート)
日比谷公園(スタート)
日比谷公園(スタート)
日比谷公園(スタート)
日比谷公園(スタート)
日比谷公園(スタート)
日比谷公園(スタート)
日比谷公園
日比谷公園
内幸町交差点
内幸町交差点
千代田区内幸町 都道409号線
千代田区内幸町 都道409号線
幸橋門跡周辺
幸橋門跡周辺
港区東新橋1丁目1
港区東新橋1丁目1
旧新橋停車場跡
旧新橋停車場跡
旧新橋停車場跡
旧新橋停車場跡

旧新橋停車場跡

跡地は、1965年(昭和40年)512日に「旧新橋横浜間鉄道創設起点跡」として国の史跡に指定され、1996年(平成8年)1210日に指定地域の一部解除・追加をし、「旧新橋停車場跡」へ名称変更した。発掘調査の後、風化を防ぐために埋め戻され、2003年(平成15年)にその上に開業当時の駅舎を再現した「旧新橋停車場」が建てられた、同年410日開館。調査では鋳物工場跡やトイレ遺構などを検出している。

旧新橋停車場の転車台基礎

内部は鉄道の歴史に関する「鉄道歴史展示室」(運営は東日本鉄道文化財団)になっており、以前は三國清三監修によるフランス料理店の「GRAND CAFE SHIMBASHI MIKUNI」(運営はジェイアール東日本フードビジネス)もあったが閉店した。その後、中華料理店「Imperial Treasure」を経て2018年現在は銀座ライオンが出店。

旧新橋停車場の裏手には、鉄道の起点であった「0哩(マイル)標」が当時と全く同じ位置に再現されており、当時のレールが数メートルだけ敷設されている。

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旧新橋停車場跡
旧新橋停車場跡
パナソニック 汐留ミュージアム
パナソニック 汐留ミュージアム

パナソニック汐留美術館

パナソニック汐留美術館とは、東京都港区にある私立美術館である。パナソニック株式会社ライフソリューションズ社が運営している。

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パナソニック 汐留ミュージアム
パナソニック 汐留ミュージアム
パナソニック 汐留ミュージアム周辺
パナソニック 汐留ミュージアム周辺
ルミヴェール東京周辺
ルミヴェール東京周辺
カレッタ汐留電通本社ビル
カレッタ汐留電通本社ビル
ルミヴェール東京
ルミヴェール東京
港区東新橋1丁目-8
港区東新橋1丁目-8
東京ツインパークスレフトウイング
東京ツインパークスレフトウイング
東京ツインパークスレフトウイング
東京ツインパークスレフトウイング
港区海岸1丁目1 都 道 481 号線
港区海岸1丁目1 都 道 481 号線
港区海岸1丁目1 都 道 481 号線
港区海岸1丁目1 都 道 481 号線
港区海岸 海岸通り
港区海岸 海岸通り
南浜橋交差点
南浜橋交差点
汐彩橋交差点
汐彩橋交差点
五色橋北詰交差点
五色橋北詰交差点
五色橋北詰交差点
五色橋北詰交差点
港南四丁目交差点
港南四丁目交差点
港南四丁目交差点
港南四丁目交差点
港南緑水公園
港南緑水公園

港南緑水公園

港南緑水公園は、東京都港区港南四丁目にある港区立公園。面積20,206 m²。公園敷地東側は京浜運河、南側はワールドシティタワーズ公開空地と接続しており、西側は東京都道316号日本橋芝浦大森線と接する。

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港南緑水公園
港南緑水公園
港区港南4丁目 海岸通り
港区港南4丁目 海岸通り
東京都 海岸通り
東京都 海岸通り
京浜運河緑道公園
京浜運河緑道公園

京浜運河緑道公園

京浜運河緑道公園
京浜運河緑道公園
京浜運河緑道公園
京浜運河緑道公園
品川区八潮1丁目3 都道316号線
品川区八潮1丁目3 都道316号線
大井ふ頭中央海浜公園
大井ふ頭中央海浜公園

大井ふ頭中央海浜公園

大井ふ頭(埠頭)中央海浜公園スポーツの森は、第三種公認陸上競技場、野球場6面、テニスコート等を有する都内有数規模のスポーツ公園です。都心からのアクセスもよく、花見ができるさくら広場や犬を遊ばせることができるしおさいドッグランなどみなさまに楽しんでいただけます。

駐車場は290台分(有料)があり、車での来園も可能です。

出典:アメニス海上南部地区グループ

大井ふ頭中央海浜公園
大井ふ頭中央海浜公園
大井ふ頭中央海浜公園
大井ふ頭中央海浜公園
大井ふ頭中央海浜公園
大井ふ頭中央海浜公園
大井ふ頭中央海浜公園
大井ふ頭中央海浜公園

東京都海上公園案内図

大井ふ頭中央海浜公園
大井ふ頭中央海浜公園
東京都立京浜運河緑道公園
東京都立京浜運河緑道公園
大井ふ頭中央海浜公園
大井ふ頭中央海浜公園
大井ふ頭中央海浜公園
大井ふ頭中央海浜公園

東京都立大井ふ頭中央海浜公園

品川区八潮四丁目

大田区東海一丁目

大井ふ頭中央海浜公園
大井ふ頭中央海浜公園
大井ふ頭中央海浜公園
大井ふ頭中央海浜公園
大井ふ頭中央海浜公園スポーツの森野球場
大井ふ頭中央海浜公園スポーツの森野球場
大井ふ頭中央海浜公園バーベキュー場
大井ふ頭中央海浜公園バーベキュー場
大井ふ頭中央海浜公園バーベキュー場
大井ふ頭中央海浜公園バーベキュー場
臨海斎場前交差点
臨海斎場前交差点
臨海斎場前交差点周辺
臨海斎場前交差点周辺
臨海斎場前交差点周辺
臨海斎場前交差点周辺
臨海斎場前交差点周辺
臨海斎場前交差点周辺
大田区平和島 海岸通り
大田区平和島 海岸通り
大田区平和島 海岸通り
大田区平和島 海岸通り
平和の森公園
平和の森公園

平和の森公園

平和の森公園は、東京都大田区にある大田区立の公園である。また、同公園が所在する地名にもなっている。同名の公園を全国の複数の自治体に確認できるが、特につながりはない。 かつてあった平和島運河を埋め立て造られた公園で、大田区立の公園として最大の面積を誇る。

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平和の森公園
平和の森公園
平和の森公園
平和の森公園
大田区平和島5丁目 都道318号線
大田区平和島5丁目 都道318号線
環七美原通り交差点
環七美原通り交差点
環七美原通り交差点
環七美原通り交差点
大田区大森東1丁目6
大田区大森東1丁目6
大森警察署前周辺
大森警察署前周辺
大森警察署前周辺
大森警察署前周辺
大田区総合体育館交差点
大田区総合体育館交差点
大田区総合体育館前
大田区総合体育館前
大田区総合体育館前
大田区総合体育館前
大田区産業プラザPiO前
大田区産業プラザPiO前
大田区南蒲田1丁目21
大田区南蒲田1丁目21
スカイコートパレス蒲田Ⅱ周辺
スカイコートパレス蒲田Ⅱ周辺
蒲田警察署 雑色交番周辺
蒲田警察署 雑色交番周辺
六郷土手
六郷土手
多摩川六郷橋
多摩川六郷橋

(ろく) (ごう) (はし)

六郷橋は、東京都大田区東六郷と神奈川県川崎市川崎区本町との境の多摩川に架かる、国道15号(第一京浜国道)の橋である。旧橋と対照して新六郷橋とも呼ばれる。長さ443.7m、幅34.4m

大師橋と多摩川大橋の間に位置し、河口から数えて2番目にある。南東に流れる多摩川が蛇行し、六郷橋の河口側から流路が東北東になるため、六郷橋は多摩川に架かる橋の中で最南に位置する。多摩川を渡る主要道路の一つであり、川崎側では国道409号(大師道)と交差する。上流側に、京急本線六郷川橋梁と東海道本線六郷川橋梁が平行して架かっている。

六郷橋は東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)の通過点としても知られるが、東京都と神奈川県の境界に位置しており、六郷橋を境として東京都側の交通規制・先導等は警視庁、神奈川県側の交通規制・先導等は神奈川県警察が担当している。

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多摩川六郷橋
多摩川六郷橋
六郷橋
六郷橋
第一京浜稲毛公園陸橋
第一京浜稲毛公園陸橋

稲毛公園(川崎市川崎区)

