至極穏かな秋晴れの下、
千代田区役所から皇居周辺の、
名所(北の丸公園、東京国立近代美術館 工芸館、千鳥ヶ淵さんぽみち、千鳥ヶ淵、半蔵門、皇居外苑、楠公レストハウス、楠木正成像)
を散策するウオーキング
吉 田 茂 像
古来各國史上名相賢宰星羅照映スト雖モ昭和曠古ノ大戦ニ社稷傾覆生民塗炭ノ苦悩ニ方リ萬世ノ為ニ太平ヲ開クノ聖旨ヲ奉シ内外ノ輿望ヲ負ウテ剛明事ニ任シ慷慨敢言英邁洒落能ク人材ヲ舉用シ民心ヲ鼓舞シ以テ復興ノ大義ニ盡瘁セシコト公ノ如キハ實ニ稀代ノ偉勲ト謂フベシ後人相謀ツテ茲ニ厥ノ像ヲ建テ長ク高風ヲ仰カント欲ス亦善イ哉
昭和五十六年九月
舟越保武 作
安岡正篤 文
桑原翠邦 書
北の丸公園露場
ここでは、気温、湿度、気圧、降水量、感雨(降水の有無)、積雪の深さを観測します。
このような気象観測を行う場所を露場と呼びます。
重要な気象観測を行っていますので、許可なくこの中に入らないで下さい。
出典:東京管区気象台
北白川宮能久親王像
弘化4年(1847)伏見宮邦家親王の第九皇子として御誕生。嘉永元年(1848)青蓮院宮御相続、安政5年(1858)輪王寺宮御相続、公現法親王(俗名能久)と称せられ、上野寛永寺の門跡となられる。明治3年(1870)還俗して伏見宮に御復帰、軍籍に就かれた。同年勅令によりプロシャ国留学を命ぜられ、同国歩兵・砲兵聯隊、参謀学校等で兵学を学ばれ、明治10年後帰朝、近衛砲兵聯隊御隊附。御留学中の同5年北白川宮を御相続遊ばされた。同17年陸軍少将に任ぜられ、歩兵第一旅団長、参謀本部御出任。同25年陸軍中将に任ぜられ、第六・第四師団長を御歴任、同28年1月近衛師団長に親補せられ、近衛師団を率いて台湾に御出征、炎熱瘴癘の地で疫病に罹らせ給い、明治28年10月28日(1895)台南に於て薨去遊ばされた。御年49歳。陸軍大将に任ぜられ、大勲位菊花章顕飾および功三級金鵄勲章を賜わり、國葬を以て豊島岡陵に御埋棺された。
銅像は、明治36年1月26日、北の丸に駐屯していた近衛歩兵第一・第二聯隊正面前(現在地より東方約60メートル)に建立されたが、昭和38年北の丸公園整備計画に従いこの地点に移された。製作は、渡台時近衛騎兵として側近に仕えた斯界の大家新海竹太郎によるもので、芸術的にも高く評価されている。鋳造は陸軍砲兵工廠である。
建立後80余年を経て若干箇所の損傷を見るに至ったので、昭和60年有志相諮り修復した。
昭和60年10月28日
親王90年祭にあたり元近衛師団戦友会誌す
千鳥ヶ淵公園
大正8(1919)に開演。面積15,845㎡。半蔵濠に面した敷地、内堀通りを挟んで大使館の桜並木、そして千鳥ヶ淵交差点角の敷地の3ヶ所に分かれている。
英国大使館前の桜並木は、明治14(1881)年に英国公使アーネスト・サトウから寄贈された桜に由来する。
半 蔵 門
半蔵門は、江戸城にある門の1つである。 城の西端に位置し、まっすぐ甲州街道に通じている。大手門とは正反対の位置にある。住所は東京都千代田区麹町1丁目。また東京メトロ半蔵門線半蔵門駅周辺の呼称。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
半 蔵 門
江戸城内郭門の一つで、「こうじまち口」とも呼ばれ、四谷門とともに甲州街道の要衝となっていました。名前の由来は、伊賀者の服部半蔵がこのあたり配下とともに屋敷を拝領していたという説があります。ほかにも、この門から城内に入る山王祭礼の象の山車が枡形門をくぐることができず。半分だけしか入らなかったという説もあります。門は1620年(元和6年)仙台藩(現在の宮城県)藩主伊達政宗ほか6名の東国大名により築造されました。
江戸時代には、半蔵門から入り北に進み、現在の代官町通りを通って、竹橋門(現在の竹橋駅付近)に抜けることができました。
1871年(明治4年)に渡櫓門は撤廃され、現在は高麗門だけが残り、皇室の皇居への通用門として使用されています。
半蔵門「旧江戸城写真帖1871年(明治4年)撮影
東京国立博物館蔵
東京国立博物館蔵
江戸城を取り巻く地形と文化財
楠公レストハウス
東京都が推奨する「東京食材使用店第1号」に登録された和食レストラン。「一汁三菜」形式の伝統的な日本食を提供。英語メニューあり。
出典:楠公レストハウス
楠 木 正 成
楠木 正成は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。出自不詳。自称は橘氏後裔。息子に正行、正時、正儀。
元弘の乱(1331年 – 1333年)で後醍醐天皇を奉じ、大塔宮護良親王と連携して、千早城の戦いで大規模な幕軍を千早城に引きつけて日本全土で反乱を誘発させることによって、鎌倉幕府打倒に貢献した。また、建武の新政下で、最高政務機関である記録所の寄人に任じられ、足利尊氏らとともに天皇を助けた。延元の乱での尊氏反抗後は、新田義貞、北畠顕家とともに南朝側の軍の一翼を担ったが、湊川の戦いで尊氏の軍に敗れて自害した。
南北朝時代・戦国時代・江戸時代を通じて日本史上最大の軍事的天才との評価を一貫して受け、「三徳兼備」(『太平記』、儒学思想上最高の英雄・名将)、「多聞天王の化生」(『太平記評判秘伝理尽鈔』、「軍神の化身」の意)、「日本開闢以来の名将」(江島為信『古今軍理問答』)と称された。『太平記』では奇想天外な策と智謀に長けた「不敵」(無敵)の戦術家としての活躍が印象的に描かれるが、それは正成の軍才のごく限定された一面に過ぎず、史実では刀を振るえば電撃戦を得意とし六波羅探題を震撼させた猛将であり(『楠木合戦注文』『道平公記』)、築城・籠城技術を発展させ軽歩兵・ゲリラ戦・情報戦・心理戦を戦に導入した革新的な軍事思想家であり(楠木流軍学の祖)、そして畿内にいながらにして日本列島の戦乱全体を俯瞰・左右した不世出の戦略家だった(『梅松論』『国史大辞典』)。
明治以降は「大楠公」と称され、明治13年(1880年)には正一位を追贈された。また、湊川神社の主祭神となった。
戦前までは、正成の忠臣としての側面のみが過剰に評価されたことで、対比として主君である後醍醐天皇やその建武政権の政策への低評価に繋がり、同時代への実証的研究を困難にさせた。しかし、2000年前後以降は、主君後醍醐の政策は前後の時代との連続性が見られることが指摘され、『太平記』で創作されたような暗君像は改められる方向にある。正成についても、何か一つの側面に縛られるような人間ではなく、武将・官僚・商人など、多面的な顔と才能を持つ人物であったことが明らかになってきている。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipe
東 京 駅
東京駅は、東京都千代田区丸の内一丁目にある、東日本旅客鉄道・東海旅客鉄道・東京地下鉄の駅である。 ※以下、JR東日本とJR東海を総称する場合は「JR」と表記する。
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