千代田区役所(スタート)→清水門→気象観測露場→北の丸公園→ザ・フォレスト 北の丸→江戸城 北桔橋門→天守台(江戸城跡)→石室→二の丸庭園→江戸城 百人番所→江戸城 大手門→鎌倉橋→千代田区立スポーツセンター(ゴール)

6月度ちよだ皇居周辺
リフレッシュウオーク2019

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千代田区役所(スタート)
千代田区役所(スタート)
千代田区役所(スタート)
千代田区役所(スタート)
千代田区役所(スタート)
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大隈重信侯 雉子橋邸跡

早稲田大学の創立者、大隈重信(18381922)は、明治新政府に出仕し、大蔵卿等を歴任し、日本国「円」の創設に尽力しました。また内閣総理大臣を二度にわたり務め、近代国家の基礎創りに貢献しました。

大隈重信は、1876(明治9)年10月から1884(明治17)年3月まで、雉子橋邸宅(当時の麹町区飯田町1丁目1番地)に住み、1882(明治15)年10月創立の早稲田大学の前身、東京専門学校の開校事務もこの邸宅で行いました。

2007(平成19)年10

出典: 早稲田大学

千代田稲門会

千代田区役所(スタート)
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大隈重信侯 雉子橋邸跡

早稲田大学の創立者、大隈重信(18381922)は、明治新政府に出仕し、大蔵卿等を歴任し、日本国「円」の創設に尽力しました。また内閣総理大臣を二度にわたり務め、近代国家の基礎創りに貢献しました。

大隈重信は、1876(明治9)年10月から1884(明治17)年3月まで、雉子橋邸宅(当時の麹町区飯田町1丁目1番地)に住み、1882(明治15)年10月創立の早稲田大学の前身、東京専門学校の開校事務もこの邸宅で行いました。

2007(平成19)年10

出典: 早稲田大学

千代田稲門会

千代田区役所(スタート)
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大隈重信侯 雉子橋邸跡

早稲田大学の創立者、大隈重信(18381922)は、明治新政府に出仕し、大蔵卿等を歴任し、日本国「円」の創設に尽力しました。また内閣総理大臣を二度にわたり務め、近代国家の基礎創りに貢献しました。

大隈重信は、1876(明治9)年10月から1884(明治17)年3月まで、雉子橋邸宅(当時の麹町区飯田町1丁目1番地)に住み、1882(明治15)年10月創立の早稲田大学の前身、東京専門学校の開校事務もこの邸宅で行いました。

2007(平成19)年10

出典: 早稲田大学

千代田稲門会

千代田区役所(スタート)
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大隈重信侯 雉子橋邸跡

早稲田大学の創立者、大隈重信(18381922)は、明治新政府に出仕し、大蔵卿等を歴任し、日本国「円」の創設に尽力しました。また内閣総理大臣を二度にわたり務め、近代国家の基礎創りに貢献しました。

大隈重信は、1876(明治9)年10月から1884(明治17)年3月まで、雉子橋邸宅(当時の麹町区飯田町1丁目1番地)に住み、1882(明治15)年10月創立の早稲田大学の前身、東京専門学校の開校事務もこの邸宅で行いました。

2007(平成19)年10

出典: 早稲田大学

千代田稲門会

千代田区役所(スタート)
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大隈重信侯 雉子橋邸跡

早稲田大学の創立者、大隈重信(18381922)は、明治新政府に出仕し、大蔵卿等を歴任し、日本国「円」の創設に尽力しました。また内閣総理大臣を二度にわたり務め、近代国家の基礎創りに貢献しました。

大隈重信は、1876(明治9)年10月から1884(明治17)年3月まで、雉子橋邸宅(当時の麹町区飯田町1丁目1番地)に住み、1882(明治15)年10月創立の早稲田大学の前身、東京専門学校の開校事務もこの邸宅で行いました。

2007(平成19)年10

出典: 早稲田大学

千代田稲門会

千代田区役所(スタート)
千代田区役所(スタート)

大隈重信侯 雉子橋邸跡

早稲田大学の創立者、大隈重信(18381922)は、明治新政府に出仕し、大蔵卿等を歴任し、日本国「円」の創設に尽力しました。また内閣総理大臣を二度にわたり務め、近代国家の基礎創りに貢献しました。

大隈重信は、1876(明治9)年10月から1884(明治17)年3月まで、雉子橋邸宅(当時の麹町区飯田町1丁目1番地)に住み、1882(明治15)年10月創立の早稲田大学の前身、東京専門学校の開校事務もこの邸宅で行いました。

2007(平成19)年10

出典: 早稲田大学

千代田稲門会

千代田区役所(スタート)
千代田区役所(スタート)
千代田区役所(スタート)
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中部日本放送 東京支社脇
中部日本放送 東京支社脇
清水門遊歩道から武道館を望む
清水門遊歩道から武道館を望む

日本武道館

東京都千代田区北の丸公園2-3にある武道館。日本伝統の武道を普及奨励し、心身錬磨の大道場としての役割を担うことを設立趣旨とする。日本武道協議会加盟。武道以外の屋内競技場、多目的ホールとしても利用される。管理運営者は公益財団法人日本武道館。単に「武道館」といえば一般的に当館の事を指す。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia

清水門内階段
清水門内階段
清水門内階段
清水門内階段
清水門内階段
清水門内階段
清水門内階段(北の丸公園)
清水門内階段(北の丸公園)
清水門内階段(Toilets)から千代田区役所方面を望む
清水門内階段(Toilets)から千代田区役所方面を望む
清水門内階段(Toilets)から千代田区役所方面を望む
清水門内階段(Toilets)から千代田区役所方面を望む
清水門内階段(Toilets)から千代田区役所方面を望む
清水門内階段(Toilets)から千代田区役所方面を望む
清水門内階段(Toilets)から清水門
清水門内階段(Toilets)から清水門
清水門内階段(北の丸公園)
清水門内階段(北の丸公園)
吉田茂像
吉田茂像

吉 田 茂 像

古来各國史上名相賢宰星羅照映スト雖モ昭和曠古ノ大戦ニ社稷傾覆生民塗炭ノ苦悩ニ方リ萬世ノ為ニ太平ヲ開クノ聖旨ヲ奉シ内外ノ輿望ヲ負ウテ剛明事ニ任シ慷慨敢言英邁洒落能ク人材ヲ舉用シ民心ヲ鼓舞シ以テ復興ノ大義ニ盡瘁セシコト公ノ如キハ實ニ稀代ノ偉勲ト謂フベシ後人相謀ツテ茲ニ厥ノ像ヲ建テ長ク高風ヲ仰カント欲ス亦善イ哉

昭和五十六年九月

舟越保武 作

安岡正篤 文

桑原翠邦 書

気象観測露場
気象観測露場
気象観測露場
気象観測露場
旧陸軍 近衛歩兵第二連隊 跡 周辺
旧陸軍 近衛歩兵第二連隊 跡 周辺
旧陸軍 近衛歩兵第二連隊 跡 周辺
旧陸軍 近衛歩兵第二連隊 跡 周辺
旧陸軍 近衛歩兵第二連隊 跡 周辺
旧陸軍 近衛歩兵第二連隊 跡 周辺
旧陸軍 近衛歩兵第二連隊 跡 周辺
旧陸軍 近衛歩兵第二連隊 跡 周辺
旧陸軍 近衛歩兵第二連隊 跡 周辺
旧陸軍 近衛歩兵第二連隊 跡 周辺
北の丸公園
北の丸公園
北の丸公園
北の丸公園の池
北の丸公園の池
北の丸公園の橋
北の丸公園の橋
北の丸公園の橋
北の丸公園の橋
北の丸公園 多機能トイレ方面
北の丸公園 多機能トイレ方面
北の丸公園の池 流れ込む小川
北の丸公園の池 流れ込む小川
至 江戸城 北桔橋門
至 江戸城 北桔橋門
至 江戸城 北桔橋門
至 江戸城 北桔橋門
至 江戸城 北桔橋門
至 江戸城 北桔橋門
至 江戸城 北桔橋門
至 江戸城 北桔橋門
北白川宮能久親王銅像 周辺
北白川宮能久親王銅像 周辺
江戸城 北桔橋門前 陸橋
江戸城 北桔橋門前 陸橋
江戸城 北桔橋門
江戸城 北桔橋門
江戸城 北桔橋門
江戸城 北桔橋門

北 桔 橋 門

北桔橋門は、竹橋から千鳥が淵に抜ける通称 代官町通りの北の丸公園入口の正面にある小さな橋であり、皇居の天守台北側と北の丸方面をつなぐ城門でもある。ここは、東の 平川濠 と西の乾濠を分ける土橋になっている部分で、いわゆる橋になっているのは、皇居東御苑の入口から僅か56mの部分のみである。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

江戸城 北桔橋門から三日月濠(乾濠)を眺める
江戸城 北桔橋門から三日月濠(乾濠)を眺める
江戸城 北桔橋門から平川濠を眺める
江戸城 北桔橋門から平川濠を眺める
北桔橋門
北桔橋門

北 桔 橋 門

北桔橋門は、竹橋から千鳥が淵に抜ける通称 代官町通りの北の丸公園入口の正面にある小さな橋であり、皇居の天守台北側と北の丸方面をつなぐ城門でもある。ここは、東の 平川濠 と西の乾濠を分ける土橋になっている部分で、いわゆる橋になっているのは、皇居東御苑の入口から僅か56mの部分のみである。

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天守台(江戸城跡)とアジサイ
天守台(江戸城跡)とアジサイ
至 江戸城 北桔橋門
至 江戸城 北桔橋門
至 江戸城 北桔橋門
至 江戸城 北桔橋門
北白川宮能久親王銅像 周辺
北白川宮能久親王銅像 周辺
江戸城 北桔橋門前 陸橋
江戸城 北桔橋門前 陸橋
江戸城 北桔橋門
江戸城 北桔橋門
江戸城 北桔橋門
江戸城 北桔橋門
江戸城 北桔橋門から三日月濠(乾濠)を眺める
江戸城 北桔橋門から三日月濠(乾濠)を眺める
江戸城 北桔橋門から平川濠を眺める
江戸城 北桔橋門から平川濠を眺める
北桔橋門
北桔橋門
天守台(江戸城跡)とアジサイ
天守台(江戸城跡)とアジサイ

