川越わくわくウオーキング教室
NPO法人埼玉ウオーキング協会
小江戸川越ウオークⅠ
・観音寺
・広済寺
・富士見やぐら
・濯柴公園
大 正 蔵
「新蔵」ともいわれた大正蔵は、大正時代初期に建てられた木造2階建の建物。中は仕切りのない広い空間で、改造はほとんどなく、関東地方の典型的な酒造の姿を今に残しています。
大正蔵には多数の貯蔵タンクが設置され、出荷前にの酒が貯蔵されたほか、一部、瓶詰、パッケージングなどの用途としても使用された。
大正蔵内部
【豆知識】
鏡山酒造跡地内の明治蔵・大正蔵・昭和蔵の三棟は、外観が建設当時の意匠を保ち、内部も酒造りに適した空間構成を維持していることから、平成20年㋂、国の登録有形文化財に登録されました。
昭 和 蔵
重々しい屋根や、白壁などいかに重厚長大な景観を醸し出す昭和蔵は、鏡山酒造の歴史と伝統をしのばせる建物。蔵の中心部には太い杉柱が3本配置され、建物全体を「やじろべい」のように支えています。
建築年代は、酒造会社時代の全盛期ともいわれる昭和6年(1931年)。登記簿上の構造は、木造2階建てですが、3層に仕切られていました。
ここでは、麹と蒸米から「酒母」や「もろみ」を仕込む作業を行っていました。
昭和蔵内部
【豆知識】
昭和蔵は、4代目竹内孝也氏(1930~1998)の誕生を祝して翌年の昭和6年に建てられました。
同氏は、東北大学卒業後、国税庁の酒造試験場で2年間、酒造学を学んだ研究者。杜氏を育てることもじょうずで、たくさんの名杜氏を世に送り出しました。
昭和初期の作業風景
酒造りは、㋊から翌年の㋂まで続きます。天然の米と水が酒の命なら、酒の仕込みを采配する杜氏の腕が、酒を生かしたり殺したりするそうです。「蒸米に菌を繁殖させるときの湿度管理が、酒づくりの重要なポイント。昔からこの湿度の操作が秘けつとされています。
昭和初期の蒸米の作業風景
【豆知識】
酒造りの最盛期、寒い時期のほうが、空気中の雑菌が少なく、発酵条件がよいため、シーズンは㋊から翌年の㋂ごろまで。
詩情豊かな鏡山のルーツ
初代当主の竹内栄吉(1843年~1915年)は、現在の新潟県上越市出身の杜氏で、埼玉県内で酒づくりの技術を習得し、明治8年(1875年)、現在地で酒造蔵を創業しました。
鏡山という名称は、滋賀県の琵琶湖のほとりにある山の名前から由来しています。歌人藤原定家の秀歌の一つに
『鏡山映される波の影ながら
空さえ凍る有明の月』
という歌がありますが、ここにある美しい詩情豊かな景観こそが鏡山のルーツです。
鏡山(滋賀県竜王町・竜王町観光協会提供)
【豆知識】
杜氏。日本酒の製造に」携わる蔵人と呼ばれる技能手段を率いる、酒造りの総責任者です。原料の仕込から熟成にいたるまで、すべての工程を管理します。
明 治 蔵
明治時代中期に建築された明治蔵は、「本造」ともいわれるとおり、敷地内の酒造群中一番歴史が古く、また、最大規模の木造の建物。
ここでは、搾り機、ブレンドタンクなどが設置され、酒を搾った
り、調合する作業である上槽や濾過など酒造工程の後半部分が行われていました。また、入口右手には、酒造醸造において一番重要な工程である製麹作業を行う「麹室」が併設されていました。
明治蔵内部
【豆知識】
酒造りと蔵。酒造りに土蔵が適しているのは、熱が外に逃げにくく、湿度が年間を通して一定なためです。
瓶詰作業場・倉庫
「瓶詰作業場」、そしてその西側に隣接する「倉庫」の建築年代は、ともに不明。瓶詰作業場は瓶詰め作業や、酒粕の貯蔵庫に使われました。
倉庫は、当初、上層工程でぬれ袋を乾燥させるために使われていましたが、その後、竹内家の個人的な収蔵品の倉庫として使用されていました。