首都圏で「稲毛」というと千葉市の稲毛海浜公園が有名ですが、こちらは川崎駅から徒歩5分、川崎市役所からも1ブロックだけ離れた第一京浜沿いの稲毛公園です。

すぐ横には武甕槌神を祭る稲毛神社がありますので(下写真の右奥)、公園名はそこから取られたものと思われます。

出典:日本1000公園

第一京浜稲毛公園陸橋
第一京浜稲毛公園陸橋

上野公園上野動物園前交番横(スタート)→①下谷神社→②小野照崎神社→③鷲神社→吉原大門・見返り柳→④今戸神社→隅田公園→⑤第六天榊神社→浜町公園(昼食) →甘酒横丁→⑥小網神社→⑦水天宮→豊海橋→中央大橋→⑧住吉神社→佃公園(ゴール)

第13回東京下町八社福参り
東京ウオーキング協会

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上野公園上野動物園前交番横(スタート)
上野公園上野動物園前交番横(スタート)
上野公園上野動物園前交番横(スタート)
上野公園上野動物園前交番横(スタート)
ソノサトキザクラ(園里黄桜)

ソノサトキザクラ(園里黄桜)

長野県須坂市豊丘で、平成13年(2001)に、()(げん)(ぞう)の古木の先端に黄緑色の八重の花を咲かせる枝が見つかりました。

発見された場所の旧地名の園里村にちなみ「園里(そのさと)黄桜(きざくら)」と命名され、平成18年(2006年)には新品種として認定されました。

黄花八重咲きの品種

ギョイコウ(御衣黄)、ウコン(鬱金)、スマウラフゲンゾウ(須磨浦普賢象)、ソノサトキザクラ(園里黄桜)など

出典:東京都東部公園緑地事務所・上野桜守の会

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上野公園上野動物園前交番横(スタート)
上野公園上野動物園前交番横(スタート)
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上野公園  園里黄桜
上野公園  園里黄桜
上野公園  園里黄桜

上野公園  園里黄桜
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上野公園上野動物園前交番横(スタート)
上野公園上野動物園前交番横(スタート)
上野公園上野動物園前交番横(スタート)
上野公園上野動物園前交番横(スタート)
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上野駅公園口
上野駅公園口
〒110-0015 東京都台東区東上野3丁目25‐12 池田工芸本社ビル
〒110-0015 東京都台東区東上野3丁目25‐12 池田工芸本社ビル
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下谷神社
下谷神社

下 谷 神 社

概要

古くは下谷稲荷社、下谷稲荷明神社と呼ばれた都内最古の稲荷神社。東京メトロ銀座線の稲荷町駅に名を残す旧町名の稲荷町は、この神社の旧称が由来の町名である。例大祭で近隣町内を渡御する本社神輿は台輪幅4尺1寸の千貫神輿といわれ、大きな威容を誇る。

社殿の天井画は横山大観の作。また、1798年に初代・三笑亭可楽によって当社境内で初めて寄席が開かれた。このため、本神社には「寄席発祥の地」の石碑がある。

夏になるとドライミストで神社に集まる人々が涼しんでいる。

「水」と「芸能」のパワースポットと云われる。

宮司の阿部明徳は、東日本大震災で被災した神社等の仮社殿、鳥居、神輿、縁日などの復旧支援活動を、他の神社関係者と共に行っている。

 

歴史
当初は上野公園に鎮座していた。730年(天平2年)、峡田の稲置らが建立したとも、行基が伏見稲荷大社を勧請したとも伝えられる。939年(天慶2年)、平将門による天慶の乱追討祈願のため、藤原秀郷が社殿を新造したという。寛永年間、境内が寛永寺山内となるにあたり、1627年(寛永4年)別当正法院と共に下谷屏風坂下に移転したが、126坪余と手狭だったため、1680年(延宝8年)下谷広徳寺前にあった谷中天眼寺先住少林庵抱地525坪余と土地を交換した。1703年(元禄16年)旧地も正法院抱地になった。

1868年(明治元年)神仏分離令により正法院を分離した。翌年周囲の町名が当社に因み下谷稲荷町となる。1872年(明治5年)下谷神社と改称、翌年下谷地域の郷社と定められた。関東大震災で社殿を焼失、1928年(昭和3年)現在地に移転。1934年(昭和9年)現在の社殿が完成した。東京大空襲では被害を受けなかった。

 

氏子地域
台東区東上野
台東区上野五・六丁目全域、七丁目2~12
台東区台東一丁目7~12・27~31、二丁目7~10・18~32、三・四丁目全域
千代田区神田須田町二丁目
台東区元浅草二丁目7・10・11

ソース: 下 谷 神 社 – https://ja.wikipedia.org

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下谷神社

下谷神社
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下谷神社

下谷神社
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稲荷町交差点
稲荷町交差点
〒110-0015 東京都台東区東上野6丁目16‐9 織田屋ビル
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〒110-0013 東京都台東区 言問通り
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〒110-0013 東京都台東区 言問通り
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〒110-0013 東京都台東区 昭和通り
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小野照崎神社
小野照崎神社

小野照崎神社

由緒

小野篁を主祭神とし、相殿に菅原道真を祀る。852年(仁寿2年)この地の住民が上野照崎の地に小野篁を奉斎したのが起源と伝わる。寛永年間(1624年-1643年)、寛永寺の建立のため幕府より移転を命じられ、現社地に遷座した。江戸末期、回向院より菅原道真自刻と伝わる像を迎えて相殿に祀り、「江戸二十五天神」の一つに数えられた。樋口一葉の「たけくらべ」に「小野照さま」の名で出ている。

 

境内末社
富士浅間神社(下谷坂本富士)
御嶽神社
三峰神社
琴平神社
庚申塚 – 日本三大庚申の一つ。
稲荷神社
織姫神社文化財
下谷坂本富士 – 小野照崎神社の敷地内にある富士塚。1828年(文政11年)建造。1979年(昭和54年)には「下谷坂本の富士塚」(したやさかもとのふじづか)として、重要有形民俗文化財に指定されている。毎年富士山の開山に合わせて6月30日と7月1日に一般の登拝ができる。

ソース: 小野照崎神社 – https://ja.wikipedia.org

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小野照崎神社
小野照崎神社
小野照崎神社
小野照崎神社
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〒110-0004 東京都台東区下谷3丁目1‐33 プレシス入谷
〒110-0004 東京都台東区下谷3丁目1‐33 プレシス入谷
鷲神社
鷲神社

鷲神社 (台東区)

鷲神社(わしじんじゃ)(おおとりじんじゃ、わしじんじゃ)は、神社の名称。

いわゆる大鳥大社を総本社とする大鳥信仰の神社である。「おおとりじんじゃ」と読む場合は同じ読みの大鳥神社や大鷲神社などと関係すると考えられ、「わしじんじゃ」と読む場合は鷲宮神社、日鷲神社、天日鷲神社と関係が深いと考えられる。

祭神は大鳥大社と同じ日本武尊のほか、天日鷲神、天鳥船神、鷲宮神社と同じ天穂日命と武夷鳥命、また大己貴命などが見られる。

宗教法人としては全国に鷲神社が76社、鷲神社を名称に含む神社が3社、鷲大神社と鷲大神がそれぞれ1社ずつ存在する。

 

一覧
大鳥神社 (曖昧さ回避)、大鷲神社 (曖昧さ回避)、鷲宮神社 (曖昧さ回避)、日鷲神社 (曖昧さ回避)も参照

ソース: 鷲神社 – https://ja.wikipedia.org

 

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鷲神社

鷲神社
鷲神社

鷲神社
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鷲神社

鷲神社
花園公園
花園公園
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〒124-0001 東京都葛飾区小菅1丁目32 クレスト小菅
〒124-0001 東京都葛飾区小菅1丁目32 クレスト小菅
今戸神社
今戸神社

今戸神社

今戸神社は、康平6年(1063年)源頼義・義家親子が奥州討伐の折、京都の石清水八幡宮を当地に勧進し、祈願したのが始まりであるといわれている。また永保元年(1081年)にも清原武衡・家衡討伐の際に当地を通り、戦勝祈願をしたといわれている。大正12年(1923年)9月1日の関東大震災や太平洋戦争の際、米軍の爆撃機B-29が昭和20年(1945年)3月10日に焼夷弾を投下したり(東京大空襲)など数々の戦乱や火災に見舞われたが、その都度再建され、現在の社殿は1971年(昭和46年)に再建されたものである。1937年(昭和12年)には隣接していた白山神社を合祀し、今戸八幡と呼ばれていた当神社が現在の今戸神社と呼ばれるようになった。また現在では浅草七福神のひとつ福禄寿も祀っている。

