城ヶ島灯台
~東京湾の入り口を照らす灯台~
城ヶ島灯台は、明治3年(1870年)横須賀製鉄所首長フランス人ヴェルニーにより西洋灯台として設置点灯されました。このレンガ造円形、灯高基礎上5.76mの灯台は、大正12年(1923年)9月1日の関東大震災によって、一瞬に建物の基礎から倒壊し、大正15年(1926年)8月1日に改築されたのが現在の灯台です。灯台は船舶が安全に航行するための大切な施設です。この施設の異常を発見した場合や、何かお気づきの点がございましたら、横須賀海上保安部までお知らせください。
![]() | 位 置 北緯 35度08分06秒 東経 139度36分40秒 光り方 15秒毎に白光を1閃光(単閃白光) 光の強さ 31.0万㏅ 光の届く距離 16.0㌋(約29㎞) 高さ 地上から灯台頂部 約11.5m 水面から灯火 約30.1m 管理事務所 横須賀海上保安部 |
城ヶ島灯台説明文
慶応2年江戸条約により端を発し洋式灯台の建設が始まりました。この城ケ島灯台も明治3年11月初めて一条の光を放ってより、油、ガス、電気とその発展の過程において時代毎に新しい技術を吸収し独創的な開発改良を重ねて現在に至っておりますが、その間、関東大震災・太平洋戦争と壊滅的な打撃を受け、その歩んで来た道は決して平坦なものではありませんでした。
由緒有るこの灯台 も平成2年11月には120年と言う歴史を刻みましたがこの間幾多の船人達の命と貴重な財貨を人知れず救って来た功績を永く顕彰し、その陰には黙々と守って来た代々灯台職員各位の苦労に感謝すると共に、この年を節目として無人となるため島民有志一同合い集い感謝の念を後世に伝えるべく石碑に託しここに建立するものである。
平成三年十月五日
出典:城ヶ島観光協会
モニュメントコンセプト
日本ロマンチスト協会&日本財団による“恋する灯台プロジェクト”に、安房埼灯台と城ヶ島灯台が選ばれたことを記念してモニュメントを設置いたしました。
寄り添いあう恋人達
あなたと💛わたし
を、抽象的に表現しています。
白秋文学コース
ウミウ展望台
三崎城ヶ島は鵜の鳥島よ
潮のしぶきで鵜が育つ
展望台より望む、赤羽根海岸東側の崖には、毎年10月下旬になると、ウミウ、ヒメウが遠く千島列島から渡来し、翌年の4月まで見ることができます。
約千羽にも及ぶ鵜の乱舞は、冬の城ヶ島の風物詩であり、白秋もまた野生の瑞々しさに深い関心を寄せ、その足跡が島中にあり、多くの創作活動をみることができます。
城ヶ島の白百合の花大きければ
仰ぎてぞあらんあそびの舟は
城ヶ島のウミウ、ヒメウ及びクロサギの生息地
神奈川県指定天然記念物(地域指定)
昭和35年5月31日指定
赤羽根海岸の東側に続く本の下の断崖は、幅約300m、高さ30mにわたり、波打ち際からの垂直の崖が人を寄せつけないことから、鵜の群れのよい生息地となっており、冬季の生息地として、その地域が指定されています。
ウミウ、ヒメウはウ科に属する海鳥で、海上を泳ぎ、潜って魚を捕り餌としています。ウミウはこの習性を利用して鵜飼に使われていることで有名です。両種とも冬鳥として渡来し、4月以降に本州北部、北海道以北に渡り繁殖します。繁殖期に近づくと足の付け根に白斑が見られます。クロサギ(サギ科)は、留鳥として生息し、磯や干潟で餌をとります。城ヶ島でも繁殖が確認されており、本種の分布の北限と考えられています。
出典:三浦市
三浦半島八景
城ヶ島の落雁
●大塔(鎌倉宮)の夜雨 | ●神武寺の晩鐘 |
●灯台(燈明堂)の帰帆 | ●猿島の晴嵐 |
●大佛の秋月 | ●城ヶ島の落雁 |
●長者ヶ崎の夕照 | ●建長寺の暮雪 |
「八景」の考え方は15世紀に中国から日本に移入されました。「近江八景」や「金沢八景」が有名ですが、三浦半島地域でもこれまでにたくさんの「八景」が残されています。
伝統的な「八景」は次の八つの景色を基本形につくられ、それぞれ次のような情景を表すのではないかと言われています。
●夜雨:水辺の夜の雨 | ●晩鐘:山寺の晩鐘 |
●帰帆:港に帰る漁船 | ●晴嵐:朝もやに煙る松林 |
●秋月:水辺に映える秋の月 | ●落雁:干潟に降り立つ雁の群れ |
●夕照:夕日に照らされた遠くの山 | ●暮雪:夕暮の雪景色 |
「三浦半島八景」は、神奈川県が三浦半島地区の4市1町と協働して、この地域の“うるおい”“にぎわい”づくりをめざし、半島をぐるっとまわれるような新たな「八景」をつくるため、「三浦半島八景」選定委員会を設置し、県民の皆様のご意見を参考に、平成13年11月に選定したものです。
出典:神奈川県横須賀三浦地域県政総合センター
神奈川県指定天然記念物
城ヶ島のウミウ、ヒメウ
及びクロサギの生息地
昭和35年5月31日指定
城ヶ島の南側、太平洋の荒波を受ける断崖は高さ約30m、幅2㎞に及び、自然景観もよく残されている。この崖の中ほどやや東に位置する赤羽根海岸周辺には、崖面の岩棚や割目にウミウとヒメウ、それにクロサギが生息することでよく知られている。