天 守

日本の城の天守は、住宅として利用された天正期の安土城(織田氏)や大坂城(豊臣氏)などの例は別格として、江戸時代を通して居住空間として使用された例は少ない。姫路城や熊本城などの江戸時代初期までに建てられた天守内には、井戸を伴う台所や便所、畳敷きの部屋など居住設備を設けていた例もあるが、城主は本丸や二ノ丸、三ノ丸などに建てられた御殿で政務や生活を行い、天守はおもに物置として利用されることが多かった。

江戸時代初頭、徳川幕府に届出をする際に天守の名称を憚った櫓の例があり、現在ではそれらの象徴的役割にあった櫓も天守に分類し、それらを総称して天守建築ということがある。外観で2重から5重のものがあり、安土桃山時代の末には最終防衛拠点としての位置づけがされており、本丸に築くことが多かった。本丸の中で天守をさらに囲う郭を造り、この郭を天守郭・天守曲輪(てんしゅくるわ)や天守丸(てんしゅまる)などと呼んだ。ちなみに、天守や櫓を建てることを「を上げる」という。

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天守台(江戸城跡)とアジサイ
天守台(江戸城跡)とアジサイ
天守台(江戸城跡)とアジサイ
天守台(江戸城跡)とアジサイ
天守台(江戸城跡)とアジサイ
天守台(江戸城跡)とアジサイ
天守台(江戸城跡)とアジサイ
天守台(江戸城跡)とアジサイ
桃華楽堂
桃華楽堂
桃華楽堂
桃華楽堂

桃 華 楽 堂

香淳皇后の還暦を記念して建てられ、香淳皇后のお印の「桃」にちなんで命名された音楽堂で、昭和41年(1966年)に完成しました。

屋根はデッセンの花紅を(かたど)り、八つある壁面は、各面とも大きく羽ばたく鳥を中央に、それぞれ日月星、松竹梅、楽の音などをイメージした図柄が陶片で描かれています。

 

天守台(江戸城跡)
天守台(江戸城跡)
天守台
天守台
天守台
天守台

江戸城 天守台

徳川家康の入城以来、江戸城では、慶長度天守(1607年)、元和度天守(1623年)、寛永度天守(1638年)と3度、天守が建てられました。最も規模が大きかった寛永度天守は、地上からの高さが約58mあったといわれています。

この天守台は、寛永度天守が明暦の大火(1657年)により焼失した後、天守再建を目指して万治元年(1659年)築かれたものですが、幕府内で、天守は不要との結論が下され、この天守台には天守が建てられないままになりました。

江戸時代の江戸城は、天守があった50年間の後、天守がない状態が210年間続いたことになります。

 

 

天守台
天守台


天守台(江戸城跡) 方向盤
天守台(江戸城跡) 方向盤
江戸城本丸御殿
江戸城本丸御殿

江 戸 城 本 丸 御 殿

この天守台から見える大芝生とその周辺には、江戸城本丸御殿の建物が立ち並んでいました。本丸御殿は、(おもて)中奥(なかおく)大奥(おおおく)という三つの空間に分かれていました。

表は、将軍の謁見(えつけん)など公的な儀式・行事、幕府諸役人の執務の場で、中奥には将軍の日常生活、政務を執る場、大奥は御台所(おだいどころ)と呼ばれた将軍の正妻をはじめ家族や女性たちの生活の場でした。

 

 

竹林
竹林

竹 林

竹 林

この竹林は上皇陛下のお考えから、平成8年(1996年)に整備されました。

昭和天皇がそのお印であった「若竹」にちなみ喜寿の記念等に宮内庁職員から送られ、吹上御殿にお植えになっていたものを、こちらに移したものです。日本と中国の竹・笹類13種類が植えられています。

インヨウチク島根県比婆山特産で、葉はクマザサのように大きく、緑色。
カンザンチク中国産で、ササの中で最大級
シホウチク中国原産で、稈は四角形。
undefinedコンシマダケマダケの変種で、葉に濃紺色の縞模様。
undefinedラッキョウヤダケヤダケの品種で、節間が膨れてラッキョウ型。
undefinedホウショウチクホウライチクの変種で、葉に白い縞模様。
undefinedスホウチクホウライチクの変種で、稈に紅黄色の縦縞。
undefinedホウライチク中国産で、稈が密生。
undefinedオウゴンチクマダケの変種、稈は黄金色。
undefinedキンメイチクマダケの変種、稈は黄色に緑色の縦縞。
undefinedギンメイチクマダケの変種、稈は緑色に黄色の縦縞。
undefinedキッコウチクモウソウチクの変種で、下部
の節間が交互に膨れて亀甲
状。
undefinedキンメイモウソウモウソウチクの変種で、稈に黄色の縦縞。
竹 林

※竹の幹を稈(かん)と言います。

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キンメイモウソウ
キンメイモウソウ
キンメイモウソウ
キンメイモウソウ

イネ科

キンメイモウソウ

キッコウチク
キッコウチク
キッコウチク
キッコウチク

イネ科

キッコウチク

ギンメイチク
ギンメイチク
ギンメイチク
ギンメイチク

イネ科

ギンメイチク

キンメイチク
キンメイチク
キンメイチク
キンメイチク

イネ科

キンメイチク

オウゴンチク
オウゴンチク
オウゴンチク
オウゴンチク

イネ科

オウゴンチク

スホウチク
スホウチク
スホウチク
スホウチク

イネ科

スホウチク

ラッキョウヤダケ
ラッキョウヤダケ
ラッキョウヤダケ
ラッキョウヤダケ

イネ科

ラッキョウヤダケ

コンシマダケ
コンシマダケ
コンシマダケ
コンシマダケ

イネ科

コンシマダケ

シホウチク
シホウチク
シホウチク
シホウチク

イネ科

シホウチク

カンザンチク
カンザンチク
カンザンチク
カンザンチク

イネ科

カンザンチク

インヨウチク
インヨウチク
インヨウチク
インヨウチク

イネ科

インヨウチク

ナンテン
ナンテン
ナンテン
ナンテン

イネ科

ナンテン

石室
石室

(いし) (むろ)

この場所は江戸城本丸御殿の大奥の脇に当たります。石室の用途は諸説ありますが、火事などの非常の際に、大奥用の稠度などの避難場所と考えられています。

石室
石室
石室
石室
至 江戸城 富士見多聞櫓
至 江戸城 富士見多聞櫓
至 江戸城 富士見多聞櫓
至 江戸城 富士見多聞櫓
至 江戸城 富士見多聞櫓
至 江戸城 富士見多聞櫓
至 江戸城 富士見多聞櫓
至 江戸城 富士見多聞櫓
至 江戸城 富士見多聞櫓
至 江戸城 富士見多聞櫓
至 江戸城 富士見多聞櫓
至 江戸城 富士見多聞櫓
至 江戸城 富士見多聞櫓
至 江戸城 富士見多聞櫓
江戸城 富士見多聞櫓 周辺
江戸城 富士見多聞櫓 周辺
江戸城 富士見多聞櫓 周辺
江戸城 富士見多聞櫓 周辺
江戸城 富士見多聞櫓
江戸城 富士見多聞櫓

江戸城 富士見多聞櫓

 

「多聞」は、長屋作りの防御施設です。

江戸城には多くの多聞がありましたが、現存するのは、この富士見多聞と、伏見櫓の左右にある多聞だけになりました。現在の富士見多聞は、江戸城の多くの建物が焼失した明暦の大火(1657年)の後、諸建物が再建された際に建てられたものと考えられます。

「御休息所前多聞」とも呼ばれています。

 

江戸城 富士見多聞櫓
江戸城 富士見多聞櫓
江戸城 富士見多聞櫓
江戸城 富士見多聞櫓
江戸城 富士見多聞櫓
江戸城 富士見多聞櫓
江戸城 富士見多聞櫓
江戸城 富士見多聞櫓
江戸城 富士見多聞櫓
江戸城 富士見多聞櫓
至 江戸城 富士見多聞櫓
至 江戸城 富士見多聞櫓

午 砲 台

()砲台(ほうだい)とはかつて報時のための午砲(空砲)を撃っていた場所のことである。午報所とも呼ばれた。1871年、午砲の制が定められ全国各地に設置されている。空砲の音はドンとも呼ばれ親しまれたことから、後にドン山などという愛称が付けられた午砲台も存在する。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

江戸城 富士見多聞櫓 周辺
江戸城 富士見多聞櫓 周辺
江戸城 富士見多聞櫓 周辺
江戸城 富士見多聞櫓 周辺
江戸城 富士見多聞櫓 周辺
江戸城 富士見多聞櫓 周辺
江戸城 富士見多聞櫓
江戸城 富士見多聞櫓
江戸城 富士見多聞櫓
江戸城 富士見多聞櫓

汐 見 坂

徳川家康による江戸城築城の頃は、この場所の近くにまで日比谷入江が入り込み、この坂から海を眺めることができたことから「汐見坂」の名が付いたといわれています。

この坂は、本丸と二の丸をつないでいたもので、坂上には、汐見坂門が設けられています。

アサザ
アサザ

アサザ

アサザはミツガシワ科アサザ属の多年草。ユーラシア大陸の温帯地域に分布し、日本では本州や九州、稲美町などに生育する。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ヒメコウホネ
ヒメコウホネ

ヒメコウホネ(姫河骨)

地下茎は太く、白色、水底の地中を這い、横へ 広がる。葉は束生し、長い円筒状の葉柄がある。水中葉(沈水葉)は質が薄く、縁が波打つ。水上葉(浮葉)は水面に浮かび、水面が低下すると、水面から出て抽水葉となる。水上葉は長さ610㎝、幅58㎝の広卵形、質がやや厚く、全縁、無毛、表面に光沢があり、基部は深く切れ込む。花柄は長く、水面から上に出て、花を1個上向きにつける。花は黄色、直径34㎝。花弁状に見える萼片は普通5個。花弁は小さく、多数。

コウホネ Nuphar japonicum 水中葉は膜質で細長く、水上葉は光沢があり、長さ2030㎝の長卵形、水面から出る(抽水形)。花は直径約5㎝のわん形。花弁状に見えるのが萼片で、5個。花弁はへら状で小さく、多数が1列に並ぶ。雄しべ、多数、花糸の幅が広い。雌しべの先は広がり、柱頭盤を形成し、柱頭は放射状に並ぶ。

オグラコウホネ Nuphar oguraensisはヒメコウホネに似るが、葉柄が中空、葉が水面に浮かぶ。

ネムロコウホネ Nuphar pumilum は葉が水面に浮かぶ。

出典:三河地方の植物・地衣類・きのこなどを紹介

ヒメコウホネ
ヒメコウホネ
二の丸庭園
二の丸庭園

二の丸庭園(皇居東御苑)