また、大正蔵前の「検査室」は、税務署員が帳簿類の立会い検査をする場所として使われていました。
倉庫・ギャラリー
【豆知識】
お酒の税金である「酒税」は、「蔵出し税」ともいわれ、蔵から出荷した時点で税金がかかります。
そのため、水をどのくらい使ったか、糠や酒粕はどのくらい出たかなどすべて厳しい検査を税務署から受けました。
出世稲荷神社について
出世稲荷神社は、江戸時代(天保2年/1832)に、京都の伏見稲荷神社本宮より分祀した神社です。
名前の通り出世の御利益があります!また伏見稲荷同様に、五穀豊穣や商売繁盛の御利益も。
すぐ近くにある賑やかな商店街をよそに、境内はとても静かです。時たま併設された公園から聞こえる、子供たちの声にふと心が和みます。
出典:カワゴエール
火除稲荷大明神
連雀町にある火除稲荷は熊野神社から分祠し、正式には正一位火除稲荷大明神と言う。明治初期にはすでにあったようで、明治23年の川越大火の時、ここで火が止まったことでもしられている。
出典:川越観光ナビ
川越大正浪漫夢通り
古き良き大正時代を思わせる情緒あふれる大正浪漫夢通り。通りを歩けば、そこかしこに大正ロマンの風情が漂います。毎日の買い物から、こだわりの逸品、川越観光のお土産などを販売する、個性豊かなお店が軒を並べています。大正ロマンの雰囲気を求めて、テレビや映画の撮影によく使われる商店街です。大正ロマンの風を感じに川越の大正浪漫夢通りへぜひお越し下さい。
出典:大正浪漫夢通り
鴉山稲荷神社について
歴 史
社説によると、長禄元年(1457)上杉持朝の命によって川越城築城の任にあたった大田道真が、城の櫓より四方を眺めたところ南西を森がさえぎり、富士山が眺望出来ないために、これを伐採させたところ森の中に石祠があり、「源家勝平、怨敵退散、子孫長栄、大願成就、守護、永安三癸巳夭㋃17日願主河島武盛」と記した祈願文が発見された。道真はこれを築城の吉兆としてここに仮宮を建立した。以来、代々藩主の信仰厚く、松平斉典の養子斉省の奉納「鴉山祠」の額が現存している。
当社は塚上にあり、鴉が群摟していたことにより鴉山稲荷神社と称すると云う。また、古くは周囲に塚が多く、中でも鴉山が大きいので、川越7社の第一位としてその名は「親塚稲荷」とも言われる。
また、町内では「お稲荷さん」とも呼ばれ、親しみ大切に信仰され、今も尚、町民全体の文化遺産として伝わり引き継がれている。
平成24年4月吉日
出典:鴉山神社修復実行委委員会
濯 紫 公 園
濯紫公園の由来
昔、ここに柳沢吉保の家臣山東小一郎の別荘があり、濯紫園と呼ばれる大変美しい庭園がありました。
その後、唯心という僧がここで唯心庵を営んでいました。
明治2年には水村氏により水車がつくられ、この水車は通称いおりの水車と呼ばれ人々に親しまれていました。
いおりの堰の上流側は子供達の絶好の水泳や水遊び場だったそうです。
その後、新河岸川周辺の農地には住宅が建ち並び、水車も必要とはなくなり取り壊され、川も改修工事によって現在の姿になりました。
この公園は新河岸川の親水拠点として地元の人々と行政が協力し、川と公園を一体的に整備したものです。
この公園の名はかつての濯紫園にちなみ「濯紫公園」としました。
平成元年㋂広済寺 無腮地地蔵
歯痛治療を願った地蔵は全国にたくさんあります。腮が無いから歯痛もない歯痛治療を願う故に腮を欠いて建てたと言うのが大筋の理由です。
古くは小野篁802~852年平安初期の漢詩人・歌人・参議等が遺唐使渡航失敗や拒否で隠岐な流された折思いを寄せた人の歯痛平癒 のため建てたと言われています。