 

招き猫発祥の地
戦前またはそれ以前に遡っての古文献には、招き猫の発祥と当社に関する文献上の記録や言い伝えは確認されておらず、招き猫と当社との結びつきを示すものはない。近年になって招き猫発祥の地のひとつとして縁結びと結びつけ自ら名乗りをあげている。

江戸時代の地誌『武江年表』または日記『藤岡屋日記』の嘉永5年(1852年)の記述によれば、浅草花川戸に住んでいた老婆が貧しさゆえに愛猫を手放したが、夢枕にその猫が現れ、「自分の姿を人形にしたら福徳を授かる」と言ったので、その猫の姿の人形を今戸焼の焼き物にして浅草寺境内三社権現(現浅草神社(三社様)鳥居横で売ったところ、たちまち評判になったという(今戸焼または丸〆猫参照)。

これが今戸神社が自ら招き猫の発祥と名乗る論拠であるが、同史料は浅草寺や浅草神社に由来するものとしての記録であり、今戸神社(旧今戸八幡)との結びつきを示すものではない。平成の招き猫ブームのと縁結びパワースポットのブームに乗り、今戸神社は自ら招き猫発祥の地として看板を掲げるようになり、多くの招き猫が奉られるようになったが、本殿や境内に安置されている招き猫の形状は江戸明治期の今戸焼の招き猫とは何ら関係のないものであり、考証的には伝統的なものとは全く関わりのない、平成の産物として見る必要がある。なお、本殿に祀られている大型の招き猫や社務所から授与されている土焼き製、磁器製の招き猫ともども形状は、戦後の常滑産招き猫の造形から影響を受けたものと考えられる。

 

沖田総司の終焉の地
当神社は幕末の著名人である新選組の沖田総司の終焉の地である、と主張しており、神社は境内にその旨を記した碑を建立している。これは、当時結核を患っていた沖田を診ていた松本良順が、当時今戸神社を仮の住まいとしていた、とすることからきている。また、新撰組隊士の永倉新八が沖田は松本宅で死亡、と書き残している。ただし当時永倉は江戸に居らず、推測または伝聞で記したものである。

現在の有力な史料においては、沖田は今戸八幡神社に間借りしていた松本の手引きにより、千駄ヶ谷の植木屋の柴田平五郎宅の納屋に匿われており、同地で死亡した、とするのが定説である。

 

縁結びの神
戦前合祀された白山神社の祭神に伊弉諾尊・伊弉冉尊の夫婦の神を祀っていることから、近年になって縁結びにゆかりがあるとアピールされている。また、絵馬は他の神社では見られない「真円形」のデザインの絵馬である。これは縁と円の語呂を掛け合わせたモダンなデザインのものとなっている。

ソース: 今戸神社 – https://ja.wikipedia.org

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今戸神社

今戸神社
今戸神社

今戸神社
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今戸神社

今戸神社
今戸神社

今戸神社
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今戸神社

今戸神社
隅田公園
隅田公園

隅 田 公 園

概要

この公園は、1923年に発生した関東大震災により、壊滅的な被害を受けた東京の復興事業の一環として、後藤新平の主導により浜町公園(中央区)、錦糸公園(墨田区)と並んで計画・整備された。

隅田公園内には約700本の桜があり、日本さくら名所100選に選定されていて、毎年さくらまつりが開催される。 約1キロに渡る隅田川両岸の桜並木は、八代将軍徳川吉宗のはからいにより植えられた。江戸時代より花見シーズンには多くの出店が列び賑わう。

台東区では、2003年度から、区民や市民団体、企業などの協力を得て「隅田公園花の名所づくり事業」を進めている。公園にヒガンバナの植栽に続いて、平成18年度からは区の内外から「アジサイ株主」を募り、アジサイロードの整備を行った。2年間で3回の株主募集により千人以上から寄付を受けた。また山谷堀広場(地図)には仮設劇場が設置され、平成中村座の公演が行われている。

ソース: 隅田公園 – https://ja.wikipedia.org

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隅田公園

隅田公園
隅田公園

隅田公園
平成中村座
平成中村座

平成中村座

発祥の地の碑

「江戸時代の芝居小屋を現代に復活させ、多くの方々に歌舞伎を楽しんでもらいたい」十八世中村勘三郎丈(当時 勘九郎)の抱いてきた夢が「平成中村座」として二千年十一月、ここ山谷堀に実現しました。

第一回公演は「隅田川続俤 法界坊」でした。

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隅田公園案内図
隅田公園案内図
隅 田 公 園 案 内 図
隅 田 公 園 案 内 図
隅田公園周辺案内
隅田公園周辺案内
隅 田 公 園 周 辺 案 内
隅 田 公 園 周 辺 案 内
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隅田公園
隅田公園
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〒111-0033 東京都台東区 江戸通り
〒111-0033 東京都台東区 江戸通り
〒111-0033 東京都台東区 江戸通り

〒111-0033 東京都台東区 江戸通り
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〒111-0034 東京都台東区 江戸通り
〒111-0034 東京都台東区 江戸通り
第六天榊神社
第六天榊神社

第六天榊神社

概要

景行天皇の時代、日本武尊が東夷征伐の折に創祀したという。古くから「第六天神宮」と呼ばれてきたが、明治6年(1873年)に社号を「榊神社」へ改称した。昭和3年(1928年)、東京高等工業学校(前進は東京職工学校、現:東京工業大学)の跡地に遷座(移転)し現在に至る(詳細は後述)。

当社は「下町八福神の神社めぐりコース(巡礼札所)」のうちの一社に入っている。

 

祭神
主祭神:榊皇大神(第六天榊大神/天神第六代坐榊皇大御神)
面足尊
惶根尊境内
境内の南側(拝殿正面)および西側に鳥居(計2つ)があり、南側の鳥居横には社号標も設置されている。また南側の鳥居から入って、拝殿の手前右側は手水舎となっている。さらに境内には以下の境内社が鎮座している他、神楽殿や宝物庫、井戸(現在は飲用不可)などが存在する。

境内社
七福稲荷神社
事比羅神社・豊受神社[要曖昧さ回避]
繁盛稲荷社

ソース: 第六天榊神社 – https://ja.wikipedia.org

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第六天榊神社
第六天榊神社
両国橋西交差点
両国橋西交差点
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両国橋西交差点

両国橋西交差点
東京都 首都高速7号小松川線
東京都 首都高速7号小松川線
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東京都 首都高速6号向島線
東京都 首都高速6号向島線
東京都 首都高速7号小松川線
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浜町公園(昼食)
浜町公園(昼食)

浜 町 公 園

建設当時の浜町公園。大川端と金座通りに入り口、中央にホールをもつ近代的な公園として造られた。

後藤新平の主導により、1923年に発生した関東大震災によって壊滅的な被害を受けた東京の復興事業の一環として、隅田公園(台東区、墨田区)・錦糸公園(墨田区)と並んで計画された。当地は、江戸時代は熊本藩主・細川氏の下屋敷があり、明治期以降も細川家の邸宅があったが、公園として整備され1929年に開園した。

公園内には、広場のほか、1861年に熊本藩主・細川斉護によって建てられた、加藤清正を祀る清正公寺がある。清正公寺は、当地がまだ細川家が所有していた頃から一般にも公開されていた。

現在では、園内にデイキャンプ場や運動広場の他、中央区立総合スポーツセンターがある。近隣地域の貴重な緑地スペースとして、現在に至るまで周辺住民のみならず浜町付近を利用する人に多く利用されている。

 

映画「容疑者Xの献身」の舞台でもある。

ソース: 浜町公園 – https://ja.wikipedia.org

浜町公園(昼食)

浜町公園(昼食)
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浜町公園(昼食)
浜町公園(昼食)

中央区平和都市宣言

いまいちどたちどまり

平和の尊さをみつめよう

ささやかな幸せも

こよなき繁栄も

平和の光が消えたなら

すべてが失われる

私たちの手にあるこの輝きを

明日の世代に伝えよう

1988315

この日、私たちは

永遠の平和を願い

中央区が平和都市で

あることを宣言する

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浜町公園(昼食)