江戸城二の丸は本丸の東側に位置し、3代将軍家光の命で1630(寛永7)年に小堀遠州の手により遊行のための庭園を造成。家光と秀忠との茶会が催されています。2代将軍・徳川秀忠が死去した後の1636(寛永13)年には二の丸御殿が建てられ東側に庭園を配置しました。現存する庭園は往時の庭園を昭和43年に復元したものです。

出典:東京とりっぷ

二の丸庭園
二の丸庭園
二の丸池
二の丸池

二の丸池

この二の丸池にはコウホネ、ヒメコウホネ、ヒツジグサ、アサザの4種類の水生植物が生育しています。初夏から秋にかけて水面を覆い、それぞれ黄色や白色の花を咲かせます。アサザは赤坂御用地の池から株を移したものです。

アサザヒメコウホネ
① アサザ
ミツガシワ科
➂ヒメコウホネ
スイレン科
㋄中旬~㋉中旬、対生する葉のわきに数本の花茎をだし、黄色の花を開く。コウホネの小型種。葉は、広卵形。㋄中旬~㋈下旬、黄色い花を開く。
コウホネヒツジグサ
② コウホネ
スイレン科
➃ヒツジグサ 
スイレン科
㋃下旬~㋈下旬、長く直立した円柱形の花柄の先に黄色の花を1個上向きに開く。河(こう)骨(ほね)の名は、川に生え、根茎が白骨のように見えることによる。㋄下旬~㋉下旬、細長い根生の花柄の先に白色の清楚な花を1個開く。未草(ひつじくさ)の名は、未の刻(午後2時)に花が開くことによるが、開花時間は必ずしも一定しない。
二の丸池の浮葉性植物
菖蒲田(二の丸庭園)
菖蒲田(二の丸庭園)

菖蒲田

この菖蒲田には、84品種のハナショウブが植えられています。皇居東御苑造成中の昭和41年(1966)に明治神宮御苑の菖蒲田から株を譲り受けて以来、大切に守り育てているものです。

二の丸庭園のハナショウブ
二の丸庭園のハナショウブ

花の見頃:6月上旬~中旬

アヤメの仲間の生育場所の違い

二の丸庭園のハナショウブ
二の丸庭園のハナショウブ

ハナショウブ

ハナショウブは、山野に自生するアヤメ科のノハナショウブをもとに改良された園芸品種です。品種改良は江戸時代から盛んになり、改良された地域によって、江戸系、肥後系、伊勢系の三系統に大別され、ここには江戸系が植えられています。

🔶江戸系
 庭園などで群生の美しさを鑑賞するのに向き、風雨に強く、草丈の高いものが多いです。また、平咲きの花が多いのも特徴で多様な花形が見られます。
🔶肥後系
 金屏風の前で鑑賞するなど鉢植えに適し、大輪の豪華な花が多いのが特徴です。
🔶伊勢系
 鉢植え向きで、花弁が垂れ下がり、優美で繊細な花が多いのが特徴です。
江戸系、肥後系、伊勢系の三系統

アヤメ科の植物は、「いずれあやめかかきつばた」というように区別が難しいので、その違いを解説します。

 

アヤメの仲間の見分け方

カキツバタハナショウブノハナショウブアヤメイチハシ
カキツバタハナショウブノハナショウブアヤメイチハシ
花期:5月中旬~下旬
外花被片の中央部に白斑があり、基部は帯黄色
花期:5月下旬~6月下旬
外花被片の中央部に淡黄色の細い斑点
花期:5月下旬~6月下旬
外花被片の中央部に淡黄色の細い斑点
花期:5月上旬~中旬
外花被片の中央
から基部にかけて黄色の網状の模様
花期:4月下旬~5月中旬
外花被片の上面中央にとさか状の突起
カキツバタ葉ハナショウブ葉ノハナショウブ葉アヤメ葉イチハシ葉
幅が広く、中脈はない幅は中位で、中脈が太い幅が細く、太い中脈が目立つ幅が細く、中脈はあるが目立たない幅が広く、中脈は目立たない
アヤメの仲間の見分け方
二の丸庭園 花菖蒲(ハナショウブ)
二の丸庭園 花菖蒲(ハナショウブ)
二の丸庭園 花菖蒲(ハナショウブ)
二の丸庭園 花菖蒲(ハナショウブ)
二の丸池
二の丸池
二の丸庭園 花菖蒲(ハナショウブ)
二の丸庭園 花菖蒲(ハナショウブ)
二の丸庭園 花菖蒲(ハナショウブ)
二の丸庭園 花菖蒲(ハナショウブ)
二の丸庭園 花菖蒲(ハナショウブ)
二の丸庭園 花菖蒲(ハナショウブ)
二の丸庭園 花菖蒲(ハナショウブ)
二の丸庭園 花菖蒲(ハナショウブ)
二の丸庭園 花菖蒲(ハナショウブ)
二の丸庭園 花菖蒲(ハナショウブ)
二の丸庭園 花菖蒲(ハナショウブ)
二の丸庭園 花菖蒲(ハナショウブ)
二の丸庭園 花菖蒲(ハナショウブ)
二の丸庭園 花菖蒲(ハナショウブ)
二の丸庭園 花菖蒲(ハナショウブ)
二の丸庭園 花菖蒲(ハナショウブ)
二の丸庭園 花菖蒲(ハナショウブ)
二の丸庭園 花菖蒲(ハナショウブ)
二の丸庭園 花菖蒲(ハナショウブ)
二の丸庭園 花菖蒲(ハナショウブ)
二の丸庭園 花菖蒲(ハナショウブ)
二の丸庭園 花菖蒲(ハナショウブ)
二の丸庭園 花菖蒲(ハナショウブ)
二の丸庭園 花菖蒲(ハナショウブ)
菖蒲田(二の丸庭園)
菖蒲田(二の丸庭園)
至 江戸城 百人番所から大手町方面を望む
至 江戸城 百人番所から大手町方面を望む
至 江戸城 百人番所から大手町方面を望む
至 江戸城 百人番所から大手町方面を望む
白鳥濠
白鳥濠

白鳥濠(皇居東御苑)

江戸城の二の丸と本丸の間を東西に隔てる(ほり)白鳥(はくちょう)(ぼり)。南北に長く伸びて本丸を守るかたちになっています。濠の北側は汐見坂で、築城初期にはこの坂から日比谷入江を眺めました。白鳥濠は、完全に独立した濠で、濠に湛える水は湧き水と雨水のみになっています。家康時代に積まれたという石垣も必見です。

出典:東京とりっぷ

江戸城 百人番所
江戸城 百人番所
江戸城 百人番所
江戸城 百人番所

江戸城 百人番所

江戸城本丸への道を厳重に守る中之門に向き合って設けられた警備詰所です。甲賀組、伊賀組、根来組、二十五騎組という4組の鉄砲百人組が昼夜交替で勤務していました。各組は20人の与力と、100人の同心で構成されていました。

三の丸尚蔵館から大手町方面を望む
三の丸尚蔵館から大手町方面を望む
三の丸尚蔵館
三の丸尚蔵館

三の丸尚蔵館

アジサイ(Hydr angea)ノリウツギ(Panicle hydrangea)
本丸では、天守台や富士見多聞(たもん)の付近、二の丸では、各所で見られます。青紫、赤紫など様々な色で初夏から夏を彩っています。二の丸雑木林付近で見られる落葉高木です。たくさんの花が円錐(えんすい)状に集まって咲いています。花びらのように見えるのは装飾(そうしょく)花(か)です。
カイコウズ(Common Coral-Tree)タイサンボク(Grand Magnolla)
鹿児島県の県木として、二の丸にある都道府県の木のコーナーに植えられています。南国らしい深紅色の蝶形の花が咲いています。アメリカデイコとも呼ばれます。ハクレンボクとも呼ばれます。本丸天守台付近で見られ、甘い香りのする大きな白い花が目立ちます。
富士見多聞(Fujimitamon)二の丸雑木林(Ni-no-maru grove)
多聞(たもん)は、防衛と装飾を兼ねた長屋造りの櫓(やぐら)の一種類で、江戸城本丸には15棟がありましたが、今では現存する唯一の遺構です。昭和天皇の御発意で、昭和57年~60年に、武蔵野の雑木林の面影を持つ樹林を整備しました。
今では、昆虫や野鳥のすみかともなっています。
三の丸尚蔵館
三の丸尚蔵館
三の丸尚蔵館
皇居東御苑管理事務所 周辺
皇居東御苑管理事務所 周辺
江戸城 大手門
江戸城 大手門

江戸城 三ノ丸大手門

大手門は江戸城の正門で、諸大名がこの門から登城しました。大小2つの門に囲まれた枡形は、侵入する敵を阻止・攻撃し易い構造になっております。大き方の門は、昭和20年(1945年)4月の空爆で焼失し、昭和42年(1967年)に復元されました。焼失前の門の屋根に飾られていた鯱には、頭部に「明暦三丁酉」(1657年)と刻まれています。この明暦3年には、江戸城の多くの建物が焼失した明暦の大火が起きており、鯱は、大火の後、江戸城再建時に製作されたものと考えられます。

 

江戸城 大手門 歩道
江戸城 大手門 歩道
日本歯科大学発祥の地の碑 周辺
日本歯科大学発祥の地の碑 周辺
鎌倉橋 周辺
鎌倉橋 周辺
鎌倉橋 周辺
鎌倉橋 周辺
鎌倉橋
鎌倉橋

鎌倉橋 (日本橋川)

鎌倉橋は、東京都千代田区にある日本橋川に架かる橋である。神田地区と大手町地区の境界に当たる。左岸は内神田一・二丁目、右岸は大手町一・二丁目となる。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

千代田区立スポーツセンター
鎌倉橋
千代田区立スポーツセンター
千代田区立スポーツセンター

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3月度ちよだ皇居周辺リフレッシュウオーク2019

3月度ちよだ皇居周辺
リフレッシュウオーク2019

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千代田区役所から清水門を望む
千代田区役所から清水門を望む
千代田区役所から清水門を望む
千代田区役所から清水門を望む
千代田区役所から清水門を望む
千代田区役所から清水門を望む
代田区役所(スタート)
代田区役所(スタート)
代田区役所(スタート)
代田区役所(スタート)
千代田区役所(スタート)
千代田区役所(スタート)
千代田区役所(スタート)
千代田区役所(スタート)
千代田区役所(スタート)
千代田区役所(スタート)
千代田区役所(スタート)
千代田区役所(スタート)