治癒礼として、「あごなし地蔵様へお願いすると治ります」と言う仮名まじり金釘流の文字で書いた貼り紙を貼ったそうです。
歯痛祈願する習俗は島根・新潟・岐阜・長野・神奈川等に多くこの地蔵尊は、「全国□称地蔵一覧日本寺院名鑑地」に明記されていますが□作年代等の詳細は不明です。
広済寺 皺地蔵尊
江戸の初め上州厩橋の浪人が北町(喜多町)に住んでいました。
ある夜異様な気配を感じて帰宅し、不思議に思い部屋を見ると片隅に三尺程の石仏らしきものがあったそうです。
翌朝俗家に置くのは如何と思い石仏を広済寺に納めました。
数日後、風邪や喘息で長患の豪商綿屋の娘が石仏に霊感を感じ、荒縄を巻き付け百日間の願掛けをしたところ百日も経たずに全快しました。
お礼にお茶と入り豆を納めましたそうです。
この話が近隣で評判となり風邪、百日咳や咳の病の時には縄で石仏を縛りお参りするとご利益があり、病が治ると縄をほどきお茶と入り豆(明治以降は金平糖をお供えしたそうです。)
川 越 氷 川 神 社
氷川神社は、埼玉県川越市宮下町にある神社。太田道灌以来、川越の総鎮守とされ歴代川越藩主の篤い崇敬を受けた。
国の重要無形民俗文化財である川越まつり(川越氷川祭)は毎年10月14日に氷川神社にて斎行される「例大祭」、直後に行われる「神幸祭」や「山車行事(祭礼)」から成り立っている。
氷川神社に古くから伝わる「境内の玉砂利を持ち帰り、たいせつにすると良縁に恵まれる」との言い伝えにちなみ、本殿前の白い玉砂利を巫女が麻の網に包み、神職がお祓いした「縁結び玉」が毎朝8時より20体頒布されている。
毎年、七夕を含む夏には境内に飾られた2,000個以上の江戸風鈴に、願いを書いた短冊を結ぶ祭事「縁むすび風鈴」で賑わう。
敷地内には、結婚式場の氷川会館があり、埼玉県内では唯一の神社隣接の専門結婚式場として知られる。また、結婚式で執り行われる誓いの儀式「結い紐の儀」は川越氷川神社独自の儀式として商標登録されている。
埼玉県さいたま市大宮区の氷川神社と区別するため、川越氷川神社と称されることもある。
ソース: 氷川神社 (川越市) – https://ja.wikipedia.org
氷川神社大鳥居
明神型・杉材
平成の御代替わりを奉祝し同二年に建立された高さ15㍍の大鳥居は、木製のものとしては国内随一の規模を誇る(笠木の幅20㍍・柱周3.45㍍)中央扁額の社号文字は幕臣勝海舟の直撃によるものである。
小江戸川越 観光案内図
喜多院 山門
国指定重要文化財
山門は、4本の柱の上に屋根が乗る四脚門の形式で、屋根は切妻造り、本瓦葺。もとは後奈良天皇の「星野山」の刺額が揚げられていたといいます。棟礼を見る寛永9年(1632)に天海僧正により建立されたことが分かり、寛永15年(1639)の川越大火で焼失を免れ、喜多院では現存する最古の建物です。昭和30年度に部分修理が行われ、現在に至ります。
出典:川越大師 喜多院川越八幡宮
川越八幡宮は、埼玉県川越市南通町の市街地に鎮座する八幡宮である。
ソース: 川越八幡宮 – https://ja.wikipedia.org
縁むすびイチョウ由来
(川越八幡宮御神木)
平成。明仁天皇がお生まれになった御年(昭和8年12月23日生)
川越八幡宮の崇敬者によって男イチョウと女イチョウ二本を植林したが、いつしかその二本の木は寄り添い、一本に結ばれてしまったことに由来する。
固く結ばれた二本の御神木に触れ御守りを身につけ、二度拍手を打つと夫婦円満・良縁に巡り逢うと伝えられている。
良縁祈願・御守りは社務所にお申しつけ下さい。