浜町公園(昼食)
花の都中央区宣言
花の都中央区宣言

花の都中央区宣言

緑をはぐくみ 花をいつくしみ

生きとし生ける生命を尊ぶ

美しいまち 清潔なまち

思いやりと 人情あふれるまち

出典:中央区

そんなほっとするまちにしたい

だから今

「花の都市中央区宣言」

それは ひとつぶの種

小さなこのひとつぶが

やがてまちいっぱいに

大輪の花を咲かせる

そんな願いをこめて

平成元年41

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浜町公園(昼食)
浜町公園(昼食)
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浜町公園(昼食)
浜町公園(昼食)
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〒103-0007 東京都中央区 浜町駅
〒103-0007 東京都中央区 浜町駅
〒103-0007 東京都中央区 浜町駅

〒103-0007 東京都中央区 浜町駅
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明治座
明治座
〒103-0013 東京都中央区日本橋人形町2丁目31‐11 日清紡(株)本社ビル
〒103-0013 東京都中央区日本橋人形町2丁目31‐11 日清紡(株)本社ビル
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明治座
明治座

明 治 座

明治座(めいじざ)(英語:Meijiza)は、東京都中央区日本橋浜町二丁目にある劇場、およびこれを運営する企業の株式会社明治座(かぶしきかいしゃめいじざ、英語:Meijiza Co., Ltd.)である。

 

概要
明治時代からの長い歴史を持つ「日本橋明治座」は、「銀座歌舞伎座」「新橋演舞場」「お堀端帝劇」などとともに、東京を代表する劇場として親しまれてきた。

本劇場の前身は江戸時代末期に両国にあった富田三兄弟による菰張芝居 (こもを巡らしただけの芝居小屋) で、1873年(明治6年)の両国橋畔の興行禁止令により、久松町 に移転し喜昇座(きしょうざ)として創建された。初期には焼失と再建を繰り返しながら成長し、その度に名称も久松座(ひさまつざ)、千歳座(ちとせざ)とめまぐるしく変わっていった。1893年(明治26年)に初代市川左團次が千歳座を買収して座元となり、これを明治座と改称するに及んでやっとその名が落ち着き、今日に至っている。1931年(昭和6年)、明治座は歌舞伎座、新富座、松竹と合併し、松竹興行株式会社になった。

明治座は戦前から戦後昭和の一時期までは、歌舞伎や新派の殿堂として知られた。また、大正時代の一時期は野球部を保有していた。その後は時代劇公演や、時代劇俳優や演歌歌手など年配に好まれる芸能人が座長となった歌謡ショー形態の公演(座長公演)が中心となった。

2000年代に入るとテレビ局との提携による現代劇や観劇者の世代を引き下げたミュージカル形態の公演もおこなわれるようになった。舞台設備には、宙乗り装置も常備されている。各階のロビーには所蔵絵画が多数展示されており、美術館のような雰囲気を醸し出している。

1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲で焼失した明治座は、その残骸をむき出しのまま放置されていた。地元有志の間で明治座復興の気運が盛り上がり、1947年(昭和22年)3月に復興期成会が組織された。明治座設立発起人準備委員会を開いたのは、復興期成会結成から3年近くも経った1949年(昭和24年)11月だった。発起人総代に三輪善兵衛(ミツワ石鹸社長)、副総代に新田新作(國粹会生井一家人形町貸元、新田建設社長)、準備委員に松坂屋の伊藤鈴三郎、松竹の大谷竹次郎などが名を連ね、料亭「玄冶店 濱田家」を営む三田政吉も参加した。建設は新田建設が請け負い、1950年(昭和25年)11月30日に開場に漕ぎ着けた。総工費一億三千万円。初日の演目は、壽式三番叟であった。

1957年(昭和32年)に三田政吉が明治座代表取締役専務となり、同年に漏電のため焼失した明治座の再建に尽力する。1993年に三田政吉は明治座代表取締役会長となる。2002年から、政吉の長男である三田芳裕が社長を務めている。

また、福岡市博多区の博多座で年1回の割合で舞台を制作しているほか、明治座グループとして俳優養成機関・明治座アカデミーの運営や、都内を中心に外食産業も手掛けている。

1993年には、再開発で建て替えた賃貸オフィスビルの浜町センタービル低層階を占める形となっている。エスカレーターやエレベータを備え、客席には車椅子スペースの設置など、バリアフリーを導入している。

公演方式は他の劇場とは異なり、30分程度の幕間(休憩時間)を2回挟む。劇場内に大人数に対応した食堂や喫茶コーナーがあり、休憩時間を利用して客を誘導するシステムとなっている(食堂は一部事前予約制)。飲食店のほかにもロビーには売店が多数あり、公演にちなんだ土産品や衣料品雑貨などを販売している。

建物3階(劇場1階席)受付にてオペラグラスの貸出(有料)を行っており、貸出料は一律500円。保証料は一般的なオペラグラスは2000円、高機能なカブキグラスでは5000円。

弁当製造部門は明治座本体が運営しており、江東区東砂に工場があり劇場で供されるほか、都内へケータリングも行っている。西京漬は単体で主力商品としている。

 

沿革
1873年(明治6年)に開場して以来、130年以上の歴史と伝統を誇る。戦前は松竹が経営していたが、戦後は新田建設の新田新作が中心となり、株式会社明治座を設立して運営。以降、基本的に自主興行を続けている。

1850年頃 – 西両国広小路において三人兄弟の芝居「喜昇座」として始まった。当時は寺社の境内の小屋掛けで興行する宮地芝居だった。

1872年(明治5年) – 官許の劇場が江戸三座から東京十座に改定される

1873年(明治6年) – 日本橋久松町河岸に喜昇座が開場し、東京十座のひとつとなる。

1879年(明治12年) – 堀田正倫の資金援助により大改築を行い、久松座と改称。

1880年(明治13年) – 火災で焼失。

1885年(明治18年) – 千歳座と改称して新築開業。

1890年(明治23年) – 火災で焼失。再建。

1893年(明治26年) – 初代市川左團次が千歳座を買収して座元となり、明治座と改称。

1911年(大正元年) – 座主が、新派俳優の伊井容峰となる。

1917年(大正6年) – 松竹合名会社に経営権が移る。

1923年(大正12年) – 関東大震災で焼失。

1928年(昭和3年) – 浜町に移転し、再建。

1945年(昭和20年) – 東京大空襲で焼失。

1950年(昭和25年) – 株式会社明治座設立。再建。

1957年(昭和32年) – 漏電を原因とする火災が発生、再び焼失。

1958年(昭和33年) – 再建。

1960年(昭和35年) – 株式会社芳町会館設立。

1964年(昭和39年) – 株式会社明治座美術センター設立。

1966年(昭和41年) – 株式会社明治座美術センターを明治製作所に社名変更。

1970年(昭和45年) – 明治座舞台株式会社を設立。

1972年(昭和47年) – 株式会社明食設立。

1976年(昭和51年) – 森下ビル購入。

1986年(昭和61年) – 株式会社明食を明治座事業株式会社に社名変更。

1990年(平成2年) – 老朽化で興行休止。株式会社明治製作所を株式会社エス・ピー・ディー明治に社名変更。森下営業所開業。

1993年(平成5年) – 浜町センタービル内に創建から7代目となる新明治座が開場。明治座百年記念公演開催。浜町センタービル竣工。

1994年(平成6年) – 明治座フードコミュニティー設立。

1999年(平成11年) – 株式会社エムエス・ファーマシー設立。

2003年(平成15年) – 町屋営業所開業。株式会社明治座アートクリエイト設立。

2006年(平成18年) – 明治座ダイニングプロモーション設立。

2009年(平成21年) – 料飲事業本部、江東区森下より江東区東砂に移転。東砂営業所開業。

2011年(平成23年) – 明治座森下スタジオ開業
2019年(平成31年) – 明治座創立百四十五年を記念し、アート集団チームラボ制作のデジタルテクノロジーを使用した新しい緞帳「四季喜昇座 – 時を紡ぐ緞帳」を公開した。

ソース: 明 治 座 – https://ja.wikipedia.org

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〒103-0013 東京都中央区日本橋人形町2丁目31‐11 日清紡(株)本社ビル
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〒103-0013 東京都中央区日本橋人形町2丁目4‐1
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甘酒横丁交差点
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小網神社
小網神社

小 網 神 社

地理

日本橋地域の南部に位置し、日本橋川の北岸に当たる。北で日本橋小舟町、東で日本橋人形町・日本橋蛎殻町、南東で日本橋箱崎町、日本橋川を跨いだ南で新川、同じく日本橋川を跨いだ西で日本橋茅場町、北西で日本橋・日本橋小舟町と接する。日本橋久松町に所在する久松警察署および日本橋兜町に所在する日本橋消防署の管轄区域内に当たる。