江戸幕府蔵屋敷の礎石

江戸幕府清水門前のこの場所は、将軍直属家臣の居住地や蔵・馬場、厩といった江戸城付属の施設が置かれました。

平成16年の遺跡発掘調査では、近世初頭に水田地帯を埋め立てて屋敷を築いたことがわかりました。ここに設置した石は、敷地南半に広がる米蔵の礎石の一部で、配置は出土状態を再現しています。

礎石の配列から、二棟の東西に長い建物で、明暦の大火(1657年)で焼失したと考えられます。礎石のうち、大きな石材は柱や壁を支え。

小さな石材は床を支える基礎と考えられます。

 

大隈重信邸跡

近代になるとこの地は、明治政府の厩が置かれましたが、明治9年には二度の総理に就任し、早稲田大学を創設するなど多方面に活躍した大隈重信が邸宅を構えます。

その後、フランス公使館、憲兵練習場、国営竹平住宅を経て現代を迎えます。

 

千代田区役所(スタート)
千代田区役所(スタート)
千代田区役所(スタート)
千代田区役所(スタート)
千代田区役所(スタート)
千代田区役所(スタート)
千代田区役所(スタート)
千代田区役所(スタート)
清水門遊歩道から武道館を望む
清水門遊歩道から武道館を望む
清水門遊歩道から武道館を望む
清水門遊歩道から武道館を望む
清水門遊歩道から武道館を望む
清水門遊歩道から武道館を望む
清水門遊歩道
清水門遊歩道
清水門遊歩道
清水門遊歩道
清水門石垣
清水門石垣
清水泉ステージ
清水泉ステージ
旧軍、警備員、第二チームに
旧軍、警備員、第二チームに
旧軍、警備員、第二チームに
旧軍、警備員、第二チームに
旧軍、警備員、第二チームに
旧軍、警備員、第二チームに
旧軍、警備員、第二チームに
旧軍、警備員、第二チームに
旧軍、警備員、第二チームに
旧軍、警備員、第二チームに
旧軍、警備員、第二チームに
旧軍、警備員、第二チームに
旧軍、警備員、第二チームに
旧軍、警備員、第二チームに

ハクモクレン

モクレン科

〇庭や公園に植えられます。

〇春に芳香のある白い花が咲きます。

〇中国名の木蓮が名前の元になりました。

旧軍、警備員、第二チームに
旧軍、警備員、第二チームに
旧軍、警備員、第二チームに
旧軍、警備員、第二チームに
旧軍、警備員、第二チームに
旧軍、警備員、第二チームに
旧軍、警備員、第二チームに
旧軍、警備員、第二チームに
旧軍、警備員、第二チームに
旧軍、警備員、第二チームに
旧軍、警備員、第二チームに
旧軍、警備員、第二チームに
旧軍、警備員、第二チームに
旧軍、警備員、第二チームに
旧軍、警備員、第二チームに
旧軍、警備員、第二チームに
旧軍、警備員、第二チームに
旧軍、警備員、第二チームに
旧軍、警備員、第二チームに
旧軍、警備員、第二チームに
北の丸公園
北の丸公園

(きた)(まる)公園(こうえん)

北の丸公園は、東京都千代田区の皇居に隣接する国民公園、および同公園の所在地である千代田区の町名である。旧麹町区の区域内である。郵便番号は102-0091

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北の丸公園
北の丸公園
至 ザ・フォレスト 北の丸
至 ザ・フォレスト 北の丸

ザ・フォレスト北の丸(北の丸休憩所)

森林公園として多くの利用者に親しまれている北の丸公園。そんな公園の緑に包まれた一角に、ザ・フォレスト北の丸(北の丸休憩所)はあります。

屋根に設置された太陽光発電パネルから供給されるグリーン電力により、使用電力の一部が賄われており、発電状況などが、モニターで映し出されています。モニターでは、その他に、施設で実施しているエコな取組みや、北の丸公園のみどころなどをご紹介しています。

インフォメーションラックでは、北の丸公園や皇居外苑の散策に便利なウォーキングマップをはじめ、北の丸公園を含む自然、環境関連情報や近隣の文化施設のご案内などを配布しておりますので、お立ち寄りの際に、是非ご利用ください。 豊富なカフェメニューの他売店では野鳥グッズをはじめ菓子パン、スナック菓子、おにぎりといった軽食や飲料水の自動販売機も設置されていますので、気兼ねなくご利用頂けます。

出典:環境省 皇居外苑管理事務所

至 ザ・フォレスト 北の丸
至 ザ・フォレスト 北の丸
至 ザ・フォレスト 北の丸
至 ザ・フォレスト 北の丸
至 ザ・フォレスト 北の丸
至 ザ・フォレスト 北の丸
千鳥ヶ淵さんぽみち
千鳥ヶ淵さんぽみち

千鳥ヶ淵さんぽみち

千鳥ヶ淵緑道 (代官町通り経由) 1230m
千鳥ヶ淵緑道
(代官町通り経由)
1230m
千鳥ヶ淵緑道 (田安門経由) 420m
千鳥ヶ淵緑道
(田安門経由)
420m
千鳥ヶ淵さんぽみち
武道館
武道館

日本武道館

東京都千代田区北の丸公園2-3にある武道館。日本伝統の武道を普及奨励し、心身錬磨の大道場としての役割を担うことを設立趣旨とする。日本武道協議会加盟。武道以外の屋内競技場、多目的ホールとしても利用される。管理運営者は公益財団法人日本武道館。単に「武道館」といえば一般的に当館の事を指す。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

武道館
武道館
武道館前 銀杏の木
武道館前 銀杏の木

武道館前 銀杏(いちょう)の木

日本武道館前のイチョウ並木の中ほどに、根元を石垣で囲われた、ひときわ大きなイチョウの木があります。この木は、北の丸公園では一番大きなイチョウの木で、昭和44年に北の丸公園が開園して以来、凡そ50年にわたり北の丸公園の大イチョウと呼ばれて親しまれている大木です。

出典:環境省 皇居外苑管理事務所

 

日本武道館敷地内
日本武道館敷地内
至 江戸城 田安門
至 江戸城 田安門
江戸城 田安門
江戸城 田安門

江戸城 田安門

田安門は、東京都千代田区北の丸公園内にある、旧江戸城の門。北面する高麗門と西側に矩折りに位置する櫓門からなる桝形門である。1961年に「旧江戸城田安門」として国の重要文化財に指定されている。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

江戸城 田安門 遊歩道
江戸城 田安門 遊歩道
江戸城 田安門 遊歩道
江戸城 田安門 遊歩道
江戸城 田安門 遊歩道
江戸城 田安門 遊歩道
江戸城 田安門 遊歩道
江戸城 田安門 遊歩道
江戸城 田安門 遊歩道
江戸城 田安門 遊歩道
江戸城 田安門 濠
江戸城 田安門 濠
江戸城 田安門 濠
江戸城 田安門 濠
江戸城 田安門 濠
江戸城 田安門 濠
江戸城 田安門 濠
江戸城 田安門 濠
江戸城 田安門 濠
江戸城 田安門 濠
戸城 田安門 濠
戸城 田安門 濠
江戸城 田安門 濠
江戸城 田安門 濠
江戸城 田安門 濠
江戸城 田安門 濠
江戸城 田安門 濠
江戸城 田安門 濠
江戸城 田安門 遊歩道
江戸城 田安門 遊歩道
子爵品川弥二郎像
子爵品川弥二郎像

子爵(ししゃく)品川(しながわ)()二郎像(じろうぞう)

天保14年(1843年)、長州藩の足軽・品川弥市右衛門と池田六左衛門の長女まつの長男として生まれた。安政5年(1858年)、松下村塾に入門して吉田松陰から教えを受けるが、安政6年(1859年)に安政の大獄で松陰が刑死すると、高杉晋作らと行動を共にして尊王攘夷運動に奔走し、英国公使館焼き討ちなどを実行している。元治元年(1864年)の禁門の変では八幡隊長として参戦し、のちに太田市之進、山田顕義らと御楯隊を組織した。慶応元年(1865年)、木戸孝允と共に上京して情報収集と連絡係として薩長同盟の成立に尽力した。戊辰戦争では奥羽鎮撫総督参謀、整武隊参謀として活躍する。

明治維新後の明治3年(1870年)、渡欧して普仏戦争を視察するなどドイツやイギリスに留学する。内務大書記官や内務少輔、農商務大輔、駐独公使、宮内省御料局長、枢密顧問官などを歴任する。明治17年(1884年)、維新の功により子爵を授けられる。

明治24年(1891年)に第1次松方内閣の内務大臣に就任するが、明治25年(1892年)の第2回衆議院議員総選挙において次官の白根専一とともに警察を動員して強力な選挙干渉を行なって死者25人を出してしまった経緯を非難され、引責辞職を余儀なくされた(ただし、実際の経緯については諸説存在する)。その後は西郷従道と協力して政治団体・国民協会を組織する。

民間にあっては、獨逸学協会学校(現:獨協学園)や旧制京華中学校(現:京華学園)を創立し、また信用組合や産業組合の設立にも貢献している。

明治33年(1900年)、流行性感冒(インフルエンザ)に肺炎を併発して死去。享年58

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九段坂公園
九段坂公園

千代田区立九段坂公園

日本武道館などがあるのが皇居北の丸公園。そこから田安門を出て靖国神社の方に渡る道が九段坂です。

九段坂には歩道橋がかかっていて、そこから見下されるところに巨大な銅像が2つと見慣れないデザインの塔が立っている小公園があります。これが九段坂公園です。

西南戦争、日清戦争、日露戦争を闘いぬき初代陸軍大臣を務めた人物です。

千代田区観光協会のサイトによれば、もとは別の場所にあったものがいつの頃にか移設されてきたとのことで、そのせいなのか公園内でも少し目立たない木陰に置かれています。

少し開けた明るいところに立つのが明治の政治家・品川弥二郎。

内務大臣を務め、産業振興での功績の大きい人物です。

ふたたび千代田区観光協会のサイトによれば、いつ建てられたかわからないということで、公園の財産としては古墳とか城跡とかの文化財レベルです。

大山巌、品川弥二郎とも、現代の目線で言うと、教科書に載っていて誰もが知っていそうな人物(例えば北の丸公園に銅像がある吉田茂のように)ではありませんので、皇居の入口にこんなに大きな銅像があると面食らってしまいます。

いつか外国からのお客さんを案内する時に備えて、予習をしておかねばなりません。

もう一つの塔は、高燈篭(常燈明台)と呼ばれるもので、は1871年(明治4年)に靖国神社(当時は東京招魂社)の献灯として建てられたものです。当時は道の反対側にあったそうですが、道路改修に伴って現在地に移転したものだそうです。

みたび千代田区観光協会のサイトによれば「当時、九段坂の上からは、遠く筑波山や房州の山々まで見渡すことができ、品川沖を行きかう船にとっては大変良い目印として灯台の役目も果たしました。」と書かれています。この辺りの標高がざっくり20メートルくらい、高燈篭が15メートルくらいありますので、あわせれば67キロ離れた品川沖からでも見えたということでしょう。しかし、間には皇居があって背の高い櫓なんかもあったと思うのですが、邪魔にはならなかったのでしょうか?