ウミウとヒメウはウの仲間で、夏季は北日本などの冷涼な地域で繁殖し、冬季には温暖な地方へ南下して冬を過ごす。城ヶ島においては、例年10月末頃から渡来し、少数のヒメウのほか、最盛期のウミウは十数百羽を数え壮観を呈するが、やがて春になると北へ帰っていく。一方、クロサギは南方系のサギで、太平洋側では房総半島や城ヶ島を生息の北限域とする。体は黒く見えるが、くちばしと足が長くて黄色がかるので、全体黒色に見えるウミウやヒメウと区別できる。
城ヶ島赤羽根海岸周辺は、往時よりもウミウの渡来数が減少しているが、なお関東地方最大規模の渡来地として重要であり、またクロサギの太平洋分布北限地の一つとして学術上きわめて貴重である。
注 意
ウミウ等の観察や撮影は展望台からお願いします。投石や柵内への立ち入りなど、ウミウ等とその生息地の保存に影響を及ぼす行為をした者は、条例により処罰されます。
平成13年3月
出典:神奈川県教育委員会
三浦市 教育委員会
松虫にささで寝る戸や城ヶ島
たかし
秋の夜、松虫が鳴いている。島の漁家は戸締まりをしないまま、松虫の鳴く声につつまれて安らかな眠りに入っている。「ささで(鎖さで)」は「門戸をしめないで」の意。
この俳句は、松本たかし昭和13年(1938)の作。
当時この城ヶ島に大橋はなく、三崎との渡し舟が唯一つの便であった。更に東京湾防備の要塞地帯で、島へ渡るのには軍の制約があり、殊に夜に渡る人など稀であったことから、初秋の夕べには虫の鳴きこぞる島となった。
たかしは三崎の友の案内で虫を探すことができた。
島の漁家のいとなみは、素朴そのもの、松虫の鳴く頃は、涼をとるため蚊帳を吊って、雨戸を開けたままで寝ている。このような島の抒情が、たかしの高い詩心によってうたいあげられた。
松本たかし=子規、虚子の写生を根本とした俳人。
三崎の風光を愛し、しばしば来遊。
昭和31年(1956)没。その墓も三崎本瑞寺にある。
出典:三浦市
俳誌「笛」同人会
シップウオッチング
東京湾へ出入りするいろいろな船を見ることができます。
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原油タンカー 原油を運ぶ専用の船。事故の時原油流出を最小限に抑えるため。船側と船底を2重構造になっています。 | LNG(液化天然ガス)船 天然ガスをマイナス162℃の超低温で液化し、運ぶ船です。超低温輸送のため、タンクは特殊な材質でできています。 |
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自動車専用船 完成した自動車やトラックを専門に運搬する船です。 | コンテナ船 日用品や食糧品から危険品まで多種多様な貨物を国際規格のコンテナに収納して運ぶ船です。 |
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客船・フェリー 長期間の船旅が楽しめます。レストランや娯楽設備が充実しています。 | 漁船 写真は船尾の水面上にとどまっるためのスパンカーをつけています。 |
火の島へ
一帆
目指すよ
芋の露
源義
火の島へ一帆目指すよ芋の露
源 義
この俳句は、角川源義昭和39年の作。城ヶ島より望む伊豆大島への願望である。
帆をいっぱいに追風をはらんだ帆掛舟が大島に向かって走っている情景、芋の露(季語=秋)は、成長した里芋の葉に夜露や雨が溜ってきらきらとかがやいているようです。
角川源義(俳号・源義)大正6年、富山県生まれ、折口信夫・武田祐吉を慕い国学院大学に学ぶ。文学博士、国学院大学講師・慶応義塾大学大学院講師。昭和20年角川書店を創立し、27年総合雑誌「俳句」、翌年「短歌」を創刊、33年俳句の叙情性を目指し、俳誌「河」を創刊して俳句の指導に当たる。ことに三浦半島の風光を愛し、しばしばこの地を訪れている。
昭和50年10月27日没。この日を「秋燕忌」と名付く。
昭和51年建立。
平成5年2月1日
出典:三 浦 市
俳誌「河」同人会
馬の背洞門
これは自然が作った海蝕洞穴で長い年月をかけて波浪、風雨等に侵食されてこのような見事な形となったものです。
地層は第三紀層、鮮新統、三浦群に属し土質は凝灰質砂礫岩という軟かい岩質です。高さ8m、横6m、厚さ2mで、土地の人は「馬の背の洞門」のほか「めぐりの洞門」、「眼鏡の洞門」などと呼んでいます。
そのどの名前もみな洞門の形から推して名付けたものです。
明治の文豪、大町桂月はここに訪れて次のように延べています。「―馬の背に至る、怒涛却下の巌を嚙む、左は房州、右は伊豆、前には雲の峰聳ゆ、その雲の峰少し薄らぎて中より大島あらわる、馬の背はやがて馬の首となり、長巌海に突出す。云々」
※落石等の危険があるため近づかないでください。
出典:三浦市