河川

日本橋川 – 鎧橋・茅場橋が架かる。歴史

江戸時代の初期、慶長年間に江戸城が築城された頃には、小網町の付近は日本橋川の河口洲の小さな中島であったとされる。八丁堀・霊岸島など、江戸の前島の埋立てが進むにつれて、日本橋川沿いの河岸の街へと姿を変えた。日本橋川に面した土地柄、水上交通の面で重要な場所として発展した町である。江戸に入ってくる米を扱う商店・問屋があったほか、行徳で産生する塩の扱いが多かった。

ソース: 日本橋小網町 – https://ja.wikipedia.org

小網神社
小網神社
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水天宮
水天宮

水 天 宮

祭神

天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、安徳天皇、高倉平中宮(建礼門院、平徳子)、二位の尼(平時子)を祀るが、これとは異なる祭神の水天宮もある。

 

神徳・御利益・信仰
水と子供を守護し、水難除け、漁業、海運、農業、水商売、また安産、子授け、子育てについて信仰が厚い。水天宮の例大祭は5月5日であり、縁日は毎月5日(5日・15日・25日とすることもある)である。これについて総本宮の久留米水天宮では例大祭が5月5日であることから毎月の5日が縁日となったとしているが、東京の水天宮(人形町)では逆に毎月の5日が縁日であることから例大祭が5月5日となったとしている。[要出典]また犬のお産が軽いことにちなみ、戌の日は安産祈願の人で賑わう。

ソース: 水天宮 – https://ja.wikipedia.org

水天宮
水天宮
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新川一丁目交差点
新川一丁目交差点
永代橋西交差点
永代橋西交差点
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隅田川リバーサイド
隅田川リバーサイド
隅田川リバーサイド
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桜川公園→亀島橋(堀部安兵衛居住跡碑)→牛込御門(奥平隼人討ちとられる)→外濠公園(昼食)→浄瑠璃坂(奥平隼人の隠れ家)→中山安兵衛住居→小倉屋(安兵衛が立ち寄った酒屋)→高田馬場跡→水稲荷(堀部武庸加功遺跡之碑)→諏訪公園

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桜川公園
桜川公園
八丁堀(桜川)跡

八丁堀(桜川)跡

八丁堀四丁目

所在地中央区 地域

新富・入船・湊の各一丁目

江戸時代初期、京橋川の下流から隅田川へと流れ込む通船のための水路が開削され、この掘割を「八丁堀」と称していました。

八丁堀の開削年や名称の由来には諸説ありますが『京橋区史』には、南八丁堀一丁目と本八丁堀一丁目の間より東流し、桜橋、中ノ橋、稲荷橋を過ぎ亀島川に会いして海に入る。慶長17年(1612)に漕運の利を謀りこれを鑿つ、当時海口より凡そ八丁(約870メートル)なるを以ってこの名ありと書かれています。

なお、地域名としての八丁堀は、堀を境に北側の地域一帯を本八丁堀(北八丁堀)、南側の河岸地一帯を南八丁堀と称し、広範囲にわたっていました。

通船堀としての八丁堀は、明治になって「桜川」と改称され、関東大地震後の復興事業を経て新桜橋・中ノ橋・八丁堀橋・稲荷橋が架けられました。

昭和35年から昭和41年頃には、中ノ橋から稲荷橋までを残して桜川の上流が埋め立てられ、その後、桜川は完全に埋め立てられました。

埋立地の一部は、桜川公園として整備され、この辺りに掘割があったことをしのばせています。

平成173

出典:中央区教育委員会

 

 

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桜川公園
桜川公園

桜 川 公 園

元々あった「桜川」は、かつて長さ八町の堀がだったことから八丁堀の地名の由来ともなりました。

今では女性センターやポンプ場など中央区の施設が集まる場所へ。公園の片隅には「入一地蔵菩薩」という名の地蔵があります。 3体のうち、1体は川を埋め立てる際に川底から本当に出てきたといわれています。隣にある「むしば祈祷石」は乳歯の抜けた小学生がそれを持って参拝しに来ます。

出典:BS TV TOKYO Corporation

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桜川公園
桜川公園
八丁堀駅前
八丁堀駅前
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亀島橋(堀部安兵衛居住跡碑)
亀島橋(堀部安兵衛居住跡碑)
堀部安兵衛武庸之碑
堀部安兵衛武庸之碑

堀部安兵衛武庸之碑

越後新発田五萬石溝口藩中山弥次右衛門の子寛文十一年生れ。

元禄元年江戸之念汽堀内道場へ入門元禄四年玉木一刀齋道場師範元禄七年二月高田の馬場に於て叔父菅野六郎左右衛門之仇討其の後も京橋水谷町儒者細井次郎大夫家に居住浅野家臣堀部家の妙と結婚堀部安兵衛武庸となる禄高二百石元禄十四年十月本所林町に於て長江左衛門の名で剣道指南元禄十五年十二月十四日赤穂義士の一人として吉良邸に乱入仇討す。

元禄十六年二月四日歿三十四歳

法名 刀雲輝剣信士

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〒104-0033 東京都中央区新川2丁目3‐7
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八丁堀二丁目交差点
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日本橋三丁目交差点
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京橋一丁目交差点
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八重洲
八重洲
いちこくばし
いちこくばし

いちこくばし(一石橋)

橋の歴史

江戸時代初期の「武州豊島郡江戸庄図」に既に元となる木橋の記載が見られる。

北橋詰の本両替町に幕府金座御用の後藤庄三郎、南橋詰の呉服町に御用呉服商の後藤縫殿助の屋敷があり、当時の橋が破損した際に、これらの両後藤の援助により再建された。そのため後藤の読みから「五斗」、「五斗+五斗で一石」ともじった洒落から一石橋と名付けられたと伝わる。またそのまま「後藤橋」とも呼ばれていた。江戸期を通して神田地区と日本橋地区を結ぶ重要な橋であった。

木橋としては1873年(明治6年)の架け替えが最後で、当時の記録には橋長十四間、幅員三間とある。1922年(大正11年)6月に東京市道路局によって花崗岩張りのRCアーチ橋として改架された。橋長43 m、幅員27 mで親柱は4本、袖柱は8本。中央部には市電を通す構造で、翌1923年(大正12年)9月の関東大震災にも耐え抜いた。

1963年(昭和38年)12月に首都高速都心環状線の京橋出入口〜呉服橋出入口間が開通した際に、下流側橋詰に呉服橋出入口を設置するために親柱2本を撤去、さらに1973年(昭和48年)には鈑桁橋に改修される際に袖柱4本も撤去、上流側に親柱2本が残るのみとなってしまう。

さらに老朽化と拡幅のために1997年(平成9年)の大改修時に撤去となるところであったが、関東大震災以前のRCアーチ橋のものとしては、都内最古の親柱として貴重な近代文化遺産であることが認められ、2002年(平成14年)に南詰下流側の親柱1本を中央区が区民有形文化財建造物に指定し、保存されることとなった。

ソース: 一石橋 – https://ja.wikipedia.org

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常盤橋
常盤橋
江戸通 JR高架下
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〒100-0004 東京都千代田区大手町2丁目7‐1 JFE商事ビル
〒100-0004 東京都千代田区大手町2丁目7‐1 JFE商事ビル
千代田区役所
千代田区役所

大隈重信侯 雉子橋邸跡

早稲田大学の創立者、大隈重信(18381922)は、明治新政府に出仕し、大蔵卿等を歴任し、日本国「円」の創設に尽力しました。また内閣総理大臣を二度にわたり務め、近代国家の基礎創りに貢献しました。

大隈重信は、1876(明治9)年10月から1884(明治17)年3月まで、雉子橋邸宅(当時の麹町区飯田町1丁目1番地)に住み、1882(明治15)年10月創立の早稲田大学の前身、東京専門学校の開校事務もこの邸宅で行いました。

2007(平成19)年10

出典: 早稲田大学

千代田稲門会

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千代田区役所
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江戸幕府蔵屋敷の礎石
江戸幕府蔵屋敷の礎石

江戸幕府蔵屋敷の礎石

江戸幕府清水門前のこの場所は、将軍直属家臣の居住地や蔵・馬場、厩といった江戸城付属の施設が置かれました。

平成16年の遺跡発掘調査では、近世初頭に水田地帯を埋め立てて屋敷を築いたことがわかりました。ここに設置した石は、敷地南半に広がる米蔵の礎石の一部で、配置は出土状態を再現しています。