ということで、なにかと想像の外にある物件が並ぶ公園でした。

出典:日本1000公園

九段坂公園
九段坂公園
こだわりや 千鳥ヶ淵店
こだわりや 千鳥ヶ淵店

【閉店】こだわりや 千鳥ヶ淵店

料理はお新香盛りや一口餃子など居酒屋らしい味わい。木目調を基調とした店内は昭和の大衆食堂の風情で、カウンター・テーブル席もあり。

こだわりや 千鳥ヶ淵店
こだわりや 千鳥ヶ淵店
千鳥ヶ淵緑道
千鳥ヶ淵緑道

千鳥ヶ淵(ちどりがふち)(りょく)(どう)

靖国通りから北の丸公園に沿った江戸城の濠。日本有数の桜の名所で「千代田のさくらまつり」の期間中は緑道が花見客で賑わいます。ボート場があり、水面から桜を眺められます。

江戸開府当時の千鳥ヶ淵は、水を確保するためのダムとして機能していました。麹町から流れる小川をせき止めることで水源を確保しています。この水は、江戸城創成期には、本丸と西の丸の間を通って日比谷入江(現在の日比谷公園あたり)に流れ込んでいました。千鳥ヶ淵の名は、冬に都鳥などが多く集まるところからきたとも、V字型の濠が千鳥に似ているからともいわれています。

出典:千代田区観光協会

千鳥ヶ淵緑道
千鳥ヶ淵緑道
千鳥ヶ淵緑道
千鳥ヶ淵緑道
千鳥ヶ淵緑道
千鳥ヶ淵緑道
千鳥ヶ淵緑道
千鳥ヶ淵緑道
千鳥ヶ淵緑道
千鳥ヶ淵緑道
千鳥ヶ淵緑道
千鳥ヶ淵緑道
千鳥ヶ淵ボート場
千鳥ヶ淵ボート場

区営千鳥ヶ淵ボート場

数少ない都心のオアシス「千鳥ヶ淵ボート場」は、春から秋にかけて営業しています。千鳥ヶ淵といえば「さくら」がまず頭に浮かぶかと思いますが、千鳥ヶ淵の魅力は他にもたくさんあります。春から夏にかけての生き生きとした緑あふれる季節や、秋の紅葉も楽しむことができます。

これらのすばらしい景色を、ボートに乗って水上から眺めてみませんか。ボートに乗った人にしか分からない、季節ごとの千鳥ヶ淵が楽しめます。

出典:千代田区観光協会

千鳥ケ淵戦没者墓苑
千鳥ケ淵戦没者墓苑

千鳥(ちどり)()(ふち)戦没者(せんぼつしゃ)墓苑(ぼえん)

千鳥ケ淵戦没者墓苑は、日本の戦没者慰霊施設。日中戦争および太平洋戦争の戦没者の遺骨のうち、遺族に引き渡すことができなかった遺骨を安置している。公園としての性格を有する墓地公園とされており、環境省が所管する国民公園等のひとつである。千鳥ヶ淵戦没者墓苑、国立千鳥ケ淵戦没者墓苑、国立千鳥ヶ淵戦没者墓苑とも表記される。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

千鳥ヶ淵緑道
千鳥ヶ淵緑道
千鳥ヶ淵緑道
千鳥ヶ淵緑道
千鳥ヶ淵緑道
千鳥ヶ淵緑道
千鳥ヶ淵緑道
千鳥ヶ淵緑道
千鳥ヶ淵緑道
千鳥ヶ淵緑道
対墨日本人移住百周年記念
対墨日本人移住百周年記念

対墨(たいすみ)日本人(にほんじん)移住(いじゅう)百周年(ひゃくしゅうねん)記念(きねん)

所在地 千代田区麹町1-2 (千鳥ヶ淵公園)

対墨日本人移住百周年記念

メキシコ国民より日本国民へ贈呈

18971997

作者:セバスティアン

作品名:「移住」

製作年:1997

材質:スチールプレート

寸法:420×420×240cm

重量:1,000kg

対墨日本人移住百周年記念
対墨日本人移住百周年記念
半蔵門 周辺
半蔵門 周辺
半蔵門 交差点
半蔵門 交差点
国立劇場
国立劇場

国立劇場 National Theatre of Japan

日本の国立劇場(こくりつげきじょう、英語:National Theatre of Japan)は、東京都千代田区隼町にある劇場である。独立行政法人日本芸術文化振興会が運営する。日本の伝統芸能を上演するほか、伝承者の養成や調査研究も行っている。

歌舞伎・日本舞踊・演劇が演じられる大劇場、文楽・邦楽・琉球舞踊・日本舞踊(小規模公演)・雅楽・声明・民俗芸能が演じられる小劇場で構成されている。また、伝統芸能の公演の他これに携わる人材育成も行っている(歌舞伎俳優や囃子方など。文楽関係は国立文楽劇場で行う)。落語・漫才などが演じられる国立演芸場が隣接しており、2003年には国立劇場裏に伝統芸能情報館が開館し。

なお、毎年4月に行われる日本国際賞の授賞式には、天皇・皇后や内閣総理大臣、衆参両議院議長らが出席する。

新型コロナウイルス感染症の拡大を受けて開催が中止された2020年(令和2年)以外は、2012年(平成24年)から毎年311日には政府主催による東日本大震災追悼式(2021/令和3年で終了予定)がここで行われ、天皇明仁・皇后美智子(当時:2012 – 2016年度/平成24平成28年度)、秋篠宮文仁親王・同妃紀子夫妻(2017 – 2019年度/平成29平成31年度)、内閣総理大臣、衆参両議院議長らが出席している。

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国立劇場
国立劇場
国立劇場
国立劇場
国立劇場
国立劇場
国立劇場
国立劇場
国立劇場
国立劇場
国立劇場
国立劇場
国立劇場
国立劇場
国立劇場の神代曙
国立劇場の神代曙

(じん) (だい) (あけぼの)

ワシントンへ贈られた染井吉野の種から生まれた桜を東京都の神代植物公園で接木したのが原木です。

桜を植えるにあたり、財団法人日本花の会より推薦を受け、全国最初の植栽地として2000年(平成12年)に国立劇場が植栽し、以降、全国各地に広まっていきました。

花の色がやや濃く遠目にも濃淡が美しい、病気に強い、染井吉野ほど大きくならないなどの特徴があります。

国立劇場での開花は染井吉野より数日早くなっています。

平成313

国立劇場
国立劇場
国立劇場
国立劇場
国立劇場
国立劇場
国立劇場
国立劇場
国立劇場
国立劇場
国立劇場
国立劇場
国立劇場
国立劇場
おでん割烹 稲垣 周辺
おでん割烹 稲垣 周辺
平河天満宮 鳥居井
平河天満宮 鳥居井

江戸三大天神 平河(ひらかわ)天満宮(てんまんぐう)

江戸平河城城主太田道灌公が、ある日菅原道真公の夢を見ました。そして、その翌朝菅原道真公自筆の画像を贈られたこともあり、その夢を霊夢であると思い、文明10年(1478年)に城内の北へ自ら施主となり、天満宮を建立しました。(「梅花無尽蔵」による)、 その後も周囲に多くの梅の木を植え、やがてここを梅林坂と呼ぶようになり、今も皇居平川門内にその名が残っています。

徳川家康公の江戸平河城入城後間もなく、築城のため本社を平川門外に奉遷しましたが、慶長12年(1607年)二代将軍秀忠公に依り、貝塚(現在地)に奉遷されて、地名を本社にちなみ平河町と名付けられました。

徳川幕府を始め紀州、尾張両徳川家、井伊家等の祈願所となり、新年の賀礼には、宮司は将軍に単独で拝謁できる格式の待遇を受けていました。

また学問に心を寄せる人々は、古来より深く信仰し、名高い盲目の学者塙保己一や蘭学者高野長英等の逸話は、今日にも伝えられています。

現在も学問特に医学や芸能、商売繁盛等の祈願者が多くあります。

出典:平河天満宮

 

平河天満宮 鳥居井
平河天満宮 鳥居井
平河天満宮銅鳥居井
平河天満宮銅鳥居

千代田区指定有形文化財(建造物)

平河天満宮銅鳥居

この銅鳥井は、高さ5mにおよぶ鳥居です。支柱にある銘文によれば、天保15年(184412月に、麹町周辺の人々によって建設・奉納されたものと思われます。千代田区内には現在沢山の特徴的な鳥居が建てられていますが、この銅鳥居が、区内最大の鳥居です。

同様に銘文からは、この鳥居が御鋳物師・西村和泉藤原政時の作品であることもわかります。「西村和泉」というのは『文政武鑑』に「御鋳物師・西村和泉 並御(かざり)師 かんたかち丁一丁メ」とあるように、元禄から明治期まで12代にわたって神田鍛冶町に居住した鋳物師の一家系を示します。彼らは江戸とその周辺に梵鐘、灯籠、水鉢等々多くの作品を残しました。彼ら12人の当主のうち多くは「西村和泉藤原政時」を名乗りましたが、平河天満宮銅鳥居の作者は、嘉永元年(1848)に没した八代目であると思われます。

なお、新宿区市谷八幡町には、「平河天満宮銅鳥居」によく似た「市谷亀ヶ岡八幡宮の銅鳥居」(新宿区指定文化財)があります。これは「西村和泉」家五代目当主・西村和泉藤原政平らによって作られた作品です。ただし平河天満宮の銅鳥居には、左右の台座部分に4体づつ獅子の彫刻がのせてあるなど、良く見ると少しずつ違いが見つかってきます。

平河天満宮の銅鳥居は、麹町周辺の町地に住む人々の平河天満宮への信仰の様子を物語ると同時に、江戸時代の鳥居の姿を私たちに教え、その特徴的な意匠で私たちを楽しませてくれます。