礎石の配列から、二棟の東西に長い建物で、明暦の大火(1657年)で焼失したと考えられます。礎石のうち、大きな石材は柱や壁を支え。

小さな石材は床を支える基礎と考えられます。

 

大隈重信邸跡

近代になるとこの地は、明治政府の厩が置かれましたが、明治9年には二度の総理に就任し、早稲田大学を創設するなど多方面に活躍した大隈重信が邸宅を構えます。

その後、フランス公使館、憲兵練習場、国営竹平住宅を経て現代を迎えます。

 

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千代田区役所から清水門を望む
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東京大神宮
東京大神宮

東京大神宮

御祭神

天照皇大神・豊受大神を主祭神とする。天之御中主神・高御産巣日神・神御産巣日神・倭比売命を相殿に祀る。

歴史

明治5年(1872年)に開設された神宮司庁東京出張所(伊勢神宮の事務機関である神宮司庁と、東京の教部省との連絡のための出張所)には、明治天皇の勅裁を仰ぎ伊勢神宮の分霊が祀られていた。翌年、その構内に東京神宮教会(伊勢神宮の教導機関である神宮教院の東京支部)が開設された。

両所にあった神殿を継承して、明治13年(1880年)4月17日、有楽町の大隈重信邸跡に落成した皇大神宮遙拝殿が当社の起源である。

これは、当時の明治政府が目指していた祭政一致・大教宣布の一環として作られたものであった。

本神社落成時、通りを隔てて中山忠能邸があり、前年12月7日より明宮(はるのみや)嘉仁(よしひと)親王(明治天皇第三皇子、後の大正天皇)が生活していた。

4月25日、明宮親王(当時2歳)は中山忠能・中山慶子(明治天皇生母)・正親町実徳・柳原愛子(明宮親王生母)等と共に日比谷皇大神宮を私的に参拝した。

なお中山忠能邸には、病弱だった明宮親王の健康を祈り、出雲大社より大国主の分霊も祀られていた。

明治15年(1882年)1月、明治政府の方針転換により神社と宗教活動は分離することとなり、伊勢神宮でも神宮司庁と神宮教院を分離することとなった。皇大神宮遙拝殿は神宮教院に属することになった。同年5月、神宮教院が神道神宮派に改称する際に、当社も大神宮祠と改称した。

一般には、所在地名から日比谷大神宮や、日比谷皇大神宮と呼ばれていた。

明治18年(1885年)3月23日、明宮親王(7歳)は有楽町の中山忠能邸から赤坂御用地青山御用邸内に新造された明宮御殿(花御殿)に移転した。その後も幾度か中山忠能邸を訪問したが、そのたびに日比谷皇大神宮に参拝している。

明治32年(1899年)9月、神道神宮派が解散して新たに神宮奉斎会が作られ、当社は神宮奉斎会本院と改称し、神宮奉斎会の本部機関となった。尚、三重県宇治山田市(現・伊勢市)には神宮教院大本部が置かれていた。大正12年(1923年)の関東大震災で社殿を焼失する。昭和3年(1928年)、現在地に再建・遷座して、以降は飯田橋大神宮と呼ばれるようになった。上述のように、第二次大戦以前は神社という形ではなかったので、社格の指定はない。ゆえに氏子地域も存在しない(当社所在地は築土神社の氏子地域にあたる。)。

第二次世界大戦後の昭和21年(1946年)4月、宗教法人東京大神宮として再発足した。

「日比谷大神宮での結婚式」

日比谷大神宮は明治13年(1880)、有楽町の大隈重信邸跡に落成した、皇大神宮遙拝殿を起源とする。32年(1899)、神宮奉齋会本院と改称。神前結婚式の創設と普及活動を行い、現在の「神前式」の基礎を築いた。関東大震災後は飯田橋大神宮とも呼ばれ、戦後は宗教法人東京大神宮として再発足した。「日比谷大神宮の御神前にて結婚之式を挙る追々に行る是も東京名物之一なるべし」と記載あり。屠蘇飾り(雄蝶と雌蝶の折紙)の絵あり。「東京市麹町區有樂町三丁目2番地 神宮奉齋會本院」 と記された紙片が書き写されている。 — 清水晴風著『東京名物百人一首』明治40年8月「日比谷大神宮での結婚式」より抜粋”

ソース: 東京大神宮 – https://ja.wikipedia.org

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〒102-0071 東京都千代田区富士見2丁目10‐4
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外濠公園
外濠公園
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外濠公園
外濠公園
浄瑠璃坂
浄瑠璃坂

浄 瑠 璃 坂

坂名の由来については、あやつり浄瑠璃が行われたため(『柴の一本』)、かつて近くにあった光円寺の薬師如来が東方浄瑠璃世界の主であるため(『再校江戸砂子』)、などの諸説がある。

江戸時代、坂周辺は武家地であった。この一帯で寛文12年(1672)に「浄瑠璃坂の仇討」が行われ、江戸時代の三大仇討の一つとして有名である。

 

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浄瑠璃坂の仇討跡
浄瑠璃坂の仇討跡
浄瑠璃坂の仇討跡画像
浄瑠璃坂の仇討跡画像

新宿区指定史跡

浄瑠璃坂(じょうるりさか)仇討(あだうち)(あと)

所 在 地 新宿区市谷鷹匠町瑠璃坂上・鼠坂上

指定年月日 昭和60111

浄瑠璃坂と鼠坂(ねずみさか)の坂上付近は、寛文12年(167223日、「赤穂事件」、「伊賀越(いがご)えの仇討」(鍵屋(かぎや)の辻の決闘)とともに、江戸時代の三大仇討のひとつと呼ばれる「浄瑠璃坂の仇討」が行われた場所である。

事件の発端は、寛文8年(16683月、前月死去した宇都宮藩主奥平忠昌の法要で、家老の奥平内蔵(くらの)(すけ)が同じ家老の奥平隼人(はやと)に、以前から口論となっていた主君の戒名(かいみょう)の呼び方をめぐり刃傷(にんじょう)におよび、内蔵允は切腹、その子源八は改易(かいえき)となったことによる。

源八は、縁者の奥平伝蔵・夏目外記(げき)らと仇討の機会をうかがい、寛文12年(167223日未明、牛込鷹匠(たかじょう)町の戸田七之助邸内に潜伏していた隼人らに、総勢42名で討入り、牛込見附門付近で隼人を討取った。

源八らは、大老井伊掃部(かもん)(のかみ)直澄へ自首したが、助命され伊豆大島に配流(はいる)となり、六年後許されて全員井伊家ほかに召し抱えられた。

平成28122

出典:新宿区教育委員会

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新宿区牛込保健センター
新宿区牛込保健センター

日比谷公園健康運動広場(スタート)→読売新聞社前→常盤橋→貨幣博物館(見学)→京橋市場橋公園(昼食)→築地本願寺→明石小学校→佃大橋→佃公園(ゴール)

第15回  日比谷街角ウォーク
“街角に楽しさを探して”

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日比谷公園健康運動広場
日比谷公園健康運動広場
日比谷公園健康運動広場

日比谷公園健康運動広場
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日比谷公園健康運動広場

日比谷公園健康運動広場
自由の鐘
自由の鐘
自 由 の 鐘
自 由 の 鐘

自 由 の 鐘

自由の鐘は1776年米國の独立宣言に際し自由の喜びを天下に告げた。

歴史的記念物である、しかしこの鐘はその鐘銘の聖句にもある通り「すべての国とその住民に自由を告げる」自由の象徴である、米民間の匿名有志はその複製を連合軍總司令官リツジウエイ大将に託しこれを廣く日本民に贈りたいと申出た、よって

リツジウエイ大将は自由の擁護者たる新聞を通じ廣く日本國民に贈ることが最も寄付の趣旨に副うものとして昭和274月日本新聞協會に寄付された。

日本新聞協會は日比谷のー角に自由の鐘塔を建造してこれを東京都に寄贈し廣く國民と共に自由の鐘の歴史的意義を銘記せんとするものである。

昭和2710

出典:社団法人 日本新聞協會

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〒100-0012 東京都千代田区 都道301号線
〒100-0012 東京都千代田区 都道301号線
〒100-0012 東京都千代田区日比谷公園1‐1
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日比谷公園
日比谷公園
〒100-0006 東京都千代田区有楽町1丁目5‐1 日比谷マリンビル
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〒100-0006 東京都千代田区 日比谷通り
〒100-0006 東京都千代田区 日比谷通り
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和田倉門交差点
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〒100-0005 東京都千代田区 日比谷通り
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読売新聞ビル前
読売新聞ビル前
箱根駅伝 絆の像
箱根駅伝 絆の像