出典:千代田区教育委員会

平河天満宮
平河天満宮
平河天満宮
平河天満宮

碑 文

南支派遣近衛歩兵第一聯隊第八中隊は 平河天満宮の社紋を奉戴し小林茂隊と称し南支那各地に転戦し、勲功を挙げた。終戦50周年を向かえ生存者及遺族相倚り賛華した戦友を慰霊し萬世泰平を祈念し。ここ所縁の地平河天満宮境内に慰霊碑を建立し禁闕守護の大任に服した近衛兵の名誉と皇室尊崇の誠心を、後世に伝えんとするものである

平成8年(19961115

附 記

昭和14年(19391115日近衛歩兵第一聯隊第八中隊動員業務開始同月21日動員完結1128日品川駅より勇躍征途に着く。

1130日宇品港出帆127日、広東省黄浦港上陸翌15年に亘り下記の作戦に参加して偉功を挙げた。翁英作戦、賓陽會戦、南寧地区警備、欽寧附近掃討作戦、江南作戦第二次西路作戦、仏印国境作戦南寧地区警備欽寧撤去作戦、中山附近警備、賓陽會戦に於いて近衛混成旅団は軍司令官より感状を授与。 昭和151212日広東省唐家出帆。昭和1613日東京芝浦港に上陸帰還113日復員完結。

南支派遣 近衛歩兵第一聯隊第八中隊 梅鉢会

平河天満宮
平河天満宮
平河天満宮撫牛
平河天満宮撫牛
千代田区指定有形民族文化財 名所・員数 医師牛 1基
千代田区指定有形民族文化財 名所・員数 医師牛 1基

千代田区指定有形民俗文化財

名称・員数 石牛 一基

所在地 千代田区平河町1丁目75

所有者 宗教法人 平河天満宮

年 代 嘉永5年(1852

この石牛は、浄瑠璃(じょうるり)常盤津(ときわづ)(ぶし)の岸沢右和佐の麹町の門弟らによって、奉納された嘉永5年(1852)は、祭神である菅原道真公の950年忌にあたっています。江戸市中の天満宮では開帳が行われており、平河天満宮でも225日から60日間にわたって催されています。

この開帳にあわせて、氏子たちは、石牛のほかにも境内の石造物(狛犬、筆塚、百度石、常夜燈)を奉納しています。

平河天満宮には氏子町の人々による信仰、ならびに氏子地域を越えた学業成就の信仰に基づく奉納物が数多く見られます。その中で、石牛は、常磐津節の一流派である岸沢派の麹町界隈の門弟らによって造立・奉納されたものであり、区内における学芸の広がり及び天神社に対する信仰の様子を物語る資料といえます。

平成233

出典:千代田区教育委員会

平河天満宮撫牛
平河天満宮撫牛

平河天満宮 撫で牛(なでうし)・石牛

平河天満宮の境内、鳥居を入り左側の平河稲荷神社参道の分岐点に置かれている一基の石牛である。平河天満宮では「撫で牛」と呼んでおり、石牛を撫でると学芸が上達するという信仰のため参拝者による接触多いためか、頭部や背部については磨耗が見られ、尾部は一部が欠損している。

撫で牛 解説文(石牛 一基)

銘文などから、浄瑠璃常磐津節の岸沢右和佐の麹町の門弟及び雲泰堂柳女門人をはじめとする人々が奉納したものである。

奉納された嘉永5年は、祭神菅原道真公の950年遠忌にあたり、平河天満宮でも居開帳が行なわれ、石牛が一対奉納された(片方の石牛は明治5年までの間に失われ、本件1基のみが現存する)。

石牛 左

石牛 右

撫で牛の所在状況を把握するため、近隣区の天神社並びに牛をまつる神社の現地調査を行ったところ、この石牛は、牛嶋神社〔文政8年(1825)・石製〕、湯島天満宮〔嘉永2年(1849)正月・石製〕についで古い物件である。

千代田区指定有形民俗文化財 石臼 指定 平成二十二年四月

平河天満宮撫牛
平河天満宮撫牛
平河天満宮撫牛
平河天満宮撫牛
平河天満宮撫牛
平河天満宮撫牛
平河天満宮
平河天満宮
平河天満宮
平河天満宮
平河天満宮石像
平河天満宮石像
平河天満宮(平河天神)由緒畧記
平河天満宮(平河天神)由緒畧記

平河(ひらかわ)天満宮(てんまんぐう)平河(ひらかわ)天神(てんじん)由緒畧記(ゆいしょりゃくき)

御祭神

                                                                   誉田別命 (八幡宮)

菅原朝臣道眞公(学問の神)相殿

                                                                   徳川家康公(東照宮)

摂末社

  平河稲荷神社(商売の神)

                                                    大鳥神社(おとりさん)

三殿宮                                      塩神社(生活の神)

                                                    浅間神社(せんげんさん)

祭事例祭425

             梅花祭(3月)夏祭(8月)他、恒例祭

御由緒

江戸平河城主太田道灌公が城内の北梅林坂上に文明10年(1478年)江戸の守護神として創祀された(梅花無尽蔵に依る)慶長12年(1607年)二代将軍秀忠に依り、貝塚(現在地)に奉還されて地名を平河天満宮にちなみ平河町と名付けられた。徳川幕府を始め紀州、尾張両徳川家井伊家等の祈願所となり、新年の賀礼に宮司は将軍に単独で拝謁できる格式の待遇を受けていた。また学問に心を寄せる人々古来深く信仰し、名高い盲学者塙保己一、蘭学者高野長英の逸話は今日にも伝えられている。

現在も学問特に医学芸能商売繁昌等の信仰厚く合格の祈願等も多い。

出典:平河天満宮

 

贈右大臣大久保公哀悼碑
贈右大臣大久保公哀悼碑

千代田区指定有形文化財(歴史資料)

「贈右大臣大久保公哀悼碑」

指定平成44

明治11年(1878)514日朝、麹町清水谷において、赤坂御所へ出仕する途中の参議兼(さんぎけん)内務(ないむ)(きょう)大久保(おおくぼ)利通(としみち)暗殺(あんさつ)されました。現在(げんざい)内閣(ないかく)総理(そうり)大臣(だいじん)にも匹敵(ひってき)するような立場(たちば)にあった大久保の暗殺は、一般(いっぱん)に「紀尾井坂(きおいさか)(へん)」と()ばれ、人々(ひとびと)衝撃(しょうげき)(あた)えました。

また、大久保の同僚(どうりょう)であった明治(めいじ)政府(せいふ)官僚(かんりょう)たち(西村捨三(にしむら すてぞう)金井之(かない ゆき)(やす)奈良原(ならはら)(しげる) ら)の(あいだ)からは、彼の遺徳(いとく)をしのび、業績(ぎょうせき)(たた)える石碑(せきひ)建設(けんせつ)しようとの(うご)きが生じ、暗殺現場(げんば)周辺(しゅうへん)であるこの()に、明治21年(1888)5月「贈右大臣大久保公哀悼碑」が完成(かんせい)しました。

「哀悼碑」の(たか)さは、台座(だいざ)部分(ぶぶん)(ふく)めると6.27mにもなります。石碑(せきひ)材質(ざいしつ)(りょく)(でい)片岩(へんがん)、台座の材質(ざいしつ)(こう)砂岩(さがん)(おも)われます。

「贈右大臣大久保公哀悼碑」は、大久保利通暗殺事件(じけん)という衝撃(しょうげき)(てき)日本(にほん)近代史(きんだいし)(いち)断面(だんめん)後世(こうせい)(つた)えつつ、そしてこの()に関係した明治の人々の痕跡(こんせき)(のこ)しつつ、この地に(たたず)んでいます。

平成5年3月

出典:千代田区教育委員会

ホテルニューオータニ ガーデンタワー
ホテルニューオータニ ガーデンタワー

ホテルニューオータニ東京 ガーデンタワー

 

贈右大臣大久保公哀悼碑
贈右大臣大久保公哀悼碑

(ぞう)()大臣(だいじん)大久保(おおくぼ)(こう)哀悼(あいとう)()

 

石心亭
石心亭

(せき)心亭(しんてい)

(せき)心亭(しんてい) ホテルニューオータニ赤坂見附/鉄板焼

400年以上の歴史を有する、広くて由緒ある日本庭園の中にひっそりと佇む、隠れ家的な鉄板焼き店。カウンター席のみ。

出典:石心亭

石心亭
石心亭
大谷米太郎像
大谷米太郎像

大谷(おおたに)(よね)太郎(たろう)

富山県小矢部市(旧・西砺波郡正得村)水落集落出身の実業家。

貧農の家庭に長男として生まれ、31歳になるまで一家を養うために農家の小作として使われる生活を送った。31歳の時、僅かな金(20銭)を親から借りて裸一貫で上京したが、保証人もいない単身田舎から出てきた男にまともな仕事は見つからず、日雇人夫となっていた。

やがて力自慢でならしていた米太郎に稲川部屋から声がかかり、大相撲力士となる。砺波山(後に改名して鷲尾嶽)の四股名で褌担ぎから幕下筆頭にまでなるものの、手の指に障害を負っていたことが原因で幕内に上る事を断念して引退。鷲尾獄酒店を立ち上げ酒屋に転身する。鷲尾獄酒店は現金取引を優先したことで利益を上げ、国技館一手扱いの酒屋となった。この頃米太郎は結婚し、更に儲かる仕事を求めて1919年に鉄鋼圧延用のロールを作る東京ロール製作所を起業。弟の竹次郎(松竹の大谷竹次郎とは同姓同名の別人)を富山から呼び寄せ、竹次郎と二人三脚の事業展開を行なう事になる。

192391日の関東大震災では米太郎の工場も全焼の被害を受けるが、今度は震災復興に伴う鉄鋼需要に注目。1919年に設立した大谷製鋼所は、建築関係の鉄鋼製品の製造で利益を挙げた。更に材料の特殊鋼製造にも着手し、1939年に大谷製鐵を設立。翌1940年には大谷製鐵・東京ロール製作所・大谷製鋼所が合併し、大谷重工業となった。加えて満州にまで進出し、当時の「鉄鋼王」とまで呼ばれた。

19421月、大日本帝国の賞勲局から紺綬褒章を与えられた。

太平洋戦争では満州地域での事業を失うなど損害を受けたものの、朝鮮特需で大谷重工業にも活気が戻る。余勢を駆って星製薬を傘下に収め、同社の本社工場跡地にTOCビルを計画(完成は米太郎死後の1970年)するなど、企業の買収や再建にまで手を広げた。