読売新聞ビル

読売新聞(よみうりしんぶん)ビルは、東京都千代田区大手町にあるビル。読売新聞ビルは読売新聞グループの本社拠点でありながら、劇場型ホールを併設している。建物の高さは200メートル、大手町タワーを上回り、大手町エリアの最も高い建物である。現在の読売新聞ビルは二代目の読売新聞グループ本社ビルであり、初代社屋の敷地に建設。

また毎年正月に開催の東京箱根間往復大学駅伝競走の発着点として使われ、レリーフには歴代総合優勝校が刻んでいる。

ソース: 読売新聞ビル – https://ja.wikipedia.org

 

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日本銀行金融研究所貨幣博物館
日本銀行金融研究所貨幣博物館
八重洲一丁目交差点
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八重洲一丁目交差点

八重洲一丁目交差点
〒103-0028 東京都中央区八重洲2丁目7‐9 相模ビル
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〒104-0031 東京都中央区京橋3丁目1‐1 東京スクエアガーデン
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京橋大根河岸青物市場蹟
京橋大根河岸青物市場蹟

京橋大根河岸青物市場蹟

遠く寛文の初め江戸数寄屋橋邊に處の人数名打倚りさゝやかなる青物の市を立てしに遠近の村村より作物多く集りぬ是等の店はゆきゝの人或いは附近の人人に之をひさぐ数年ならずして店の数増加し漸く市場の形整い江戸府民のため無くてはかなわぬ機関とはなりぬその後火炎に罹りしにより東海道の要路にあたり且つ水運の便ある京橋川の北岸紺屋町へ移轉す偶この市場への大根の入荷殊更夥しきにより世の人大根河岸と呼び遂に京橋大根河岸と稱うるに至るかくて二百餘年を経たる明治十年京橋川南岸の太刀賣と稱する甘藷問屋数名を加入せしめ問屋三十七軒仲買十七名を數うるに至りしかば府尹の認可を得て組合を設立しこゝに始めて大市場としての規模完成す

大正十二年九月大震災の厄難に遭いしも組合員は鋭意復興に努力し以前に優る盛況を呈す時に問屋六十八名仲買百五名なり昭和十年二月中央卸賣市場法實施の一環として東京市中央卸賣市場の開設さるに際し國家の要請否みがたく父祖三百年愛着の絆を断ちて揺籃の地を去り築地本場に入り問屋は一体となりて会社を起こし仲買は舊態のまゝ開業すその後第二次世界大戦のため幾多の變革ありしも戦後再び舊状に復し業況益好調を極む斯る折柄舊京橋青物市場蹟記念碑建設の議起り期成会を組織して之が實現に努め漸くその工を竣えたり依ってここにその由来を記し開設以来二百八十餘年の歴史を回顧し其盛時を偲ぶたよりとなす

昭和三十四年六月 藤浦富太郎撰 江川碧潭書

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〒104-0045 東京都中央区築地2丁目12‐16
〒104-0045 東京都中央区築地2丁目12‐16
築地本願寺
築地本願寺

築地本願寺

歴史

築地本願寺は江戸時代の1617年に、西本願寺の別院として浅草御門南の横山町(現在の日本橋横山町、東日本橋)に建立。「江戸海岸御坊」「浜町御坊」と呼ばれていた。しかし明暦の大火(振袖火事)により本堂を焼失。その後、江戸幕府による区画整理のため旧地への再建が許されず、その代替地として八丁堀沖の海上が下付された。そこで佃島(現:中央区佃)の門徒が中心となり、本堂再建のために海を埋め立てて土地を築き(この埋め立て工事が地名築地の由来)、1679年に再建。「築地御坊」と呼ばれるようになった。なお、このときの本堂は西南(現在の築地市場)を向いて建てられ、場外市場のあたりが門前町となっていた。

1923年9月1日の関東大震災では、地震による倒壊は免れたが、すぐ後に起こった火災により再び伽藍を焼失。また、58か寺の寺中子院は、被災後の区画整理により各地へ移転。

現在の本堂は1934年の竣工。古代インド様式をモチーフとしたこの建物は、当時の浄土真宗本願寺派法主・大谷光瑞と親交のあった東京帝国大学工学部名誉教授・伊東忠太による設計である。当時の宗教施設としては珍しい鉄筋コンクリート造で、松井組(現:松井建設)の施工により建築された。大理石彫刻がふんだんに用いられ、そのスタイルは現在においても斬新かつ荘厳で、築地の街の代表的な顔である。本堂は重要文化財に指定されている。

浄土真宗本願寺派の新体制移行(2012年4月1日付)に伴い、正式名が従前の「本願寺築地別院」から「築地本願寺」になった。これにより、築地本願寺は全国唯一の直轄寺院となる。

著名な人物の葬儀が宗派を問わず多く執り行われている。さらに他宗派信徒や訪日外国人などにも開かれた寺を目指す「寺と」プロジェクトを進めている。電話で相談を受け付けるコールセンターなどに加えて、2017年11月8日にはカフェなどが入るインフォメーションセンターと合同墓を開設した。

ソース: 築地本願寺 – https://ja.wikipedia.org

 

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築地本願寺前
築地本願寺前


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〒100-0005 東京都千代田区 都道404号線
〒100-0005 東京都千代田区 都道404号線

数寄屋橋公園(スタート)→島崎藤村・北村透谷記念碑→銀座の柳(2世)→石川啄木歌碑→銀座の柳(4世)→豊岩稲荷神社→銀座柳の碑→芝口御門跡の碑→手水鉢(遺跡)→間知石と切り石(遺跡)→森田座跡→ぐんまちゃん家(アンテナショップ=お買い物)→歌舞伎座→銀座シックス→路線価値 32年連続1位地点(中央区銀座5丁目(鳩居堂前))→真珠記念碑→日本最初の電気灯柱の碑→全国の商業地の最高地価地点(中央区銀座2丁目(明治屋銀座ビル))→銀座の柳由来碑→アンテナショップ 広島県→アンテナショップ 山形県→アンテナショップ 沖縄県→交通会館(ゴール)

10月 北総いきいきウオーク
銀座界隈ゆっくり散策
約5km

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数寄屋橋公園(スタート)
数寄屋橋公園(スタート)
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数寄屋橋公園(スタート)
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数寄屋橋公園(スタート)
数寄屋橋公園(スタート)
〒104-0061 東京都中央区銀座5丁目1
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銀座の柳(2世)
銀座の柳(2世)

銀座の柳由来

銀座の柳は明治二十年ごろ銀座通りに植えられて以来大正九年撤去昭和六年復活の変転を経ながら数多くの詩歌にうたわれ人々に親しまれてきた銀座のシンボルとなった柳も樹勢の衰えもあって昭和四十三年歩道の大改修に当たり移植の止むなきに至った。

いまふたたびこの通り一帯に柳を迎えて「銀座柳通り」と名づけるに際し永く銀座の柳の由来を伝えるため碑を建立する。

出典:銀座通聯合会

〒104-0061 東京都中央区銀座5丁目1‐10
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銀座西5丁目交差点
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〒104-0061 東京都中央区銀座5丁目5‐13.
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難破橋
難破橋
難破橋
難破橋
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難破橋
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金春屋敷跡
金春屋敷跡
金 春 屋 敷 跡
金 春 屋 敷 跡

金 春 屋 敷 跡

所在地 中央区銀座八-六~八地域

江戸時代、幕府直属の能役者として知行・配当米・扶持を与えられていた家柄に、金春(こんぱる)・観世(かんぜ)・宝生(ほうしょう)・金剛(こんごう)の四家がありました。

能楽は室町時代に足利幕府の保護奨励を受けて発達し、安土桃山時代には熱心な愛好者であった豊臣秀吉の保護を受け大いに興隆しました。

とくに、金春家は秀吉の強力な保護を受け、能楽の筆頭として召しかかえられました。江戸幕府も秀吉の方針を踏襲して能楽を保護し、金春・観世・宝生・金剛の四座を幕府の儀礼に深く関わる式楽と定めました。