1964年、東京オリンピックの開催が決まり、東京の宿泊地不足に対して米太郎はホテルニューオータニを建設し、社長に就任。ニューオータニは開業したものの、直後に大谷重工業の経営不振が露呈。開業の翌年には社長の座を追われ、大谷重工業も八幡製鐵が経営支援に乗り出して実権を失う。

1962年、富山県立大谷技術短期大学(現:富山県立大学)の設立のため私財を寄付した。

1968年に脳腫瘍で死去、享年86。死去から9年後の19776月、大谷重工業は大阪製鋼と合併し、合同製鐵として新たなスタートを切った。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

江戸城 喰違見附跡 周辺
江戸城 喰違見附跡 周辺

江戸城 喰違(くいちがい)見附(みつけ)(あと)

1612(慶長17)年、甲州流軍学の創始者・小幡景(おばたかげ)(のり)によって縄張りされたと伝わる江戸城外郭門のひとつ。江戸城の城門は枡形門と呼ばれる石垣をコの字型に巡らした強固なものですが、喰違見附は土塁を前後に延ばして道をジクザクにして直進を阻むという、戦国期以来の古い形態の虎口(こぐち)(こぐち=城の出入口)の構造です。

出典:東京とりっぷ

四ツ谷駅 周辺
四ツ谷駅 周辺
四ツ谷駅 周辺
四ツ谷駅 周辺
江戸城 四谷見附跡
江戸城 四谷見附跡

江戸城 四谷(よつや)見附(みつけ)(あと)

江戸城三十六見附のひとつ。江戸城半蔵門から武蔵国国府(府中)をへて甲州(今の山梨県)に至る重要なルートの途上に築かれた枡形門。江戸城の外濠を築いた際に、門も築かれて防御を万全なものにしたのです。真田信之が築いたという外濠(真田濠)は埋め立てられ、上智大学真田堀運動場となっています

出典:東京とりっぷ

五番町児童遊園
五番町児童遊園

千代田区立五番町児童遊園

市ヶ谷御門橋台の石垣石の碑
市ヶ谷御門橋台の石垣石の碑

市ヶ谷御門(ごもん)(きょう)(だい)石垣(いしがき)石の碑

この石垣石は、江戸城外堀跡の市ヶ谷御門橋台に築かれていた石垣の一部です。市ヶ谷御門の枡形(ますがた)は現存しておりませんが、橋台の石垣は、現在もその一部が外堀通りの下に保存されています。この石垣石に刻まれている刻印(こくいん)は、江戸時代初期に御手伝(おてつだい)普請(ぶしん)で石垣を築いた大名家や職人の印と考えられています。寛永(かんえい)13年(1636)に開削(かいさく)工事が行われた赤坂から四谷・市ヶ谷・牛込橋にいたる掘割(ほりわり)

や土手の遺構、同16年(1639)に修築された外郭(がいかく)門の石垣などが、昭和31年「江戸城外堀跡」として国の史跡に指定されました。

なお、平成73月に営団地下鉄南北線の市ヶ谷駅構内に開設された「江戸歴史散歩コーナー」では、平成元年から8年にわたって発掘調査された江戸城外堀跡関連遺跡の発堀成果の一部を展示公開しております。

出典:千代田区教育委員会

市ヶ谷御門橋台の石垣石の碑
市ヶ谷御門橋台の石垣石の碑
市ヶ谷御門橋台の石垣石の碑
市ヶ谷御門橋台の石垣石の碑
外濠公園(九段北4丁目側)
外濠公園(九段北4丁目側)

(そと)(ぼり)公園(こうえん)

江戸城総構えの外周をなす外濠の土手は形式的とはいえ軍事施設の扱いであり、明治維新以降も「この土手登るべからず」と記された看板が設置され、立ち入りが禁止されていた。

しかし1921年に法政大学が牛込濠端(現在の市ヶ谷キャンパス所在地)に移転して以来、禁を破って土手に入り込む同大学生が後を絶たず、警察官が出動し学生との小競り合いが生じる例が後を絶たなくなった。事態を重くみた法政大学は、校友であった東京市会議員の協力を得て東京市(当時)に対して「外濠の土手開放」を強く求め、結果として1927年(昭和2年)831日に、大学最寄の牛込駅から新見附の間を外濠公園として開放された。その後公園の範囲を拡大し、現在の状態に至っている。「外濠を憩いの場として活用できるようにしたのは法大生であった」とされる。

現在も「東京市 外濠公園」の石標が、新見附橋付近の公園入り口に残されており、往時を偲ばせている(本項の写真を参照)。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

外濠公園(九段北4丁目側)
外濠公園(九段北4丁目側)
外濠公園(九段北4丁目側)
外濠公園(九段北4丁目側)
外濠公園(九段北4丁目側)
外濠公園(九段北4丁目側)
靖国神社 周辺
靖国神社 周辺
靖国神社 周辺
靖国神社 周辺
大村益次郎像
大村益次郎像

大村(おおむら)(ます)次郎(じろう)

文政753日(1824530日)明治2115日(1869127日)は、幕末期の長州藩の医師、西洋学者、兵学者。維新の十傑の一人に数えられる。

長州征討と戊辰戦争で長州藩兵を指揮し、勝利の立役者となった。太政官制において軍務を統括した兵部省における初代の大輔(次官)を務め、事実上の日本陸軍の創始者、あるいは陸軍建設の祖と見なされることも多い。靖国神社の参道中央に像がある理由もこのためであるとされる。元の名字は村田、幼名は宗太郎、通称は蔵六、良庵(または亮庵)、のちに益次郎。雅号は良庵・良安・亮安。諱は(なが)(とし)。位階は贈従二位。家紋は丸に桔梗。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

あけぼの公園 はなみずき公園 ふじ道 クレアパーク ケーブルカー高尾山駅 ホテルグランビュー沖縄 三芳野神社 中央会場・松一小 二の丸庭園 仙波河岸史跡公園 初雁公園 北の丸公園 北原公園 千代田区役所 千代田区立スポーツセンター 千鳥ヶ淵公園 半蔵門 和光市役所 喜多院 城山公園 大手門 大正浪漫夢通り 小金井公園 川越氷川神社 川越駅 平川門 新座緑道 新河岸川 日比谷公園健康運動広場 朝霞中央公園 桜田門 楠公レストハウス 気象観測露場 氷川神社 清水門 皇居東御苑 菓子屋横丁 蔵里 青葉台公園 飯能市役所 駒場運動公園 高尾山口駅 高尾山頂 高尾駅北口 1号路

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2月度ちよだ皇居周辺リフレッシュウオーク2019

2月度ちよだ皇居周辺
リフレッシュウオーク2019

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千代田区役所(スタート)
千代田区役所(スタート)
千代田区役所(スタート)
千代田区役所(スタート)
千代田区役所(スタート)
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至 清水門(清水濠)
至 清水門(清水濠)
清水濠
清水濠
清水濠から武道館を眺める
清水濠から武道館を眺める
清水濠から武道館を眺める
清水濠から武道館を眺める
清水門階段上の「シナマンサク」
清水門階段上の「シナマンサク」

シナマンサク

支那満作

マンサク科マンサク属

分布

日本(中国地方~四国)

清水門階段上の「シナマンサク」
清水門階段上の「シナマンサク」
清水門階段上
清水門階段上
清水門階段上
清水門階段上
吉田茂像
吉田茂像
吉田茂像脇の「カンザクラ」
吉田茂像脇の「カンザクラ」

カンザクラ

( 寒 桜 )

花期 二月から三月中旬頃

花 淡紅色

吉田茂像脇の「カンザクラ」
吉田茂像脇の「カンザクラ」
吉田茂
吉田茂

吉 田 茂 像

古来各國史上名相賢宰星羅照映スト雖モ昭和曠古ノ大戦ニ社稷傾覆生民塗炭ノ苦悩ニ方リ萬世ノ為ニ太平ヲ開クノ聖旨ヲ奉シ内外ノ輿望ヲ負ウテ剛明事ニ任シ慷慨敢言英邁洒落能ク人材ヲ舉用シ民心ヲ鼓舞シ以テ復興ノ大義ニ盡瘁セシコト公ノ如キハ實ニ稀代ノ偉勲ト謂フベシ後人相謀ツテ茲ニ厥ノ像ヲ建テ長ク高風ヲ仰カント欲ス亦善イ哉

昭和五十六年九月

舟越保武 作

安岡正篤 文

桑原翠邦 書

吉田茂像周辺
吉田茂像周辺
吉田茂像周辺
吉田茂像周辺
〒102-0091 東京都千代田区北の丸公園
〒102-0091 東京都千代田区北の丸公園
コブシ
コブシ

コブシ

モクレン科

〇春に良い香りのする白い花を咲かせます。

〇花の咲く時期が農作業開始の暦になっていました。

〇実が「握り拳」に似ています。

コブシ
コブシ
サルスベリ
サルスベリ

サルスベリ

ミソハギ科

〇夏に咲く花は花期が長く、「百日紅(ひゃくじこう)」ともいいます。

〇サルも滑りそうなくらい、すべすべした幹で知られます。

サルスベリ
サルスベリ
ハクモクレン
ハクモクレン

ハクモクレン

モクレン科

〇庭や公園に植えられます。

〇春に芳香のある白い花が咲きます。

〇中国名の木蓮が名前の元になりました。

ハクモクレン
ハクモクレン
チャンチン
チャンチン

チャンチン

香椿

センダン科 チャンチン属

分布

中国~マレーシア山岳地帯

チャンチン
チャンチン
マンサク
マンサク

マンサク

別名:ハマサク属

マンサク科 マンサク属

原産

日本(関東西部以西~九州)

北の丸公園
北の丸公園
北の丸公園
北の丸公園
北の丸公園
北の丸公園
北の丸公園
北の丸公園
北の丸公園
北の丸公園
千鳥ヶ淵さんぽみち
千鳥ヶ淵さんぽみち
千鳥ヶ淵緑道 (代官町通り経由) 1230m
千鳥ヶ淵緑道
(代官町通り経由)
1230m
千鳥ヶ淵緑道 (田安門経由) 420m
千鳥ヶ淵緑道
(田安門経由)
420m
千鳥ヶ淵さんぽみち
千鳥ヶ淵さんぽみち
北の丸公園から日本武道館
北の丸公園から日本武道館
北の丸公園の鳥のごちそう
北の丸公園の鳥のごちそう

北の丸公園 鳥のごちそう

シグミシロハラ アズキナシ多くの鳥たちに好まれます ゴンズイ
シグミシロハラ
アズキナシ
北の丸公園には鳥の好きな木の実のなる木が沢山植えられています。
鳥たちの食事の様子をそっと観察してみましょう。
多くの鳥たちに好まれます
ゴンズイ
ツグミコゲラメジロ マユミシグミヒヨドリ クロガネモチツグミヒヨドリメジロ ウメモドキ
ツグミコゲラメジロ
マユミ
シグミヒヨドリ
クロガネモチ
ツグミヒヨドリメジロ
ウメモドキ
メジロヒヨドリツグミ ガマズミコゲラツグミメジロ ハゼノキヤマガラヒヨドリキジバト エゴノキ
メジロヒヨドリツグミ
ガマズミ
コゲラツグミメジロ ハゼノキヤマガラヒヨドリキジバト
エゴノキ
北の丸公園 鳥のごちそう
至  代官町
至 代官町
毎日新聞社東京本社
毎日新聞社東京本社
竹橋
竹橋
至 平川門
至 平川門
至 平川門
至 平川門
至 平川門
至 平川門
江戸城築城 550年に当たって
江戸城築城 550年に当たって

1457年(直禄元年) 江戸城築城

江戸城は、上杉氏の家臣太田道灌(14321486)によりはじめて築かれた。のち、徳川氏15代の居城となり、明治初年より皇居となった。

江戸城築城 550年に当たって

左にある「追幕の碑」は、太田道灌公没後450年を記念して建立されましたが、今年は、道灌公が長禄元年(1457年)にこの千代田区の地に「江戸城」を築城してから、丁度550年に当たります。

この記念すべき時に当たり、都市東京と千代田区の今日の繁栄の基礎を築いたとも言える大田道灌公の遺徳を偲んで、顕彰の(しるし)とします。

太田道灌(143286)は、室町中期の武将で歌人、名は(すけ)(なが)、道灌は法名は。扇谷上杉家の重臣。1457年、この千代田の地に江戸城を築く。文武両道に優れ、30数戦して負けず知らずの名将だったが、山内上杉家の策謀により主君に暗殺された。江戸時代から語り継がれた山吹伝説の歌が、悲劇の名将の横顔をいまに伝えている。

千代田区観光協会(協力)

七重八重 花は咲けども山吹の 実のひとうだに なきぞかなしき

平成19925

出典:千代田区

江戸城築城 550年に当たって
江戸城築城 550年に当たって
皇居東御苑
皇居東御苑

(こう) (きょ) (ひがし) (ぎょ) (えん)

皇室のお庭

入園無料

平川門
平川門
平川門
平川門

(ひら) (かわ) (はし)

平川橋は皇居北側の内濠に架かり、東京都千代田区一ツ橋一丁目から皇居東御苑に渡る木橋である。平川は神田川下流部の古い名で、日比谷入江に合流していた。流路はのちに東回りに変更され日本橋川や外濠川となった。平川の跡は大手濠などになっている。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

平川門
平川門

平 川 門

大手門が正門であるのに対して、この門は、御殿に勤めていた奥女中などの通用門として使用されていました。大手門と同様、厳重な防御の構造になっています。また、城内で罪人や死人が出るとこの門から出されたといわれています。小さな脇門は、平川豪の中に伸びた、「帯曲(おびくる)()」と呼ばれる細長い渡り堤につながっています。

平川門から毎日新聞社
平川門から毎日新聞社
平川門から毎日新聞社
平川門から毎日新聞社
平川門
平川門
平川門 案内板
平川門 案内板

平 川 門

大手門が正門であるのに対して、この門は、御殿に勤めていた奥女中などの通用門として使用されていました。大手門と同様、厳重な防御の構造になっています。また、城内で罪人や死人が出るとこの門から出されたといわれています。小さな脇門は、平川豪の中に伸びた、「帯曲(おびくる)()」と呼ばれる細長い渡り堤につながっています。

江戸城 帯曲輪門
江戸城 帯曲輪門

帯曲(おびくる)輪門(わもん)不浄門(ふじょうもん)

大手門が正門であるのに対して、この門は、御殿に勤めていた奥女中などの通用門として使用されていました。大手門と同様、厳重な防御の構造になっています。また、城内で罪人や死人が出るとこの門から出されたといわれています。小さな脇門は、平川豪の中に伸びた、「帯曲(おびくる)()」と呼ばれる細長い渡り堤につながっています。

平川門前の立派な松
平川門前の立派な松
天神濠 石碑
天神濠 石碑

天神濠 石碑


平川門前の立派な松
平川門前の立派な松
平川門前の立派な松
平川門前の立派な松
平川門前のトイレ 周辺
平川門前のトイレ 周辺
苑内ご案内
苑内ご案内

苑内ご案内

最寄りの交通機関への所要時間

●北詰橋門から

地下鉄東西線竹橋駅まで、400m(徒歩約5分)

地下鉄九段下駅まで、約900m(徒歩約1520分)

●大手門から

地下鉄千代田線二重橋前駅まで、約700m(徒歩約10分)

JR東京駅まで、約1000m(徒歩約15分)

地下鉄各線の大手町駅は、その手前にあります。

皇居外苑、約600m(徒歩約10分)

●平川門

地下鉄東西線竹橋駅まで、約200m(徒歩約5分)

JR東京駅まで、約1600m(徒歩約25分)

地下鉄各線大手町駅は、その手前にあります。

 

 

至 皇居東御苑
至 皇居東御苑
至 皇居東御苑
至 皇居東御苑
至 皇居東御苑
至 皇居東御苑
至 皇居東御苑
至 皇居東御苑
至 皇居東御苑
至 皇居東御苑
至 皇居東御苑
至 皇居東御苑
至 皇居東御苑
至 皇居東御苑
至 皇居東御苑
至 皇居東御苑
梅林坂
梅林坂

梅 林 坂

この地に最初に城を築いた太田道灌が、このあたりに天神社をまつり、数百株の梅を植えたこたから「梅林坂」の名が付いたといわれています。

現在は約70本の紅白の梅が植えられており。

12月末から2月まで花が楽しめます。

梅林坂から大手町を望む
梅林坂から大手町を望む
江戸城本丸御殿
江戸城本丸御殿

江 戸 城 本 丸 御 殿

この天守台から見える大芝生とその周辺には、江戸城本丸御殿の建物が立ち並んでいました。本丸御殿は、(おもて)中奥(なかおく)大奥(おおおく)という三つの空間に分かれていました。

表は、将軍の謁見(えつけん)など公的な儀式・行事、幕府諸役人の執務の場で、中奥には将軍の日常生活、政務を執る場、大奥は御台所(おだいどころ)と呼ばれた将軍の正妻をはじめ家族や女性たちの生活の場でした。

 

江戸城跡
江戸城跡

江 戸 城 本 丸 御 殿

この天守台から見える大芝生とその周辺には、江戸城本丸御殿の建物が立ち並んでいました。本丸御殿は、(おもて)中奥(なかおく)大奥(おおおく)という三つの空間に分かれていました。

表は、将軍の謁見(えつけん)など公的な儀式・行事、幕府諸役人の執務の場で、中奥には将軍の日常生活、政務を執る場、大奥は御台所(おだいどころ)と呼ばれた将軍の正妻をはじめ家族や女性たちの生活の場でした。

 

天守閣跡
天守閣跡

天守閣跡 江戸城

江戸城の天守閣は、二代将軍秀忠の代の慶長11年(1606年)と翌年の2年にわたって建設され完成しました。その後、元和8年(1622年)、承応2年(1635年)とたびたび修築され、寛永14年(1637年)三代将軍家光の代に、江戸幕府の権威を象徴する国内でも最も大きな天守閣が完成しました。

天守閣は、地上からの高さは58mあり、天守閣の基礎石積みは、44m四方、高さ18mで、その上に金色のシヤチを頂く外観五層、内部6階の天守がそびえていました。

しかし、明暦3年(1675年)の大火(振り袖火事)で焼失した後は、再建されていません。基礎石である石垣だけが残っていて、現在の石垣の高さは約10mです。

本丸は二の丸と共に宮殿造営の際に整備され、皇居東御苑として一般に公開されています。

出典:皇居参観ガイド

天守閣跡から大手町を望む
天守閣跡から大手町を望む

(とう)()楽堂(がくどう)(皇居東御苑)

 

昭和412月に音楽好きの香淳皇后(こうじゅんこうごう=昭和天皇の皇后)の還暦記念として建設された200名収容の音楽ホール。キンポウゲ科の「テッセン」の花弁(八弁花)を形どつた屋根と八面体という珍しいフォルムで、江戸城本丸跡、天守台の横に建っています。天守台石垣横に不思議な空間を生み出しています。

 

出典:東京とりっぷ

 

天守閣跡から大手町を望む
天守閣跡から大手町を望む
皇居 案内板
皇居 案内板

皇居 案内板


石室
石室
江戸城跡 柑橘類
江戸城跡 柑橘類
江戸城跡 柑橘類
江戸城跡 柑橘類
松の大廊下跡の植物
松の大廊下跡の植物
松の大廊下跡の植物
松の大廊下跡の植物
松の大廊下跡
松の大廊下跡

松の大廊下跡

江戸城本丸には広大な御殿があり、この場所は「松の大廊下」がありました。襖戸に松と千鳥が描かれた長い畳敷きの廊下で、赤穂浪士討ち入りにつながったことで知られる、浅野内匠頭長矩の吉良上野介義央への刃傷事件(元禄14年(1701年)があった場所です。

事件を下敷きにして、「仮名手本忠臣蔵」をはじめ多くの舞台芸能、文学作品、映画、テレビドラマが生まれています。

 

富士見櫓
富士見櫓

() () () (やぐら)

「櫓」とは、倉庫や防御の役割をもった建物で、かつて江戸城には19の櫓がありました。今は、伏見櫓、桜田二重櫓と、この富士見櫓の3つが残っています。その中で、富士見櫓は唯一の三重櫓です。明暦の大火(1657年)で消失した天守閣の代用としても使われ、将軍が両国の花火や品川の海を眺めたといわれています

 

反対からの眺め

 

櫓からの眺め

富士見櫓 案内板
富士見櫓 案内板
皇宮警察本部坂下護衛署三の丸尚蔵館前警備派出所周辺
皇宮警察本部坂下護衛署三の丸尚蔵館前警備派出所周辺
江戸城 大手門跡
江戸城 大手門跡
江戸城 大手門跡から大手町を望む
江戸城 大手門跡から大手町を望む
江戸城 大手門跡
江戸城 大手門跡
〒100-0001 東京都千代田区千代田1 内堀通り
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