元禄六年(一六九三)頃の江戸市中の状況を記した「国花万葉記」によると、金春大夫は山王町(現在の銀座)・観世大夫は弓町(現在の銀座)・宝生大夫は中橋大鋸町(現在の京橋)・金剛大夫は滝山町(現在の銀座)に屋敷を拝領していたとされています。

金春家は、寛永四年(一六二七)に屋敷を拝領したといわれ、寛永九年(一六三二)の江戸図『武州豊嶋郡江戸庄図』には「金春七郎」の名を確認することができ、現在の銀座八丁目六・七・八番地全体を占めていたように図示されています。

後に、この屋敷は麹町善国寺寺谷(千代田区麹町三・四丁目)に移りましたが、跡地には芸者が集り花街として発展していき「金春芸者」といわれるようになりました。金春の名は、「金春湯」・「金春通り」などとして、今もこの地に残っています。

平成十五年三月

出典:中央区教育委員会

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豊岩稲荷神社
豊岩稲荷神社

東京・銀座の恋愛パワースポット

「豊岩稲荷神社」はビルの狭間の異空間

東京で女子旅に人気のパワースポットが、銀座の路地裏にある「豊岩稲荷神社(とよいわいなりじんじゃ)」です。特に縁結びに効くといわれ、恋愛成就を願う女子たちが集まります。ビルの狭間の細い路地にまつられた神社は、ちょっと不思議な異空間。銀座七丁目交差点からすぐの立地で、買い物や食事の際に気軽に立ち寄れるパワースポットです。

出典:LINEトラベルjp

銀座7丁目交差点
銀座7丁目交差点
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銀座柳の碑
銀座柳の碑

銀 座 柳 の 碑

作詞:西条八十

作曲:中山晋平

植えてうれしい 銀座の柳

江戸の名残りの うすみどり

吹けよ春風 紅傘日傘

今日もくるくる 人通り

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銀座柳二世
銀座柳二世
芝口御門跡の碑
芝口御門跡の碑
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芝口御門跡の碑
芝口御門跡の碑

芝 口 御 門 跡

所在地 中央区銀座八―八・九・十付近

ここの南方、高速道路の下には、もと汐留川が流れ、中央通り(旧東海道)には、昭和三十九年まで新橋が架かっていました。

宝永七年(一七一〇)、朝鮮の聘使の来朝に備えて、新井白石の建策にもとづきわが国の威光を顕示するため、この新橋の北詰に、現に外桜田門に見られるような城門が建設されて、芝口御門と呼ばれ、新橋は芝口橋と改称されました。

城門は橋の北詰を石垣で囲って枡形とし、橋のたもとの冠木門から枡形に入って右に曲ると、渡櫓があって堅固な門扉が設けられていました。しかしこの芝口御門は建築後十五年目の享保九年(一七二四)正月に焼失して以来、再建されず、石垣も撤去され、芝口橋は新橋の旧称に復しました。

昭和五十二年十月

出典:中央区教育委員会

 

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〒104-0061 東京都中央区 昭和通り
〒104-0061 東京都中央区 昭和通り
間知石と切り石(遺跡)
間知石と切り石(遺跡)

間知石

(汐留遺跡)

四角錐の形をした間知石と、板状に加工された切り石は、大名屋敷の石組溝(排水施設)に使われていたものです。

出典:東京都第一建設事務所

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〒104-0061 東京都中央区 都道316号線
〒104-0061 東京都中央区 都道316号線
ぐんまちゃん家(アンテナショップ=お買い物)
ぐんまちゃん家(アンテナショップ=お買い物)
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三原橋(ぐんまちゃん家二階)
三原橋(ぐんまちゃん家二階)
歌舞伎座
歌舞伎座
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歌舞伎座
歌舞伎座

歌 舞 伎 座

歌舞伎座は、東京都中央区銀座4-12-15にある歌舞伎専用の劇場である。火災や戦災に遭うなど様々な変遷はあったが、今日に至るまで名実ともに代表的な歌舞伎劇場として知られる。

歌舞伎座は1889年に開場した。従来の劇場は地名や座元の名を冠するのが例であり、「歌舞伎座」という名称は異例であった。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

歌舞伎座
歌舞伎座
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歌舞伎座
歌舞伎座
歌舞伎座
歌舞伎座
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先任の碑(歌舞伎座)
先任の碑(歌舞伎座)

先 人 の 碑

明治22年 (18891121日、この木挽町の地に開場した歌舞伎座 は、以来、大正、昭和、そして平成へと120年を超える歩みを重ねて参りました。

その間、火災、震災そして戦災と幾たびか受難の時を迎えましたが、その都度復興し、歌舞伎を愛する皆様のご支援を得て、平成2542日に、第5期の歌舞伎が新開場致しました。

歌舞伎座の歴史は近代日本の演劇史 でもありますが、そこには明治の創業以来、歌舞伎座の興行に係ってこられたすべての方々の精進と奮闘が刻まれております。

ここに、その先人の偉大なる功績を永遠に讃えるため「先人の碑」を建立いたしました。

 

平成2542

 

松竹株式会社

株式会社歌舞伎座

公益社団法人日本俳優協会

 

「先人の碑」の両脇に配された鬼瓦は、第4期歌舞伎座のものです。

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歌舞伎座
歌舞伎座
歌舞伎座
歌舞伎座
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歌舞伎座
歌舞伎座
黙阿弥の石燈籠と蹲踞(歌舞伎座)
黙阿弥の石燈籠と蹲踞(歌舞伎座)

黙阿弥の石燈籠と蹲踞(つくばい)

 

歌舞伎作者河竹黙阿弥 (1816-93)は、1887(明治20)年に浅草から本所南二葉長(今の亀沢2丁目)に新築移転し、晩年の6年間を過ごしました。この石燈籠 と蹲踞(手水鉢)はその庭に置かれていた遺愛の2品です。

灯篭は全高2.25メートル。

三月堂型と元興寺型を合わせたごく普通の燈籠ですが、すぐ目につく特徴は、中台の下のいわゆる竿の部分と天辺の宝珠の部分に、斜めに切ったような継ぎ目があることです。

これは1923(大正12)年関東大震災 のとき、激震の為に倒壊して折れた傷跡です。

修復されたこの燈籠は、そののち長女の糸女、その養嗣子の繁俊、その嫡男の登志雄へと受け継がれ、罹災した本所から渋谷、世田谷、逗子へと一家の移住につれて、蹲踞ともどもつねに同行してきました。

この度の第5期歌舞伎座 の新開場を祝すとともに、この年が黙阿弥の歿後120年にあたることもを記念し、縁の深いこの劇場に長く保存公開していただくこととしました。

河竹家4代、ひいては近代歌舞伎側面史の、ささやかな資料ともなればと願っております。

 

2013(平成25)年3月吉日

出典:河竹登志

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歌舞伎座
歌舞伎座
歌舞伎座
歌舞伎座
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歌舞伎座
歌舞伎座
〒104-0061 東京都中央区 都営浅草線 東銀座駅
〒104-0061 東京都中央区 都営浅草線 東銀座駅
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〒104-0061 東京都中央区 晴海通り
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銀座シックス
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銀座シックス
銀座シックス
銀座シックス
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銀座シックス
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銀座四丁目交差点
銀座四丁目交差点
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銀座四丁目交差点
銀座四丁目交差点
銀座発祥の地
銀座発祥の地

銀 座 発 祥 の 地

銀座役所跡

慶長十七年(起源二二七二年 西暦一六一二年)徳川幕府此の地に銀貨幣鋳造の銀座役所を設置す

当時町名を新両替町と称せしも通称を銀座町と呼称せられ明治二年遂に銀座を町名とする事に公示さる

昭和三十年四月一日

出典:銀座通聯合会

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路線価値 32年連続1位地点(中央区銀座5丁目(鳩居堂前))
路線価値 32年連続1位地点(中央区銀座5丁目(鳩居堂前))

路線価値 32年連続1位地点

国税庁は3日、相続税や贈与税の算定基準となる平成29年分の路線価(11日時点)を公表した。全国約325000地点(標準宅地)の対前年変動率は、全国平均で0.4%のプラスとなり、リーマン・ショック以来、8年ぶりに上昇に転じた昨年に続くプラスとなった。東京都内の最高路線価は、バブル期の影響を受けた4年時点を上回り最高額を更新した。

 

路線価の全国1位は、32年連続で東京都中央区銀座5丁目の文具店「鳩居堂」前の銀座中央通りで4032万円。4年に同地点で記録した全国最高路線価(3650万円)を更新した。

出典:TOKYO HEADLINE